紅葉色の君へ

朝影美雨

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第五話 喫茶 マグワート

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第五話 喫茶 マグワート

 涙痕が乾ききったころ。
 腕を緩めた碧が、ねぇ、と僕に声をかけてきた。
「どこか、落ち着けるとこに腰を下ろさない?ずっとここにいたら、熱中症になっちゃう」
 ……確かに。

 七月下旬の快晴の真昼間の炎天下の下に、もうかれこれ四十分くらいいた。
 そろそろ脱水を起こしてもおかしくなかった。
 水分も余計に失ったし。
 エアコンの利いた涼しい喫茶店で、アイスコーヒーでも飲みたい。
 ……僕、生きる気満々じゃないか。
 
「この辺に……カフェとかは、無さそうだね」
 喉が渇いたのは、碧も同じだったらしい。
「この辺は空き家か空きテナントしかないから……。そういえば、最近駅前に大きなモールができたらしいんだけど……ここからじゃ、ちょっと遠いんだよね」
「あ、そのモール、ここに来る前に寄ったよ。人が多すぎて、すぐ出ちゃったけど。……なるほど、そこにお客さんが吸い取られたってわけね」
 踏切の向こうに見えるシャッター通りを眺めながら、碧は納得したように頷く。
「ね、スマホで近くのお店調べようよ」
「……僕、今スマホ持ってないよ」
「あら……持ち歩かないの?」
「いや……死ぬつもりだったから……家に置いてきた」
 そうなんですよ。僕、さっきまで死ぬつもりだったんですよ。
「じゃあ私が調べるね。……どれくらいの距離なら、車いす動かせる?」
「うーん……。徒歩三十分圏内くらいかな……」
「わかった」
 スマホ画面を慣れた手つきでスワイプする碧に
「ありがとう」
 と言って、僕は一つ深く息をする。
 
 ちょっとだけ不安もある。
 というかそれ次第では、薄まった希死念慮が復活するかもしれない。
 
 自分の気持ちがはっきりしたからといって。
 僕に都合よく、世界が変わってくれたりなんかしない。
 僕が死ぬのをやめたからといって。
 世界の自己紹介が、変わったりなんか、しない。

 そんな僕の心情を察した様子もなく、碧は指を止めて、スマホの画面をこちらに向けた。
「こことかどう?」
 見ると、今の場所から徒歩十分の場所に、老舗感漂う古風な個人経営のカフェがあるようだった。
 内装やドリンクの写真は沢山表示されていたが、いくらスライドしても、外装の写真は、遠くから撮った建物の全体図と、看板のズーム写真しかなかった。
 ほかの候補を見てみても、どこも似たような造りの建物だった。
かといって長時間車いすを漕いで、モールの中のコーヒーチェーン店まで行くほどの体力も残っていない。

 なかなか決め兼ねない様子の僕を、碧は隣で待ってくれていた。
 ……が、とうとうしびれを切らして、
「ごちゃごちゃ考えるくらいなら行こ」
 と、自分のスマホを僕から取り上げた。
 とりあえず僕は、マップの案内通りに進んでいく碧の後ろについていくことにした。

 なんかノリと流れでここまで来たけれど、僕、これからどうなるんだろう。
 あまりにも非日常が重なり過ぎて、逆に自分の行く末が恐ろしくも他人事のように思える。
 『人生に絶望して死のうとした俺は、少女に助けられて、楽しく生きていくことにした』みたいな、ラノベのタイトルのようなことが起きている。
 あ、そういえば。財布も持ってないんだっけ……。
 ……いや、だってほら。あの世にお金は持っていけないじゃん……。
 いやでも、初対面の女性に出させるのは、男として以前に人としてどうなんだ……。
 ……というか、この状況、見方によってはデートになるのでは。
 ……デート?
 ……デート⁈
 夢想にふけっている場合ではなかった。
 やっべぇ!デートじゃん!
 どうしよう……どうしよう⁈

 唐突に現状を理解した僕の脳は、己の人生において全く縁がないと思っていたイベントの緊急発生に対し、キャパオーバーを起こした。

 後ろの騒がしい思考を尻目に、碧はただ黙々と目的地へと足を進めている。
 ……彼女は、何とも思っていないのだろうか。
 ……いや、割とそのへんの経験は豊富なのではないか?
 わざと胸を押し当てて、同年代の男子をからかったりしてたし。
 この状況に過剰に意識してしまっているのは、僕だけなのかもしれない。
 どれだけ慣れていないんだろう……。
 惨めになってきた……。

 そんなことを考えていたら、あっという間に目的地に着いてしまった。
 数十年と雨風に曝されてきたような年季の入った赤レンガの壁に、数枚抜け落ちている屋根瓦をこさえて、その屋根の下に一枚板がぶら下げている。
 『喫茶 Mugwort』 
 と刻まれていた。
 マ……グワート……?読み方は今ので合ってるのかな。
 僕はあまり英語が得意ではない。
 間違えていたら恥ずかしいから、読みは声に出さなかった。
 いやしかし、十分ほど移動したとはいえ、この辺もあまり人影は見えない。
 あまりどころか、おやつにちょうどよさげな時間帯にもかかわらず、僕ら二人以外の人間はまったく見当たらなかった。

 だけど、出来れば見つけたくなかったものが見当たってしまった僕には、周りに人がいないことに対して寂寥感を抱く、なんてことをしてる余裕はなかった。
 喫茶Mugwortの入り口が、まぁ案の定というか、階段だったのである。
 
 所詮、やはりこの程度なのだ。
 思い付きで行くことが決まった店にフラっと気軽に立ち寄ることさえ、僕は許されない。
 下調べをして。
 予約をして。
 屈強な同行者を用意して。
 そうして店側から許可が出て初めて、車いすに乗っている僕はカフェでコーヒーをすする権利を獲得する。
 バリアフリーと騒がれている現代でさえ。
 文明レベルで測れば間違いなく上位に位置するであろう、日本という先進国でさえ。
 所詮は、この程度なのだ。

 なんて、悲観全開でうなだれていると。
 碧は僕にお構いなしに、僕に声をかけることもなく階段を上り、僕へ振り向くこともなく扉を開いた。
 そうして、開口一番。
「すみませーん。二人なんですけど、一人車いすなんで、上げてもらっていいですかー」
 
 透き通った声が、少し狭めの店内に響き渡る。
 
 ……え?何言ってんのこの人?
 そんなの迷惑に決まってるじゃん。
 同行者がサポートできないのなら、来たらいけないんだよ。こーゆーところは。
「……あのさ、夢咲さん。……そーゆ―ことは、言っても困らせるだけだからさ。……ほかのところ、探そ?」
 店内を見渡して店員さんを探しているであろう碧に手招きして、僕はそう耳打ちした。
 はっきり言って、恥ずかしかった。
 というか、恥だった。
 入り口前からだと、ほかのお客さんの有無はわからなかったけれど、たとえそこに人がいようがいまいが、憐憫の目を向けられている気がして、気が気でなかった。
 そうして縮こまっている僕に。
 まったく悪びれる様子もなく、碧は言った。
「澪君だって、ここでコーヒーを飲む権利はあるんだよ」
 
 いや、だからそういう話じゃないんだってば。
 僕は内心苛立って、何か反論してやろうかと思ったが、どうせ何を言ったところで、正論で返される予想が容易につくので、とりあえず口をつぐんでおいた。
 羨ましくもあった。
 はっきり言える碧のことが。

 さっきの碧の呼びかけに気づいた店員らしき人が、店の奥の方から慌ただしく駆け寄ってくるのがわかった。
「あら、もうそんな時間か。いらっしゃいいらっしゃい、ちょっと待ち、今上げるから」
 そして、仄暗い店内から、黒髪ショートの女性の店員が姿を現した。
「ようこそ。喫茶マグワートへ。店内は広いから、車いすのまま動けるよ」
 と言って、その店員は。
 車いすを僕ごと両手で持ち上げて、入り口前の三段を上った。
 
 開いた口が塞がらなかった。
 なんとまぁ……。
 パワフルな。
 隣を見ると、碧もおおむね僕と似たような表情になっていた。
 店内に僕を下ろして、入り口のドアを閉め、その女性は僕たちに向き直る。
「私、ここの店長やってます。マリーって呼ばれてるから、君たちもそう呼んでね」
 マリーはそう言って、カウンターの椅子を一つ下げながら、
「車いすの少年、ここに座るといい。いや、実は久々のお客でね。つい、居眠りをしていたよ。遅くなってすまなかったね。どうか、くつろいでくれ」
 と、笑った。
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