紅葉色の君へ

朝影美雨

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第十話 差し出された傘

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第十話 差し出された傘

 雨の勢いが、少し落ち着いた。
 頬の筋肉をひくつかせながら、僕は息を整える。
 ……がむしゃらに走ってきたけれど、ここはどこだろう。
 とりあえず、知っている通りに出るまで車いすを進めることにした。
 
 特に何も考えずに、タイヤを漕いだ。
 何も考えられなかった、が正解かもしれない。
 先刻を思い出そうにも、思い出す三歩手前くらいで、だるくなる。
 別にもういいや、というか、具体的に思い出そうとすればするほど、たどり着きたい記憶がすり抜けていくような感覚に陥った。
 思い出さないなら思い出さないままで。
 考えられないなら考えないままで、いい。
 
 これまでだってそうやって生きてきた。
 苦しかったことは覚えていても、何に苦しんだのかは鮮明に思い出せなかったし。
 傷ついたことは覚えていても、何に傷つけられたのかは鮮明に思い出せなかった。
 思い出そうと思えば、ある程度の時間をかけて、順を追って記憶を遡れば思い出すこともできたけれど、そこまでして思い出したい傷跡の理由なんてほぼなかった。
 きっとそうやって、守ってきたのだろう。
 僕は、僕の心を。
 そんな器用なやり方で、守ってきたんだと思う。
 
 ……だったら、僕が死にたい理由だって、そんなやり方で隠してくれたらいいのに。
 
 弱まったといえど、雨は降り続いている。
 濡れた道路がタイヤをいつもより滑らかに滑らせるから、いつもより少しだけはやい速度で、僕は自分の住む街を散策した。
 人気の多い場所を何度か通ったが、人の目が自分に集まっている気がして、居心地が悪くて。結局、一度も通ったことのない、どこに繋がっているかもわからない道を、人が歩いてなさそうだからという理由で選んで、進んだ。
 人の目が集まるわけは、傘も持たずに、濡れていないところを探す方が難しいくらいに全身を濡らしているから、だろうけれど、どうにも僕に向けられる好奇の目というものが、どんな理由であれ自身の障害、ついては社会においての弱者属性を見られているのだ、と曲解してしまうので、人の視線に関しては人一倍に敏感になっていたし、その自覚も十分あった。
 路地裏を進み。
 川沿いを進み。
 ツタに飾られた廃屋を横切り。
 工事現場の裏をくぐって。
 錆びた赤いブランコのみの、辛うじて存在を保っているような公園まで来て、腕を休めた。
 
 この公園に来るのはおそらく初めてだし。
 ここの存在もさっき偶然知った。
 ……のだが、このブランコ、どこかで見覚えがある。
 思い出そうと記憶に潜っていると、列車の走行音が聞こえた。
 …………そうか。
 あの時見た、ブランコだ。

 出口の先に、線路が横たわっていた。
 入り口が反対側で気づかなかった。
 視界を左にスライドさせれば、今日の昼過ぎに僕がいた場所を確認できた。
 そうだなぁ。
 ……いけるかなぁ。
 生きるのがめんどくさいというのはずっと前から抱いていた気持ちだけど。今は死ぬのさえめんどくさい。
 でもなぁ。
 …………。
 ……………………いいかもなぁ。

「やぁ、少年。……死にたいのかい?」

 公園を出ようとすると、出口にマリーが立っていた。
「…………マリーさん」
「頭を冷やすには、十分濡れていると思うんだがね。まだ雨が足りないのかい?やれやれ、お天道様も大変だよ」
 マリーは大げさに首を傾げた。
「……冷えたから、ですよ。危うく生き延びるところでした」
「まぁ、少年。……いや、澪君、だったかな」
 マリーはそう言って、長めの傘を両手に持ち、その両手を横に広げて仁王立ちした。
 通せんぼ、だった。
「……いいじゃないですか、別に。僕が死のうが生きようが、マリーさんには関係ないでしょ」
「あぁ、関係ない。全く、関係ない。澪君が生きようと死のうと、私はこれまで通り、これからを生きるからね」
「……なら、その両手を下ろしてください。僕が通れないんで」
「あら、失礼したね。これは別に、澪君を通せんぼしているわけじゃないんだ。ただ、軽い抱擁でも交わしておこうかと思ってね。澪君、なかなかイケメンだし、イケメンとハグする機会なんて、私くらいのおばさんになったら滅多にないんだから」
「……はぁ。……まぁ、それくらいなら」
 僕は前へ進んで、マリーは僕を抱きしめた。
 僕も軽くマリーの背中に触れて。

 マリーは、離さなかった。

「あの……、いつまでこうしてるんですか」
 僕が振りほどこうにも、力いっぱい抱きしめられて、とてもじゃないけど抜けられなかった。
「……死に急ぐなよ。少年」
「……見逃してくれるんじゃなかったんですか」
「見逃すとは一言も言ってないからね」
「…………」
「これはまぁ、年寄りのおせっかいなんだけど。どうして死にたいのか、聞かせてもらってもいいかい」
「……たくさん傷ついてきたから、とでも言っておきます」
「ほぉ。……そうかいそうかい。なら、少年……澪君は誰も傷つけたことが無いって言うのかい」
「それとこれとは話が違うじゃないですか」
「何も違わないよ。何も。違わない」
 耳元で、マリーは続ける。
「傷つかない人生なんてないさ。傷つけない人生もない。……傷ついたことを、傷つけられたことを理由に死のうとするのは、幼稚だし卑怯だと私は思うがね」
「だったら勝手に思っといてください。幼稚でも卑怯でも結構です。だから、幼稚で卑怯なまま、死なせてください」
「…………死にたい理由、それだけじゃないね?」
「え……」
「もう少し具体的に、話してみなさいな」
「えー……」
 すっごくめんどくさい。
 碧の時よりめんどくさい。
 でも、このまま黙ったままで離してくれそうもない。
 仕方ない、話すか。
「世界が、僕を嫌ってるからです。障碍者のお前はお荷物だ、邪魔だ。健常者のためにデザインされた世界で、生きにくくて当たり前だ。それを受け入れられないのなら、さっさと出ていくなりしろよ、って」
「……そうかい」
「まだ聞きたいんですか。もういいでしょ」
「……はぁ」
「……?……なんですか?」
 顔も見ないまま、態勢を変えずに、マリーは言った。
「その被害者面、癪に障るなぁ」
「っ……⁉」
「あのさぁ」
 マリーの口調が、変わった。
「世界がお前を嫌ってんじゃねぇ。お前が世界を嫌ってるだけだ。世界がお前如きをいちいち嫌うかよ。自惚れんな」
「…………んなこと言われても。僕が生きづらいのは事実ですし」
「生きづらいのが、お前だけだと思うなよ」
「…………」
「お前はさぁ、要は『こんなに苦しいのに誰も頭をなでてくれない、頑張ったねって言ってくれない』つって駄々こねてるだけだろ。それを世界のせいにすんなよ」
「……そうだとしても‼」
 言われっぱなしは嫌だ。
 僕だって、半端な覚悟で死のうとなんかしてない。
「苦しいもんは、仕方ないんですよ!人や世界が、僕に都合よく変わってくれるなんて、最初から期待してない!」
「そうだ。だから自分が変わるしかねぇんだ」
「こんな気色悪い世界に順応するために自分が変わるくらいなら、死んだほうがマシだ‼」
「あ……?」
 なんてどすの利いた「あ」だ。大声で応戦しないとひるんでしまいそうになる。
「マリーさんはさっき、生きづらいのがお前だけだと思うなよって言いましたよね?つまりそれって、みんな大なり小なり苦しんでいるんだからお前も耐えろよ、ってことでしょ?人の不幸と比べられてたまるか!僕の不幸は僕だけのものだ!」
「……不幸をアイデンティティにすんなよ」
 今度の声色は、穏やかだった。
 せっかく声を荒げたのに、空振りしたような感覚になる。
 ここらで一旦止めた方がいいんじゃないかと思った。
 それでも、口は止まらなかった。
「僕は、この世界で生きているだけで傷つく。誰と交流しなくとも。誰を愛さなくとも。もう傷つき疲れたんです。傷つけないでって願いは、うまくいけば何百年後には叶うかもしれないけれど、僕が生きている間は叶いそうにない。……僕に死なれたくないのなら、まずは世界を変えてください」
 ここまで言って、息を吸った。
 未だに強く抱きしめられたままで、そろそろ首が痛くなってきた。
「…………澪君さぁ」
「……なんですか」
「…………幸せになりたくないの?」
「……幸せになれなくてもいいので、苦しみたくないです」
「……プラスは要らないから、マイナスを消せ、と?」
「そうですね」
「……質問を変えようか。…………寂しくないの?」
「…………え?」
「そんな人生で、寂しくないの?」
「……まぁ、寂しいと言えば寂しいですけど。仕方ないです。その程度の人生だったってことでしょう」
「……ふぅん。碧ちゃんは置いていくんだ」
 …………は?
「……どうして今、夢咲さんが出てくるんですか」
「……どうせ、あの子も訳ありなんでしょう」
「…………」
「それに、あの子なら、澪君のこと、ちゃんと見てくれるんじゃないの?澪君という障碍者、じゃなくて、澪君という人間を」
「……そう……かも、しれませんね」
「もったいないね」
「もったい、ない?」
「寂しくなくなるかもしれないのに」
「だとしても、長くて一年です。夢咲さん、余命があと一年しかないそうなんで」
 少しくらいは驚くかと思っていた。
 だけど、マリーは全く、動揺する素振りもなく、これまで通り、抱きしめながら言葉を紡ぐ。
「それでも一年間、澪君は寂しくないわけじゃん。……なのに、諦めるの?捨てるの?」
「……別に、それが僕の生きる理由とか意味にはならないんで……」
「生きる理由や意味が無かったら生きられないの?そんなもの、いくらでも後付けで増えていくものなのに」
「そんなこと言われても……」
「っつうか、ニ十年も生きていない若造が、生きる理由とか意味とか語るのは早すぎるのよ。もっと謳歌してから語りなさい」
 そう言って、マリーはようやく、硬く抱きしめた腕をほどいた。
 首が痛い。寝違えたように痛い。
「いい?澪君」
 腕をほどいてはくれたものの、マリーの両手は僕の両肩をがっしりと掴んだままだった。
「傷ついてきたってことは、傷つけてきたことでもある。傷つけたことがあるのなら、救ったこともあるはず。澪君は、誰も傷つけずに生きられる人なんていない、って言うタイプでしょ。だったら、誰も救わずに生きられる人だっていない」
 僕の目をまっすぐ見据えて。
 真剣なまなざしで。
 催眠術にでもかけるように。
 僕に言う。
「せっかくそれだけ傷ついてきたんなら、その分誰かを救えるはずでしょ。心の痛みを知ったなら、心の痛みに寄り添えるでしょ。そうやって生きなよ。別に、それを生きる理由や意味に据えなくても、苦しんできた意味は、生きてきた理由は、それで事足りるでしょ」
 
 雨は止まなかった。
 耳の奥で雨音がノイズのようにこだました。
 納得ができたのか、自分でもよくわからないけど。
 とりあえず、今から踏切へ行くのだけは、やめとこうと思った。
 そうだ。不本意ながらと言いながら、それでも付いていこうと思ったのは。
 碧が、最初から、僕の車いすではなく、僕を見てくれたからだった。
 そんなことに今更気づいて。
 今更胸が熱くなる。
 この温もりを、手放したくなかった。

 雨が瞼を濡らさなくなったので、とうとう止んだのかと空を見上げたら。
 マリーが傘をさしてくれていた。
 車いすをすっぽり覆う、大きな傘だった。
 傘越しから、声がした。
「体、冷えるよ」
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