館の主

三毛猫

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首輪 Ⅰ

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 執事が全ての顛末を話し終えると、それを聞き入っていた奴隷の少年は額に汗を滲ませていた。


 ソファで足を組んで黙って耳を傾けていた主人はもうすっかり冷めてしまった紅茶に口をつけて、伏せていた視線を上げて少年を見据える

「お前の目の前にいるこの男も人狼だそうだ。
 恐ろしいか?」

 主人からの問いにどう答えるのが正解なのか分からずに答えあぐねている少年を二人の紳士はじっと見詰めていた。


 少年の心はまるで、筆を洗った後の壺の中の濁った水の様に複雑であった。

 本心は人外が恐ろしくてたまらないのだ。けれど目の前の執事が狼だなどと言われて、俄かには信じられなかった。
 少年の目に映る彼はどう見ても人間なのだ。
 獣の様な耳も尾も無いし、牙や爪もない。言葉を話すし薬をくれた。

 けれどそれならば旦那様やこの親切な執事が二人揃って自分に嘘をついていることになってしまう。

 もし忠誠を試されているのだとしたら、ここは“恐ろしくない”と伝えるべきなのだろうか…

 思考は堂々巡りですっかり本筋を見失いかけていた頃、屋敷の主人は

 「ギルバート。今夜お前には地下室の人狼“ルーヴ”に会ってもらおう」

 「旦那様?何をされるおつもりですか?!」


 主人の唐突な決定にいつも冷静な執事も面食らった様子だ。
 主人はすっと片手を上げて執事を遮るとそれ以上の発言を制した。

 当の少年もまた、つい今し方目の前の執事が人外だと聞き及んだばかりで、何一つ思考が追いついていないと云うのに、次は今夜にもう一人の地下室に住う人狼に会えなどと言われたのだ。


 病み上がりの寝惚けた頭に次々と不可解な情報を注がれた少年。
 彼は今まで『心』と、『自身で思考する』作業を殺して生きて来たのだから、一度に全てを理解し選択する事など無論のこと。しかし彼に残された答えはいつもたった一つなのだ。


 「…はい、旦那様の仰せのままに」


 奴隷である自身に許されたたった一つの回答、それは否が応もなく、主人の決定に従う、ただそれのみなのだ。


 彼は自分が何のために狼の檻へ向かわされるのか分からなかった。
 けれど自分が主の言い付けを破った事や、描き上げたはずの絵を紛失した事から見ても、きっと良くない事に決まっていると心の中で恐れていた。


 あの親切な老夫が狼男なのだと知ったその瞬間から、少年の彼を見る目はすっかり変わってしまった。彼におかしな事など何一つされた訳ではないのにだ。
 人間の感情や思考というのは甚だ勝手だ。

 意固地で乱暴、不躾で残酷。
 けれど自身の身を守る術など何も持たずに、誰かに命を握らせる事で生きて来た彼に許されたたった一つの感情がそれで、“それ”は誰にも奪えない。
 誰かに知られ、覆されることが無い様に、彼が大切に心の中に鍵をかけて守っている卑しい感情で、彼のたった一つの“自由”なのだ。



 さて、一方の主人と執事は、戸惑う少年を一度自室の屋根裏部屋へ帰らせた後、当の地下室の狼“ルーヴ”についての話を始めた。


 「旦那様、恐れ多いのですが…あの少年を息子に会わせて一体どうなさるお考えでしょうか…
 まさかあの者に説得を?
 それとも一緒に地下に閉じ込めて見張りをさせるおつもりでしょうか?

 ルーヴはもう自身の半身であるリチャードまで手にかける気でいるのです。

 見知らぬ奴隷の少年などあてがったところで何の足止めにもならないでしょう…」


 「…先程お前から“ルーヴ”の話を聞いて、俺も彼奴をこのまま地下室に繋ぎ置くのはもう無理だろうと察した。

 ギルバートにルーヴの手綱を握らせる。地下ではない。此処でだ」


 「そんな、旦那様、無茶です!人狼がひとたび牙を剥けばあんな子供などひとたまりもないのですよ?!

 奴隷故使い捨てになさるおつもりですか?!」



    「ふんっ、随分と執心しているのだな。たかが“奴隷”如きに」

    「執心ですって?!そう云う事を言っているのではない!!」

    「フィリップ!!」

    横柄さはあっても日頃声を荒らげる事などしない主人がピシャリと鋭く彼を叱るように発すれば、老夫は解せぬとばかりに歯噛みするも、「申し訳ございません…」と謝罪した。

    主人は背後に、怒りを湛えた狼が立っている気配を察しながらも、彼の忿懣が落ち着くのを待って静かに其方を向いた。

    隠し仰せぬ怒気を宿した老夫の眼は金色に揺らめいていた。
    野生のその瞳を主人は冷静に見つめると、幾分か静かな声音で


    「今のお前の顔を自分で見てみろ。

    野生の獣のそれだ。

    今のお前にルーヴは任せられない。自分の息子を殺すと言ったのだぞ?

    冷静になれ、お前には心を休める時間が必要だ。俺とてギルバートを犬の餌になどしたりはせん。

    あれは俺が名付けたのだ。
    それに、リチャードもルーヴもだ。彼奴は俺の甥だ。何方も姉上の残した命だ。

    …お前も、姉上の愛した狼だ。俺はどいつも見捨てる程非情ではない。分かったなら自室へ下がれ。夜にまた、ギルバートを連れて此処へ来るんだ。いいな。」




    「…かしこまりました。旦那様」



    執事は涙を零しながら、主人の前に膝を折って頭を下げていた。

    注がれた慈しみに最大の敬意を込めて。

    こうして、夜がくるまでのほんの僅かな時ではあるが、フィリップはここ数日の心労を癒やすかの如く、泥の様に眠った。

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