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70・踏み出す勇気

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「これは完全にわたしのミスよ。実験と同じでちゃんと準備すればうまくいくと思い違いしてたせいだわ」

反省してる、と希さんがうなだれると「今回ばかりは仕方がないことよ」と五十嵐先生が励ますように彼女の背中をポンポンとたたいた。

「だって希さんは恋愛となると幼稚園児…いえ赤ちゃんレベルだもの。愛着のあるぬいぐるみを手放したくない気持ちを恋だと勘違いしてたようなものだから」

「遊園地の帰り道、光太郎にも指摘されたの。おまけに彼、すこしは他人の気持ちを考えろ、ってわたしに怒ったのよ。はじめてだわ、彼がわたしに逆らうなんて。ねえひどいと思わない?!」

と希さんが頬をふくらませて怒るのを見て、洋太郎が笑った。

「お前な、これまでどれだけ俺のかわいい弟を振り回したと思っているんだ、当然だね。そうかー、あの光太郎が…成長したもんだ。って、怒ったのか?!あいつが?!」

「そうよ!何度も言わせないでよ!…なんだかよくわからないんだけど、わたし怒られてすっごくショックだったんだからね!」

怒りの矛先を洋太郎へ向ける希さんに、「多分それは」と前置きして口を開いたのは五十嵐先生だった。

「怒ったのが、光太郎さん自身のためじゃなくて他の誰かのためだったから、希さんはショックだったんじゃないかしら?」

「自分のためではなく、他の誰かの…」

希さんはちらりとわたしを見たあとに「そっか」と笑った。

「自分が落ち込んだ理由がわかって、スッキリしたわ。五十嵐先生ありがとうございます」

「強がるな、ふられたくせに」

「なんですって?!」

「うぐっ」

希さんをからかった洋太郎だったが、わたしと五十嵐先生の冷たい視線、それから希さんのぐーパンチでおとなしくなった。
右手をパーに戻した希さんは、コホンと咳払いして「今回わかったことがあるの」と再び話し始めた。

「わたしが光太郎のことを好きだったのは、彼が従順で、わたしの邪魔を決してしない人だからなの。わたしにとって、彼は都合の良い相手だったの。つまり、わたしがいちばん大切なのは自分というわけ」

悪びれることなく「残念ながらわたしには、光太郎を大切にする余裕はなかったのよ」希さんはきっぱりと断言した。
それを聞いた洋太郎はあ然としていた。

「自分が大事って…希、そーいうとこだぞ。やっぱりオマエはおそろしいヤツだ」

「わたしってひどい人間?」

「やっとわかったか」

洋太郎に指摘されて落ち込む希さんを見ていたら、「そんなことありません」とつい言ってしまった。

「だって、わたしも同じだから。希さんの気持ち、わかります。わたしも自分のことで手いっぱいです。自分の人生がいちばん大事。誰かのために自分の人生を犠牲にして生きるつもりは微塵もありません」

「かのちゃん!君までなんてことを!」

ショックで顔を引つらせる洋太郎を尻目に、わたしは希さんに力強くうなずいてみせた。
残念ながらこれが嘘偽りないわたしの気持ちだ。
青山くんのことを自分の都合で利用して、同時に自分の人生を彼にゆだねそうになったわたしにはわかる。

自分の身勝手な本音をわたしは隠そうとしたけれど、それをみんなの前で認めた希さんは強い。
彼女なら美しい笑顔と賢い頭脳で問題をうやむやにして、力づくで光太郎を連れ去ることだってできたはずなのに、そうしなかった。
正々堂々と自分と向き合ってごまかさず答えを出した、希さんはやっぱり強くて優しいお姫様だ。

「かのちゃんなら俺の光太郎を託せると信じてたのに…」

しょんぼりする洋太郎に五十嵐先生があきれて言った。

「託すって…まったく!洋太郎さん、あなたかのちゃんや希さんに向かって弟さんのために生きろと言うつもり?彼女たちは弟さんの母親じゃないのよ?いいえ、たとえ母親だとしてもダメよ」

「そんなあ…じゃあ母性はどこへ行ってしまったんだ?!」

洋太郎が抗議しても、先生は意に介さなかった。

「母性?そーんな都合のいいものはありません。自分をないがしろにして相手にすべてを捧げて尽くす行為を称賛するのは、もうおしまいにしなくちゃ。我々はそろそろ変わっていく必要があると思うわ」

「…そ、そうなの?」

洋太郎が捨てられたみたいな顔でわたしを見た。

「ごめんね、洋太郎さん。五十嵐先生の言う通りだと思う。わたしは大切な人の目に恥ずかしくない自分を映したいから」

今すぐに納得するのは難しいかもしれない。
でも理解しようと耳を傾けてくれた洋太郎みたいな人がいるだけでもうれしい。

「というわけでかのこさん、次はあなたの番よ」

と、元気を取り戻した希さんはわたしを見て言った。

「あなたはどうしたい?」

どうするって…光太郎が体調不良ではないことがわかり安心したからこのまま自分のアパートに帰つもりだ。

でも五十嵐先生の話が本当なら、やっぱり心配だ。
また仕事の悩みを抱えているのかもしれない。
あの部屋で、彼が心細そうにしている姿を思い浮かべると自然と胸が苦しくなる。

自分以外の誰かに尽くしてる暇なんかないと宣言したくせに、わたしは何をしたいのだろう?

「あーあ、そんな顔するなら答えはもう出てるわね」

わたしの顔を見た五十嵐先生が言った。
すると希さんまで「そうよ」とうなずく。

「行って、かのこさん。光太郎のところへ」

でも、とわたしは迷う。
わたしでいいのか?
卑屈な気持ちが押し寄せてきた。
わたしが必要とされたのは、光太郎の家を掃除して食事の支度をする存在だったからなのでは?
そばに置きたいのは、便利に使える人間だからなのでは?

そんなつもりで無償の愛や献身を期待しているなら諦めてほしい。
それはわたしが光太郎に差し出したいものじゃないから。
わたしが光太郎に受け取ってほしいのは、何なのか本当のところまだよくわからない。

だけど会いたい。

会って顔を見て、元気な姿を確かめたい。
わたしを待っていなくてもいいから、彼に会いたくてたまらない。

席を立ち自分のかばんをつかみ店を出た。

どうするかのこ?と自分にもう一度といかける。

答えを待つことなくわたしは走りだした。
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