犬の駅長

cassisband

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第1章

21.

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 自分がどうやって電車に乗ったのか覚えていない。気がつくと自宅の前にいた。頭の中を思考が駆け巡りすぎて、周りが見えていなかったせいだろうか。それでも家に帰って来れるのだから、驚いてしまう。意識せずとも、体が覚えているのだ。
 玄関の鍵を開けようとすると、鍵はかかっていなかった。このご時世に物騒な、と思いながら、扉を引いた。部屋の中からいつもと違う雰囲気が感じられた。
居間から話し声が聞こえる。母親が、話し相手に向けて言葉を発しているのがわかる。その声色はいつにも増して上機嫌だ。
 居間の扉を開くと、こちらに背を向けてソファに座っていた女性が振り返った。姉の咲子だった。
「なんだ。姉さんか。誰かと思った」
 咲子は、健治を見ると、「ああ!けんちゃん!久しぶりだね、元気にしていた?」と笑顔を見せた。つられて、健治も顔をほころばせる。
「姉さん、土曜日に来るって言っていたんじゃない?一日早いけど、どうしたの?」
「だんなさんがね、今日から出張だから、一緒に出てきたのよ。せっかくだから、今晩から泊まらせてもらうことにしたの。ほんとはもっと早くに来たかったんだけどね」
 ゆったりした口調で話す。咲子は優しい顔をしている。もともと穏やかな性格だが、口元に浮かんだ笑みは、以前にも増して、神々しい微笑みに思えた。
「けんちゃん、大学行ったんじゃなかったの?もうそろそろ就職活動も始まるね。将来のことちゃんと考えてるの?」
 にこにことしながら聞いていた母親が、思い出したように、健治を見つめる。
「ちょっと、体調悪くて、早退してきた」
「あら?夏風邪でもひいた?それとも夏バテかしら?そういえば、最近あんまり元気ないわよね。何にしろ、咲子にうつさないようにね」
 健治のことを心配しているのか、そうでないのかわからないようなことを言う。夏バテならうつるわけがない、と思いながら、咲子の様子がなんだかもじもじとしているのに気がついた。
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