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第七話 オンザウェイ

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 風が湿って生暖かい。当事者より二日も早く悪い予感を抱いていた凌介にとって、その連絡は別に驚くに値しなかった。ただ思うのは、長本先生は大人のくせに脇が甘い。彼からのメッセージは立て続けに三件あった。

〈こんにちは、長本です。お仕事中にすみません〉

〈予定のフライトが台風で欠航になっちゃって〉

〈今晩空港に泊まることになりそう〉

 最後のフキダシの下で入力中を意味する白いドットが点滅を繰り返していたが、三分待っても続きは来なかった。だから凌介のほうから返事をした。

〈お疲れ様です〉

〈飛行機、振り替えれましたか?〉

〈ちなみに僕は今日、有休で空港にはいないんです〉

 既読、既読、既読。成田からソウル仁川を経由しての出張だと言っていたが、ソウルは今晩直撃だ。韓国行きの旅客が足止めを食うだけなら成田自体はそんなに混乱しないだろうけど、せっかく彼がすぐ近くにいる。

 一瞬の逡巡の後、凌介は一度消した文章を再び入力し送信ボタンを押した。

〈よかったらうちに泊まります?〉

〈京成成田です〉

 既読マークがつくより早く、続けてアパートの住所も打ち込んだ。来るなら拒まないという意思表示だ。そんな懐の広さなんて見せつけて一体どうしようというんだろう。でもこの機会を逃したら絶対に後悔するという確信があった。手のひらにかすかな緊張を覚えたそのとき、スマホが震えた。

〈明日の昼前の便に振替交渉中で、結果を待ってます〉

〈お邪魔できたら、すごく助かります〉

 凌介の答えはもちろん決まっていた。 

〈了解です。飲みに行きましょう〉

 我ながらけっこう冷静だった。待ち望んだシナリオが現実になるときって案外こんなものなのかもしれない。

 その後、空港を出たとメッセージが入ったのは、夕方にさしかかろうかという頃だった。インターホンが鳴ったのはそれからさらに三十分後。ドアを開けると、先週と同じコーディネートの長本准教授が立っていた。これはあくまで凌介の推測だが、きっとその装いが機内で一番くつろげるんだろう。先週と同じなのは服だけじゃなかった。やらかしてしょんぼりした子どもみたいな上目遣いに、呆れるような、愛しいような、なんとも言えない思いがこみ上げた。

「どうもすみません。ほんと助けられてばっかですね」

「いえいえ、ってか期待して連絡したでしょう」

「え、うん、まぁ。いや、あの、これ」

 照れ隠し混じりの謝罪とともに、長本先生はコンビニ袋を差し出した。中身は缶ビールと新商品のアイスクリーム。それが今回の謝礼らしい。

「気つかわなくてよかったのに。とにかくどうぞ。狭いですけど。仕事してもらってもいいですし、シャワーも。あ、腹減ってます?」

「いえいえ、お構いなく。うちの研究室よりよっぽどきれいですよ」

「掃除しましたから。飛行機、振替できました?」

「ええ、どうにか。丸一日空いちゃいました」

 そう言って、ふたり目を合わせてエヘヘと笑った。十日ぶりの再会はなんとなくぎこちなかったが、そこに見知った者同士の空気があるだけで凌介の心は踊った。長本准教授はスーツケースとバックパック、カメラバッグを順番に室内に上げて、最後に一言、「お邪魔します」と呟いた。

「荷物重そうですね、何日分?」

「四泊だけど、服とかよりカメラとレンズがね、けっこう嵩張る。あの、このへん、どっか飯美味いとこあります?」

「あ、昼飯食べ損ねちゃいました?」

「うん。振替が決まらないことには落ち着かなくて。夜のモスクワ経由に乗れる可能性もあったんで。もちろん飯代は出します」

「やった。じゃあ、無難に居酒屋ですかね」

「任す」

「えー、居候のくせに偉そう!」

 手土産を冷蔵庫にしまいながら凌介が背後に向かってそう返すと「へへ」と笑い声がした。麦茶を差し出しがてら、軽く肘鉄を喰らわせる。長本准教授はいたずらっぽく目を細めてニヤリと片方だけ口端を歪ませた。そのくせ、まじまじ見つめるとプイと視線を逸らすのだ。左右の眉がちょっと離れて、気持ちハの字に下がっているのが童顔に拍車をかけている気がする。その一方で、すらりと切れ長の奥二重は世代や性別を問わず目を奪われる色気があった。

「中井さん、すいません。電源とっていいですか?」

「どうぞ、お構いなく。タップ空いてなければ適当に引っこ抜いてください」

「了解です。ありがとう」

 そう言って先生がバックパックをごそごそやりはじめたところで二人の会話はぷつりと途絶えた。もっとこっちを見てほしい、自分のことを知ってほしい。そんな感情がふつふつと凌介の心に沸き起こった。

「先生、ビールお好きなんですよね。僕、調べたんですよ、先生のこと」

だから初めて、「先生」とそう呼んでみた。

「え、なんで?大好き」

 大好きというのはもちろんビールのことだ。なんで調べたかって?それはあんたのことが気になるからに決まってる。もちろん口には出さずに、凌介は頭の中で駅前の飲食店にあたりをつけた。食事を奢ると言われたのはこれで二度目だったが、一度目のような、食費が浮くことへの無邪気な喜びはなく、代わりにもっと俗っぽい欲望が腹の奥底に渦巻いていた。
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