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第十六話 ジェネレーション

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 佳樹がそのメールを受け取ったのは、欠航騒ぎの出張から帰国して一か月ほど経った頃だった。いつもやりとりする事務員ではない、たぶん、もっと偉い人。無機質な文面には、淡々と、しかし有無を言わさぬ調子で「過去に長本研が受託した補助金の使途に疑わしいところがある」と、そう綴られていた。それからわが身に降りかかり続ける悪夢に、佳樹の心臓も胃も食道も不具合をきたしっぱなしだった。ふいに胸が砕けそうな動悸がするし、食べ物も受け付けない。

 経費の使い方を叱られることはこれまでもままあった。立て替えちゃいけないものを立て替えたりとか、購入品が自分の研究と関係あるかどうかをうまく説明できなかったりとか。その度に理由書を書き、足りない書類を揃え、それでもだめなら返納してポケットマネーで補ってきた。ずっとそれでよかったはずだ。それなのに今回は、最初からそんな逃げ道はないとばかりに監督省庁の実地調査が入り、学内で不正調査委員会が立ち上がった。

 研究室メンバーが図書館や実験施設に行きやすいよう共同の自転車を買った。研究と関係ないから不正。ドローンの調子が悪くて、けれど償却期限より前に修理許可が出ないから、自前で修理するための部品を注文したこと。規則違反で不正。出張先でストライキに見舞われ帰国が遅れたとき、立往生していただけなのに用務日と同額の日当が支給されていたから不正。ほかにもいろいろ書かれていたが、とにかく佳樹が悪いということで弁明の余地はなかった。唯一の救いは、ゼミ生達が変わらぬ態度で接してくれることだった。

「またイケメンエリート准教授って書いてありますよ。てか先生が不正なら、うちらもあのチャリ使ってるから共犯ですよね」

「だいたいこんなことどこでもやってるじゃないですか!絶対目をつけられたんですよ。やばい事件の裏で芸能人が麻薬で逮捕されるやつですよ」

「何なに?陰謀論?」

「おまえらネットばっか見てないでレポート書け。あと、一応だけど、転ゼミ先考えとけよ」

 その静寂が破られるまでには少し時間がかかった。佳樹の処遇次第では、長本研はなくなってしまうかもしれない。だから転ゼミ。「先生そんなこと言わないで」と誰かが答えたとき今日何度目かの電話が鳴り、全員が表情を硬くさせた。大学がマスコミを通して謝罪してからというもの、しょっちゅう外線が鳴るのだ。週刊誌の記者やゴシップニュース番組のディレクターだと名乗る者もあれば、のっけから罵倒をぶつけるだけのいたずら電話もあった。

「サイトもとっくに閉じたのにどっから番号探すんでしょうね」

「受話器あげとこうよ」

「いや、それだと大事な連絡も繋がらないって事務の人に怒られた」

「じゃあやっぱり汪くん出て」

「OK、任せて」

 それがここ何日で彼らが編み出した電話対策らしかった。香港出身の学生が流暢な英語で応じるだけで大半の電話が自然に切れるというのだ。その作戦が今日もあっさり成功したことに、こんなときなのに感心してしまう自分がおかしかった。

 やれやれと准教授室に戻り佳樹はシリアルバーをひとかけ齧った。こんな食事を諫めてくれる人間ももう自分にはいない。佳樹の両親は、遅くに生まれた一人っ子の佳樹をさんざん甘やかした末にさっさと旅立ってしまったからだ。別に不幸な事故というわけでもない。順番と言っていい年だった。それぞれの葬儀で見せなかった涙がなぜか今になって溢れた。

 そのとき、ふいにドアの隙間から細い光が差し込み、いつかのように今野が顔を出した。

「先生?そろそろうちら帰りますけど、先生は今日も研究室泊まりですか?」

「あ、ああ、うん。おまえらの論文チェックなんかどんだけ時間あっても足んないし」

「いやぁ、それほどでも。って照れるとこじゃないですけど、でも、ほんとちゃんと寝てくださいね」

「ああ。いろいろありがとう。気をつけてな」

 今野の言葉どおり、佳樹は最近ろくに帰宅もしていなかった。幸い、出張の度に溜め込んだ生活用品が部屋を埋め尽くしているし、シャワーだって体育館かサークル棟のを借りればいい。それに、一度マンションのエントランスで光ったフラッシュがまぶたの裏に焼き付いたままなのだ。自分を陰から明るみに引きずり出そうとするその光を思い出すと、またひどく恐ろしい動悸がした。
 学生室が静まり返ったのを確認すると、佳樹は自分の部屋の明かりも消した。これで少しは落ち着くはずだ。けれどその期待もむなしく、脳裏に浮かんだのは学生が見せてくれたニュース動画だった。女性アナウンサーにかぶさるように、デジタルの文字が右から左に流れて消える。

【同大学が行った調査により、長本准教授の研究室で旅費の不適切な処理が多数行われていた事実が判明しました。こちらのフリップがその一部です。知人宅に宿泊したにも関わらず定額の宿泊料を受給していたり、提出すべき証憑書類がなかったり、本来は執行できないはずの費用が支払われるなどしていたこともわかっています】

 目つき悪
 大学教員なんて世間知らずだからなぁ
 え、イケメンじゃない?w抱かれたいww
 女子大生とヤり放題とか羨ましい
 こんな研究なんか社会の役に立つの?
 税 金 泥 棒
 
【日常的に行われていないとこんなにたくさん出てこないですよ。しかしこの人二枚目ですね。おまけに学生引率の際に指導している学生と相部屋にすることで経費を浮かせていたということで、本人もこの事実を認めています】

 女性アナウンサーのコメントに余計な一言を付けくわえたのは、漫才をしているところなんか見たこともないお笑い芸人だった。

 普通なら三面記事で終わりそうな国立大学准教授の補助金不正受領事件は、いつのまにか昼時のテレビまで賑わせていた。相部屋の相手は男子学生で、それもこれも予算を節約するためだ。ついでに言えば「知人宅」とやらはおそらく京成成田の凌介のアパートだ。何も知らないくせに勝手なこと言うなと凌介は奥歯を噛み締めた。

 凌介の手元のスマートフォンでは事件を取り上げた動画が順番に再生され続けていた。スタジオ映像の次は謝罪会見だ。大学のロゴが並んだパネルの前にスーツ姿の男が三人。不正をする意図は一切なかった、手続きに不備があったのは事実で大変申し訳ないと思っている。真ん中に立つ佳樹がそう謝罪し、全員で頭を下げたと同時にフラッシュが瞬いた。佳樹の体型は凌介が最後に空港で見送ったときとそう変わらないのに、憔悴した顔つきはあんまり気の毒で、抱き締めてやらないといけないと思った。

 計画なんて何もない。なにしろ向こうは凌介のメッセージを見ていないし、名刺の電話番号はずっと話し中だ。メールだって宛先不明で返ってきた。それにしても、こういうとき電車はすぐに飛び乗れるのがいい。飛行機ならそうはいかないから。

 東京では昨日の夜、初雪が降ったときいた。全国的に荒れ模様なのか窓の外も雪景色だ。車中、はやる心を抑えようと凌介は手当たり次第に佳樹の著書をめくった。かつて図書館で借りたものを結局、書店で取り寄せたのだ。内容はいまだによくわからないが、数ページごとに差し挟まれる遺跡や建造物の写真の向こうに、ファインダーを覗く佳樹の息遣いが聞こえる気がした。
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