虫愛る姫君の結婚

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王宮での日々

ガマガエルとパラスケス

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シルフィーと別れたエントは、錬金術の庁舎を歩いていた。庁舎の中央には、錬金術の始祖であるパラケススの銅像が置かれている。中央を抜けて長い廊下を歩いて行き、長官室のドアをノックすると、入れ、という声が聞こえてきた。ドアを開けると、デスクチェアに腰掛け、爪をやすりで磨いている男の姿が見えた。手をすべらせて肉を削いでしまえばいいと思いつつ、エントは彼に声をかける。
「およびでしょうか、エドヴィア長官」
「遅いぞ、ヨークシャー。私が呼んだら五秒で来い」
 彼はとうてい無理なことを言って、ヨークシャーを手招いた。ヨークシャーはそちらに近づいていき、エドヴィアの前にたつ。オズワルド亡きあと長官におさまった男には、尊敬すべき点が見つからなかった。ハゲで短足、めったに動かないせいで肥満体型。髪もほとんどないのに身なりにこだわっていて、ここを訪ねると大抵鏡を見ている。得意なのは上への媚びと下への圧力だ。ガマガエルによく似たエドヴィアは、上目遣いでこちらを見た。

「おまえ、王妃に呼び出されたそうだな」
「ええ。今から伺うところです」
「長官の座について打診されたら、どうするつもりだ」
「エドヴィア長官がいらっしゃるのに、そのような話は出ませんよ」
エドヴィアは鼻を鳴らし、エントにやすりを突きつけた。
「いいか、もし勧められても辞退しろ。おまえのような青二才には長官は務まらん」
「失礼ながら、錬成ができないあなたに務まっているのだから、私でもできるのでは?」
 エントがそう言うと、長官は顔を真っ赤にした。彼は怒りをあらわに、手にした爪やすりを投げつけてくる。エントは爪やすりをキャッチして、ポケットから出した椿の種を玉状に変え、弾き飛ばした。椿の種が額に当たった長官は痛みにうめく。
「話がそれだけなら失礼します」

エントはそう一礼し、ドアへ向かった。長官は額を抑えながらこう言った。
「いいか! 私の目が黒いうちはおまえの好きにはさせんからな」
 エントは答えずに部屋から出た。背後から長官の声が追いかけてくる。彼も昔はその錬成能力の高さで名を馳せたらしいが、年を重ね、努力を怠った結果、錬成能力が落ち、ただの老害に身を落とした。錬成能力は努力次第で磨くことができる。しかし、人間性は生まれついての資質や、育ってきた環境が大きい。残念ながら、エドヴィアにはどちらもなかった。エントは長官になりたいと強く思っているわけではない。ただ、あの男を長官にしておくのが嫌だった。本当は、面倒な権力争いなどない場所で研究がしたいが──。長官室を出ると、ドアの外で耳をすましていたらしいアレックスが慌てて身を引いた。エントが横目で見ると、彼は材料が入ったカゴを差し出してきた。

「錬成石用の材料を採取しました」
「錬成室に運んでおいてくれ。私は用事があるので先に準備を頼む」
「王妃様にお会いしに行くのですね?」
 アレックスはウキウキとした表情で話しかけてくる。
「この時期にお呼び出しだなんて、長官への就任命令に決まっています」
「だといいけどな」
「絶対そうですよ。いやあ、二十代で長官になるなんてすごいなあ。俺は一生副官についていきます」

 後ろからついてくるアレックスが陽気な声で追従する。シルフィーには随分と上から目線で話していたが、エントには低姿勢だ。彼は媚びるべき相手を嗅ぎ分ける嗅覚に優れている。王宮で生きるのに向いているタイプと言えるだろう。エントはポケットの中に入っている椿の種を手のひらで転がした。椿油にはオレイン酸トリグリセリドが含まれている。この成分には確か、髪を艶やかにする効能があったはずだ。もしかして、シルフィーはエントが言ったことを気にしているのだろうか。一瞬そう考えて、婚約者のマルゴーと間違えて抱きつかれたことを思い出した。彼女はおそらく、婚約者以外眼中にないだろう。エントは追従を述べ続けているアレックスに尋ねた。
「あの二人とは親しいのか」
「あの二人?」
「シルフィーとマルゴーだ」

 アレックスはああ、と相槌を打った。
「俺はあんな連中と親しくなんてないですよ。まあ、変人とヘタレでお似合いなんじゃないですか?」
 彼の言葉の端々からは、二人を見下していることがありありとわかった。マルゴーはともかく、シルフィーを悪く言われたことで少し苛立った。彼女が他人からどんな評価を受けようが、エントには全く関係のないことなのに。彼女は女王の養女で、もう幼い子供ではないのだ。謁見の間にはマルゴーが来ていて、王妃と何かを話していた。アレックスやエントと視線を合わせたマルゴーはさっと目をそらす。なぜ新人錬金術師の彼が王妃と謁見しているのだろう。訝しんでいると、王妃が口を開いた。
「よく来てくれました、エント・ヨークシャー」
「じゃ、じゃあ、僕はこれで」
 そそくさと立ち去ろうとしたマルゴーを、王妃が引き止めた。
「あなたも残ってください、マルゴー」
 マルゴーはのろのろした動作で、椅子に腰を下ろした。王妃はマルゴーから視線を外し、エントにこう言った。
「エリクサーの研究は遅々として進みません。そこで、チームを編成してほしいのです」
「チーム? すでに専門の研究員がいるはずですが」
「おそらく従来のやり方ではうまくいかないのです。新しい発想が必要です」
 王妃はそう言ってマルゴーを見た。マルゴーはうつむいている。新しい発想、と聞いて、思い浮かんだのはシルフィーだった。王妃はマルゴーから視線を外してこうつづける。

「チームのメンバーについてはあなたに任せます。専門外の人間でも、必要だと思ったら登用してください」
「了解しました」
「もし成功したら、あなたの長官の地位は約束します」
「必ず成功させます、王妃様」
 王妃は頷いて、下がっていいと言った。ヨークシャーは部屋を出たが、その場から立ち去る気にはなれなかった。マルゴーが呼び出された理由が気にかかったのだ。室内からは、王妃とマルゴーが会話する声が聞こえてくる。
「マルゴー、考えは変わらないのですね」
「はい……」
「あなたから言いますか? それとも、私から伝えますか」
「僕から言います。それがけじめだと思うから」

 王妃はそうですか、と相槌を打って、話を終えた。一体何の話だろう。二人の会話に耳を澄ますエントを、アレックスが不可解そうな目で見ている。アレックスは、マルゴーのことを劣等生だと言っていた。錬金術は鍛錬をすれば誰にでも使える。エントはそう思っていたが、友人のジャスパーに言わせればそうではないらしい。ジャスパーも一時はアカデミーに通っていたが、入学早々素養がないと自覚し、アカデミーを辞めて騎士になった。それで殿下付きの近衛隊長になったのだから、何事も向き不向きがあるということだろう。マルゴーは自分の能力に限界を感じていて、錬金術師をやめるつもりなのかもしれない。そうなったら王宮にはいられなくなる。きっと、シルフィーが悲しむだろう。いや、シルフィーならば王宮での生活を捨てて彼についていくだろうか。出世には興味がない。田舎で暮らしたいとシルフィーは言っていた。──いずれにせよ、俺には関係のないことだ。俺には他に考えなければいけないことが山ほどあるのだから。
 エントはかぶりを振って、踵を返して歩き出した。
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