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仲間
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蝉の声が山中に鳴り響くころ、第四期の課題曲が発表された。
残り十名となった生徒たちが、掲示板に張り出された紙を見ている。
「第四期課題曲 亡き女王のためのパヴァーヌ」
明日香は、掲示板を見あげながらつぶやいた。
「あと二回かあ」
「あっらあ、千秋さんは次のテストは勝ち上がれるって確信してるんだあ、すごーい」
背後から聞こえてきた水瀬の言葉に、明日香はぶんぶん首を振った。
「い、いや、違う」
「自信があるのは悪いこと? 私だって残る気でいるけど、あなたは違うの?」
冬芽が冷たい声で言う。水瀬はふん、と鼻を鳴らし、廊下の向こうへと歩いて行った。
「はいはーい、俺も勝つ気でーす」
春川がゆるく手をあげる。冬芽は春川に目をやって、その温度のない瞳を輝かせながら猫耳に手を伸ばした。
「すごいわ……猫の耳そのものだわ」
「ちょ、いたい、いたいって」
ぐいぐい引っ張られ、春川がうめく。
「そうだよね、勝ち上がれるといいよね、ねっ、滝沢君!」
夏美がにこやかに笑いかけると、滝沢も微笑み返した。
「そうだね、南雲さんは勝ち上がれるかもしれない」
冬芽の視線が滝沢をとらえる。
「どういう意味かしら、滝沢君」
滝沢は明日香、春川、冬芽を見回して言う。
「君たち三人には瑕疵がある。だから次は落ちると思う」
明日香は息を飲んだ。春川がえー? と言いながら首をかしげる。
「カシってなに」
「春川は技巧に頼りすぎている。冬芽は演奏に起伏がない。千秋は技巧に不安がある。バランスがいいのは南雲さんだけだ」
滝沢の指摘に、千秋はうっ、と呻いた。春川はんー、と顎に指を当て、
「でもさあ、一個忘れてね?」
「なに?」
滝沢を指さす。
「俺たちはノアに選ばれたけど、お前違うじゃん」
滝沢はふっと笑い、おめでたいな、と言った。
「そんなことに何の意味がある? 最優秀生徒を決めるのはノアじゃない」
そういって歩き出した滝沢に、春川はべーっと舌を出す。
「やーなかんじ」
「でも、滝沢くんのいうことは的を射ている」
冬芽の言葉に、夏美がうん、とうなずく。
「がんばらないとだね!」
「南雲さんはいいじゃん。俺たちカシありだもんねー、冬芽さん」
「ええ、そうね、春川君。じゃあ、夏美、さよならね」
「え、ちょ、仲間外れはやだよー!」
夏美は半泣きで二人をおいかける。明日香は滝沢の歩いていったほうに足を向けた。
「滝沢君」
渡り廊下で声をかけると、滝沢が足を止め、振り返った。明日香も足を止めて、その視線を受け止める。
「なに? 千秋さん」
「あの……ウトのことなんだけど」
「その話は終わったはずだけど」
突き放すような言い方に負けないように、千秋はぐ、とこぶしを握った。
「おっ、終わってないよ。滝沢君だけが本当のことを知ってるのは、不公平だと、思う」
「君にだけは不公平だとか、言われたくないんだけど」
ちょうど二メートルほどの間隔が、二人の間に空いている。もっと近づきたいのに、その距離を縮めることが、明日香にはできない。彼が明日香を、拒絶しているから。
「滝沢君は……どうしてそんなに、私が嫌いなの?」
茶色い瞳が、かすかに陰った。しかし、すぐにいつもの冷静な瞳へと戻る。
「日本には、どれくらいの人がいると思う?」
「え? ……いち、おく?」
「人口は減ってるから、もっと少ないよ。それだけの人がいて、全員が君を好きになると思う?」
「思わ、ない」
「だろう? それに、あと二回で最優秀に選ばれるかどうかが決まるっていうのに、そんなこと気にしてる場合なのかな」
君にそんな余裕があるの? そう尋ねられ、明日香はかっ、と赤くなった。
「結局、おしえて、くれないの」
「そうだな、もし君が最優秀になれたら」
その時教えてあげる。そんなことはありえないだろうが。そう言いたげに、滝沢は微笑んだ。
「ほー、パヴァーヌか」
寮のロビーにて、ノアは明日香の揺らすススキにつられて前足を動かした。その様子は完全にただの猫である。明日香は楽譜を開きながら言う。
「うん。二人ずつ弾いて、優劣をつけるんだって」
「お前の相手は?」
「まだわからない。あとでくじをひくんだって」
「しかし、相手が滝沢とかだったら最悪だな」
「どうして? たとえ滝沢くんが相手でも、私、負けないよ」
ノアがすすきを離して、青い瞳を丸くした。
「どーした明日香。滝沢教の信者は卒業したのか」
「そんなの入ってないよ……」
明日香がため息をついていたら、静乃がやってきた。
「あら、明日香ちゃん、ここにいたの。理事長がおよびよ。次回テストの組み合わせ、くじ引きするんですって」
「は、はい」
明日香はソファから立ち上がる。代わりに静乃がソファにかけ、ノアを抱き上げた。
「にしても酷よねえ、二人のどちらかは絶対落ちるんだもの」
「でも、今までも、ふるいにかけられてきたから」
「もう慣れちゃった?」
静乃の問いにあいまいに笑い、明日香はエントランスを出た。
十人の生徒たちは理事長室に集められていた。理事長は爪を磨きながら教師に目をやる。
「それでは、第四回試験の課題における、組み合わせを発表する」
教師はぴら、と紙を手にもち、口を開いた。
「まず一組目。水瀬、桐嶋(きりしま)」
「二組目、鹿島、酒井」
「三組目、滝沢、藤沢」
「四組目、冬芽、南雲夏美」
夏美が息をのんだ。冬芽は無表情で前を向いている。
「五組目、千秋、春川」
明日香ははっとして春川を見た。春川は頭をかいて、困ったように笑う。
解散を告げられてぞろぞろと生徒たちが出ていき、残ったのはノアに選ばれた四人だった。夏美は気まずい空気を払拭するように、笑顔で言う。
「冬芽ちゃん、びっくりしたね、でも、お互い頑張ろうね!」
冬芽は夏美に目を向け、温度のない声で言う。
「夏美、頑張ろうなんて軽々しく言うべきじゃないわ」
「え?」
「私たちは、いわば殺し合いをしなきゃならないんだから」
夏美は曖昧に笑った。
「そんな、大げさだよ、私たち友達じゃない」
「昨日の友は、今日の敵よ」
「そんな言葉ないよう……」
すたすた歩いていく冬芽を、夏美は悲しげに見ている。彼女の活発さを象徴するようなツインテールが、萎れるように垂れ下がっていた。
明日香は二人の様子を目で追った後、ちらりと春川を見る。春川は苦笑いを浮かべ、言った。
「ま、お手柔らかに頼むわ」
明日香はぎこちなくうなずいた。
明日香は練習室で、課題曲を弾いていた。手を止め、幾度目かわからないため息をつく。ノアがいらいらした様子で言う。
「おい、明日香。なんなんだよ溜息ばっかつきやがって、ロックじゃねーなおい」
明日香はちらっとノアを見た。
「ノアはいいよね……悩みがなさそうで」
「なんだと! 俺様を侮辱してんのか、あ!?」
ノアは明日香のふくらはぎをびしばしとたたく。
「してないよ……いてて、叩かないで」
明日香はノアの猫パンチをかわしながら、ピアノの鍵盤に触れた。亡き女王のためのパヴァーヌ。パヴァーヌというのは古典的な曲の形式のことだ。ラヴェルはあまり気に入っていなかったということだが、明日香は「パヴァーヌ」が好きだった。
主旋律は少し悲しげで、心に染み入るよう音色を奏でている。聞いている分にはそう複雑な印象を受けないが、弾いてみると高い難易度なのだ、と思う。
しかし、テスト用に選ぶには、評価を下しにくい曲なのでは、と思うのも確かだった。主旋律も曲の印象も最後まで大きく変わることはない。だからこそその中でどれだけの表現をなしうるか、ということが評価の対象なのだろうか。
演奏を遮るように、ノアが口を開く。
「おいおい、なんか眠くなる曲だなあおい」
「だって、こういう曲なんだよ」
「ちげえよ、お前の演奏がねむてーって言ってんだよ」
「そんなこと言われても」
ノアはしっぽを揺らしながら、
「お前の対戦相手は誰だ? 明日香」
「春川くん」
「ああ、あいつか……まさかそれで落ち込んでんのか? あ?」
「だって、春川君、せっかく復活したのに」
「おいおい、お前ずいぶん余裕があるなあ、明日香。お前が勝てるって保証あんのか」
「ない、けど」
だけど──今までだってなんとかなってきたんだし。
「お前自分が勝てるって思い込んでるだろ。そんなんじゃ負けるぜ」
「滝沢君みたいなこと言わないでよ」
「いいから練習しろ練習!」
びしびしとむちのようにしなるしっぽを見て、明日香はつぶやく。
「春川君はやっぱり猫耳をつけて演奏するかなあ」
「お前もつけるか? 明日香」
「うーん……」
明日香は春川の演奏を思い出していた。彼の強みはやはりあのスピードだ。しかし、『亡き女王のためのパヴァーヌ』は、スピードを上げて弾くような曲ではない。春川にとってはあまり得意な曲ではないのではないだろうか、と思うのだ。
「だいたい、なんで二人ずつ弾かせるんだろう」
誰と当たるかは運によるところだろうし、甲乙告げがたい場合だってあるはずだ。
「知らねーけど、教本通りに弾いても勝てねえってことじゃねえの」
ふたたびふくらはぎに猫パンチを食らわされ、明日香はダメージを回避するため練習を再開した。
練習室を出て、寮に戻るため外に出たら、ずいぶんと暗くなっていた。
「遅くなっちゃった……夕食に間に合うかなあ」
急いで寮に向かっていた明日香は、がさり、と鳴った茂みにびくりとする。
「な、なに?」
そっと茂みの向こうをのぞくと、桐嶋と藤沢がたばこを吸っているのが見えた。明日香はギョッとする。確か、たばこって退学処分じゃなかっただろうか。
「ったく最悪だよ。滝沢と当るなんて」
「ついてねーな。オツカレサマでしたー」
「まだ負けてねーだろ」
桐島が舌打ちする。藤沢は肩をすくめ、
「しかし奇跡でも起こらないかぎり勝てねえだろうよ」
「奇跡かあ……、いっそのこと、指でも折っちまうか?」
「そんなことした時点で失格だろ」
「だからあ、ばれねーよーにやんだよ」
明日香はどくどく鳴る心臓を抑えた。滝沢に教えないと。そっと後ずさると、その拍子に踏んだ枝がばきりと鳴る。
「!」
「誰だ!」
明日香は慌てて走り出した。リュックに入ったノアが息巻いている。
「なんで逃げるんだよ明日香! あんなやつらいてこましたれ!」
「無理だよ!」
意外にも桐嶋たちの足は遅く、明日香はなんとか寮に駆け込むことができた。ロビーで息をついていると、静乃がやってきて目を瞬く。
「あら、明日香ちゃん、どうしたの」
「た、たきざわ、くんは」
「部屋にいると思うけど? 一〇三号室」
明日香は急いで滝沢の部屋に向かった。どんどん、とノックをする。
「滝沢君!」
がちゃりとドアが開き、顔を出した滝沢が不審そうな顔をする。
「千秋さん?」
「た、大変なの、今、桐嶋くんたちが話してたんだけど、た、滝沢君の指を折るとかなんとか」
滝沢は明日香から、聞こえてきた足音のほうに視線を移す。桐嶋たちが走ってきた。
「千秋イ!」
「わっ」
明日香はびくりと身体を揺らす。
滝沢に気付いた桐嶋たちは、ぜいはあ言いながら笑顔を浮かべた。
「あ、おう、滝沢」
「千秋から変な話聞いたかもしれねーけど、ジョーダンだから!」
明日香は彼らの言葉を否定する。
「うそだ! 本気だった!」
「お前よけーなこと言ってんじゃねーよ!」
振り上げられた手を、滝沢がつかんだ。
「人の部屋の前で大声出さないでくれるかな。もう八時だよ」
滝沢が掴んだ腕が、ぎりぎりと音を立てる。桐嶋は顔を引きつらせた。
「わ、わかったから、離せよ」
滝沢は彼の腕を離し、明日香に目をやる。
「千秋さんも。ここ、女子は立ち入り禁止だろ」
「でも」
「そ、そうだそうだ。さ、俺たちも夕飯食いに行こうぜ」
「ああ、それから」
滝沢は桐嶋と藤沢を見て、にこりと笑った。
「知ってる? ねずみって、ああ見えてなかなかあごの力が強いんだ。人間の指くらいなら簡単に食いちぎることができるらしいよ」
「は?」
「俺、ねずみを飼ってるんだ。賢いねずみでね、俺の言ったことはなんでもかなえてくれる。朝起きて、指がない、なんてことになるかもしれないけど、そうなってもいいなら」
滝沢は笑顔を消し、自身の手を差し出した。
「折ったら?」
「え、遠慮する!」
藤沢と桐嶋はぶんぶん首を振って、そそくさと去っていった。明日香は二人をぽかんと見た。滝沢が何事もなかったかのように言う。
「千秋さんも早くいかないと夕飯なくなるよ」
「ねずみって、ウトのこと?」
「そうだけど」
「おう、ウトの野郎どこにいやがんだ」
ノアはリュックから飛び降り、滝沢の開けたドアの隙間から侵入しようとしている。
「あの、滝沢君、ノアの言ってること、わかるんじゃない?」
滝沢はイエスともノーと言わず、ノアを抱き上げた。ノアはしゃーっと鳴いたが、のどを撫でられてごろごろ鳴く。
「お、こいつ撫でるのうめーじゃねーか」
「の、ノア……」
「ペットは飼い主に似るっていうけど本当だな」
自分もあんなふうだったのだろうかと思って、明日香は赤くなる。
「ど、どういう意味?」
「ずかずか人の領域に入ってくるところがそっくりだね、って意味」
「た、滝沢君だって、ウトはなんか陰険な感じで滝沢君に似て」
「ん?」
「え」
「誰が陰険だって?」
「す、すいません、そんなつもりじゃ」
明日香は後ずさった。滝沢はノアを抱いたまま近づいてくる。
「大体、俺が怪我したほうが、ライバルが減ってうれしいんじゃないの?」
「そんなこと、思わないよ」
「どうかな」
「どうして、そんなこと言うの?」
「千秋さんこそ、いつまでそんなにのんきなの?」
「のんきなんかじゃないよ」
「じゃあ俺のことは放っておいて、どうやったら春川に勝てるか考えたら?」
滝沢は明日香にノアを押し付け、すたすた部屋に戻っていく。明日香はうつむいて、ノアをぎゅっと抱きしめた。
翌日、明日香は『亡き女王のためのパヴァーヌ』のCDを探しに視聴覚室に向かった。ブースに入り、CDを聞いていると、隣のブースからはあー、はあー、という深い嘆息が聞こえてきた。
ひょこりと顔をのぞかせると、夏美が浮かない顔でぼんやりと肘をついている。
「南雲さん?」
「あ、千秋さん」
夏美は明日香に顔を向け、またため息をついた。明日香はなんとなく謝る。
「えーっと、なんかごめん」
「ううん、千秋さんのせいじゃないの……冬芽ちゃんがね、口きいてくれなくて」
「対戦相手だから?」
「そうなの! なんか春川君と仲良しなの! 私一人ぼっちだよお……」
「春川君と?」
あの二人が仲良くしているというのも想像がつかないけど……。
「なんかね、互いに学ぶところがある、んだって」
「学ぶところ……」
明日香ははっとした。そうか。
「あの、南雲さん、南雲さんの演奏、聞かせてくれない?」
「わたし?」
夏美はきょとんとしている。
「うん、それでね、私、気が付いたことを言うから、南雲さんも言ってほしいの」
「批評しあう、ってこと? 面白そう!」
夏美は眼を輝かせた。明日香と夏美はさっそく練習室に向かう。その途中、春川と冬芽とすれ違った。
「と、冬芽ちゃん、やっほー」
夏美のあいさつにうなずきだけで返し、冬芽はすたすた歩いていく。夏美はうう、とうなだれている。
明日香がちらりと振り返ると、春川は肩をすくめて手を振った。
残り十名となった生徒たちが、掲示板に張り出された紙を見ている。
「第四期課題曲 亡き女王のためのパヴァーヌ」
明日香は、掲示板を見あげながらつぶやいた。
「あと二回かあ」
「あっらあ、千秋さんは次のテストは勝ち上がれるって確信してるんだあ、すごーい」
背後から聞こえてきた水瀬の言葉に、明日香はぶんぶん首を振った。
「い、いや、違う」
「自信があるのは悪いこと? 私だって残る気でいるけど、あなたは違うの?」
冬芽が冷たい声で言う。水瀬はふん、と鼻を鳴らし、廊下の向こうへと歩いて行った。
「はいはーい、俺も勝つ気でーす」
春川がゆるく手をあげる。冬芽は春川に目をやって、その温度のない瞳を輝かせながら猫耳に手を伸ばした。
「すごいわ……猫の耳そのものだわ」
「ちょ、いたい、いたいって」
ぐいぐい引っ張られ、春川がうめく。
「そうだよね、勝ち上がれるといいよね、ねっ、滝沢君!」
夏美がにこやかに笑いかけると、滝沢も微笑み返した。
「そうだね、南雲さんは勝ち上がれるかもしれない」
冬芽の視線が滝沢をとらえる。
「どういう意味かしら、滝沢君」
滝沢は明日香、春川、冬芽を見回して言う。
「君たち三人には瑕疵がある。だから次は落ちると思う」
明日香は息を飲んだ。春川がえー? と言いながら首をかしげる。
「カシってなに」
「春川は技巧に頼りすぎている。冬芽は演奏に起伏がない。千秋は技巧に不安がある。バランスがいいのは南雲さんだけだ」
滝沢の指摘に、千秋はうっ、と呻いた。春川はんー、と顎に指を当て、
「でもさあ、一個忘れてね?」
「なに?」
滝沢を指さす。
「俺たちはノアに選ばれたけど、お前違うじゃん」
滝沢はふっと笑い、おめでたいな、と言った。
「そんなことに何の意味がある? 最優秀生徒を決めるのはノアじゃない」
そういって歩き出した滝沢に、春川はべーっと舌を出す。
「やーなかんじ」
「でも、滝沢くんのいうことは的を射ている」
冬芽の言葉に、夏美がうん、とうなずく。
「がんばらないとだね!」
「南雲さんはいいじゃん。俺たちカシありだもんねー、冬芽さん」
「ええ、そうね、春川君。じゃあ、夏美、さよならね」
「え、ちょ、仲間外れはやだよー!」
夏美は半泣きで二人をおいかける。明日香は滝沢の歩いていったほうに足を向けた。
「滝沢君」
渡り廊下で声をかけると、滝沢が足を止め、振り返った。明日香も足を止めて、その視線を受け止める。
「なに? 千秋さん」
「あの……ウトのことなんだけど」
「その話は終わったはずだけど」
突き放すような言い方に負けないように、千秋はぐ、とこぶしを握った。
「おっ、終わってないよ。滝沢君だけが本当のことを知ってるのは、不公平だと、思う」
「君にだけは不公平だとか、言われたくないんだけど」
ちょうど二メートルほどの間隔が、二人の間に空いている。もっと近づきたいのに、その距離を縮めることが、明日香にはできない。彼が明日香を、拒絶しているから。
「滝沢君は……どうしてそんなに、私が嫌いなの?」
茶色い瞳が、かすかに陰った。しかし、すぐにいつもの冷静な瞳へと戻る。
「日本には、どれくらいの人がいると思う?」
「え? ……いち、おく?」
「人口は減ってるから、もっと少ないよ。それだけの人がいて、全員が君を好きになると思う?」
「思わ、ない」
「だろう? それに、あと二回で最優秀に選ばれるかどうかが決まるっていうのに、そんなこと気にしてる場合なのかな」
君にそんな余裕があるの? そう尋ねられ、明日香はかっ、と赤くなった。
「結局、おしえて、くれないの」
「そうだな、もし君が最優秀になれたら」
その時教えてあげる。そんなことはありえないだろうが。そう言いたげに、滝沢は微笑んだ。
「ほー、パヴァーヌか」
寮のロビーにて、ノアは明日香の揺らすススキにつられて前足を動かした。その様子は完全にただの猫である。明日香は楽譜を開きながら言う。
「うん。二人ずつ弾いて、優劣をつけるんだって」
「お前の相手は?」
「まだわからない。あとでくじをひくんだって」
「しかし、相手が滝沢とかだったら最悪だな」
「どうして? たとえ滝沢くんが相手でも、私、負けないよ」
ノアがすすきを離して、青い瞳を丸くした。
「どーした明日香。滝沢教の信者は卒業したのか」
「そんなの入ってないよ……」
明日香がため息をついていたら、静乃がやってきた。
「あら、明日香ちゃん、ここにいたの。理事長がおよびよ。次回テストの組み合わせ、くじ引きするんですって」
「は、はい」
明日香はソファから立ち上がる。代わりに静乃がソファにかけ、ノアを抱き上げた。
「にしても酷よねえ、二人のどちらかは絶対落ちるんだもの」
「でも、今までも、ふるいにかけられてきたから」
「もう慣れちゃった?」
静乃の問いにあいまいに笑い、明日香はエントランスを出た。
十人の生徒たちは理事長室に集められていた。理事長は爪を磨きながら教師に目をやる。
「それでは、第四回試験の課題における、組み合わせを発表する」
教師はぴら、と紙を手にもち、口を開いた。
「まず一組目。水瀬、桐嶋(きりしま)」
「二組目、鹿島、酒井」
「三組目、滝沢、藤沢」
「四組目、冬芽、南雲夏美」
夏美が息をのんだ。冬芽は無表情で前を向いている。
「五組目、千秋、春川」
明日香ははっとして春川を見た。春川は頭をかいて、困ったように笑う。
解散を告げられてぞろぞろと生徒たちが出ていき、残ったのはノアに選ばれた四人だった。夏美は気まずい空気を払拭するように、笑顔で言う。
「冬芽ちゃん、びっくりしたね、でも、お互い頑張ろうね!」
冬芽は夏美に目を向け、温度のない声で言う。
「夏美、頑張ろうなんて軽々しく言うべきじゃないわ」
「え?」
「私たちは、いわば殺し合いをしなきゃならないんだから」
夏美は曖昧に笑った。
「そんな、大げさだよ、私たち友達じゃない」
「昨日の友は、今日の敵よ」
「そんな言葉ないよう……」
すたすた歩いていく冬芽を、夏美は悲しげに見ている。彼女の活発さを象徴するようなツインテールが、萎れるように垂れ下がっていた。
明日香は二人の様子を目で追った後、ちらりと春川を見る。春川は苦笑いを浮かべ、言った。
「ま、お手柔らかに頼むわ」
明日香はぎこちなくうなずいた。
明日香は練習室で、課題曲を弾いていた。手を止め、幾度目かわからないため息をつく。ノアがいらいらした様子で言う。
「おい、明日香。なんなんだよ溜息ばっかつきやがって、ロックじゃねーなおい」
明日香はちらっとノアを見た。
「ノアはいいよね……悩みがなさそうで」
「なんだと! 俺様を侮辱してんのか、あ!?」
ノアは明日香のふくらはぎをびしばしとたたく。
「してないよ……いてて、叩かないで」
明日香はノアの猫パンチをかわしながら、ピアノの鍵盤に触れた。亡き女王のためのパヴァーヌ。パヴァーヌというのは古典的な曲の形式のことだ。ラヴェルはあまり気に入っていなかったということだが、明日香は「パヴァーヌ」が好きだった。
主旋律は少し悲しげで、心に染み入るよう音色を奏でている。聞いている分にはそう複雑な印象を受けないが、弾いてみると高い難易度なのだ、と思う。
しかし、テスト用に選ぶには、評価を下しにくい曲なのでは、と思うのも確かだった。主旋律も曲の印象も最後まで大きく変わることはない。だからこそその中でどれだけの表現をなしうるか、ということが評価の対象なのだろうか。
演奏を遮るように、ノアが口を開く。
「おいおい、なんか眠くなる曲だなあおい」
「だって、こういう曲なんだよ」
「ちげえよ、お前の演奏がねむてーって言ってんだよ」
「そんなこと言われても」
ノアはしっぽを揺らしながら、
「お前の対戦相手は誰だ? 明日香」
「春川くん」
「ああ、あいつか……まさかそれで落ち込んでんのか? あ?」
「だって、春川君、せっかく復活したのに」
「おいおい、お前ずいぶん余裕があるなあ、明日香。お前が勝てるって保証あんのか」
「ない、けど」
だけど──今までだってなんとかなってきたんだし。
「お前自分が勝てるって思い込んでるだろ。そんなんじゃ負けるぜ」
「滝沢君みたいなこと言わないでよ」
「いいから練習しろ練習!」
びしびしとむちのようにしなるしっぽを見て、明日香はつぶやく。
「春川君はやっぱり猫耳をつけて演奏するかなあ」
「お前もつけるか? 明日香」
「うーん……」
明日香は春川の演奏を思い出していた。彼の強みはやはりあのスピードだ。しかし、『亡き女王のためのパヴァーヌ』は、スピードを上げて弾くような曲ではない。春川にとってはあまり得意な曲ではないのではないだろうか、と思うのだ。
「だいたい、なんで二人ずつ弾かせるんだろう」
誰と当たるかは運によるところだろうし、甲乙告げがたい場合だってあるはずだ。
「知らねーけど、教本通りに弾いても勝てねえってことじゃねえの」
ふたたびふくらはぎに猫パンチを食らわされ、明日香はダメージを回避するため練習を再開した。
練習室を出て、寮に戻るため外に出たら、ずいぶんと暗くなっていた。
「遅くなっちゃった……夕食に間に合うかなあ」
急いで寮に向かっていた明日香は、がさり、と鳴った茂みにびくりとする。
「な、なに?」
そっと茂みの向こうをのぞくと、桐嶋と藤沢がたばこを吸っているのが見えた。明日香はギョッとする。確か、たばこって退学処分じゃなかっただろうか。
「ったく最悪だよ。滝沢と当るなんて」
「ついてねーな。オツカレサマでしたー」
「まだ負けてねーだろ」
桐島が舌打ちする。藤沢は肩をすくめ、
「しかし奇跡でも起こらないかぎり勝てねえだろうよ」
「奇跡かあ……、いっそのこと、指でも折っちまうか?」
「そんなことした時点で失格だろ」
「だからあ、ばれねーよーにやんだよ」
明日香はどくどく鳴る心臓を抑えた。滝沢に教えないと。そっと後ずさると、その拍子に踏んだ枝がばきりと鳴る。
「!」
「誰だ!」
明日香は慌てて走り出した。リュックに入ったノアが息巻いている。
「なんで逃げるんだよ明日香! あんなやつらいてこましたれ!」
「無理だよ!」
意外にも桐嶋たちの足は遅く、明日香はなんとか寮に駆け込むことができた。ロビーで息をついていると、静乃がやってきて目を瞬く。
「あら、明日香ちゃん、どうしたの」
「た、たきざわ、くんは」
「部屋にいると思うけど? 一〇三号室」
明日香は急いで滝沢の部屋に向かった。どんどん、とノックをする。
「滝沢君!」
がちゃりとドアが開き、顔を出した滝沢が不審そうな顔をする。
「千秋さん?」
「た、大変なの、今、桐嶋くんたちが話してたんだけど、た、滝沢君の指を折るとかなんとか」
滝沢は明日香から、聞こえてきた足音のほうに視線を移す。桐嶋たちが走ってきた。
「千秋イ!」
「わっ」
明日香はびくりと身体を揺らす。
滝沢に気付いた桐嶋たちは、ぜいはあ言いながら笑顔を浮かべた。
「あ、おう、滝沢」
「千秋から変な話聞いたかもしれねーけど、ジョーダンだから!」
明日香は彼らの言葉を否定する。
「うそだ! 本気だった!」
「お前よけーなこと言ってんじゃねーよ!」
振り上げられた手を、滝沢がつかんだ。
「人の部屋の前で大声出さないでくれるかな。もう八時だよ」
滝沢が掴んだ腕が、ぎりぎりと音を立てる。桐嶋は顔を引きつらせた。
「わ、わかったから、離せよ」
滝沢は彼の腕を離し、明日香に目をやる。
「千秋さんも。ここ、女子は立ち入り禁止だろ」
「でも」
「そ、そうだそうだ。さ、俺たちも夕飯食いに行こうぜ」
「ああ、それから」
滝沢は桐嶋と藤沢を見て、にこりと笑った。
「知ってる? ねずみって、ああ見えてなかなかあごの力が強いんだ。人間の指くらいなら簡単に食いちぎることができるらしいよ」
「は?」
「俺、ねずみを飼ってるんだ。賢いねずみでね、俺の言ったことはなんでもかなえてくれる。朝起きて、指がない、なんてことになるかもしれないけど、そうなってもいいなら」
滝沢は笑顔を消し、自身の手を差し出した。
「折ったら?」
「え、遠慮する!」
藤沢と桐嶋はぶんぶん首を振って、そそくさと去っていった。明日香は二人をぽかんと見た。滝沢が何事もなかったかのように言う。
「千秋さんも早くいかないと夕飯なくなるよ」
「ねずみって、ウトのこと?」
「そうだけど」
「おう、ウトの野郎どこにいやがんだ」
ノアはリュックから飛び降り、滝沢の開けたドアの隙間から侵入しようとしている。
「あの、滝沢君、ノアの言ってること、わかるんじゃない?」
滝沢はイエスともノーと言わず、ノアを抱き上げた。ノアはしゃーっと鳴いたが、のどを撫でられてごろごろ鳴く。
「お、こいつ撫でるのうめーじゃねーか」
「の、ノア……」
「ペットは飼い主に似るっていうけど本当だな」
自分もあんなふうだったのだろうかと思って、明日香は赤くなる。
「ど、どういう意味?」
「ずかずか人の領域に入ってくるところがそっくりだね、って意味」
「た、滝沢君だって、ウトはなんか陰険な感じで滝沢君に似て」
「ん?」
「え」
「誰が陰険だって?」
「す、すいません、そんなつもりじゃ」
明日香は後ずさった。滝沢はノアを抱いたまま近づいてくる。
「大体、俺が怪我したほうが、ライバルが減ってうれしいんじゃないの?」
「そんなこと、思わないよ」
「どうかな」
「どうして、そんなこと言うの?」
「千秋さんこそ、いつまでそんなにのんきなの?」
「のんきなんかじゃないよ」
「じゃあ俺のことは放っておいて、どうやったら春川に勝てるか考えたら?」
滝沢は明日香にノアを押し付け、すたすた部屋に戻っていく。明日香はうつむいて、ノアをぎゅっと抱きしめた。
翌日、明日香は『亡き女王のためのパヴァーヌ』のCDを探しに視聴覚室に向かった。ブースに入り、CDを聞いていると、隣のブースからはあー、はあー、という深い嘆息が聞こえてきた。
ひょこりと顔をのぞかせると、夏美が浮かない顔でぼんやりと肘をついている。
「南雲さん?」
「あ、千秋さん」
夏美は明日香に顔を向け、またため息をついた。明日香はなんとなく謝る。
「えーっと、なんかごめん」
「ううん、千秋さんのせいじゃないの……冬芽ちゃんがね、口きいてくれなくて」
「対戦相手だから?」
「そうなの! なんか春川君と仲良しなの! 私一人ぼっちだよお……」
「春川君と?」
あの二人が仲良くしているというのも想像がつかないけど……。
「なんかね、互いに学ぶところがある、んだって」
「学ぶところ……」
明日香ははっとした。そうか。
「あの、南雲さん、南雲さんの演奏、聞かせてくれない?」
「わたし?」
夏美はきょとんとしている。
「うん、それでね、私、気が付いたことを言うから、南雲さんも言ってほしいの」
「批評しあう、ってこと? 面白そう!」
夏美は眼を輝かせた。明日香と夏美はさっそく練習室に向かう。その途中、春川と冬芽とすれ違った。
「と、冬芽ちゃん、やっほー」
夏美のあいさつにうなずきだけで返し、冬芽はすたすた歩いていく。夏美はうう、とうなだれている。
明日香がちらりと振り返ると、春川は肩をすくめて手を振った。
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