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第1章
1.
しおりを挟む「オイ、お前、今ぶつかったろ!」
「ひっ、すいません、すいません!」
この場所は、美しく整備された貴族街から程遠い貧民窟。
そこで大声を上げ、怒りに目を吊り上げているのは中年の男性だ。その衣服は高級で汚れもなく、恰幅の良さから裕福な人間だと一目でわかる。先程、通りすがりに肩がぶつかっただけの相手を射殺すばかりに睨みつけた。
反対にぶつかった相手は髪はボサボサで、目まで覆うほど伸びた前髪でこの男には彼の表情さえ見えないだろう。そして衣服も粗末でかなり汚れている。
「この浮浪者が! 服が汚れたらどうするんだ!」
躊躇いなくその大きな拳は粗末な姿をした彼へ向けられる。その瞬間、彼は出来る限り殴られる事に逆らう事はせず、顔だけ傾けた。
そうすると彼の狙い通りに男が頬を拳で殴りつける。
彼は殴り飛ばされたようにみせて後ろへ跳び、大袈裟に地面へ転がった。痛い事には変わらないがこうすれば痛みは我慢出来る程になるという事を知っていた。
後は追い打ちを警戒して頭を庇いながら地面で丸くなる。
「くそ、これだからこんな貧民窟なんざにきたくなかったんだ!」
しかし、恰幅の良い男性は地面へ転がった彼に追い打ちをかける事はなく、唾を吐き捨てて早足でその場から離れていった。
それを確認してからゆっくりと身体を起こす。地面に転がった為に服についた砂を叩き落とすのを忘れない。
そして、今回の戦利品をそっと服の袖から取り出した。
「……やったぜ」
粗末な姿の男──キーリは、にんまりと笑った。
掌にあるのは小振りの革袋。振ると、ジャラジャラと硬貨がぶつかり合う良い音がしていた。これの元の持ち主である恰幅の良い男性は、盗まれた事に気付いていないだろう。
しかし、この場に留まるのはあまりにも危険だ。
キーリは、それをしっかり隠して足早にその場から離れた。
キーリは天涯孤独の身だ。
物心がついた時には、母親は亡くなっていた。自分をずっと育ててくれたのは父親だ。
父親はキーリが尊敬する程に素晴らしい人だった。弱者を助けるのを当たり前とし、凛として力強かった。いつも、キーリには悪事に染まらず、正しく健やかに、真っ直ぐ生きて欲しいと願って育ててくれていた。
その父親もキーリが十歳の時に病で亡くなった。それは今から、十年も前になる。あの時、十歳のキーリ一人ではまともに生きていく事は出来なかった。
父親はキーリが独り立ち出来るようにお金を置いてくれていた。しかし、身内は父親しかいなかった十歳の子供は優しく近寄る他人を信用して、その全てを毟り取られた。
気付けば一文無しで、家もない。
──本当に馬鹿なガキだった。
そんな子供が生きていくには、貧民窟でこうして他人の金を盗むしかなかった。
こんな生き方が正しいなんてキーリ自身も思っていなかったが、生きる為に必死だった。そうして必死に生き抜いて二十歳だ。
自己嫌悪に浸りながらもキーリが細い路地裏を小走りで抜けていると、道の角から影が現れる。
「よお、しっかり盗れたか?」
「ぎ、ぎ、ギサットさん」
どもった声で目の前の男の名前を呼ぶ。その男の背丈は高く、広い肩幅に太い腕。誰が見てもひょろひょろのキーリなどでは敵わない相手だとわかる。
この男はギザット、この辺りの収集人だ。
貧民窟では組織が治める縄張りにて盗みを働く場合、それを見逃して貰う代わりにそこで得た金品の二割を渡す必要がある。
収集人とは、それらを見張り請求、時には強引に金を奪う者たちの事だ。
──どこで見ていたんだよ、筋肉野郎。
盗みを行うにも、タダでは出来ない。もちろん、収集人に見られていなければわざわざ払いにいく必要はない。
しかし、見られたならば必ず金を支払わなければならないのだ。何故ならここら一帯は、ギザットも一員であるトーマック一家が収めているからだ。
────トーマック一家。
この王都ムサルにて裏界隈を取りまとめる組織の一つ。人身売買から違法な薬、殺人、誘拐、金さえあればどんな事もやるといわれている。この貧民窟で生きていたいなら絶対に逆らってはいけない組織の一つだった。
キーリも馬鹿ではない。今回の盗みも収集人にバレないよう場所を選んだつもりだった。しかし、キーリよりもギザットの方が一枚上手だったのだろう。
ギザットはキーリに近付くと、掌を広げて差し出した。
「見事な盗みだ、んじゃ半分貰おうか」
「え? は、半分? ま、またですか?」
「いやあ、さっき酒に全部使っちまってなあ」
──これだ。本当なら二割でいいはずなのに……。
キーリは運が悪く、ギザットに目を付けられていた。キーリの盗みを見ると毎回半分以上の金品を奪っていく。機嫌が悪い時なんて全部を持っていかれる事もあった。
キーリは黙り込んで、手元にある革袋へ視線を落とす。
キーリが盗むのは裕福そうな人間からと決めている。これは盗みに手を出すと決意した時に自分に定めた約束だった。
だからこそ、貧民窟でその機会に恵まれるのは滅多にない。そのせいでキーリはここ二日、水と草しか食っていない有様だ。つまりこの金は命に関わるのだ。
──ここは断るべきだよな。
実際、二割払えばトーマック一家からの制裁はない。残りはギザットが勝手にしているだけなのだ。
ここは男らしく、嫌だと言うべきだと決意をする。キーリは息を大きく吸ってから、ギザットを睨みつける。しかし、その目に止まるのは太い腕と足。
キーリは暫くそれを黙って見詰めて、時間だけが流れる。
「……え、へへ。これで良いお酒、飲んでくださいね」
そしてキーリは、へらりと笑って革袋をギザットへと差し出した。頭を繰り返して下げて、男の矜持など、どこへいったのか。負け犬、弱虫、臆病者。
そんなキーリの性分はどうやっても変われなかったのだ。
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