炎の精霊王の愛に満ちて

陽花紫

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遭遇

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 季節は、急激に冷え込みを見せる秋であった。
 ミヤは、寒さに震えていた。風の中に混じる土と枯葉の匂いがどこか懐かしく、そして異様に遠いもののようであるかのように感じられた。
 ミヤは自分がどこにいるのかわからなかった。目が覚めた時には、辺りは森で、冷え切った空気のなかをただゆっくりと歩いていた。

 ――どうして、こんな場所に?

 その記憶はおぼろげで、つい先ほどまでいたはずの現代の街の灯りも、人の声も消えていた。
 見渡す限りの、木々と闇。
 時折、冷ややかな風が吹き抜ける。寒さが骨に沁みて、しばらく歩くと足先の感覚も薄れていった。

 そのとき、わずかに焦げたような匂いが鼻を掠めた。
 足元の落ち葉の隙間に、黒く焦げた円のようなものがある。
 焚き火の跡であった。
 「……誰か、いたのか?」
 その声に答えるものはなく、静寂が辺りを包み込むだけであった。
 しかし確かにこの場所は、この場に人がいたであろう痕跡を残していた。

 近くには、小枝や落ち葉が積まれていた。
 ミヤはそれを掴むと、指先で探るように火を起こそうと試みる。ポケットの奥から出てきたのは、古びたライターであった。
 その金属の表面には、いかがわしい店の名前のロゴが彫られていた。
 それはかつての恋人が使用していたものであり、ミヤの胸がわずかに痛む。

 ――まさか、彼が浮気をしていただなんて。

 机の上に置き去りにされたこのライターが、何よりの証拠でもあった。
 ミヤの恋人は、足蹴くその店に通っておりその店員と何度か密会を繰り返していた。
 ミヤは小さく笑いながら、ライターを擦る。青白い火花が散り、やがてひとつの小さな炎が浮かび上がる。
 炎を静かに枯葉に近づけ、何度か息を吹きかけるとたちまちに炎はゆっくりと広がり、焚き火の形を成していく。
 その光に照らされると、辺りの闇はわずかに後退した。
 炎に照らされたミヤの細い影が、地面を滑るように揺らめきはじめる。

 ――少し、あたたかい。

 そう思い、手をかざした時であった。
 焚き火が、音を立てて膨らんだのだ。その炎は渦を巻き、まるで息をするかのようにミヤの周りの空気を吸い込むかのように覆いつくす。
 目の前の世界が歪み、ミヤの周りを赤い光が取り囲む。

「……えっ?」
 次に目を開けた時、辺りは一面の火の海となっていた。
「火事?」
 慌てて避けようとするものの、不思議とその炎の熱を感じなかった。
 炎はまるで生きているかのように蠢き、ミヤの身を優しく包み込む。ミヤは、恐る恐る指を伸ばした。
その炎に触れても、痛みは感じない。そして、胸の鼓動の音だけがやけに速く耳の奥で響くのを感じていた。
「これは、いったい……」
 ミヤは一面の炎を、呆然と眺めていた。
 しばらくすると、その中心にひとりの男の影が現れる。

 炎よりも紅い色をした腰元まで伸びる長い髪が、風のようにうねりを帯びていた。
 その身には黒いローブのようなものをまとい、口角の下がった口元は固く閉ざされていた。その上に輝く金の瞳は、まっすぐにミヤを見つめていた。

「……我を呼び出したのは、貴様か」
 低く響く声色は、ミヤの胸の奥を貫いた。
 その声が世界に触れた瞬間、周りを取り囲む炎が静まった。
 その人間離れした佇まいに、思わずミヤは息を呑む。
 理解できない状況のなかで、しかし不思議と恐れなどはなかった。
「たぶん……。そう、かもしれません」
 男は、ゆっくりと瞬きをした。
 その眼差しは古の神話から抜け出したように深く、美しいほどに澄んでいた。
「封印を解かれたのは、久方ぶりだ。……貴様、人間だな?」
「人間、です」
「名は?」
「ミヤ」
「よかろう。ミヤ、我を呼び覚ました礼として、貴様の願いをひとつ叶えてやろう」

 ミヤは、言葉を失った。
 まるでお伽話のような出来事であると、思わず渇いた笑みが出てしまう。
「貴様の願いは、なんだ」
 男はゆっくりと、しかし確かな声でミヤに問う。
 ミヤは静かに考える。願い――。
 そのようなものは、ミヤの頭の中にすぐには浮かばなかった。
「……願い、か」
「そうだ。どのような望みでも構わぬ」
 ミヤはうつむき、考える。
 しかし、何も思い浮かぶことはなかった。
 恋人に裏切られ傷つきすべてを失ったミヤは、何を望めばいいのか、全くもってわからなかったのだ。

 幸か不幸か、ミヤは無欲な男でもあった。
 恋人が存在していた時も、その想いに押し切られ流されるがままに付き合っていた。ようやくその愛を知った時には、捨てられていた。ミヤは恋人を問いただすこともなく、その影を追うこともなく静かに身を引いた。

 悩みに悩んだ末、ミヤが出した声はとても小さなものであった。
「その、特に、……ないかと」
 男は、わずかに眉をひそめた。
「何も、望まぬと?欲がない人間ほど、つまらぬものはない」
 呆れたようなその言葉に、思わずミヤは笑ってしまう。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」

 男はしばし黙り込み、その後ゆっくりと指先を宙に向けた。
「ならば、我が与えてやろう。“欲望”、というものを」
 赤き炎がその動きに合わせて、ミヤの周囲を漂う。
 柔らかく、しかし確かに心の奥を撫でるような熱。

 ミヤの胸の内側が、あるひとつの衝動に満たされていく。
 まるで、心臓が炎に包まれているかのような感覚。そこに形を持たない何か、強い渇きのようなものが芽吹いていく。
「これで、願いを口にすることができるであろう」
 と不敵に笑う男に向けて、ミヤはその熱のままに、男に向かって一歩近づいた。
 考えるより早く、言葉はこぼれ落ちる。
 「俺を、愛して」
 ミヤは男の頬を両手で包み、その形のいい唇に向けて自らの唇を押しあてた。

 辺りで、炎がぱちぱちと音をたてて弾け飛ぶ。
 それはミヤの心の内から湧き出た切実な祈りのようでもあり、それと同時に呪いのようでもあった。

 男は驚いたように目を見開いたものの、ゆっくりとした動きでミヤに向けて微笑んだ。
「……よかろう、面白いではないか」
 ミヤのたったひとつの願いが、叶えられようとしていた。
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