ある日、私は猫になった

sana

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二匹目

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ーーーーーなんだか騒がしい音がする。
これは着信音…?電話をかけてくるのは職場の人か母親くらいしかいない。誰だろう…?
寝惚けたまま、携帯の画面に触れて電話に出る。
「にゃー(もしもし)?」
………声に出して気づいたが、そういえば猫になっていたのだった。
この状態で話すと『猫語』しか話せないのか。少し考えれば、猫が人の言葉を話すなど構造上無理なことだと分かるのだが、なぜ私は一切疑問に思わなかったのか。
「……もしもし?」
携帯から懐かしい声が聞こえる。
この声…間違いなく彼だ。着信履歴を見て律儀に掛け直してくれたのか。別れた時のことを考えると気まずいし、眠る前の己の行動を後悔したが、折り返し電話をかけてきてくれた気持ちを無下にすることはとても失礼だと思う。
彼の事となると、行動と思考が矛盾する。なんだかんだ理由をつけて自分を正当化するが、本心ではとても嬉しいのだ。この気持ちも行動も、他の人からすると都合が良すぎると思われることは分かっているが、まだ好きな気持ちもあるし、彼に関わっていたいと思っている。もちろん彼が独り身であればだが。
電話をかけてきてくれたこの当時と変わらぬ優しさに、また彼を頼りたいと思ってしまう。正直に言ってしまえば、いまの私が関わっているのは職場の人間だけ、友達はみな疎遠になっていて、母親にも心配かけまいと強くみせて…。本当は、素の自分を誰にも見せられない毎日のなかで、ひとりでいることがもう寂しくてたまらないのだ。
だが、今の私は猫。電話では鳴くことしかできない。ただ、これで良かったのかもしれない。当時の事を謝罪したいとか、聞きたい事も話したい事もたくさんあるし、この状況を助けてほしいと素直に伝えることは彼を都合よく頼っていることになるし、一方的すぎるそれは自己中心的でとても烏滸がましいこと。しかも、そんな事を話して拒絶されたらと思うと、立ち直れない気がする。
せめて懐かしい彼の声をもう少し聞いていたいと思い、何度か鳴いてみる。
私の願いは虚しく、そのあと彼は一言も発さずに通話が切れた。
それはそうだ。関係が終わった人から数年ぶりに電話がかかってきて、何事かとかけ直してみたら猫の鳴き声しか聞こえないのだから、悪戯電話だと思われても当然のこと。
ただ、彼が電話をかけてきてくれたというその事実は、まだ彼を想い続けている私にとってとても嬉しいことだった。
彼は、嫌いになった人には徹底的に距離をとる。しかし、一切の連絡を拒み関わりをなくすソレをされず、折り返し電話をかけてきてくれたということは、少なくとも彼の定義での「嫌い」には該当していないのだろう。それだけで私は充分だ。
 
さて、もうひとつ今の状態で分かったことがある。『猫語』しか話せないという事だ。これではそもそも助けを呼ぶことすらできない。アニメや漫画のように猫が人の言語を話すこと、あるいは人間が『猫語』を理解することができればこの現状を変えることができるだろうが、そんな都合の良いことは起こらない。
猫の状態では扉も開けて外に出る事もできず、『猫語』しか話せず、できることは水を飲むことだけだ。これでは死ぬのも時間の問題だ。
望みがあるとするならば、職場の人間が無断欠勤になっている私の自宅に様子を見に来る可能性がある。それまで水だけで生きていることができたならば助かるかもしれない。
生命の危機ではあるが、突然猫になったという驚きに比べると、今はそこまで危機感はない。とにかく無駄な体力を使わず、静かに生活していればなんとかなるだろう。
やる事も特にないので、私は再び目を閉じた。
 
陽が傾いてきた頃、目を覚ます。寝ていたせいで身体が固まっているようだ。大きく欠伸をして、猫らしく伸びをする。身体中がしっかり伸びている感じがたまらなく気持ち良く感じる。…いや、人間でいた時も伸ばせばそれなりに気持ち良かったが。
朝からこの姿になって、何も食べていない。なんなら昨日は夜中まで残業もしていたので、人間の姿でも晩御飯を食べていない。さすがに空腹を感じるし、水ではなく固形物が食べたい。
だが、仮にここに虫が出現したとしても、それは絶対に食べたくないし、ネズミを追いかけるのが猫…というイメージはあるが、なまじ人間の知識があるせいか、奴らは雑菌の塊という認識があるので出たとしても食べはしないどころか触れたくもない。……そもそもそんなモノが出るほど部屋は汚くないので心配する必要などないが。
とにかく今は水を飲むことでしか空腹感を誤魔化せないので、また少し水を飲む。
 
ここでもうひとつ肝心な事が頭をよぎる。空腹感を誤魔化すために水を飲んでいるが、……トイレに行きたくなったらどうするべきか。猫用トイレがあればもちろんそこで用を足せる。しかし私の部屋に猫用トイレはもちろんない。非常時だからと人間用のトイレを使おうにも、ドアノブが丸いのでそもそも開けられない。助けが来る来ないに関わらず、この件については考えておく必要がありそうだ。
ヒトとしての尊厳を守るために良い方法を思いつくまで我慢をするか、『自分は猫だから』と割り切って粗相をするか。できれば最悪の事態を迎える前に、良案を絞り出したいところである。
しかし、これといって特になにも思い付かないまま時間は過ぎていった。
 
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