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7月と白い林檎
7月と白い林檎 1
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わたしはアトリエ内を見回す。隅にはイーゼルが、粘土層の横には塑像台が置かれ、いつでも使用できるようになっている。
なんだかこの光景を眺めるのも久しぶりのような気がする。ここ最近は、ばたばたしていて来られなかったし、先週はクルトたちのことが気になって上の空だったから。
一通りあたりを見回した後、気になる事があった。それを確かめるようにちらりとこのアトリエの持ち主である画家に目を向ける。
ヴェルナーさん、なんだか少し痩せた? 気のせいかな……?
いまいち確信できないまま、わたしは荷物を取り出す。
「ヴェルナーさん」
呼ぶと彼の目がこちらを向いた。わたしは両手に持っていたものを差し出す。
「ちょっと遅くなっちゃいましたけど、これ、精花節の贈り物です。よかったら、受け取って貰えませんか?」
「これは……?」
「ひざ掛けです。前に一緒に毛糸のモチーフを作ったでしょう? あれをたくさん作って繋げてみました。あ、ボタンもついてるので肩掛けにもなりますよ」
本当はクルトとお揃いのクッションカバーにしようかとも考えたのだが、それは以前にヴェルナーさんが余ったモチーフで作るだとか言っていた事を思い出したので、彼にはひざ掛けにしたのだ。
受け取ったヴェルナーさんは、何故だか戸惑った様子だ。
「……困ったな」
「はい?」
もしかして、迷惑だったかな。人への贈り物ながらこんな事を言うのもなんだが、ちょっと不格好だし……そんなものを押し付けられて困惑しているのかも。
などと一瞬焦ったが、ヴェルナーさんは微かに眉を下げ
「俺から君に贈れるようなものがないんだ」
なんだ。そんな事。
「気にしないでください。これは日頃絵を教えて貰ってるお礼のつもりですから。受け取って頂けるだけで嬉しいです。使ってくれればもっと嬉しいですけど」
ヴェルナーさんは少しの間考えているようだったが
「……そういう事なら、受け取らせて貰おう。ありがとう。いつか俺からも君に何か贈れたら良いんだが」
そう言って微かに口角を上げたのを見て、わたしは胸を撫でおろした。
ちょっとしたやり取りの後で、早速今日も絵を描く準備をする。
先週は身が入らなくて散々な出来だったけれど、今日こそはリンゴの角を見極めてみせる。そう決意しながら木炭の先をナイフで削って尖らせる。
デッサンを始めてしばらくすると、なんだか気分が乗ってきた。木炭を紙に走らせながら、ついこの間のダンスのメロディをハミングしてしまう。
その時、軽い咳払いが聞こえて、わたしは我に返る。
まずい、真面目に取り組んでいないと思われたかな。
「す、すみません。これはその、最近ウインナ・ワルツを踊る機会があって、その影響で無意識に、つい……」
「……君が? ダンスを?」
ヴェルナーさんは微かに驚いたようだ。何故だ……
「なんですかその反応……あ、もしかして信じてませんね? 良いでしょう。今から踊ってみせますから、わたしの華麗なステップをしっかりその目に焼き付けてください」
わたしは椅子から立ち上がると、己の言葉を証明するかのようにひとりウインナ・ワルツの構えをとる。
ええと、たしか、最初は後ろに一歩下がって……って、あれ?
そのあとのステップをど忘れしてしまったのか、足の動きが心もとない。少し踊ったところで立ち止まってしまった。
「お、おかしいな。この間までちゃんと踊れたはずなんですけど……あ、そうだ、もしかしてパートナーがいないせいかもしれません。あーあ、パートナーさえいれば、わたしの完璧なウインナ・ワルツが披露できたはずなのに。いやー、残念だなー」
「それなら――」
ヴェルナーさんが立ち上がり、こちらに近づいてきたかと思うと、
「俺が相手をしよう。それなら踊れるだろう?」
おもむろにわたしの手を取った。
突然の出来事にあっけにとられていたが、
「歌ってくれないのか? さっきみたいに」
まるで歌うことが当然だとでもいうような彼の声につられて、思わずあのメロディーを口ずさむ。
ヴェルナーさんにリードされ、先ほどの困惑が嘘だったかのように、足が自然と動きだす。不調の原因は、やっぱりパートナーの有無だったんだろうか。
けれど、それとは別にわたしは戸惑いを覚えていた。まさか、こんなふうに再びウインナ・ワルツを踊ることになるなんて。それもこの人相手に。
わたしの手をとる彼の指は、すらりと長くてなめらかで、そして少し冷たかった。この手で今まで何枚もの絵を描いてきたんだろうか。
ふと顔を上げると、彼の金色の瞳がこちらを見ていた。きれいな瞳だ。そこには初めて彼に会ったときに見られた無機質さはなく、どことなく柔らかな雰囲気を感じさせた。
けれど、この人に見つめられるとなんだか落ち着かない。
確かに以前は、ほとんど表情の変わらない彼が怒っているようにも見えて、少し怖いと思ったこともある。結局それはわたしの思い違いであったし、今では時々笑ってくれることだってあるというのに。それなのに何故か今は居心地が悪い。けれど、その反面、不思議な高揚感も感じていた。
こうしてヴェルナーさんと踊る事でわたしの中の何かが満たされていくような、その反面、まだ何かが足りないという相反する感覚に陥っていった。
なんとなくそわそわして視線を下げたわたしは「あれ?」と思った。彼の顎の下あたりにうっすらと赤い線のようなものが見えたのだ。
なんだろう。
目を凝らそうとしたその時、ヴェルナーさんの背後に木製の棚が迫っているのに気づいた。
「あ、あぶない……!」
慌てて足を止めて手を引っ張ると、間一髪、彼が棚に衝突することは避けられた。
それを見てほっと胸をなでおろす。
ヴェルナーさんは背後にちらりと目を向けた後、軽く溜息を漏らした。
「さすがにこんな狭い場所で踊るのは無理があったな。考えもなしに軽率なことをしてすまない」
「いえ、そんな……それよりぶつからなくて良かったです。特にこの棚には」
念のため棚の中を覗き込む。そこには鳥が蹲ったような形の石膏のオブジェが置かれている。エミールさんが作ったものにヴェルナーさんが着彩した、あのオブジェだ。ぶつかっていたら衝撃で床に落ちていたかもしれない。そう考えると寸前で回避できた事は幸いだったと言えよう。
それにしても、ヴェルナーさんてウインナ・ワルツ上手なんだな。ちょっと意外……
――でも、どこで覚えて、誰と踊ったんだろう。
密かにヴェルナーさんの表情を伺うが、彼はその視線には気づいてはいないようだった。
なんだかこの光景を眺めるのも久しぶりのような気がする。ここ最近は、ばたばたしていて来られなかったし、先週はクルトたちのことが気になって上の空だったから。
一通りあたりを見回した後、気になる事があった。それを確かめるようにちらりとこのアトリエの持ち主である画家に目を向ける。
ヴェルナーさん、なんだか少し痩せた? 気のせいかな……?
いまいち確信できないまま、わたしは荷物を取り出す。
「ヴェルナーさん」
呼ぶと彼の目がこちらを向いた。わたしは両手に持っていたものを差し出す。
「ちょっと遅くなっちゃいましたけど、これ、精花節の贈り物です。よかったら、受け取って貰えませんか?」
「これは……?」
「ひざ掛けです。前に一緒に毛糸のモチーフを作ったでしょう? あれをたくさん作って繋げてみました。あ、ボタンもついてるので肩掛けにもなりますよ」
本当はクルトとお揃いのクッションカバーにしようかとも考えたのだが、それは以前にヴェルナーさんが余ったモチーフで作るだとか言っていた事を思い出したので、彼にはひざ掛けにしたのだ。
受け取ったヴェルナーさんは、何故だか戸惑った様子だ。
「……困ったな」
「はい?」
もしかして、迷惑だったかな。人への贈り物ながらこんな事を言うのもなんだが、ちょっと不格好だし……そんなものを押し付けられて困惑しているのかも。
などと一瞬焦ったが、ヴェルナーさんは微かに眉を下げ
「俺から君に贈れるようなものがないんだ」
なんだ。そんな事。
「気にしないでください。これは日頃絵を教えて貰ってるお礼のつもりですから。受け取って頂けるだけで嬉しいです。使ってくれればもっと嬉しいですけど」
ヴェルナーさんは少しの間考えているようだったが
「……そういう事なら、受け取らせて貰おう。ありがとう。いつか俺からも君に何か贈れたら良いんだが」
そう言って微かに口角を上げたのを見て、わたしは胸を撫でおろした。
ちょっとしたやり取りの後で、早速今日も絵を描く準備をする。
先週は身が入らなくて散々な出来だったけれど、今日こそはリンゴの角を見極めてみせる。そう決意しながら木炭の先をナイフで削って尖らせる。
デッサンを始めてしばらくすると、なんだか気分が乗ってきた。木炭を紙に走らせながら、ついこの間のダンスのメロディをハミングしてしまう。
その時、軽い咳払いが聞こえて、わたしは我に返る。
まずい、真面目に取り組んでいないと思われたかな。
「す、すみません。これはその、最近ウインナ・ワルツを踊る機会があって、その影響で無意識に、つい……」
「……君が? ダンスを?」
ヴェルナーさんは微かに驚いたようだ。何故だ……
「なんですかその反応……あ、もしかして信じてませんね? 良いでしょう。今から踊ってみせますから、わたしの華麗なステップをしっかりその目に焼き付けてください」
わたしは椅子から立ち上がると、己の言葉を証明するかのようにひとりウインナ・ワルツの構えをとる。
ええと、たしか、最初は後ろに一歩下がって……って、あれ?
そのあとのステップをど忘れしてしまったのか、足の動きが心もとない。少し踊ったところで立ち止まってしまった。
「お、おかしいな。この間までちゃんと踊れたはずなんですけど……あ、そうだ、もしかしてパートナーがいないせいかもしれません。あーあ、パートナーさえいれば、わたしの完璧なウインナ・ワルツが披露できたはずなのに。いやー、残念だなー」
「それなら――」
ヴェルナーさんが立ち上がり、こちらに近づいてきたかと思うと、
「俺が相手をしよう。それなら踊れるだろう?」
おもむろにわたしの手を取った。
突然の出来事にあっけにとられていたが、
「歌ってくれないのか? さっきみたいに」
まるで歌うことが当然だとでもいうような彼の声につられて、思わずあのメロディーを口ずさむ。
ヴェルナーさんにリードされ、先ほどの困惑が嘘だったかのように、足が自然と動きだす。不調の原因は、やっぱりパートナーの有無だったんだろうか。
けれど、それとは別にわたしは戸惑いを覚えていた。まさか、こんなふうに再びウインナ・ワルツを踊ることになるなんて。それもこの人相手に。
わたしの手をとる彼の指は、すらりと長くてなめらかで、そして少し冷たかった。この手で今まで何枚もの絵を描いてきたんだろうか。
ふと顔を上げると、彼の金色の瞳がこちらを見ていた。きれいな瞳だ。そこには初めて彼に会ったときに見られた無機質さはなく、どことなく柔らかな雰囲気を感じさせた。
けれど、この人に見つめられるとなんだか落ち着かない。
確かに以前は、ほとんど表情の変わらない彼が怒っているようにも見えて、少し怖いと思ったこともある。結局それはわたしの思い違いであったし、今では時々笑ってくれることだってあるというのに。それなのに何故か今は居心地が悪い。けれど、その反面、不思議な高揚感も感じていた。
こうしてヴェルナーさんと踊る事でわたしの中の何かが満たされていくような、その反面、まだ何かが足りないという相反する感覚に陥っていった。
なんとなくそわそわして視線を下げたわたしは「あれ?」と思った。彼の顎の下あたりにうっすらと赤い線のようなものが見えたのだ。
なんだろう。
目を凝らそうとしたその時、ヴェルナーさんの背後に木製の棚が迫っているのに気づいた。
「あ、あぶない……!」
慌てて足を止めて手を引っ張ると、間一髪、彼が棚に衝突することは避けられた。
それを見てほっと胸をなでおろす。
ヴェルナーさんは背後にちらりと目を向けた後、軽く溜息を漏らした。
「さすがにこんな狭い場所で踊るのは無理があったな。考えもなしに軽率なことをしてすまない」
「いえ、そんな……それよりぶつからなくて良かったです。特にこの棚には」
念のため棚の中を覗き込む。そこには鳥が蹲ったような形の石膏のオブジェが置かれている。エミールさんが作ったものにヴェルナーさんが着彩した、あのオブジェだ。ぶつかっていたら衝撃で床に落ちていたかもしれない。そう考えると寸前で回避できた事は幸いだったと言えよう。
それにしても、ヴェルナーさんてウインナ・ワルツ上手なんだな。ちょっと意外……
――でも、どこで覚えて、誰と踊ったんだろう。
密かにヴェルナーさんの表情を伺うが、彼はその視線には気づいてはいないようだった。
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