ナーサリーライムの目覚め

凪沙帳

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2章 硝子は痛みを透過しない――居初宮乃の物語

3話 選ばれる姉、選ばれない妹

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 それから順番にお風呂に入った。私がタオルで髪を拭きながら居室に戻ると、彼女はソファーに腰掛けている。ドライヤーを持ったまま固まっていた。
「どうしたの?」
「……正直やっぱり帰るのは怖いです」
「そうだね。分かるよ」

 帰っても環境が変わるわけではないのだ、気が重いに決まっている。彼女が出した”距離を取るしか方法がない”という結論は別に間違っていたわけではない。私も身をもって感じたことだ。何か行動を起こすにはどうしても先立つものが必要というだけで。その資金を用意するための時間が地獄であることに変わりはない。

「私は役割としてそこにいることを許されているだけで、いてもいてなくても同じなんです。またあそこに戻ると思うとしんどくて」
 自嘲気味に彼女は言う。その諦めた表情を見ているとこみ上げてくるものがあった。

「そんなことない」
 あまりにも反射的に言ってしまって自分でも驚く。二の句を継ごうとして、うまく言葉が出てこない。何を根拠に? そんなものはない。彼女と自分を重ねて、そう思ってしまうことを否定したいだけだった。

 彼女に必要なものはなんだろうか? 未来に対する希望か? 失敗しても生きていけるという安心感か。私に何か出来ることはあるだろうか。きっとそんなものはない。彼女と自分を重ねたところで、解決策は各々自分が納得出来るものを選択していくしかないのだ。

 そんな中でもし私に出来ることがあるとすればそれは、自分の弱味を勇気を出して晒してくれた彼女に、私の弱味も打ち明けることではないだろうか。私もそれなりに傷を負って、ほうほうのていで生きている弱い人間だと。あなたに寄り添うことが出来る人間だと、示すことしかないのではないか。

 そこまで考えて、これはおためごかしに過ぎないのかもしれないなと嘆息する。職場のこと、家族のこと、そして差し迫る結婚のこと。その不安を誰かに聞いて欲しいだけなのかもしれなかった。酔いが回っているのだ。そうじゃなかったらこんな身の上話、未成年にするわけがないのだから。



 私は片田舎のそこそこ裕福な家に生まれた。姉が一人いて私は末っ子だった。小さい頃、私と姉は仲が良い姉妹だった。珍しいことだが、四月生まれの姉と同じ年度の三月に生まれた私は学年が同じだった。

 私は常に姉と比較されて生きて来た。歳も顔も近ければ当然なのかもしれない。姉の真理は他人を惹きつけずにはいられない人間だった。自信に満ち溢れているけど、嫌味じゃない。勉強も運動も人並以上にこなすけれど、いじめを先導するようなタイプでもない。

 分け隔てなく人と接する、公平の概念を具体化したかのような人だった。幼いころはどこでも姉について回って、姉の真似ばかりをしていた。小学校低学年までは交換日記もしていた。
 だけど、何をやっても姉に勝てず、褒められない私は、そのうち何にでも優劣を付けるようになった。テストの点数がたまたま数点高かったり、姉が育てたトマトより私のトマトの方が美味しいと言われた時とか、小さな勝利に喜びを噛み締めていた。

 だけど姉は、私を無邪気に褒めるものだから、すぐに歓喜はしぼんでしまう。少しでも悔しそうな顔をしてくれたら、どれだけ報われたか分からないのに、そんなところまで姉は完璧だった。そうやって私はどんどんコンプレックスを拗らせていった。

 決め手は多分、私が好きになる人はみんな真理に夢中だったからだろう。それでも彼女は誰とも付き合わなかった。真理は誰からも選ばれるし、選べる人間だった。その事実に嫌気がさして、彼女が疎ましくてしかたがなかった。

 元から似たような目鼻立ちでも、境遇や習慣が違えば全然違う顔になる。姉は爽やかに、私は陰鬱に。性格も同様に、姉はおおらかに、私は神経質に。いつの間にか私たちが似ていると言われることはなくなった。
 何一つ、姉には敵わない。二人並んでいたなら、他人は必ず姉に声を掛ける。私は誰にも選ばれない。いつしか無意識のうちにそんな考え方が形成されていった。
 
 姉は地元の教育大学に、私は遠方の学費の安い国公立に進学を決めた。両親は最初、私の進学に反対だったけれど、直前になって真理が進学したいと言い出したことで風向きが変わった。二人とも成績は良かったし、結局両親は姉には甘いのだ。そこに対する苛立ちはあったものの、自分にとっても都合が良かったので黙っていた。
引っ越し前日の夜、自室で持っていく荷物の最終チェックをしていると控えめなノックの音がした。

「なに」
 素っ気なく応対すると、意外な声が返って来る。
「宮乃、ちょっといい?」
 真理が私の部屋を訪れることなんてほとんどなかったから驚く。正直煩わしいとは思ったけれど、その日の私は機嫌が良かった。何といっても、ようやく姉と離れることが出来るのだ。ちょうど聞きたいこともあった。

「いいよ」
 短くそう返すと真理は申し訳なさそうな顔をして入って来た。
「遅くにごめんね。しばらく会えないから喋りたくて」
「そう」
 今更何を話すというのだろう。真理とはしばらく必要最低限のことしか喋っていない。分かりやすく険悪に接していたわけではないけれど、引っ越し前夜に別れを惜しむような間柄ではない。

「今日、誕生日でしょう。これあげる」
「え?」
 その時確かに今日が自分の誕生日であったことを思い出す。うちでは誕生日を祝う習慣がなく、自分でも忘れることがしばしばあった。差し出されたのはマホガニーのケース。長さ二十センチほどの直方体だった。
「なに、これ?」
 驚愕で受け取ることも出来ず、やっとのことでそれだけ返した私に、真理は慈愛のこもった微笑みを浮かべる。

「ガラスペン。ママに欲しいって言って断られてたでしょ」
 私の手にそれを握らせると、開けてみてと真理は言った。
 ほとんど呆然自失で言われるままに優しい木の肌触りのケースを開ける。そこには私が一番好きなブランドの限定モデルのガラスペンが収められていた。「淡藤」と名付けられたそれは、透き通った淡い青紫色で、持ち手の所には鍾乳洞の水たまりのような波紋が象られている。

「……どうやって買ったの?」
 私はお礼を伝えるのも忘れていた。
「普通に百貨店で」
「そうじゃなくて。お金、どうやって用意したの?」

 うちはお年玉やお小遣いは全て貯金するように厳命されるので、お金が必要な時は母親に申請しなければならない。要所要所で真理に甘い両親とはいえ、あからさまなえこひいきはしないはずだった。
「あぁ、お昼ご飯代をね。どうしても餞別を上げたかったから」
 真理は気まずそうに笑うと頬を掻く。

「……頼んでない」
 ぽつりと零した言葉は、誕生日プレゼントを受け取る人間として、あまりにも不適切な言葉だった。別にこんなところで事を荒立てたくはなかったが、日々積み重なって来た苛立ちが我知らずに漏れ出てしまったのだ。

「うん。私があげたかっただけだから」
 しかしショックを受けた様子でもなく真理はあっけらかんとそう言う。彼女はいつでもそうだ。こっちの気持ちも知らないで、いつだって一方的な善意を押し付けて来る。そのくせなにも見返りを求めないから、彼女の近くにいるだけで自分の矮小さを思い知る羽目になる。敗北感が胸中を支配する。

「……前から聞きたかったんだけどさ」
 怒気を含んだその声に姉は少しも怯んだ様子がなかった。
「なに?」
「どうして、大学行きたいなんて言ったの? 教師になりたいなんて本心じゃないんでしょ」

 ずっと燻っていた疑問だった。それまで就職組だった彼女が、急に夏前になって進路を変えたのか。
「うーん、嘘でもないんだけどな。子供好きだし、人に勉強教えるのも得意だから」
「真理に何かになりたいっていう強い気持ちがあるとは思えない」

 なんでもそつなくこなす姉は、笑顔の裏でいつでも退屈そうだった。全部どうでもいいような、出来るから何でもやっているだけみたいな倦怠を感じた。真理には強い欲求も意欲もあるはずがない。もっとも近くで見ていたから気付いただけで、真理はそれを巧妙に隠しているけれど。

「酷くない?」
 そう言いながらも真理は穏やかな表情を崩さない。
「答えてよ。じゃないとこれ、受け取らない」
 ケースを姉に差し出すと、渋々といった様子で彼女は答えた。

「……だって、私が進学したいって言わないと、宮乃の進学だって許されないでしょ? だったらまぁ大学行くのも悪くないかなって思っただけだよ」
 頭に一気に血が昇った。心の奥底にある堰が切れて、思うままの感情を彼女に叩き付けた。

「そんなことだろうと思った! 私は、お前のそういう所が、本当に、大っ嫌いなんだ!」
 だからお前は愛される。だからお前は求められる。だからお前は選ばれる。
 語気を荒げた私に、真理は嘆息する。なんでこうなっちゃうのかな。そう呟いて、目を伏せた。

「ごめんね。でも答えたんだからそれちゃんと使ってよね。じゃ元気で。夏休みとか正月は戻っておいでよ」
 言いたい事だけ言って、姉はさっさと退散していった。やり場のない感情を抱えた私だけを残して。

 翌日真理は見送りに出てこなかった。
 ガラスペンは新居のテーブルの引き出しの奥の方に仕舞い込んだ。もう二度と会いたくない。怒りに蓋をするように、引き出しを閉めた。

 塾講師のアルバイトをこなしながら、学業に打ち込み、日々忙殺されながらも私は自由を謳歌していた。真理から離れることで、ようやく私は心の底から寛ぐことが出来た。やさぐれていた性格も段々と丸みを帯びて、随分温和になったと自分でも思う。だから私は環境が性格を作るという言葉に、ほとんど確信を持っている。

 そのまま地元に帰ることなく今の職場に就職し、もう真理と関わらなくてもいいことに安堵を覚えた。
……それでも、別に真理の死を望んでいたわけじゃなかった。就職して三年目、訃報は突然に届いた。
真理と婚約をしていた男性が交通事故に遭い、植物状態になってしまったというのだ。真理は日に日に憔悴していき、最後には自分で命を絶ったのだという。後から全ての事実を知った私は通夜で母親に詰めよった。

「あなたたちは連絡を取っているのだと思っていた。真理は宮乃のことばかり話すから」
 そんな話は知らない。私は家を出てから家族の誰ともほとんど連絡を取らなかったのに。
「宮乃には心配をかけたくなかったのね」

 血が凍っていくのが分かる。つまらない意地を張らなければ、真理を支えられたのかもしれない。いや、そんなことを私は考えていない。姉はいつだって私を脅かし、苛む存在だったじゃないか。頭の中がぐちゃぐちゃで、その後の会話を少しも思い出せない。
 
 それからしばらくして、姉の婚約者が意識を取り戻したという話を聞いた。記憶が錯乱しているらしく、婚約者のことは覚えていても、それが真理だという事は思い出せないらしい。その境遇は不憫だと思うが、関係のないことだった。私はますます仕事に打ち込んだ。いや、逃避したのだ。
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