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第一章 曇った向上心
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しおりを挟む麗奈が休みの日は気持ちが軽くなる。舞香はムーンフラワーの香りに包まれながら、クロークに向かう廊下を歩いていた。
ピンクのボトルの香水は、今日は不自然に強い香りを放つことはなかった。
舞香は働き始めたときに安曇に言われた言葉を思い出していた。
ー仕事ができなくてもみんなに可愛がられるようになりなさい。
言葉に安曇のからかいを含んだ笑顔が重なる。
クロークは、同僚も上司も女性で、「女の園」とも呼ばれている厳しい女社会なのだ。不公平さと嫉妬が渦巻いている場所でもある。
(まあ私は仕事もできないし、可愛がられてもいないけどね)
舞香の心の中の淡い影が黒いもやとなり、徐々にそれが茉紀を象っていった。
舞香は、はたと立ち止まった。
(私が失敗するときを知らせるように、不快に甘すぎる香りが発生した、ということは……、じゃあ茉紀の昇格は何なんだろう……)
舞香自身の靴音だけが単調に響く。
(失敗を知らせるだけじゃない……失敗の前兆だけじゃないとして……何なんだろう、よく分からないけど……)
思考の渦に呑み込まれそうになったまさにそのとき、「宴会クローク」と表示された扉が目の前に現れた。
扉を開けたら気持ちを仕事モードに切り替えるべきなのに、今度は舞香は昨日のことをくよくよと考え始めた。
(別に……私はインチャージになりたかったわけじゃないし……私には資質みたいなものなんて全くないし……)
舞香は自分に言い訳するかのように心の中でひとりごとを言っていると、茉紀が絨毯を歩いているのがカウンターの向こうに見えた。
茉紀は、一歩また一歩と絨毯を踏みしめるように歩いていた。その度に足元から自信が沸き上がり、それが振動に変わり体全体を覆っているような歩き方だった。上半身を揺するようなその歩き方は、舞香には勝ち誇っているようにも見えた。
エレベーターが到着する度に、降りるゲストの数が増えてきた。いつのまにか茉紀はカウンターに戻ってきていた。おそらく宴会場の中の準備している様子を見に行っていたのだろう。
「誰か、アテンドお願いします」
茉紀の声を最後まで聞かずに、舞香は返事をしてホワイエに出た。
まもなくINだ。INのときは、カウンターで荷物やコート類を預かる人、エレベーター前に立ってゲストのお迎えをするアテンドと呼ばれる二つの仕事を分担して行っている。
中でもアテンドは、常に姿勢の良さとにこやかな表情を維持していなければいけないので、十五分ごとに交代することになっている。
エレベーターが開いたら、「いらっしゃいませ」の言葉でお迎えして、扉に手を添える。ゲストの乗り降りが終わったところで手を離し、隣のエレベーターに向かう。
舞香はエレベーターの間を行ったり来たりしながら、ちらりとメタルブレスの腕時計に目をやった。同時にカウンターにも視線を送った。
カウンターの中は和やかな空気が流れているようだった。ゲストが預けに来ないときだけ、楽しそうにおしゃべりをしている様子が見て取れた。
舞香は苛立ちと腹立たしさに押しつぶされそうになったが、すぐに我に返った。
(アテンドをしてれば、預からなくていいんだ……!)
舞香は名案だと思った。三十分経っても誰ひとりとして交代に来なかったということは、アテンドよりもカウンター業務のほうがやりたいということ。
それならばと、舞香は影を帯びた笑みを浮かべた。
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