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第二章 空虚な人格者
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——乳香(フランキンセンス)の香りは、ウッディでありながらほんのりスパイシーさも感じる、深みのある落ち着いた香りです。
舞香はこの説明だけでは乳香がどんな香りなのかイメージできなかった。さらにネットで別の説明も探してみることにする。
——不思議で個性的な香り——「お寺の香り」「お香の香り」とも表現されることも多く、上品さや高貴な印象も感じられる……
(なるほどね……)
ここまで読んで舞香はネット検索をやめて、口コミも見てみることにした。
——和の香りの中にもオリエンタルなスパイシーさもありつつ懐かしい様なただただ癒しの香り……
確かにそうだなと、舞香は買ったばかりのナイトフレグランスを試してから思いきり香りを吸い込んだ。
そのままベッドに横になる。
しばらくすると、突如、舞香の脳裏には遥か古代の神殿で乳香が焚きしめられる儀式の光景が映画を見ているように流れ込んできた。
(あ……これは……あのときの……隣のあの子は確か……)
いつか見た女性の神官の隣にいる女性の名前を、舞香は半分夢に沈んだ状態で呼ぶ。呼んだ瞬間にその女性の名前も何もかも忘れ、そのままその映像を手放していった。
翌朝、舞香は深い眠りから目覚めた。脳裏に昨夜見た映像の残滓はなかった。
全身が不思議なくらい澄んだ静寂に満たされていた。それは「黒服」としての凛とした責任感と、暗雲のように頭上にかぶさってくる不安とが同じ力でぶつかり合い、逆に静けさを演出しているようにも思えた。
舞香は漆黒のインチャージ服に袖を通し、背筋を伸ばした。
—水産加工会社オーシャンフーズ主催、五千人規模の展示会、当日。
舞香は出勤時間の八時半よりも少し早めに来て、まだ誰もいないクロークカウンターからホワイエを見回していた。そして、完璧な役割分担が書き込まれたシフト表を貼った。
今日の舞香は、インチャージ代行ではなく、クロークの真のリーダーとして立っていた。
「れいさん、今日は来れるって」
出勤してきた万由子の声で、舞香の思考が引き戻される。舞香は「よかったあ」と嬉しそうな顔を万由子に向けた。麗奈の復帰を喜ぶというよりもむしろ、人数は一人でも多いほうが良いという効率性から出た言葉だった。
オーシャンフーズのゲストが来始めると同時に、麗奈は現れた。
「まい、応援者は何時に何人来るの?誰が来る?」
怒りを含んだ硬い声が響いた。舞香は「十一時に合わせて五人来ることになっています」と淡々と言うと、麗奈はさらに強い口調で返す。
「ちゃんと細かいところまで詰めないと! どうなってるの? まだ来てないよ」
(え? ……? 何言ってるの、この人。私が慣れない中どれだけ準備してきたか知ってるのかな……?)
舞香は涙がぐっとこみ上げてきて、急いでそれを飲み込む。
そして、そのとき、二百人近いゲストがホワイエに一斉に到着し始めた。ホワイエの奥の階段から応援者たちが上がって来たのが見えて舞香はほっとする。
時間と共にクロークカウンター付近は人で埋め尽くされていった。エレベーター前まで列が作られているのが見える。
預けに来る人。預けた物を一度出して再び預ける人。会場内で買ったものを追加で何度も預けに来る人。預けたかと思ったらすぐに受け取りに来る人。「運び」も「掛け」も追いつかないほどで、ホワイエが人で溢れているなら、カウンター内と裏は荷物で溢れていた。
その中でも、応援者は「菱野さん、これどうすればいい?」とか「これはそのまま掛けていい?」とか、麗奈ではなく舞香に指示を求める。
それは、麗奈が自分のなすべきことを全て失った現実を映し出していた。
舞香は麗奈から視線を逸らした。小宮麗奈には以前のような完璧な輝きはなかった。
舞香はこの説明だけでは乳香がどんな香りなのかイメージできなかった。さらにネットで別の説明も探してみることにする。
——不思議で個性的な香り——「お寺の香り」「お香の香り」とも表現されることも多く、上品さや高貴な印象も感じられる……
(なるほどね……)
ここまで読んで舞香はネット検索をやめて、口コミも見てみることにした。
——和の香りの中にもオリエンタルなスパイシーさもありつつ懐かしい様なただただ癒しの香り……
確かにそうだなと、舞香は買ったばかりのナイトフレグランスを試してから思いきり香りを吸い込んだ。
そのままベッドに横になる。
しばらくすると、突如、舞香の脳裏には遥か古代の神殿で乳香が焚きしめられる儀式の光景が映画を見ているように流れ込んできた。
(あ……これは……あのときの……隣のあの子は確か……)
いつか見た女性の神官の隣にいる女性の名前を、舞香は半分夢に沈んだ状態で呼ぶ。呼んだ瞬間にその女性の名前も何もかも忘れ、そのままその映像を手放していった。
翌朝、舞香は深い眠りから目覚めた。脳裏に昨夜見た映像の残滓はなかった。
全身が不思議なくらい澄んだ静寂に満たされていた。それは「黒服」としての凛とした責任感と、暗雲のように頭上にかぶさってくる不安とが同じ力でぶつかり合い、逆に静けさを演出しているようにも思えた。
舞香は漆黒のインチャージ服に袖を通し、背筋を伸ばした。
—水産加工会社オーシャンフーズ主催、五千人規模の展示会、当日。
舞香は出勤時間の八時半よりも少し早めに来て、まだ誰もいないクロークカウンターからホワイエを見回していた。そして、完璧な役割分担が書き込まれたシフト表を貼った。
今日の舞香は、インチャージ代行ではなく、クロークの真のリーダーとして立っていた。
「れいさん、今日は来れるって」
出勤してきた万由子の声で、舞香の思考が引き戻される。舞香は「よかったあ」と嬉しそうな顔を万由子に向けた。麗奈の復帰を喜ぶというよりもむしろ、人数は一人でも多いほうが良いという効率性から出た言葉だった。
オーシャンフーズのゲストが来始めると同時に、麗奈は現れた。
「まい、応援者は何時に何人来るの?誰が来る?」
怒りを含んだ硬い声が響いた。舞香は「十一時に合わせて五人来ることになっています」と淡々と言うと、麗奈はさらに強い口調で返す。
「ちゃんと細かいところまで詰めないと! どうなってるの? まだ来てないよ」
(え? ……? 何言ってるの、この人。私が慣れない中どれだけ準備してきたか知ってるのかな……?)
舞香は涙がぐっとこみ上げてきて、急いでそれを飲み込む。
そして、そのとき、二百人近いゲストがホワイエに一斉に到着し始めた。ホワイエの奥の階段から応援者たちが上がって来たのが見えて舞香はほっとする。
時間と共にクロークカウンター付近は人で埋め尽くされていった。エレベーター前まで列が作られているのが見える。
預けに来る人。預けた物を一度出して再び預ける人。会場内で買ったものを追加で何度も預けに来る人。預けたかと思ったらすぐに受け取りに来る人。「運び」も「掛け」も追いつかないほどで、ホワイエが人で溢れているなら、カウンター内と裏は荷物で溢れていた。
その中でも、応援者は「菱野さん、これどうすればいい?」とか「これはそのまま掛けていい?」とか、麗奈ではなく舞香に指示を求める。
それは、麗奈が自分のなすべきことを全て失った現実を映し出していた。
舞香は麗奈から視線を逸らした。小宮麗奈には以前のような完璧な輝きはなかった。
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