上 下
43 / 64

第四十三話

しおりを挟む

 ヴァージルがダフネの提案を受けてから、一体どれだけ忍耐を要求されてきただろう。
 少しずつ、けれど確実に降り積もるようにヴァージルの中に苛立ちが増してきていた。
 何故か最近は騎士達の目が、以前と変わった気がする。それもまた気に食わない。
 それが気に食わないのではなく、戸惑いなのだという事にヴァージルは気付かない。
 落ち着かない心を抱え、カナの元へ城内を大股で足早に移動していた。
 場所は使い魔で把握しているので、行くだけだ。
 きっといつものように彼女を腕の中に閉じ込めれば、この心も落ち着くだろうと思いながら足を動かす。
 あと角を一つ曲がればカナの姿が見えるという場所で、話し声が耳に届いた。

「……よく、カナさんってヴァージルさんと一緒にいられますよね」

 ぴたりとヴァージルの足が止まる。その声はエミリアーノだった。どうやらカナと会話しているらしく、内容が気になり聞き耳を立ててしまう。
 ヴァージルが忌避されるのは慣れた事で、どうでもいい。
 けれど共にいるカナに対して人がどういう反応を示すのか。それを知らなければならない。

「常識のない人の手綱を握らされて、嫌に思いませんか?」
「そんな事思った事ないです。ヴァージルは確かに知らない事が多いですけど、ちゃんと直ぐに行動を改めてくれますし」

 どうやらカナを心配しての話のようだ。それならば別に構わない。しかし話の内容的に出るタイミングを逃してしまった。

「それだけじゃないですよ。ずっと傍に張り付かれて、監禁されるんじゃないかと心配です。あの距離感、嫌にならないんですか?」
「私が色々と不安がらせちゃってるんです。今は仕方ないです。それに、やっぱり大事にしてもらって嬉しいですよ」

 目障りな事を言ってくるエミリアーノに対し、カナが笑いながら言う。愛されているのが伝わり、愛おしさが募った。
 傍に行って抱きしめてしまおうか。もう我慢は限界だ。カナが、足りない。
 足を動かそうとした所で、エミリアーノの声が更に続いた。

「カナさんが譲歩する必要、全然ないですよ。はっきり言いますけど、ヴァージルさんのような後ろ暗い人とカナさんじゃあつり合いが取れません。カナさんは凄く素敵な人です。ダフネ様にも気に入られてますし、他の城の人達もカナさんの事が気に入ってるんです……僕も含めて」

 カナが何処でも受け入れられる人だと知っている。どうやらこの場所でもカナは上手く溶け込んだようだった。
 それなのにヴァージルの傍を選んでいてくれるのが、どれだけ嬉しい事か。心の底から分かっている。痛い程に。
 独占したい。隠したい。……それでも、カナの為に今まで耐えてきたのだ。
 しかし今、エミリアーノの腹立たしい声がヴァージルの神経を逆撫でする。

「ありがとうございます。でも、」
「カナさん、無理してませんか?」

 ……お前。

「無理なんて」
「僕、認識阻害魔術が得意なんです。……逃げられますよ。ヴァージルさんから」

 俺から、奪うなよ。

 ヴァージルが大人しく聞いていられたのはそこまでだった。
 ギリギリの状態で保たれていた忍耐の壁が崩壊する。
 誰かが自分からカナを取り上げようとしているなんて、とても正気では聞いていられなかった。
 ヴァージルの影から黒煙が立ち上り、ヘルハウンドが飛び出して来る。
 そのまま四足歩行の全速力の勢いでエミリアーノに突進し、ヴァージルの内心を表すかのように唸り声をあげながら、彼の体を前足で押さえつけた。
 突然現れた使い魔の凶行に城内の人々が驚いてヴァージルを見るが、そんな事はもうどうでもよかった。

「ヴァ、ヴァージル?」

 ヴァージルが姿を見せれば、驚くカナの顔が見えた。
 欲求のままにカナの体を両腕に閉じ込め、誰にも奪われないように強く抱きしめる。
 俄かに騒々しくなる城内。しかしもうヴァージルにそれを気に掛ける余裕はなかった。

「エミリアーノさんに、何するの!?」
「殺してねぇ。ただ、退けさせただけだろ」

 常識的な観点からエミリアーノの心配をするカナに、端的に言葉を返す。

「こんな事したら駄目だよ?」

 ああカナ。悪いが今、お前の言葉を聞いてやれる余裕がない。
 いつだって、誰かにカナを奪われるような気がしていた。何をしていても、どれほど傍にいても。
 魔天会が存在して、俺が暴食のヴァージルである限り。
 見知らぬ人の視線が責めてくる。お前は彼女には相応しくないと。
 それでも俺は、カナがいないと駄目なのに。
 ヴァージルの影から巨大なハゲワシのような怪鳥が現れたかと思うと、牙の生えた口から涎を垂らしながら、ヴァージルの飢えを表すかのようなぎらついた目で偶々廊下を歩いていた女性を見た。

「ひぃっ」

 腰を抜かして後ずさる女性を怪鳥は襲う事はない。しかし次々とモンスター達が湧き水のように影から溢れていた。
 モンスター達の羽や鱗や手や足が、現れては廊下を埋めていく。
 それを間近で見た警備兵の一人が呆然と呟いた。

「これが……一人の人間の使い魔だと……?」

 ミラダ城の人々は顔を青くする。攻撃が始まれば誰も生きて帰れないような、恐ろしいモンスターばかりだった。
 騒動を聞きつけて騎士達が集まって来るが、この数日ヴァージルの強さを目の当たりにしてきた彼らは本気でヴァージルが敵になるつもりがあれば殆ど抵抗が出来ない事を知っている。
 絶望的な表情になりながらも、必死で遠くからヴァージルに向かって使い魔を消す様に呼びかけた。
 しかし使い魔の壁の内側で、そんな騒動など無縁なようにヴァージルはカナをひたすらに抱きしめる。
 誰にも手を出されないようにして漸く、少しだけ口を開く事が出来た。

「……来るんじゃなかった。此処は、どうでもいい事が多すぎる」

しおりを挟む

処理中です...