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お願いですから、と懇願するノヴァの声には勢いがない。
「どうか、危ないことはおやめください。もっとご自分を大事になさってください」
こういう時の彼は、もっと口うるさく言いそうなものだったが、火が消えたように唐突に大人しくなったアレクシスに気を使っているらしかった。
一方で、魔獣に突っ込んで行ってからアレクシスの様子がおかしくなったことに未だ気付いていないロロが、必死な声を上げる。
「ほんとにほんとにほんとにやめてください。血の気が引きました。ああいうのはせめて打ち合わせしてからお願いします。殿下に何かあったら僕だって、一緒に居た騎士たちの立場だって危うくなるんですよ」
「ああ……、すまない」
悲痛な声音のロロに素直に謝ると、魔法使いの少年は困った顔で口を閉ざした。
魔獣への対応が無事に終わり、ターシアン伯爵へ報告した後。伯爵の館に用意されたアレクシスの居室で、三人は顔を突き合わせていた。アレクシスはソファに座り、向かいに二人が立っている。
「……多少の怪我ならお前が治してくれるだろう」
「治せる怪我で済めばいいですけど。死んだら魔法でだって生き返らせることなんかできないんですよ」
王族の怪我は、魔法使いが残らずきれいに治すことになっていた。どんなに小さな擦り傷でも、痕が残らないように治す。魔法の無駄遣いのように思えるが、王族は国の象徴なのだから瑕瑾なく完璧であるほど良いと、アレクシスは幼い頃王から聞かされた。
傷の確認のためにシャツを脱ごうとボタンを外したところで、ふとノヴァの視線が自分へと注がれていることに気付いた。なんだかばつが悪いような気になって、視線を逸らす。
「今夜はもういい、ノヴァ、お前は休め」
三人はそれぞれ客室を宛がわれている。出て行くように促すと、ノヴァは一瞬ためらったようではあったが、暗い面持ちで部屋を後にした。
それからようやくシャツを脱ぐ。無数の擦り傷、切り傷が魔法で治されるたび、その部分が焚火にあたるような温かさを感じた。
「ロロ。お前はノヴァのことをよく知っているようだが」
「いえ知りません、何も」
アレクシスの言葉にかぶせるように性急な、切羽詰まった返事だった。昼のぶどう畑でのやりとりを思い出す。あの時も、今も、何かを隠したがっているようにしか思えない。ロロは致命的に嘘が下手なようだ。
「ではなぜおれに忠告した? 言っていたな、ノヴァはやめた方がいいと。あれはノヴァをおれの近くに置くのはやめた方がいいという意味ではないのか」
「あ、あー……」
魔法を使っていたロロの手が止まる。苦々しい顔をして、なんとか言葉を絞り出していた。
「なんとなくそんな気がしただけで……、僕は何も知らない、ことになっている、ので……知っていたとしても聞かない方がいいですし、その、殿下が何かに気付いたとしても、気付いていないふりをした方が、いいです」
察してほしいと顔に大きく書いてある。
ロロはおそらく、彼に許された範囲でアレクシスにできるだけ情報を伝えようとしていた。
それが何なのか、今のアレクシスには分からない。だが、何かに気付いたとしても、という言葉が引っかかった。
ノヴァについて気付いたこと。アレクシスをアレクと呼ぶ声が、失った騎士に似ている。彼がアレクシスの騎士になった初日、彼は勝手知ったる様子で迷いなくクローゼットからシャツを取り出した。アレクシスが酒に弱いことを知っていた。そうだ、騎士を選んだあの時、剣を交えて覚えた違和感、まるで旧知の友と戯れるかのようなあの感覚。
もしかして。希望が胸の内で頭をもたげ、そんなはずがない、ありえない、と理性が否定する。
魔法を使ったとしても、死者の蘇生などできない。第一、外見が全く違うのだ。
どれだけ否定しようとしても、希望に縋りたがる心が冷静にならせてくれない。
もしかして、ノヴァは、シリウスなのではないか?
王城の執務室で、アレクシスは羽根ペンを片手にぼんやりとノヴァを見ていた。彼は不思議そうな笑顔を浮かべる。
「ご用でしょうか?」
似ていない。全く別人の顔だ。シリウスは薄く日に焼けた肌に、短い赤毛の男だった。ノヴァは日に焼けてもいないし、黒い瞳にかかるほどの長さの黒い髪だ。けれど笑顔が似ている気がする。気のせいかもしれない。
そうして全く仕事に集中できずにいると、アレクシス様、と呼びかけられる。じっと視線を注いでいると、彼は照れ臭そうな、困った顔になった。
「……いや」
随分と時間差のある返事をする。心ここにあらずといった様子のアレクシスに、ノヴァは眉を下げた。
「アレクシス様、センタメアから戻られてから元気がないようですが……魔獣に襲い掛かられたのがショックでしたか」
「違う。おれをそんな臆病者だと思うな」
ぶっきらぼうに返し、思い出したように続けた。
「お前、あの時おれのことをアレクと呼んでいたな」
一拍の間があった。ノヴァの唇が、笑みを形作る。
「そうでしたか? 覚えていません。焦っていたので、つい短く呼べる愛称で呼んでしまったのかもしれません。馴れ馴れしい真似をして、申し訳ございませんでした。ご気分を害されましたか?」
しおらしく瞼を伏せるノヴァが、本気で言っているのか、ごまかそうとしているのかも分からない。
「いや……」
以前のアレクシスなら嫌味のひとつやふたつ飛んでいたところだ。ノヴァの表情が曇り、沈黙が落ちる。気遣わしげなノヴァが窓辺へと寄る、絨毯の上を歩く足音さえよく聞こえた。
ノヴァが窓を開く。停滞していた空気を掻き回すように、涼しい風が流れ込んできた。
「いい天気です。お昼は外でいかがですか? お疲れのご様子ですので、少し休まれた方がよろしいかと」
騎士はことさら明るい声を装って言う。アレクシスは少し考えてから、引き出しから便箋を取り出して短い手紙を書き、封筒に入れて封をした。それから視線を向けると、察しの良い男はすぐに机の脇まで近付いてくる。
「これをカンテバル騎士団長に届けろ。それから庭園で昼食をとる。……侍女に用意させろ。お前の分もだ」
封筒を手渡すと、ノヴァは受け取った姿勢のまま静止した。
「……何だ?」
「あの、本当に申し訳ございませんでした……」
黒い瞳はひどく不安げだ。アレクシスは眉根を寄せた。
「何の話だ」
「私の、殿下に対する敬意が足りず、ご不快な思いをさせたのではないですか。私が食事を用意するのも嫌なほど。……私は解任されるのでしょうか」
「していいのなら……、いや」
していいのならそうしてやる。いつもの調子で言いかけた言葉は、その先が出てこなかった。
どうも彼は、アレクシスが愛称で呼ばれたことに対して機嫌を損ね、騎士団長に文句をつけて彼を送り返すつもりなのだと勘違いしているらしい。
だが、ノヴァの正体がシリウスではないかという希望を捨てられない今、真実を確かめるまでは、彼を手放すつもりは毛頭なかった。
「お前をクビにするつもりはない。早く手紙を届けてこい」
「……これからも、おそば近くに仕えさせて頂けるんですか?」
ノヴァの瞳に光が戻る。アレクシスが頷けば、彼はほっと安堵の息を吐いた。
「申し訳ありません、早とちりしてしまいました。すぐにお届けして、昼食の手配をしてまいります」
足早に出て行く背中を、視線だけで見送る。
昼食の支度ができるまでの時間、仕事を進めようとしたが、結局書類を見ても頭に入らず、ペンも動かなかった。
庭園の四阿で、向かいに座るノヴァは非常にうろたえていた。
「あの、どうして」
騎士が主人と同じ席で食事をとることなど通常は無い。今まではアレクシスに給仕していたノヴァが、侍女に給仕される側になって不可解そうな顔を浮かべているのは少し面白かった。
侍女には下がらせて、今は向かい合うアレクシスとノヴァの二人きりだ。
薔薇の盛りも終わる季節。四阿の屋根の影は涼しいが、薔薇たちはじりじりと太陽に照らされて、眩しく光を反射している。
アレクシスはパンにソーセージを挟んだものを食べ、飲み込んでから言った。
「お前のことが知りたい」
ノヴァが黒い目を軽く見開き、息をのむ。じわじわとその頬に血が昇るのを見て、アレクシスはついと視線を逸らし、思案した。
何か言い方を間違えたような気がする。とんとんとテーブルを指で叩く。
「お前のことを何も知らない。どこの出身だ? 王国騎士団の騎士なら、それなりの家門だろう」
「私は……両親がおりませんので、ハーヴィー様に後見人になって頂いております」
「ハーヴィー?」
父がそば近くに侍らせている魔法使いの名前を出されて、アレクシスは怪訝そうな表情を浮かべた。
「元はどこの家の者だ。ハーヴィーに近付くのは容易ではなかっただろう」
何しろハーヴィーは王城の守りの要であり、城から出ることはめったにない。社交の場にも姿を現さないから、人脈を作ろうにも難しいのだ。王の懐に入り込んでいるハーヴィーに下心を持って近付きたい人間は数知れず、だからこそ彼の方でも他者との繋がりを持とうとしない。
詳しい話を求めてじっとノヴァを見詰める。彼は眉を下げて、少し困ったような微笑みを浮かべた。
「ただの平民です。アレクシス様では名も聞いたことがないでしょう。ハーヴィー様とはたまたま知り合う機会がありました」
「ハーヴィーが平民と知り合う機会などあるものか」
「では、私はとても運が良かったのですね」
動揺も見せず微笑んでいるノヴァに、埒が明かないとアレクシスは顔をしかめた。
「……まあいい。せっかく用意させたんだ、お前も食べろ。残しては料理人に悪いだろう」
おずおずとパンを手に取って食べ始めたノヴァを見るとはなしに見る。
「お前は、どうしておれの騎士になりたいと思った?」
ノヴァがきょとんと目を見開く。
「……面接ですか?」
「ただの興味だ」
ノヴァは口の中のものを紅茶で流し込んで、アレクシスを見て、それから視線をテーブルへと落とした。
「初めてお会いした時に、あなたをお守りするのが私の使命だと感じました」
「おれとお前が初めて会ったのは、あの訓練場でお前がおれの前に跪いた時だろう。それとも一方的におれを見て運命でも感じたか」
皮肉気な物言いに、ぱっとノヴァが顔を上げる。突然ばちっと視線が交わって、アレクシスは妙に動揺して軽く身を引いてしまった。
「……そう、です。そうです」
「それは何に対する肯定――」
不意に土を踏む音が聞こえて、口を閉ざす。見れば、大柄な男と小柄な夫人が連れ立って、薔薇の間の小道を歩いて来るところだった。
「やあ失礼殿下、お食事中でしたか」
大きな声で言ったのは騎士団長カンテバルだった。ノヴァに届けさせた手紙の返事を早々に持ってきてくれたのならよかったが、彼の隣に立つ灰色の髪をシニヨンにした女性を見る限り、そういうわけではないらしい。アレクシスは柳眉を寄せる。
「お客人です。どうしてもとおっしゃるので」
カンテバルに紹介されて、女性は質素なドレスの裾をつまみ、軽く膝を折って頭を下げた。
「ご無沙汰しております、殿下」
「……ああ」
返す声がそっけなくなる。あまり見たくない顔だった。
痩せて、皺の目立つその女性は、城下にある孤児院の院長ロシュフォール夫人だ。シリウスが育った孤児院。昔、騎士団の孤児院への慰問に、幼いアレクシスは興味本位で着いて行って、その先でシリウスと出逢った。彼女とも、その頃からの付き合いになる。
「毎年、本当にありがとうございます。殿下のご支援のおかげで、老朽化した建物の修繕もできますし、子供たちは飢えずにすみます。新しい洋服を買ってあげることもできます。ずっと感謝を申し上げたかったのですが、殿下はお忙しいご様子で中々面会の機会が頂けませんでしたので」
ロシュフォール夫人の感謝の言葉を、アレクシスはしかめっ面で聞いていた。
アレクシスは孤児院に定期的に寄付している。かつてシリウスが、自分の出身である孤児院へ仕送りしていたのを知っているからだ。
「よしてくれ。おれはあなたの大切な息子を、子供たちの兄を、奪ってしまった」
罪の償いのようなものだった。夫人は孤児院の子供たちを実の子供のように大切にしているし、子供たちはシリウスのことを慕っていた。それを奪ったのはアレクシスだ。礼を言われる筋合いなど無いし、感謝などされたくもない。
合わせる顔がないからと、面会を希望する手紙をずっと無視し続けていた。シリウスを養子にした縁でカンテバルとロシュフォール夫人は親しいから、カンテバルに直接頼んで連れてきてもらったのだろう。
「そんなこと! 殿下こそおよしください。ご存じないのですか? あの子ったら偶に帰って来たと思ったら、ずっとあなたのお話ばかりしていたんですよ。おかげでうちの子供たちもみんな、あなたがどれほど美しくて聡明な方なのか存じ上げております」
思わぬ話に少しだけ表情が緩みそうになって、同時に胸の奥が重くなった。苦笑いすら浮かべることができず、目が翳るアレクシスの傍らまで、夫人が歩を進める。
骨っぽく細い手が、アレクシスの手をそっと包み込んだ。
「殿下。シリウスはずっと言っておりました。あなたをお守りする騎士になりたいと。願いを叶えて、あなたをお守りできたのですから、きっと本望でしょう。ご自分を責めるのはおやめになってください」
それまで黙っていたカンテバルまでもが、硬い表情で頷いた。
「そうです。殿下、シリウスのことが重荷になるくらいなら、もう忘れて貰ってかまわんのです。あの子だって死してなお、あなたが縛られ続けていると知ったら悲しむでしょう」
忘れて?
ぞっとするような響きだった。
忘れて良いはずがない。忘れられるはずがない。
居なくなった今もずっと、心の中心にシリウスが居る。彼と過ごした日々の喜びと、喪った後の悲しみに縋って、アレクシスはやっと呼吸ができる。失くしてなんて生きてはいけない。
カンテバルだって、養子として引き取ったシリウスに期待を寄せて、厳しく鍛錬していた。実の息子のように目をかけていたシリウスを亡くした時、団長として気丈に振る舞う裏で深く悲しんでいたことを知っている。それなのに、アレクシスだけには忘れてしまえと言うのか。
それに、ノヴァが本当はシリウスなのかもしれないのに、彼の前でそんなことを――強張った顔でノヴァを見ると、彼は少し困ったように、黙ってこちらを見ていた。
アレクシスは俯いて、片手で顔を覆う。
「……帰ってくれ。気分が悪い」
「殿下」
「帰ってくれ」
掴まれたままだったロシュフォール夫人の手を振り払う。
三年経っても、恋をして、失った男を忘れられないのは、滑稽なことだろうか。
何ひとつ忘れたくない。
忘れたくなどないと願うのに、思い出すたびに苦しくなる。
気まずそうに挨拶をして去って行く二人の足音が完全に聞こえなくなってから、アレクシスは顔を覆っていた手をのろのろと下ろした。
「アレクシス様」
「……みっともないところを見せた。忘れろ」
どんな顔でノヴァを見たらいいのか分からない。うなだれる白い頬を、長い金髪が覆い隠す。少し躊躇う気配があってから、ノヴァの硬質な声が聞こえた。
「カンテバル騎士団長のおっしゃることに、私も賛成です」
「……何?」
ゆっくりと顔を上げる。ノヴァの黒い瞳が真剣にこちらを見ている。アレクシスの顔が強張った。
「死んだ男のことなど忘れて下さい」
「貴様に何が分かる!」
一瞬で頭に血が昇る。
アレクシスは勢いよく立ち上がった。
怒りで手が震えた。どうしてそんなことを言う、お前じゃないのか、お前までそんなことを言うのか、おれがどんな気持ちでこの三年を生きてきたのか、シリウスが居ない世界で朝を迎える度にどれだけの虚しさを重ねてきたのか――思考が乱れて縺れる。
「あいつはずっとそばに居た、ずっとおれを守ると誓った! おれの騎士はあいつだけだ、ずっと、おれのそばでおれを守るのは、あいつだけだ……」
吐き出した声はひどく不安定で、駄々をこねる子供が喚いているのと大差なかった。目の奥が熱くなって、みっともなく溢れてしまいそうなものをぐっと堪える。
駄々をこねる子供だ。死んだ人間が生き返らないことなんか知っていて、そんなのは嫌だとずっと喚いている。失くしたものは見つからないのに、立ち止まったまま泣いている。ずっと。
「どうか、危ないことはおやめください。もっとご自分を大事になさってください」
こういう時の彼は、もっと口うるさく言いそうなものだったが、火が消えたように唐突に大人しくなったアレクシスに気を使っているらしかった。
一方で、魔獣に突っ込んで行ってからアレクシスの様子がおかしくなったことに未だ気付いていないロロが、必死な声を上げる。
「ほんとにほんとにほんとにやめてください。血の気が引きました。ああいうのはせめて打ち合わせしてからお願いします。殿下に何かあったら僕だって、一緒に居た騎士たちの立場だって危うくなるんですよ」
「ああ……、すまない」
悲痛な声音のロロに素直に謝ると、魔法使いの少年は困った顔で口を閉ざした。
魔獣への対応が無事に終わり、ターシアン伯爵へ報告した後。伯爵の館に用意されたアレクシスの居室で、三人は顔を突き合わせていた。アレクシスはソファに座り、向かいに二人が立っている。
「……多少の怪我ならお前が治してくれるだろう」
「治せる怪我で済めばいいですけど。死んだら魔法でだって生き返らせることなんかできないんですよ」
王族の怪我は、魔法使いが残らずきれいに治すことになっていた。どんなに小さな擦り傷でも、痕が残らないように治す。魔法の無駄遣いのように思えるが、王族は国の象徴なのだから瑕瑾なく完璧であるほど良いと、アレクシスは幼い頃王から聞かされた。
傷の確認のためにシャツを脱ごうとボタンを外したところで、ふとノヴァの視線が自分へと注がれていることに気付いた。なんだかばつが悪いような気になって、視線を逸らす。
「今夜はもういい、ノヴァ、お前は休め」
三人はそれぞれ客室を宛がわれている。出て行くように促すと、ノヴァは一瞬ためらったようではあったが、暗い面持ちで部屋を後にした。
それからようやくシャツを脱ぐ。無数の擦り傷、切り傷が魔法で治されるたび、その部分が焚火にあたるような温かさを感じた。
「ロロ。お前はノヴァのことをよく知っているようだが」
「いえ知りません、何も」
アレクシスの言葉にかぶせるように性急な、切羽詰まった返事だった。昼のぶどう畑でのやりとりを思い出す。あの時も、今も、何かを隠したがっているようにしか思えない。ロロは致命的に嘘が下手なようだ。
「ではなぜおれに忠告した? 言っていたな、ノヴァはやめた方がいいと。あれはノヴァをおれの近くに置くのはやめた方がいいという意味ではないのか」
「あ、あー……」
魔法を使っていたロロの手が止まる。苦々しい顔をして、なんとか言葉を絞り出していた。
「なんとなくそんな気がしただけで……、僕は何も知らない、ことになっている、ので……知っていたとしても聞かない方がいいですし、その、殿下が何かに気付いたとしても、気付いていないふりをした方が、いいです」
察してほしいと顔に大きく書いてある。
ロロはおそらく、彼に許された範囲でアレクシスにできるだけ情報を伝えようとしていた。
それが何なのか、今のアレクシスには分からない。だが、何かに気付いたとしても、という言葉が引っかかった。
ノヴァについて気付いたこと。アレクシスをアレクと呼ぶ声が、失った騎士に似ている。彼がアレクシスの騎士になった初日、彼は勝手知ったる様子で迷いなくクローゼットからシャツを取り出した。アレクシスが酒に弱いことを知っていた。そうだ、騎士を選んだあの時、剣を交えて覚えた違和感、まるで旧知の友と戯れるかのようなあの感覚。
もしかして。希望が胸の内で頭をもたげ、そんなはずがない、ありえない、と理性が否定する。
魔法を使ったとしても、死者の蘇生などできない。第一、外見が全く違うのだ。
どれだけ否定しようとしても、希望に縋りたがる心が冷静にならせてくれない。
もしかして、ノヴァは、シリウスなのではないか?
王城の執務室で、アレクシスは羽根ペンを片手にぼんやりとノヴァを見ていた。彼は不思議そうな笑顔を浮かべる。
「ご用でしょうか?」
似ていない。全く別人の顔だ。シリウスは薄く日に焼けた肌に、短い赤毛の男だった。ノヴァは日に焼けてもいないし、黒い瞳にかかるほどの長さの黒い髪だ。けれど笑顔が似ている気がする。気のせいかもしれない。
そうして全く仕事に集中できずにいると、アレクシス様、と呼びかけられる。じっと視線を注いでいると、彼は照れ臭そうな、困った顔になった。
「……いや」
随分と時間差のある返事をする。心ここにあらずといった様子のアレクシスに、ノヴァは眉を下げた。
「アレクシス様、センタメアから戻られてから元気がないようですが……魔獣に襲い掛かられたのがショックでしたか」
「違う。おれをそんな臆病者だと思うな」
ぶっきらぼうに返し、思い出したように続けた。
「お前、あの時おれのことをアレクと呼んでいたな」
一拍の間があった。ノヴァの唇が、笑みを形作る。
「そうでしたか? 覚えていません。焦っていたので、つい短く呼べる愛称で呼んでしまったのかもしれません。馴れ馴れしい真似をして、申し訳ございませんでした。ご気分を害されましたか?」
しおらしく瞼を伏せるノヴァが、本気で言っているのか、ごまかそうとしているのかも分からない。
「いや……」
以前のアレクシスなら嫌味のひとつやふたつ飛んでいたところだ。ノヴァの表情が曇り、沈黙が落ちる。気遣わしげなノヴァが窓辺へと寄る、絨毯の上を歩く足音さえよく聞こえた。
ノヴァが窓を開く。停滞していた空気を掻き回すように、涼しい風が流れ込んできた。
「いい天気です。お昼は外でいかがですか? お疲れのご様子ですので、少し休まれた方がよろしいかと」
騎士はことさら明るい声を装って言う。アレクシスは少し考えてから、引き出しから便箋を取り出して短い手紙を書き、封筒に入れて封をした。それから視線を向けると、察しの良い男はすぐに机の脇まで近付いてくる。
「これをカンテバル騎士団長に届けろ。それから庭園で昼食をとる。……侍女に用意させろ。お前の分もだ」
封筒を手渡すと、ノヴァは受け取った姿勢のまま静止した。
「……何だ?」
「あの、本当に申し訳ございませんでした……」
黒い瞳はひどく不安げだ。アレクシスは眉根を寄せた。
「何の話だ」
「私の、殿下に対する敬意が足りず、ご不快な思いをさせたのではないですか。私が食事を用意するのも嫌なほど。……私は解任されるのでしょうか」
「していいのなら……、いや」
していいのならそうしてやる。いつもの調子で言いかけた言葉は、その先が出てこなかった。
どうも彼は、アレクシスが愛称で呼ばれたことに対して機嫌を損ね、騎士団長に文句をつけて彼を送り返すつもりなのだと勘違いしているらしい。
だが、ノヴァの正体がシリウスではないかという希望を捨てられない今、真実を確かめるまでは、彼を手放すつもりは毛頭なかった。
「お前をクビにするつもりはない。早く手紙を届けてこい」
「……これからも、おそば近くに仕えさせて頂けるんですか?」
ノヴァの瞳に光が戻る。アレクシスが頷けば、彼はほっと安堵の息を吐いた。
「申し訳ありません、早とちりしてしまいました。すぐにお届けして、昼食の手配をしてまいります」
足早に出て行く背中を、視線だけで見送る。
昼食の支度ができるまでの時間、仕事を進めようとしたが、結局書類を見ても頭に入らず、ペンも動かなかった。
庭園の四阿で、向かいに座るノヴァは非常にうろたえていた。
「あの、どうして」
騎士が主人と同じ席で食事をとることなど通常は無い。今まではアレクシスに給仕していたノヴァが、侍女に給仕される側になって不可解そうな顔を浮かべているのは少し面白かった。
侍女には下がらせて、今は向かい合うアレクシスとノヴァの二人きりだ。
薔薇の盛りも終わる季節。四阿の屋根の影は涼しいが、薔薇たちはじりじりと太陽に照らされて、眩しく光を反射している。
アレクシスはパンにソーセージを挟んだものを食べ、飲み込んでから言った。
「お前のことが知りたい」
ノヴァが黒い目を軽く見開き、息をのむ。じわじわとその頬に血が昇るのを見て、アレクシスはついと視線を逸らし、思案した。
何か言い方を間違えたような気がする。とんとんとテーブルを指で叩く。
「お前のことを何も知らない。どこの出身だ? 王国騎士団の騎士なら、それなりの家門だろう」
「私は……両親がおりませんので、ハーヴィー様に後見人になって頂いております」
「ハーヴィー?」
父がそば近くに侍らせている魔法使いの名前を出されて、アレクシスは怪訝そうな表情を浮かべた。
「元はどこの家の者だ。ハーヴィーに近付くのは容易ではなかっただろう」
何しろハーヴィーは王城の守りの要であり、城から出ることはめったにない。社交の場にも姿を現さないから、人脈を作ろうにも難しいのだ。王の懐に入り込んでいるハーヴィーに下心を持って近付きたい人間は数知れず、だからこそ彼の方でも他者との繋がりを持とうとしない。
詳しい話を求めてじっとノヴァを見詰める。彼は眉を下げて、少し困ったような微笑みを浮かべた。
「ただの平民です。アレクシス様では名も聞いたことがないでしょう。ハーヴィー様とはたまたま知り合う機会がありました」
「ハーヴィーが平民と知り合う機会などあるものか」
「では、私はとても運が良かったのですね」
動揺も見せず微笑んでいるノヴァに、埒が明かないとアレクシスは顔をしかめた。
「……まあいい。せっかく用意させたんだ、お前も食べろ。残しては料理人に悪いだろう」
おずおずとパンを手に取って食べ始めたノヴァを見るとはなしに見る。
「お前は、どうしておれの騎士になりたいと思った?」
ノヴァがきょとんと目を見開く。
「……面接ですか?」
「ただの興味だ」
ノヴァは口の中のものを紅茶で流し込んで、アレクシスを見て、それから視線をテーブルへと落とした。
「初めてお会いした時に、あなたをお守りするのが私の使命だと感じました」
「おれとお前が初めて会ったのは、あの訓練場でお前がおれの前に跪いた時だろう。それとも一方的におれを見て運命でも感じたか」
皮肉気な物言いに、ぱっとノヴァが顔を上げる。突然ばちっと視線が交わって、アレクシスは妙に動揺して軽く身を引いてしまった。
「……そう、です。そうです」
「それは何に対する肯定――」
不意に土を踏む音が聞こえて、口を閉ざす。見れば、大柄な男と小柄な夫人が連れ立って、薔薇の間の小道を歩いて来るところだった。
「やあ失礼殿下、お食事中でしたか」
大きな声で言ったのは騎士団長カンテバルだった。ノヴァに届けさせた手紙の返事を早々に持ってきてくれたのならよかったが、彼の隣に立つ灰色の髪をシニヨンにした女性を見る限り、そういうわけではないらしい。アレクシスは柳眉を寄せる。
「お客人です。どうしてもとおっしゃるので」
カンテバルに紹介されて、女性は質素なドレスの裾をつまみ、軽く膝を折って頭を下げた。
「ご無沙汰しております、殿下」
「……ああ」
返す声がそっけなくなる。あまり見たくない顔だった。
痩せて、皺の目立つその女性は、城下にある孤児院の院長ロシュフォール夫人だ。シリウスが育った孤児院。昔、騎士団の孤児院への慰問に、幼いアレクシスは興味本位で着いて行って、その先でシリウスと出逢った。彼女とも、その頃からの付き合いになる。
「毎年、本当にありがとうございます。殿下のご支援のおかげで、老朽化した建物の修繕もできますし、子供たちは飢えずにすみます。新しい洋服を買ってあげることもできます。ずっと感謝を申し上げたかったのですが、殿下はお忙しいご様子で中々面会の機会が頂けませんでしたので」
ロシュフォール夫人の感謝の言葉を、アレクシスはしかめっ面で聞いていた。
アレクシスは孤児院に定期的に寄付している。かつてシリウスが、自分の出身である孤児院へ仕送りしていたのを知っているからだ。
「よしてくれ。おれはあなたの大切な息子を、子供たちの兄を、奪ってしまった」
罪の償いのようなものだった。夫人は孤児院の子供たちを実の子供のように大切にしているし、子供たちはシリウスのことを慕っていた。それを奪ったのはアレクシスだ。礼を言われる筋合いなど無いし、感謝などされたくもない。
合わせる顔がないからと、面会を希望する手紙をずっと無視し続けていた。シリウスを養子にした縁でカンテバルとロシュフォール夫人は親しいから、カンテバルに直接頼んで連れてきてもらったのだろう。
「そんなこと! 殿下こそおよしください。ご存じないのですか? あの子ったら偶に帰って来たと思ったら、ずっとあなたのお話ばかりしていたんですよ。おかげでうちの子供たちもみんな、あなたがどれほど美しくて聡明な方なのか存じ上げております」
思わぬ話に少しだけ表情が緩みそうになって、同時に胸の奥が重くなった。苦笑いすら浮かべることができず、目が翳るアレクシスの傍らまで、夫人が歩を進める。
骨っぽく細い手が、アレクシスの手をそっと包み込んだ。
「殿下。シリウスはずっと言っておりました。あなたをお守りする騎士になりたいと。願いを叶えて、あなたをお守りできたのですから、きっと本望でしょう。ご自分を責めるのはおやめになってください」
それまで黙っていたカンテバルまでもが、硬い表情で頷いた。
「そうです。殿下、シリウスのことが重荷になるくらいなら、もう忘れて貰ってかまわんのです。あの子だって死してなお、あなたが縛られ続けていると知ったら悲しむでしょう」
忘れて?
ぞっとするような響きだった。
忘れて良いはずがない。忘れられるはずがない。
居なくなった今もずっと、心の中心にシリウスが居る。彼と過ごした日々の喜びと、喪った後の悲しみに縋って、アレクシスはやっと呼吸ができる。失くしてなんて生きてはいけない。
カンテバルだって、養子として引き取ったシリウスに期待を寄せて、厳しく鍛錬していた。実の息子のように目をかけていたシリウスを亡くした時、団長として気丈に振る舞う裏で深く悲しんでいたことを知っている。それなのに、アレクシスだけには忘れてしまえと言うのか。
それに、ノヴァが本当はシリウスなのかもしれないのに、彼の前でそんなことを――強張った顔でノヴァを見ると、彼は少し困ったように、黙ってこちらを見ていた。
アレクシスは俯いて、片手で顔を覆う。
「……帰ってくれ。気分が悪い」
「殿下」
「帰ってくれ」
掴まれたままだったロシュフォール夫人の手を振り払う。
三年経っても、恋をして、失った男を忘れられないのは、滑稽なことだろうか。
何ひとつ忘れたくない。
忘れたくなどないと願うのに、思い出すたびに苦しくなる。
気まずそうに挨拶をして去って行く二人の足音が完全に聞こえなくなってから、アレクシスは顔を覆っていた手をのろのろと下ろした。
「アレクシス様」
「……みっともないところを見せた。忘れろ」
どんな顔でノヴァを見たらいいのか分からない。うなだれる白い頬を、長い金髪が覆い隠す。少し躊躇う気配があってから、ノヴァの硬質な声が聞こえた。
「カンテバル騎士団長のおっしゃることに、私も賛成です」
「……何?」
ゆっくりと顔を上げる。ノヴァの黒い瞳が真剣にこちらを見ている。アレクシスの顔が強張った。
「死んだ男のことなど忘れて下さい」
「貴様に何が分かる!」
一瞬で頭に血が昇る。
アレクシスは勢いよく立ち上がった。
怒りで手が震えた。どうしてそんなことを言う、お前じゃないのか、お前までそんなことを言うのか、おれがどんな気持ちでこの三年を生きてきたのか、シリウスが居ない世界で朝を迎える度にどれだけの虚しさを重ねてきたのか――思考が乱れて縺れる。
「あいつはずっとそばに居た、ずっとおれを守ると誓った! おれの騎士はあいつだけだ、ずっと、おれのそばでおれを守るのは、あいつだけだ……」
吐き出した声はひどく不安定で、駄々をこねる子供が喚いているのと大差なかった。目の奥が熱くなって、みっともなく溢れてしまいそうなものをぐっと堪える。
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