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5. 思いがけないオファー
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翔琉の術後リハビリが始まり、樹生は俄に多忙になった。毎日何時間も走り回っていた体力を持て余している彼は、頻繁にクリニックにやって来る。それでも物足りないと、次々にドリルをねだる。しかも、インターネットや図書館で勉強して、樹生と顔を合わせるたび、たくさんの質問を浴びせてくる。畢竟、医師に質問したり、勤務時間外に専門書を紐解いたりする羽目になる。当然だが、樹生の担当患者は翔琉だけではない。他の患者のリハビリも変わらず対応しているから、他の理学療法士より負担は重い。
「滝沢君、岡田選手の相手、大変そうだねえ」
「私たち、筋トレに汗を流すイケメンを横目で眺めるだけで満足」
休憩室で女性の同僚たちは言いたい放題だ。黙って聞いていた理学療法士のチーフが、さり気なく樹生をねぎらってくれた。
「家庭教師と一緒で、生徒が向学心ある子だと大変だよね。宿題を用意しなきゃいけない。下手したら、家庭教師が宿題を持ち帰らなきゃいけない」
優しく、しかし少し心配げに見つめる彼に、樹生は微笑んだ。
「確かに岡田選手からの宿題は多いんですけど、彼ほど真剣にリハビリに向き合ってる患者さんは滅多にいないですから。それに、やってみてどうだったか詳しくフィードバックしてくれるので、僕もやり甲斐があるんです」
「うんうん。それなら良かった。ぜひスポーツリハビリの分野でスキルや経験を磨いて、このクリニックをリードするような存在になって欲しいって、院長も僕らも滝沢君に期待してるよ」
チーフは人の好い笑みを浮かべる。樹生は、曖昧に微笑んだ。
(そんなに立派な動機だけでこの仕事をやってるわけじゃないんだけどなぁ……)
そんなある日、リハビリに来た翔琉が、思いがけないことを切り出した。
「滝沢さん、ちょっとご相談があるんですけど。仕事の後、お時間いただけないすか」
「……それ、今、ここじゃダメですか?」
樹生は声をひそめ、目の前に立ちはだかる翔琉を上目遣いに窺った。彼はいつも通り表情を変えず、黙って頷く。
「分かりました。じゃあ駅前のカフェで待っててもらえますか。着替えたら行きます」
樹生は、あえて事務的に答えた。
最寄り駅前にあるセルフ方式のカフェに着くと、窓の外からでも翔琉の姿が分かった。アメリカの大学のロゴ入りスウェットと、ネイビーカラーのキャップという飾らない服装でも、鍛え上げられた筋肉を纏う百八十九センチの長身と長い手足では、スター選手のオーラは隠せない。周りの女性たちはチラチラ視線を送っているが、肝心の本人は、ワイヤレスイヤホンを嵌め、本に目を落としている。
コーヒーを手に翔琉の前に立つと、彼は樹生の存在に気付き慌てて立ち上がろうとした。
「あ、そのままで良いですよ」
「いえ。俺のほうが年下ですし、お願いしてる立場ですから。上座なんて申し訳ないので」
押し止めようとしたが、なおも翔琉はキッパリ言い張り席を立つ。樹生を上座であるソファ席へ自然な様子でエスコートした。長幼の序や礼儀を重んじるのは、親御さんや学生時代の指導者がしっかりした人なのだろう。そんなところも、樹生は好ましく思った。
「お疲れのところ、引止めてすみません」
帽子を脱ぎ、翔琉は頭を下げる。
「いえ、それは大丈夫です。ところで、クリニックではできない話って何ですか?」
「クリニックのリハビリとは別に、個人的に俺のトレーナーになっていただけませんか?」
思いがけない申し出を受けた樹生は絶句し、表情も動作も固まった。それをネガティブな反応として受け取った翔琉は、おずおずと言葉を重ね始めた。
「ご存じの通り、俺は今、普段通りの練習ができません。チーム練習に参加しても、俺だけ別メニューになってしまうので、みんなの足を引っ張って心苦しいんです。ただでさえ、普通の患者以上に頻繁にクリニックに押し掛けて、滝沢さんにご迷惑お掛けしてるのは分かってます。……だから、個人でのトレーニングを増やそうと思ってるんですけど、自分一人だと間違ったことしないか怖くて。滝沢さんに指導してもらいたいんです」
クリニックの外で翔琉と二人きりで会う。それを考えると樹生の胸は相反する感情に引っ張られる。自分にとって魅力的な同性と個人的に会えると思うとドキドキする反面、かつて翔琉と同じ社会人バスケ選手に迫られ、恋の歓びに浸った心を地面に叩きつけられて踏み躙られた悲しみや苦しみを嫌でも思い出してしまう。
困惑気味の表情を浮かべ言葉を失った樹生を前に、翔琉は急かしたりすることなく、礼儀正しく根気強く返事を待っている。
「……クリニックの外で、理学療法士が患者さんと、それも特定の一人とだけ個人的に会うのは、よろしくないと思います」
硬い表情のまま、もっともらしい言葉を並べ、樹生は翔琉の要望に応えるのを渋った。想定内の反応だったらしく、翔琉は無言で何度か頷きながら聞いている。
「そうですよね。他の患者さんの手前、個人的に俺のトレーナーをするなんて、抵抗あるでしょうし、大っぴらに言えない気持ちは、よく分かります。仮に引き受けてもらえたとしても、俺もクリニックでは一切口にする気はないです」
なおも返事をためらう樹生に、翔琉は身を乗り出して訴える。
「滝沢さんだからお願いしてるんです。ただPTだからってわけじゃなくて。いつも真剣に俺のリハビリに向き合ってくれるのはもちろんですけど、俺の気持ちが不安定なことも分かって、ちゃんと支えてくれるから。滝沢さんなら安心できる。俺、絶対一線に復帰したいんです。そのためには、滝沢さん。……あなたが必要なんです」
(温かい……)
翔琉が樹生の右手を、両手で押し頂くように握っている。咄嗟に身体が動いたのだろう。深い意味はないのだろうと頭では理解している。スポーツ選手はスキンシップで仲間意識を高めるので、同性の身体に触ることに抵抗が少ないからだ。
樹生の仕事ぶりや患者に接する態度を高く買ってくれたことは素直に嬉しかったし、翔琉の大きく厚みのある掌と長い指に優しく包み込まれる感触は、樹生を揺さぶる威力があった。仕事では身構えているから平然と患者に触れているが、仕事以外でハンサムな男性から手を握られるなんて、樹生の生活には滅多にないことだ。樹生は、翔琉の手の甲を見つめた。
(あー……、腱や血管が浮かび上がってる。男らしくて格好良い手だなぁ……)
樹生の気持ちの揺らぎを嗅ぎ取った翔琉は、手に力を込め、繰り返した。
「滝沢さん。俺を助けてくれませんか?」
熱烈に口説かれたようで樹生の鼓動は早まる。頬が熱い。
思わず樹生は首を縦に振った。こうして、プライベートでも翔琉のトレーナーを引き受けることになったのだった。
「滝沢君、岡田選手の相手、大変そうだねえ」
「私たち、筋トレに汗を流すイケメンを横目で眺めるだけで満足」
休憩室で女性の同僚たちは言いたい放題だ。黙って聞いていた理学療法士のチーフが、さり気なく樹生をねぎらってくれた。
「家庭教師と一緒で、生徒が向学心ある子だと大変だよね。宿題を用意しなきゃいけない。下手したら、家庭教師が宿題を持ち帰らなきゃいけない」
優しく、しかし少し心配げに見つめる彼に、樹生は微笑んだ。
「確かに岡田選手からの宿題は多いんですけど、彼ほど真剣にリハビリに向き合ってる患者さんは滅多にいないですから。それに、やってみてどうだったか詳しくフィードバックしてくれるので、僕もやり甲斐があるんです」
「うんうん。それなら良かった。ぜひスポーツリハビリの分野でスキルや経験を磨いて、このクリニックをリードするような存在になって欲しいって、院長も僕らも滝沢君に期待してるよ」
チーフは人の好い笑みを浮かべる。樹生は、曖昧に微笑んだ。
(そんなに立派な動機だけでこの仕事をやってるわけじゃないんだけどなぁ……)
そんなある日、リハビリに来た翔琉が、思いがけないことを切り出した。
「滝沢さん、ちょっとご相談があるんですけど。仕事の後、お時間いただけないすか」
「……それ、今、ここじゃダメですか?」
樹生は声をひそめ、目の前に立ちはだかる翔琉を上目遣いに窺った。彼はいつも通り表情を変えず、黙って頷く。
「分かりました。じゃあ駅前のカフェで待っててもらえますか。着替えたら行きます」
樹生は、あえて事務的に答えた。
最寄り駅前にあるセルフ方式のカフェに着くと、窓の外からでも翔琉の姿が分かった。アメリカの大学のロゴ入りスウェットと、ネイビーカラーのキャップという飾らない服装でも、鍛え上げられた筋肉を纏う百八十九センチの長身と長い手足では、スター選手のオーラは隠せない。周りの女性たちはチラチラ視線を送っているが、肝心の本人は、ワイヤレスイヤホンを嵌め、本に目を落としている。
コーヒーを手に翔琉の前に立つと、彼は樹生の存在に気付き慌てて立ち上がろうとした。
「あ、そのままで良いですよ」
「いえ。俺のほうが年下ですし、お願いしてる立場ですから。上座なんて申し訳ないので」
押し止めようとしたが、なおも翔琉はキッパリ言い張り席を立つ。樹生を上座であるソファ席へ自然な様子でエスコートした。長幼の序や礼儀を重んじるのは、親御さんや学生時代の指導者がしっかりした人なのだろう。そんなところも、樹生は好ましく思った。
「お疲れのところ、引止めてすみません」
帽子を脱ぎ、翔琉は頭を下げる。
「いえ、それは大丈夫です。ところで、クリニックではできない話って何ですか?」
「クリニックのリハビリとは別に、個人的に俺のトレーナーになっていただけませんか?」
思いがけない申し出を受けた樹生は絶句し、表情も動作も固まった。それをネガティブな反応として受け取った翔琉は、おずおずと言葉を重ね始めた。
「ご存じの通り、俺は今、普段通りの練習ができません。チーム練習に参加しても、俺だけ別メニューになってしまうので、みんなの足を引っ張って心苦しいんです。ただでさえ、普通の患者以上に頻繁にクリニックに押し掛けて、滝沢さんにご迷惑お掛けしてるのは分かってます。……だから、個人でのトレーニングを増やそうと思ってるんですけど、自分一人だと間違ったことしないか怖くて。滝沢さんに指導してもらいたいんです」
クリニックの外で翔琉と二人きりで会う。それを考えると樹生の胸は相反する感情に引っ張られる。自分にとって魅力的な同性と個人的に会えると思うとドキドキする反面、かつて翔琉と同じ社会人バスケ選手に迫られ、恋の歓びに浸った心を地面に叩きつけられて踏み躙られた悲しみや苦しみを嫌でも思い出してしまう。
困惑気味の表情を浮かべ言葉を失った樹生を前に、翔琉は急かしたりすることなく、礼儀正しく根気強く返事を待っている。
「……クリニックの外で、理学療法士が患者さんと、それも特定の一人とだけ個人的に会うのは、よろしくないと思います」
硬い表情のまま、もっともらしい言葉を並べ、樹生は翔琉の要望に応えるのを渋った。想定内の反応だったらしく、翔琉は無言で何度か頷きながら聞いている。
「そうですよね。他の患者さんの手前、個人的に俺のトレーナーをするなんて、抵抗あるでしょうし、大っぴらに言えない気持ちは、よく分かります。仮に引き受けてもらえたとしても、俺もクリニックでは一切口にする気はないです」
なおも返事をためらう樹生に、翔琉は身を乗り出して訴える。
「滝沢さんだからお願いしてるんです。ただPTだからってわけじゃなくて。いつも真剣に俺のリハビリに向き合ってくれるのはもちろんですけど、俺の気持ちが不安定なことも分かって、ちゃんと支えてくれるから。滝沢さんなら安心できる。俺、絶対一線に復帰したいんです。そのためには、滝沢さん。……あなたが必要なんです」
(温かい……)
翔琉が樹生の右手を、両手で押し頂くように握っている。咄嗟に身体が動いたのだろう。深い意味はないのだろうと頭では理解している。スポーツ選手はスキンシップで仲間意識を高めるので、同性の身体に触ることに抵抗が少ないからだ。
樹生の仕事ぶりや患者に接する態度を高く買ってくれたことは素直に嬉しかったし、翔琉の大きく厚みのある掌と長い指に優しく包み込まれる感触は、樹生を揺さぶる威力があった。仕事では身構えているから平然と患者に触れているが、仕事以外でハンサムな男性から手を握られるなんて、樹生の生活には滅多にないことだ。樹生は、翔琉の手の甲を見つめた。
(あー……、腱や血管が浮かび上がってる。男らしくて格好良い手だなぁ……)
樹生の気持ちの揺らぎを嗅ぎ取った翔琉は、手に力を込め、繰り返した。
「滝沢さん。俺を助けてくれませんか?」
熱烈に口説かれたようで樹生の鼓動は早まる。頬が熱い。
思わず樹生は首を縦に振った。こうして、プライベートでも翔琉のトレーナーを引き受けることになったのだった。
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