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化け物
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「ねえ、阿兎は何処まで行っているの!? まだ戻んないの? 時間かかりすぎじゃない!?」
女狐は廃寺を出たり入ったりしながら、同じ言葉を何回も何回も繰り返していた。
「うぜえ」
その落ち着きのなさに苛ついた緑の口から、ぽろっと悪態が出た。
「何!?」
女狐の耳はその悪態を聞き逃さなかった。
「うぜえ、って何? うぜえって? あんたは自分の弟が心配じゃないの!?」
「ああ?」
緑は女狐をギロリと睨んだ。
「心配はしている。ただ、お前の心配とは違う」
「どういうこと」
「こんな簡単なことすらできなかったらどうするっていうことだよ」
「簡単? そんなわけないでしょ。あんな子どもに斥候なんて」
「子どもだからだよ」
「どういうこと?」
「お前だって、ガキには大したことができないって思ってるだろ? ガキを警戒する大人はほとんどいない」
確かに、と女狐は思った。
「だから、譚家じゃ、ガキは大人を欺く仕事をする。その一つが斥候だ――あと、敵の寝首を掻くとか」
“寝首を掻く”という言葉で、女狐は顔色を変えた。
「ああ、心配すんな。爺さんはその手の技を好んでたけど、親父は真っ向勝負が好きでね。俺らの代はそんなことあんまりしてない。第一、弟はこの周囲の状況を探りに行っただけで、敵の首を上げにいっているわけじゃない」
「そう、だよね」
緑の言葉に、女狐はほっと息をついた。
「問題はそこじゃない。あいつはあの年で初陣もまだ。斥候だって今回が初めてだ。今まで甘やかしすぎた」
「甘やかしって、まだ十かそこらでしょ」
「もう十なんだよ。うちの一族はあいつの半分の年齢で戦場に立つ。俺があいつぐらいだった頃、戦場に立った数は二桁を超えていたし、それ以上の首級も上げてた」
「その頃って、ちょうど鉄勒との戦いが一番盛り上がってた頃だったな」
馬の手入れをしていた公子が横から言った。
「それまではずっと一緒にいたのに、急に遠くへ行って、帰ってこなくなったもんなぁ。寂しかったよ」
「その言葉、女に言われたらサイコーだったのに。ザンネン」
笑いながら緑が言った。
「てか、公子。あの頃、俺のことただの遊び相手としか思ってなかったでしょ」
「それは最初だけだよ」
公子も笑いながら言った。
「政変の頃は今以上に命を狙われてただろ。その度、お前が自分の倍は大きい刺客を次々倒していくのは、見てて気持ちよかったよ」
「緑さん、すごかったんだ」
「まあな」
得意げに緑は言った。
「あん時は体の小さいガキだったから良かったんだよ」
「え? どういうこと?」
「言っただろ、ガキだから相手は油断する。万全を期する必要は無いと思うから、最低限の戦力で来る。そこを返り討ちに――」
緑は刀で敵を斬り付ける動作をし、女狐は反射的にそれを避けた。
「うわ、びっくりした」
女狐の呟きを聞いて、緑は得意そうに剣術の型をいくつか見せた。体もだいぶ回復してきたようだ。
「こんな風に、譚家の男は下の毛が生える前から立派な戦士なんだよ」
「おう、お嬢さんの前でちょっと下品な言い方は止めた方が……」
公子が緑の言い方に苦言を呈した。
「下品? どこが?」
女狐はキョトンとしながら言った。
「おや、狐姑娘は下ネタいけるクチ?」
嬉しそうに瞳を輝かせながら緑は訊いた。
「いけるも何も――もっと過激な話が飛び交う中で生まれ育ったからねぇ」
しみじみ言う女狐に、緑はああ、と納得したような声を上げた。
「だからか。こんなむさ苦しい男連中の中によく平気でいられるなと思ってたけど、男に慣れてるんだ」
「慣れてるっていうとそうなのかなあ。家を出てかなりになるけど、どこに行っても、割と上手くやってきたと思うよ」
「家業は……?」
「多少は手伝ったけどね。ああいう生き方は性に合わなかったから……」
妖狐たちにとって人との媾合は、ただの捕食行為にしか過ぎない。人の精気を奪うのに、一番効率的な方法が媾合だからだ。
同じ行為でも、性欲のためと食欲のためでは意味合いが違う。だから彼女の言わんとすることと、緑の言わんとすることは微妙にずれていた。だが、互いにそのずれに気づかないまま会話は進んでいった。
「まあ、それでよかったんじゃない。どう見ても向いてない」
「向いてない?」
「だって、狐姑娘、ガリガリじゃん。どう見ても抱き心地がいいとは……」
「失礼ね」
女狐はさっきのお返しとばかり、軽く蹴りをするフリをした。
「しかも悔しいけど、否定できないし」
彼女は、紫陽に会うまではできるだけ精気を吸わないように生きてきた。そのため、本身がとても小さいのだ。妖狐が人の形を取るとき、自然と本身に近い形になる。もちろん、本身とかけ離れた形に変化することもできるが、その分、妖力も消耗する。だから彼女は本身と同じ、小柄で華奢な人の姿をとっていた。そしてその姿のまま、妖力を捨て人となったのだ。
「いやいや、ここは脱いだら……とか言ってくれると面白い」
「は? 何その夢想」
こんな感じで、打々発止のやり取りをしていたところに、馬に乗った蒼が戻ってきた。
「――お前たち、公子の前でいかがわしい会話するなよ」
馬から下りるや否や、静かに怒りながら蒼は言った。
「これはこれは、若先生、お帰りなさい」
緑は半分巫山戯ながら、拱手してあいさつした。
「お帰りなさいって……何? 蒼さんも出かけてたの? ……影薄いから全然気づかなかった」
馬に乗って現れた蒼に驚きながら女狐は言った。
「道理で朝から騒いでいても怒られなかったわけだ。出かけてたんだね」
「――私はそんなに影薄いか?」
「うん」
その言葉に、蒼はショックを隠しきれなかった。
「あ、でも、ほら、それが蒼さんの良いところでもあるから。気にしない気にしない」
女狐は必死に言い訳をしながら後ずさりをした。蒼が馬の手綱を引きながら近づいてきたからだ。
「あ、そうだ阿兎! 気になるからちょっと様子を見てくる」
そしてそのまま森の方へ駆け出していった。
「ったくあいつは……」
その後ろ姿を見ながら、蒼は呆れたように呟いた。緑は笑いを堪えるのに必死になりながら、蒼の乗っていた馬を繋ぎに公子の側に行った。
「彼女、公子以上の問題児っすね」
そう、公子に耳打ちすると、互いに堪えきれなくなって大爆笑した。
「そうやって人を笑いものにするんだ」
二人の様子を見て、不機嫌そうに蒼が呟いた。
「悪い悪い」
必死に息をしながら緑は謝った。
「ところで、用は済んだのか?」
「ああ」
蒼は懐から巾着袋を取り出すと、緑に渡した。
「この先、移動が続くから煎じ薬より丸薬の方がいいだろ? 効き目は弱くなるらしいが」
「そうだな。助かる。この薬がなくなるのが早いのか、俺の命が尽きるのが早いのか……」
緑は丸薬を見ながらぽつりと呟いた。
「――城市の方に行ってきたのか?」
丸薬の袋を握りしめながら蒼に訊いた。
「いや。この領地で済ますことがあったついでに用意してもらった」
緑は頷きながら蒼の肩を叩いた。
「悪いな。全部お前に苦労させる」
「苦労じゃないさ、こんなこと」
静かに笑いながら蒼は言った。
阿兎が戻ってきたのは、日が暮れてからだった。
「喉渇いた! 腹減った!」
夜明け前に出発したあと、ほとんど休憩無しで回っていたらしい。
「用意してた水、あっという間に無くなっちゃったから、まじ、ヤバかったあ」
そう言いながら浴びるように水を飲んだ。その横で、緑は阿兎が書いた周辺図を見ていた。
「よく馬が保ったな」
「うん? 蒼兄さんの伝手で、駱駝借りられたから、日中は駱駝で回ってた」
「ふうん。これからは自力で用意するんだな」
緑は周辺図を丸め、それでポンと阿兎の頭を叩いた。
「だが、内容は初めてにしちゃよくできてる。なんとか合格だな、ご当主」
阿兎の頭をクシャクシャなでると、その周辺図を蒼に渡した。
「若先生、やっぱりもう包囲されてるな」
蒼は受け取って中身を見ると、大きく溜め息をついた。
「伯父上の本気が出てる」
阿兎の周辺図を元に、蒼は棒で地面に図を書き出した。
「これはただの包囲じゃない。この包囲を抜けられるのはただ一カ所、輪台へ向かう道だ」
「どういうこと?」
蒼の書いた図を覗き込みながら女狐が訊いた。
「これは九軍八陣法の応用なんだが、政変のときに高昌城を奪還したときに使ったものだ。相手の動きに合わせて兵を動かし、逃げ道を塞ぐ」
「それで、逃げ道を一つだけ用意して、そこに来た敵を徹底的に叩くわけね」
「そうだ。しかも高昌城市へ向かう道じゃなく、輪台にしたのは、“逃げられるものならやってみろ”っていう意味だ」
「へえ」
「緑の病気のことも、高昌軍に伝わってるから、十分に叩き潰せると踏んだんだろう」
「そうなの?」
「ああ、山で化け物が出なかったらとっくに捕まってたっていう話になってる」
「化け物?」
「化け物」
不思議そうにしている女狐を、示し合わせたように全員で見つめた。その視線で、女狐はハッと察した。
「何? 私のこと!?」
妖力ではなく、道士から習った技を使っただけなのに……妖狐だった頃は一度も“化け物”なんていわれたことないのに、なんで人になった今、化け物呼ばわりされるのかと女狐は納得できなかった。
「ったく失礼な」
プリプリ怒りながら、蒼の書いた図の上に枝をブスブス突き刺した。
「ところで、なんで蒼さん、そんな話を知ってるの?」
「ああ? さっき、いろいろ聞いてきた」
彼は一体何をしていたのか、女狐は皆目見当がつかなかった。
「逆を返せば、相手もこっちのこといろいろ知っているわけだ」
「ふうん……じゃあ、私のことも言った?」
「いや、お互い秘密なんだろ。そこは弁えてるよ」
つまり、化け物と一緒にいることは、相手方は知らないわけだと女狐は思った。
「ねえ、九軍八陣ってかなり高度な兵法だけど、高昌兵って実力あるの?」
「いや、カスの寄せ集め」
女狐の疑問に緑は即答した。
「将校連中は世襲の官僚だし、下は府兵(徴兵)のド素人しかいない。そもそも高昌国自体、他国と戦をすることがないからな。この辺の国は西突厥が防備してる。西突厥が後ろ盾にある以上、この国の軍隊は強くなる必要がない。名前だけの軍しかないから、先王が隋に行く際に、譚家がこの国に呼ばれたんだ」
「じゃあ、九軍八陣なんて無理じゃん」
「だな。そもそも十年前の高昌城包囲は譚家でやった。一応、張将軍の指示はあったが、俺たちは勘で動くからなあ、兵法なんてどうでも良い感じだったな」
「緑さん、参加してたの?」
「ああ、こんな面白いこと、指くわえて見てるなんて有り得ないだろ。二人の護衛はほかに任せて親父にくっついて最前線にいった」
「じゃあ、この陣形は……」
「おそらくは」
緑は蒼の顔を見た。
「伯父から甥っ子への手紙だろ。無駄な抵抗は止めて帰ってこいっていう」
その言葉に、蒼は顔を真っ赤にし、左の掌で顔を覆った。
「そうか……」
「お前、報告やらなんやらで高昌や輪台へ行くたび、伯父さんからあの戦いの話をよく聞かされてたんだろ」
「ああ」
「だから、へっぽこ兵士たちで、形だけ再現したんだ」
蒼は深く息を吐いた。
「だけど、この手紙を受け取る前に断ってきたよ。十年前から決めてたことだから」
そして、掌を顔から離すと、すぐ横に女狐の顔があって驚いた。女狐は彼の肩をトンと叩いた。
「じゃあ、この陣、破って大丈夫なのね」
「狐姑娘、九軍八陣法が解るのか?」
「解るっていうか、刑部尚書(李靖)の陣形をこの目で見たことあって、その時に紫陽先生からいろいろ教えてもらった」
「刑部尚書?」
「東突厥討伐の行軍総管」
「ああ、あの李将軍か。ということは、あの六花陣を生で見たって事か」
羨ましそうに緑が言った。
「うん。先生曰く、古今東西でもっとも九軍八陣を極めた人だってね、あの方は」
李靖は太宗の二十四功臣の一人であり、李勣に並んで名将の誉れが高い武人である。その彼が長年にわたる研究の末生み出したのが六花陣。九軍八陣の究極の形とも言えるこの陣で、東突厥を滅ぼすなど数々の武功を上げた。
「で、一糸乱れぬ動きを一兵卒にいたるまで実現するために、どこよりも軍規が厳しくて、調練もほかの何十倍もやるんだって。そうまでして初めて九軍八陣法は完成する。付け焼き刃でできるもんじゃないんだよね」
女狐は言葉を続けた。
「だから、化け物なんかでたら、簡単に崩れるはず」
「化け物?」
「そう化け物」
彼女は自分を指さした。
「噂になってるんだったら、それなりのこと、してあげないとねぇ」
女狐はニヤリと笑った。
「それはいいな」
緑も面白そうに笑った。
「化け物って、そんなこと――」
公子が止めようとしたが、女狐には聞く耳がなかった。
「あ、初めて会ったときに来てた服ってどこいったっけ?」
「どこって、お前、脱ぎっぱなしで放っておいただろ。畳んで片付けてある」
呆れたように蒼が言った。
「ほんと? ありがと。見てくる」
女狐はさっと立つと、服を探しに行った。
「あった! けど、虫が食ってる。虫食いって、二、三日でできるものなの?」
「知るか! もともと食ってたんじゃないのか」
半分切れながら蒼が言った。
「そうなのかなあ」
「化け物なんだろ、虫食いがあったほうがらしくて良いだろ」
「確かに。そだね。あ、出会ったときの髪の毛って、私、どうしてたんだろ」
「こっちが聞きたいわ。どうしたらあんなボサボサになるんだ?」
「えっと……あの時は、暑いから、頭に水ぶっかけて、そのまま埃だらけの道を歩いてた。そっか、またそうすれば良いんだ」
「――もう、勘弁してくれ」
蒼と女狐が夫婦漫才のような会話をしている様を見ながら、公子は心配そうに緑に言った。
「良いのか? お嬢さん一人に危険な目を」
「まあ、彼女なら大丈夫そうだし。何より俺がいますから」
「隊長?」
「こんな面白そうなこと、俺がやらないわけないでしょ。一緒にバケモンになってみますよ。だから公子、心配無用です」
その言葉に、公子は少し安心した。
気がつけば、二、三日が経過していた。
指揮官の話だと、包囲を布いたときは、すぐにでも終わるような話だったのが、動きがないまま時間だけが過ぎていった。上からの指示は要領を得ず、兵士達の不満と疲労はたまる一方だった。
「なあ、いつまでこれ続けるんだ」
「知らねえよ。王子がここにいるっての、結局ガセだったんじゃね」
立っているのも嫌になった歩兵達が、しゃがみながら愚痴を言い合っていた。
「じゃ、どこにいるんだよ」
「とっくに国境を越えてるんじゃね?」
「いや、案外、化け物にでも食い殺されたんじゃ……」
「なんだよそれ」
「そうよ、失礼な。食べるわけないじゃない」
歩兵達の耳元に、若い娘の声が響いた。
彼らは驚いて顔を上げると、ボサボサ頭の奇妙ななりをした娘が、彼らの後ろに立っていた。彼女はニコリと笑うと、大きく飛び上がってどこかへ消えた。
「な、何だ? 今の……」
彼らが辺りを見回すと、百歩ほど離れた場所に、さっきの娘がいてこちらに向かって手を振っていた。一瞬で移動できる距離ではない。歩兵達の背筋に寒いものが走った。
と、次の瞬間ふわっと浮き上がると、再び自分たちの目の前に表れた。歩兵達は、大きな悲鳴を上げ、散り散りに逃げたした。
悲鳴を聞いて、近くに配置されていた歩兵達が、様子を見に来た。彼女――女狐はこちらに向かってくる一人の兵士に目を付けると、そちらに向かって飛び跳ね、勢いのまま軽く蹴った。
軽くとは言え、大きく飛ばされた兵士は、そのまま近くにいた兵士達を将棋倒しにして止まった。
それを見たほかの兵士達は、恐慌状態に陥った。右往左往する兵士達の間を、女狐は飛び回って相手を驚かせ続けた。
(やばい、楽しい)
彼女は、下等な妖狐たちが人を驚かして悦に入るのを正直馬鹿にしていた。しかし、それが結構楽しいことに気づいてしまった。
(もう、上品の妖狐じゃないんだもんね。化け物のフリして楽しんでるただの人間――だから思いっきり!)
彼女は息の続く限り、歩兵達の間を飛び回ってやろうと思った。しかし、同時に周辺への注意を怠っていた。
この騒ぎを聞きつけた将校達も徐々に集まってきていたのだ。騎兵である彼らは歩兵よりも機動力がある。何より彼女は馬が苦手。無意識に馬を避けようとしているうちに、逃げ道を塞がれ囲まれてしまった。
退路が見つからず、狼狽えているところに、彼女に向かって一斉に矢が放たれた。
まずいと思ったその時、彼女の目の前が暗くなり、放たれた矢が一斉になぎ払われた。
「あっぶね。間に合った」
彼女の前には、黒装束に身を包んだ緑がいた。顔も黒い覆面で覆われており、翡翠色の瞳が黒の中に映えていた。
「コイツらはそれなりに訓練してるからな。狐姑娘の手に余る。あとはこっちに任せろ」
そう言ながら、彼は剣を一閃した。と同時に、数体の馬がどっと倒れ込んだ。放り出された兵士は、慌てた別の馬に踏み潰され、辺りは阿鼻叫喚の地獄のようになった。
緑は動じることなく、剣を大きく振って馬でも人でもどんどん斬り捨て、囲みを解いていった。
(一撃一撃が重いんだ)
緑の動きを見ながら、女狐はそう思った。彼の剣を一言でいうなら“剛”だ。
以前見た驪龍の動きは“流”。滑らかに止まることなく動き、敵を倒していく。対して緑は一撃に込められた力が大きい。強靱な肉体から繰り出される一太刀は力強く敵をなぎ倒していく。
(この人、本当に強い)
まだ本来の六割ほどしか力が出ないとは言っていた。それでも、高昌の兵士達を圧倒する強さがあった。
しかし、騒ぎが大きくなるにつれて兵士の数が増えてくると、彼の動きも落ちてきた。斬っても斬っても数が尽きない中で、女狐は彼の息がだいぶ上がってきていることに気づいた。
彼女は大きく飛び上がって、緑の側にいた兵士を何人か蹴り飛ばした。
緑は驚いて彼女を見た。
「緑さん、もうちょっとだけ、一緒にがんばろ」
公子達が西へ抜けるまで、兵士達を引きつける。それが二人の役目。
「できるだけ緑さんの動きに合わせてみる」
そう言うと、女狐はまた大きく飛び上がった。
混戦状態が功を奏した。同士討ちを避けるために弓矢は使われなくなっており、騎兵達も攻撃より態勢を整える方に奮闘していた。彼女が飛び回って敵を蹴り倒す隙が充分あったのだ。
どれほどの兵士を倒しただろうか。
二人の動きも息が合ってきて、兵士達の集団をどんどん東の荒野へ誘導できていた。
(まだかな……)
自分たちはどんどん公子達から遠ざかっていく。離れすぎると合流が難しくなるのではないかと、女狐は不安を感じ始めていた。
「――姐さん!」
阿兎の声が響いた。
来た――そう思った瞬間、彼女の体は宙に浮いた。
全速力で馬を駆ってきた阿兎が、スピードを緩めることなく体を斜めにし、そのまま彼女を拾い上げたのだ。
不安定な態勢のまま、彼女は必死に阿兎にしがみついた。
「このまま、一気に西に行くよ」
女狐を抱えたまま、阿兎が言った。女狐は落ちないようにするのが精一杯で、返事をする余裕もなかった。緑も手近な馬を奪って自分たちに併走していることにも、気づく余裕がなかった。
「公子達とは予定どおり無半で落ち合う」
緑の声を聞いて、初めて女狐は彼が側にいることに気づいた。
彼が言った無半は、篤進の手前にある城市で、ここからだいたい百里。馬で一日はかかる距離だ。
「狐姑娘、安心しな。俺たちは倍の速さで行くから、ちょっとの辛抱さ」
そう言いながら、落ちかかった彼女の腰を押し上げた。
(倍って言っても、半日はかかるじゃない)
そう緑に反論したかったが、口を開く余裕もなかった。
「大丈夫だって、落ちたらちゃんと拾うから」
(拾うって、私は物じゃない!)
無事、無半についたら、今言えなかった文句を、百倍にして緑にぶつけてやると、女狐は強く誓った。
女狐は廃寺を出たり入ったりしながら、同じ言葉を何回も何回も繰り返していた。
「うぜえ」
その落ち着きのなさに苛ついた緑の口から、ぽろっと悪態が出た。
「何!?」
女狐の耳はその悪態を聞き逃さなかった。
「うぜえ、って何? うぜえって? あんたは自分の弟が心配じゃないの!?」
「ああ?」
緑は女狐をギロリと睨んだ。
「心配はしている。ただ、お前の心配とは違う」
「どういうこと」
「こんな簡単なことすらできなかったらどうするっていうことだよ」
「簡単? そんなわけないでしょ。あんな子どもに斥候なんて」
「子どもだからだよ」
「どういうこと?」
「お前だって、ガキには大したことができないって思ってるだろ? ガキを警戒する大人はほとんどいない」
確かに、と女狐は思った。
「だから、譚家じゃ、ガキは大人を欺く仕事をする。その一つが斥候だ――あと、敵の寝首を掻くとか」
“寝首を掻く”という言葉で、女狐は顔色を変えた。
「ああ、心配すんな。爺さんはその手の技を好んでたけど、親父は真っ向勝負が好きでね。俺らの代はそんなことあんまりしてない。第一、弟はこの周囲の状況を探りに行っただけで、敵の首を上げにいっているわけじゃない」
「そう、だよね」
緑の言葉に、女狐はほっと息をついた。
「問題はそこじゃない。あいつはあの年で初陣もまだ。斥候だって今回が初めてだ。今まで甘やかしすぎた」
「甘やかしって、まだ十かそこらでしょ」
「もう十なんだよ。うちの一族はあいつの半分の年齢で戦場に立つ。俺があいつぐらいだった頃、戦場に立った数は二桁を超えていたし、それ以上の首級も上げてた」
「その頃って、ちょうど鉄勒との戦いが一番盛り上がってた頃だったな」
馬の手入れをしていた公子が横から言った。
「それまではずっと一緒にいたのに、急に遠くへ行って、帰ってこなくなったもんなぁ。寂しかったよ」
「その言葉、女に言われたらサイコーだったのに。ザンネン」
笑いながら緑が言った。
「てか、公子。あの頃、俺のことただの遊び相手としか思ってなかったでしょ」
「それは最初だけだよ」
公子も笑いながら言った。
「政変の頃は今以上に命を狙われてただろ。その度、お前が自分の倍は大きい刺客を次々倒していくのは、見てて気持ちよかったよ」
「緑さん、すごかったんだ」
「まあな」
得意げに緑は言った。
「あん時は体の小さいガキだったから良かったんだよ」
「え? どういうこと?」
「言っただろ、ガキだから相手は油断する。万全を期する必要は無いと思うから、最低限の戦力で来る。そこを返り討ちに――」
緑は刀で敵を斬り付ける動作をし、女狐は反射的にそれを避けた。
「うわ、びっくりした」
女狐の呟きを聞いて、緑は得意そうに剣術の型をいくつか見せた。体もだいぶ回復してきたようだ。
「こんな風に、譚家の男は下の毛が生える前から立派な戦士なんだよ」
「おう、お嬢さんの前でちょっと下品な言い方は止めた方が……」
公子が緑の言い方に苦言を呈した。
「下品? どこが?」
女狐はキョトンとしながら言った。
「おや、狐姑娘は下ネタいけるクチ?」
嬉しそうに瞳を輝かせながら緑は訊いた。
「いけるも何も――もっと過激な話が飛び交う中で生まれ育ったからねぇ」
しみじみ言う女狐に、緑はああ、と納得したような声を上げた。
「だからか。こんなむさ苦しい男連中の中によく平気でいられるなと思ってたけど、男に慣れてるんだ」
「慣れてるっていうとそうなのかなあ。家を出てかなりになるけど、どこに行っても、割と上手くやってきたと思うよ」
「家業は……?」
「多少は手伝ったけどね。ああいう生き方は性に合わなかったから……」
妖狐たちにとって人との媾合は、ただの捕食行為にしか過ぎない。人の精気を奪うのに、一番効率的な方法が媾合だからだ。
同じ行為でも、性欲のためと食欲のためでは意味合いが違う。だから彼女の言わんとすることと、緑の言わんとすることは微妙にずれていた。だが、互いにそのずれに気づかないまま会話は進んでいった。
「まあ、それでよかったんじゃない。どう見ても向いてない」
「向いてない?」
「だって、狐姑娘、ガリガリじゃん。どう見ても抱き心地がいいとは……」
「失礼ね」
女狐はさっきのお返しとばかり、軽く蹴りをするフリをした。
「しかも悔しいけど、否定できないし」
彼女は、紫陽に会うまではできるだけ精気を吸わないように生きてきた。そのため、本身がとても小さいのだ。妖狐が人の形を取るとき、自然と本身に近い形になる。もちろん、本身とかけ離れた形に変化することもできるが、その分、妖力も消耗する。だから彼女は本身と同じ、小柄で華奢な人の姿をとっていた。そしてその姿のまま、妖力を捨て人となったのだ。
「いやいや、ここは脱いだら……とか言ってくれると面白い」
「は? 何その夢想」
こんな感じで、打々発止のやり取りをしていたところに、馬に乗った蒼が戻ってきた。
「――お前たち、公子の前でいかがわしい会話するなよ」
馬から下りるや否や、静かに怒りながら蒼は言った。
「これはこれは、若先生、お帰りなさい」
緑は半分巫山戯ながら、拱手してあいさつした。
「お帰りなさいって……何? 蒼さんも出かけてたの? ……影薄いから全然気づかなかった」
馬に乗って現れた蒼に驚きながら女狐は言った。
「道理で朝から騒いでいても怒られなかったわけだ。出かけてたんだね」
「――私はそんなに影薄いか?」
「うん」
その言葉に、蒼はショックを隠しきれなかった。
「あ、でも、ほら、それが蒼さんの良いところでもあるから。気にしない気にしない」
女狐は必死に言い訳をしながら後ずさりをした。蒼が馬の手綱を引きながら近づいてきたからだ。
「あ、そうだ阿兎! 気になるからちょっと様子を見てくる」
そしてそのまま森の方へ駆け出していった。
「ったくあいつは……」
その後ろ姿を見ながら、蒼は呆れたように呟いた。緑は笑いを堪えるのに必死になりながら、蒼の乗っていた馬を繋ぎに公子の側に行った。
「彼女、公子以上の問題児っすね」
そう、公子に耳打ちすると、互いに堪えきれなくなって大爆笑した。
「そうやって人を笑いものにするんだ」
二人の様子を見て、不機嫌そうに蒼が呟いた。
「悪い悪い」
必死に息をしながら緑は謝った。
「ところで、用は済んだのか?」
「ああ」
蒼は懐から巾着袋を取り出すと、緑に渡した。
「この先、移動が続くから煎じ薬より丸薬の方がいいだろ? 効き目は弱くなるらしいが」
「そうだな。助かる。この薬がなくなるのが早いのか、俺の命が尽きるのが早いのか……」
緑は丸薬を見ながらぽつりと呟いた。
「――城市の方に行ってきたのか?」
丸薬の袋を握りしめながら蒼に訊いた。
「いや。この領地で済ますことがあったついでに用意してもらった」
緑は頷きながら蒼の肩を叩いた。
「悪いな。全部お前に苦労させる」
「苦労じゃないさ、こんなこと」
静かに笑いながら蒼は言った。
阿兎が戻ってきたのは、日が暮れてからだった。
「喉渇いた! 腹減った!」
夜明け前に出発したあと、ほとんど休憩無しで回っていたらしい。
「用意してた水、あっという間に無くなっちゃったから、まじ、ヤバかったあ」
そう言いながら浴びるように水を飲んだ。その横で、緑は阿兎が書いた周辺図を見ていた。
「よく馬が保ったな」
「うん? 蒼兄さんの伝手で、駱駝借りられたから、日中は駱駝で回ってた」
「ふうん。これからは自力で用意するんだな」
緑は周辺図を丸め、それでポンと阿兎の頭を叩いた。
「だが、内容は初めてにしちゃよくできてる。なんとか合格だな、ご当主」
阿兎の頭をクシャクシャなでると、その周辺図を蒼に渡した。
「若先生、やっぱりもう包囲されてるな」
蒼は受け取って中身を見ると、大きく溜め息をついた。
「伯父上の本気が出てる」
阿兎の周辺図を元に、蒼は棒で地面に図を書き出した。
「これはただの包囲じゃない。この包囲を抜けられるのはただ一カ所、輪台へ向かう道だ」
「どういうこと?」
蒼の書いた図を覗き込みながら女狐が訊いた。
「これは九軍八陣法の応用なんだが、政変のときに高昌城を奪還したときに使ったものだ。相手の動きに合わせて兵を動かし、逃げ道を塞ぐ」
「それで、逃げ道を一つだけ用意して、そこに来た敵を徹底的に叩くわけね」
「そうだ。しかも高昌城市へ向かう道じゃなく、輪台にしたのは、“逃げられるものならやってみろ”っていう意味だ」
「へえ」
「緑の病気のことも、高昌軍に伝わってるから、十分に叩き潰せると踏んだんだろう」
「そうなの?」
「ああ、山で化け物が出なかったらとっくに捕まってたっていう話になってる」
「化け物?」
「化け物」
不思議そうにしている女狐を、示し合わせたように全員で見つめた。その視線で、女狐はハッと察した。
「何? 私のこと!?」
妖力ではなく、道士から習った技を使っただけなのに……妖狐だった頃は一度も“化け物”なんていわれたことないのに、なんで人になった今、化け物呼ばわりされるのかと女狐は納得できなかった。
「ったく失礼な」
プリプリ怒りながら、蒼の書いた図の上に枝をブスブス突き刺した。
「ところで、なんで蒼さん、そんな話を知ってるの?」
「ああ? さっき、いろいろ聞いてきた」
彼は一体何をしていたのか、女狐は皆目見当がつかなかった。
「逆を返せば、相手もこっちのこといろいろ知っているわけだ」
「ふうん……じゃあ、私のことも言った?」
「いや、お互い秘密なんだろ。そこは弁えてるよ」
つまり、化け物と一緒にいることは、相手方は知らないわけだと女狐は思った。
「ねえ、九軍八陣ってかなり高度な兵法だけど、高昌兵って実力あるの?」
「いや、カスの寄せ集め」
女狐の疑問に緑は即答した。
「将校連中は世襲の官僚だし、下は府兵(徴兵)のド素人しかいない。そもそも高昌国自体、他国と戦をすることがないからな。この辺の国は西突厥が防備してる。西突厥が後ろ盾にある以上、この国の軍隊は強くなる必要がない。名前だけの軍しかないから、先王が隋に行く際に、譚家がこの国に呼ばれたんだ」
「じゃあ、九軍八陣なんて無理じゃん」
「だな。そもそも十年前の高昌城包囲は譚家でやった。一応、張将軍の指示はあったが、俺たちは勘で動くからなあ、兵法なんてどうでも良い感じだったな」
「緑さん、参加してたの?」
「ああ、こんな面白いこと、指くわえて見てるなんて有り得ないだろ。二人の護衛はほかに任せて親父にくっついて最前線にいった」
「じゃあ、この陣形は……」
「おそらくは」
緑は蒼の顔を見た。
「伯父から甥っ子への手紙だろ。無駄な抵抗は止めて帰ってこいっていう」
その言葉に、蒼は顔を真っ赤にし、左の掌で顔を覆った。
「そうか……」
「お前、報告やらなんやらで高昌や輪台へ行くたび、伯父さんからあの戦いの話をよく聞かされてたんだろ」
「ああ」
「だから、へっぽこ兵士たちで、形だけ再現したんだ」
蒼は深く息を吐いた。
「だけど、この手紙を受け取る前に断ってきたよ。十年前から決めてたことだから」
そして、掌を顔から離すと、すぐ横に女狐の顔があって驚いた。女狐は彼の肩をトンと叩いた。
「じゃあ、この陣、破って大丈夫なのね」
「狐姑娘、九軍八陣法が解るのか?」
「解るっていうか、刑部尚書(李靖)の陣形をこの目で見たことあって、その時に紫陽先生からいろいろ教えてもらった」
「刑部尚書?」
「東突厥討伐の行軍総管」
「ああ、あの李将軍か。ということは、あの六花陣を生で見たって事か」
羨ましそうに緑が言った。
「うん。先生曰く、古今東西でもっとも九軍八陣を極めた人だってね、あの方は」
李靖は太宗の二十四功臣の一人であり、李勣に並んで名将の誉れが高い武人である。その彼が長年にわたる研究の末生み出したのが六花陣。九軍八陣の究極の形とも言えるこの陣で、東突厥を滅ぼすなど数々の武功を上げた。
「で、一糸乱れぬ動きを一兵卒にいたるまで実現するために、どこよりも軍規が厳しくて、調練もほかの何十倍もやるんだって。そうまでして初めて九軍八陣法は完成する。付け焼き刃でできるもんじゃないんだよね」
女狐は言葉を続けた。
「だから、化け物なんかでたら、簡単に崩れるはず」
「化け物?」
「そう化け物」
彼女は自分を指さした。
「噂になってるんだったら、それなりのこと、してあげないとねぇ」
女狐はニヤリと笑った。
「それはいいな」
緑も面白そうに笑った。
「化け物って、そんなこと――」
公子が止めようとしたが、女狐には聞く耳がなかった。
「あ、初めて会ったときに来てた服ってどこいったっけ?」
「どこって、お前、脱ぎっぱなしで放っておいただろ。畳んで片付けてある」
呆れたように蒼が言った。
「ほんと? ありがと。見てくる」
女狐はさっと立つと、服を探しに行った。
「あった! けど、虫が食ってる。虫食いって、二、三日でできるものなの?」
「知るか! もともと食ってたんじゃないのか」
半分切れながら蒼が言った。
「そうなのかなあ」
「化け物なんだろ、虫食いがあったほうがらしくて良いだろ」
「確かに。そだね。あ、出会ったときの髪の毛って、私、どうしてたんだろ」
「こっちが聞きたいわ。どうしたらあんなボサボサになるんだ?」
「えっと……あの時は、暑いから、頭に水ぶっかけて、そのまま埃だらけの道を歩いてた。そっか、またそうすれば良いんだ」
「――もう、勘弁してくれ」
蒼と女狐が夫婦漫才のような会話をしている様を見ながら、公子は心配そうに緑に言った。
「良いのか? お嬢さん一人に危険な目を」
「まあ、彼女なら大丈夫そうだし。何より俺がいますから」
「隊長?」
「こんな面白そうなこと、俺がやらないわけないでしょ。一緒にバケモンになってみますよ。だから公子、心配無用です」
その言葉に、公子は少し安心した。
気がつけば、二、三日が経過していた。
指揮官の話だと、包囲を布いたときは、すぐにでも終わるような話だったのが、動きがないまま時間だけが過ぎていった。上からの指示は要領を得ず、兵士達の不満と疲労はたまる一方だった。
「なあ、いつまでこれ続けるんだ」
「知らねえよ。王子がここにいるっての、結局ガセだったんじゃね」
立っているのも嫌になった歩兵達が、しゃがみながら愚痴を言い合っていた。
「じゃ、どこにいるんだよ」
「とっくに国境を越えてるんじゃね?」
「いや、案外、化け物にでも食い殺されたんじゃ……」
「なんだよそれ」
「そうよ、失礼な。食べるわけないじゃない」
歩兵達の耳元に、若い娘の声が響いた。
彼らは驚いて顔を上げると、ボサボサ頭の奇妙ななりをした娘が、彼らの後ろに立っていた。彼女はニコリと笑うと、大きく飛び上がってどこかへ消えた。
「な、何だ? 今の……」
彼らが辺りを見回すと、百歩ほど離れた場所に、さっきの娘がいてこちらに向かって手を振っていた。一瞬で移動できる距離ではない。歩兵達の背筋に寒いものが走った。
と、次の瞬間ふわっと浮き上がると、再び自分たちの目の前に表れた。歩兵達は、大きな悲鳴を上げ、散り散りに逃げたした。
悲鳴を聞いて、近くに配置されていた歩兵達が、様子を見に来た。彼女――女狐はこちらに向かってくる一人の兵士に目を付けると、そちらに向かって飛び跳ね、勢いのまま軽く蹴った。
軽くとは言え、大きく飛ばされた兵士は、そのまま近くにいた兵士達を将棋倒しにして止まった。
それを見たほかの兵士達は、恐慌状態に陥った。右往左往する兵士達の間を、女狐は飛び回って相手を驚かせ続けた。
(やばい、楽しい)
彼女は、下等な妖狐たちが人を驚かして悦に入るのを正直馬鹿にしていた。しかし、それが結構楽しいことに気づいてしまった。
(もう、上品の妖狐じゃないんだもんね。化け物のフリして楽しんでるただの人間――だから思いっきり!)
彼女は息の続く限り、歩兵達の間を飛び回ってやろうと思った。しかし、同時に周辺への注意を怠っていた。
この騒ぎを聞きつけた将校達も徐々に集まってきていたのだ。騎兵である彼らは歩兵よりも機動力がある。何より彼女は馬が苦手。無意識に馬を避けようとしているうちに、逃げ道を塞がれ囲まれてしまった。
退路が見つからず、狼狽えているところに、彼女に向かって一斉に矢が放たれた。
まずいと思ったその時、彼女の目の前が暗くなり、放たれた矢が一斉になぎ払われた。
「あっぶね。間に合った」
彼女の前には、黒装束に身を包んだ緑がいた。顔も黒い覆面で覆われており、翡翠色の瞳が黒の中に映えていた。
「コイツらはそれなりに訓練してるからな。狐姑娘の手に余る。あとはこっちに任せろ」
そう言ながら、彼は剣を一閃した。と同時に、数体の馬がどっと倒れ込んだ。放り出された兵士は、慌てた別の馬に踏み潰され、辺りは阿鼻叫喚の地獄のようになった。
緑は動じることなく、剣を大きく振って馬でも人でもどんどん斬り捨て、囲みを解いていった。
(一撃一撃が重いんだ)
緑の動きを見ながら、女狐はそう思った。彼の剣を一言でいうなら“剛”だ。
以前見た驪龍の動きは“流”。滑らかに止まることなく動き、敵を倒していく。対して緑は一撃に込められた力が大きい。強靱な肉体から繰り出される一太刀は力強く敵をなぎ倒していく。
(この人、本当に強い)
まだ本来の六割ほどしか力が出ないとは言っていた。それでも、高昌の兵士達を圧倒する強さがあった。
しかし、騒ぎが大きくなるにつれて兵士の数が増えてくると、彼の動きも落ちてきた。斬っても斬っても数が尽きない中で、女狐は彼の息がだいぶ上がってきていることに気づいた。
彼女は大きく飛び上がって、緑の側にいた兵士を何人か蹴り飛ばした。
緑は驚いて彼女を見た。
「緑さん、もうちょっとだけ、一緒にがんばろ」
公子達が西へ抜けるまで、兵士達を引きつける。それが二人の役目。
「できるだけ緑さんの動きに合わせてみる」
そう言うと、女狐はまた大きく飛び上がった。
混戦状態が功を奏した。同士討ちを避けるために弓矢は使われなくなっており、騎兵達も攻撃より態勢を整える方に奮闘していた。彼女が飛び回って敵を蹴り倒す隙が充分あったのだ。
どれほどの兵士を倒しただろうか。
二人の動きも息が合ってきて、兵士達の集団をどんどん東の荒野へ誘導できていた。
(まだかな……)
自分たちはどんどん公子達から遠ざかっていく。離れすぎると合流が難しくなるのではないかと、女狐は不安を感じ始めていた。
「――姐さん!」
阿兎の声が響いた。
来た――そう思った瞬間、彼女の体は宙に浮いた。
全速力で馬を駆ってきた阿兎が、スピードを緩めることなく体を斜めにし、そのまま彼女を拾い上げたのだ。
不安定な態勢のまま、彼女は必死に阿兎にしがみついた。
「このまま、一気に西に行くよ」
女狐を抱えたまま、阿兎が言った。女狐は落ちないようにするのが精一杯で、返事をする余裕もなかった。緑も手近な馬を奪って自分たちに併走していることにも、気づく余裕がなかった。
「公子達とは予定どおり無半で落ち合う」
緑の声を聞いて、初めて女狐は彼が側にいることに気づいた。
彼が言った無半は、篤進の手前にある城市で、ここからだいたい百里。馬で一日はかかる距離だ。
「狐姑娘、安心しな。俺たちは倍の速さで行くから、ちょっとの辛抱さ」
そう言いながら、落ちかかった彼女の腰を押し上げた。
(倍って言っても、半日はかかるじゃない)
そう緑に反論したかったが、口を開く余裕もなかった。
「大丈夫だって、落ちたらちゃんと拾うから」
(拾うって、私は物じゃない!)
無事、無半についたら、今言えなかった文句を、百倍にして緑にぶつけてやると、女狐は強く誓った。
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