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第28話 踏み出した一歩、けれどまだ遠く

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 次の瞬間、何の前触れもなく忽然と魔女が姿を現す。
 マイのすぐ側。漆黒のドレスが、さっきまであんなにまぶしかったはずの月明かりを吸い込み、辺りの闇が一層濃くなったような気がした。

「マイ!」

 とっさにマイの名前を呼んで一歩踏み出したその瞬間、後ろから鋭い声が聞こえてきた。

「動くな!」

 いつの間にか後ろではさっきの警備兵が二人、腰の剣を抜きはらってこちらに構えていた。

「おい夢見! マイの声を取り戻せば終わりじゃなかったのかよ!」
「私に言われても困ってしまいますね。ここはあくまでもマイさんの夢の中であって、私たちが予想できる範囲を超えることもあるでしょうから」

 さっきまでの達成感と高揚はすぐに消え去り、魔女がどう出るのかを待った。
 マイに危害を加えるようなことはしないだろうが、しかし――

「帰りましょう、マイ。今なら許してあげる。……あなたを惑わせたこの男と獣は別だけどね」

 魔女がどこか物騒な眼差しを俺と夢見に向ける。
 まあそうなるよな……!
 さっきとは状況が違う。警備兵の後ろには続々と応援の兵士たちががやってくるのが見える。
 マイはどこか緊張したようにつばを飲み込むと、静かに唇を開いた。

「私は帰りたくないの」
「馬鹿なことを。外の世界であなたが何の後ろ盾もなく生きていけるわけがないでしょう。他の魔女に捕まって利用されかけていたことを忘れたの?」

 嘲りを込めた笑みを浮かべながら、魔女が言う。
 その声は、目の前の相手を支配しているのだという確信に満ちていた。
 マイは首を横に振ってから、葛藤を振り切るようにして魔女を見つめなおす。

「もしかしたら……私の心のどこかには、あなたの強引な振舞いの被害者の振りをして、あの城に保護してもらいたい気持ちがあったのかもしれない。声を失くしても、意思を伝える方法を模索して、どうにかしてあなたに理解を求めることもできたかもしれない。それをしなかったのは、私の弱さだよ。でも、逃げるのはもう終わり。私の本当の心に背いていたら、水を強く蹴るためのヒレも、忌々しくて愛しい声も、全部失くしてしまうってわかったから」

 これは、現実のマイが心に秘めている言葉なのだろうか。
 今まで夢の中でさえ相手に伝えられなかったのだろうその言葉は、どこか幼い子どものようにあどけなく響いた。
 魔女は苛立ったようにため息をつく。

「あなたはまだ何も知らないの。ずっと海の中にいたから、人間がどんなものなのかわかってないのよ。私は善意であなたにとって最善の道を用意してあげているのよ? あなたにとって損はないはずだわ」
「最善とか、損とか、そんなの関係ない。私は、私の人生を取り戻したいの!」

 マイの声が独特の響きを伴い、空気を振動させた。

「っ、なんだ……!?」
「マイ! あなた、自分の特性を忘れているの!?」

 焦ったように言う魔女を、マイは覚悟を決めたような顔で睨んでいる。
 ――マイの声の特性。
 それはたしか、あの恐ろしい魔物――ゾンビどもを引き付けるというものだった。
 不気味な重奏のようなうめき声が、次第にこちらに近づいてくる。
 さっきまで姿も見えなかったのに、こんなに近くにいたのか!?

「二人とも、今のうちに逃げよう!」 
「マイ……」
「うわあ!?」

 兵士のひとりが情けない悲鳴を上げたのは、マイが再び俺の手を掴んだ直後だった。
 いつの間にやら近くに忍び寄っていたらしいゾンビが、背後から兵士に飛び掛かったのだ。
 腐りかけた指が後ろから兵士の首に食い込み、とろけた眼球がこちらに虚ろな視線を投げかける。
 腐臭がこちらにまで届き、俺はこみ上げる胃液をこらえた。

「昭博!」

 夢見の声ではっと我に返る。
 気付けば、俺たちと魔女、そして兵士たちを取り囲むようにして、四方八方からじりじりとゾンビたちが距離を縮めてきていた。

「! いつの間に」
「夢に整合性と理論性を求めても無駄ですよ。いうなれば、マイさんの深層心理がこの展開を必要としたのでしょう」

 とっさにマイに視線を向ける。
 青ざめた顔できゅっと唇を引き結んでいるさまは、とてもこの状況を欲しているようには見えなかった。

「マイ、さっきの貸せ」
「え?」
「牢で小さくした短剣だよ。今はキーホルダーみたいになってるだろ」

 マイは少しためらうような様子を見せた後、俺に中学生がよく買う土産物のような姿になった短剣を差し出した。
 それを受け取り、元の形をイメージする。手の中のキーホルダーもどきは、一瞬のうちにして切っ先の鋭い短剣の姿を取り戻した。
 リーチは短いが、丸腰よりだいぶましだ。

「戦うつもりですか?」

 夢見が少し驚いたように言う。

「そうじゃなきゃどうしようもねえだろ」

 俺だって例え夢であれ腐臭漂うゾンビと対峙はしたくない。
 ついでに言えば、前回の夢でマイに刺されるよりも、ゾンビに食われた方が現実の生死に関わりそうでもある。
 でも、だからこそ、せめて抵抗はするべきだ。

「偉いですね、昭博。前回はあんなに怖がっていたのに!」
「うるせえ! 獣のくせして孫の成長を実感するじいさんみたいな目で見るな」
「失礼ですね。これは、目つきが悪いにも関わらず臆病な猫が、ふいに自分の方に飛んできた虫かなにかに対して、怯えながらも必死に猫パンチを繰り出そうとしている様を見守るような目です」
「きりっとした顔で言い返すな長い! ああもう、来るぞ! お前も少しは働けよ!?」

 後半はほとんど悲鳴になっていた。
 同時に、飛びかかってきたゾンビをなぎ払うように短剣を横に振り抜く。

「ウ……アァ………」

 刃を受けたゾンビはのけぞり、砂浜に膝をついて怯んだ様子を見せたものの、のったりとした動作で再び立ち上がる。

「ひええ!? なんだこれ!?」
「まあ、ゾンビですらね。即死させるには焼くか頭を吹っ飛ばすしかない……というのが、人間の創作物においてのお決まりではないですか」

 声だけはのんびりと答えながら、夢見は後ろから迫ってきたゾンビに飛びつき、鋭い爪を食らわせる。
 やはりゾンビはのけぞったものの、ゆっくりと体勢を立て直す。
 俺たちを取り囲むゾンビの集団は、次第にその輪を縮めてきていた。

「あんた魔女なんだよな!? なにか出来ないのか!?」

 背中合わせの位置にいる魔女へと叫ぶように聞く。

「っ……私の魔力は、魔物たちに対抗できるほど強くないの。マイの声には、高い魔力が含まれてた。だからこそゾンビは彼女を狙うし、私の他の魔女も……」

 声の後半は、さっきまでの高圧的な態度が嘘のように震えていた。
 だからこそ、マイを……いや、瓶詰めにしたマイの声をこんなにも執念深く追いかけてきたのか。
 大義名分を掲げながらも、結局は自分のためだったということだ。
 ……そんな風に、現実のマイは裕美さんに対して反感を抱いているということか。

「くそっ。なにか、ゾンビが倒せるようなものを――」
「火炎放射器とかどうですか?」
「そんなもんぱっと想像つかねえよ!」

 残念なことにすっかり想像力が貧困な大人になってしまったらしい俺は、詳細にイメージできないことには具現化が成功しない。
 とっさにマイを見ると、青ざめた顔で口を引き結んでいた。今声を出すとまずいと思って、悲鳴をこらえているのだろう。
 なんとかしてここを切り抜けなければ。
 そう思った瞬間、じりじりと距離を縮めてきていたゾンビの中の一匹が、急にマイの方へと踏み出した。

「マイ!」

 ナイフをマイに襲い来るゾンビに向けた瞬間、もう一匹が俺の前に躍り出た。
 早いぞこいつら!?
 慌ててなぎ払った時には、ゾンビの腐敗した指先がマイの肩に触れそうになっていた。

「くそ!」

 俺は慌てて踏み出し……そして、目を見開く。
 ――一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 黒衣の影がマイを突き飛ばし、ゾンビから庇うように両手を広げる。
 マイの代わりにゾンビに噛みつかれたその人物は、魔女だった。

「魔女様! うわあっ!?」

 気を取られた兵士たちが、次々とゾンビに襲われていく。

「っ、どうして……」

 マイが呆然としたように魔女を見る。
 魔女の黒い服がゾンビの牙に食い破られ、白い首筋が見えた。
 けれどそれも一瞬で、瞬く間に魔女の肩口は血で染まっていく。

「……何をしているの。今のうちに逃げればいいでしょう? 元々こうすることが目的だったはずよ」

 マイを見つめて言うその口元には、余裕のなさを隠しきれない笑みが浮かんでいる。

「い……嫌だよ、どうして私のせいで、あなたが……! ゾンビをけしかけたのだって、足止めさえ出来ればそれでよかったのに」

 マイの震える呟きに込められた感情を裏切るように、徐々に周囲の景色が光を帯びていく。

「これって……」

 前回夢の中に入った時と同じだ。希望が見つかり、夢が崩れていく瞬間の――

「どうやら、この夢においてのマイさんの希望は、『魔女が消えること』だったようですね」
「……本当にそうなのか?」

 感情が抜け落ちてしまったかのように呆然としているマイの瞳には、群がるゾンビに食われていく裕美さんの姿がある。
 俺は吐き気をこらえて目を逸らした。夢だと分かっていても、気分が悪くなる光景だ。

「魔女――裕美さんは、親代わりのようなもんだって言ってたぞ」
「希望は本人にとって優しいものとは限りませんよ。事実、マネージャーの裕美さんは、マイさんがしたいことをするための障害になっていたんでしょう?」
「だったら、現実でもどうにかして裕美さんを排除しなくちゃいけないってことか?」

 『声を取り戻したい』という願望は分かる。現実でも、マイは自分の意思を裕美さんに伝える声を求めてた。
 でもそれは、裕美さん自身を消し去りたいと思うほど憎悪にまみれた思いだっただろうか。

「さあ。夢の中だけで気持ちが整理されることもありますから。親代わりともなれば、それを越えようとするのは人間の心理として一般的です。ですが……」

 夢見はいったん言葉を切って、底の見えない青色の瞳を細めた。

「少々期待外れでしたね。本来ならすぐに解消される程度の、ありふれた単純な絶望です。悪夢が傷み、命を蝕もうとするまで悪化したのは、ひとえに見て見ぬふりをして放置してきた年月のせいだったようですね」
「期待外れって、お前な……」
「ああ、マイさん本人にがっかりしているわけではありませんよ。彼女はよく頑張りました。端から見てどんなに平凡な絶望だったとしても、彼女自身には相当な負荷となっていたでしょうから」

 もしかしたら夢見の言うとおりかもしれない。
 だが、どうも納得がいかないのはなぜだろうか。
 なにか本質を見誤っているような気がする。ていのいい答えを差し出されているような、そんな気が。

 まあどちらにせよ、この夢から覚めてマイの状態を確認すれば、この夢がマイにとってどんな意味を持っていたのか、そして本当にこれで痛んだ悪夢は排除できたのか――それが分かるんだろう。

 輝きを帯びて崩れていく周囲の景色を見渡す。
 きらきらのエフェクトなんぞというガラにないものを背負ったゾンビたちも、次第にその姿が薄れていき――

「うおっ!?」

 突然、後ろから誰かに襟首を捕まれた。そしてそのまま地面に引き倒され、砂浜を引きずられる。

「昭博!」

 夢見が慌てたように俺の名前を呼んだ。

「くそ、兵士か!?」

 てっきり全員魔女と一緒に襲われているものだと思っていた。
 後ろ向きに海の方へと引きずられながら、首だけでそいつの顔を向く。
 しかしそこにいたのは、予想外の姿だった。

「ア……アア……ウ」
「ゾンビじゃんか!!」

 ゾンビはワンパターンなうめきを繰り返しながら、腐った指で力強く俺を海の方へと引っ張っていく。

「ちょちょちょっと待て! 俺に何を……まさかこのまま海に沈めるつもりか!?」

 噛みつくこともせずに!? ゾンビなのに!?

「もしかして、水底で冷やして保存食にでもするつもりなんでしょうか?」

 呑気に小首を傾げる夢見の姿がどんどん遠ざかっていく。

「夢見、くだらないこと言ってねえで頼む!」

 こんな状況なら、さすがにすぐにでも飛びかかってくれるだろう。
 しかし俺の期待はすぐさま裏切られた。
 夢見の目が、どこか気まずそうにふいと逸らされる

「あー……私、もう一回溺れるのはちょっと嫌ですね……」
「ふざけんなよてめえ!!」

「大丈夫ですよ、そちらの方向はあなたの夢に通じているはずなので」
「は? 俺の夢、って……」
「あなたに害はないはずですが、それなりに深い階層です。飲み込まれないようにご注意を」

 ……そういえば、人の夢同士は深いところで繋がっているのだと、以前夢見が言っていた。
 そんなことを思い出している間にも、俺はずりずりと引きずられ続け、ついに後ろ向きに海の中へと放り込まれた。

「うわっぷ!」

 悲鳴は半ばで水に飲み込まれる。
 水面越しに世界が輝き崩れていく中で、俺の体は現実のものと寸分違わぬ海水の冷たさに沈んでいった。
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