初夏の練習曲《エチュード》 -喫茶探偵物語-

きよし

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第三章 ICレコーダー 1

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 今日は暑かった。陽が落ちても昼間の熱気は残滓のように地表に溜まり続け、気温は二十五度を超えていた。そんな熱気冷めやらぬ中で、冷房クーラーの室外機がフル稼働して、店内は心地よい温度に保たれていた。原子力発電所が停止してから何年になるだろうか。節電の意識も高まっている今日この頃、日中の暑さが過酷であればあるほど、その有り難みも大きく感じられるのであった。
「いやー、極楽極楽。クーラーを発明した人はノーベル賞もんだね」
 春海はるみキョウジがクーラーの真下に座って軽口を叩いていたが、その横に座っていた夏目なつめナオトも、キョウジの言葉はもっともだと思っていた。クーラーを必要とする地域に限定すれば、ではあったが。
 喫茶店『四季』の表には、「準備中クローズド」の看板がかけられていた。まったく四季よつきゲンイチロウが語ったように、喫茶店は趣味の延長上にあるというのは事実であるようだ。今日もまた、一日中閑古鳥が鳴いていたのだが、些細なこととしてゲンイチロウは、気にもとめていなかったのである。
 冬木ふゆきシオリなどは心配して、「駅前でビラでも配ってきましょうか? メイドの格好でもして」と冗談交じりに営業努力の必要を説いてみたが、ゲンイチロウは首を縦には振らなかった。
「客が来る時は黙っていても来るだろう。来ない時はなにをやっても無駄だ。無駄な努力をするのは労力の浪費というものだ」
 などと達観したような台詞でシオリの提案や反論を封じたのであるが、それが本心なのかどうかは、シオリにはわからなかった。
 店内の片隅に置かれていたホワイト・ボードをゲンイチロウは裏返しにした。ホワイト・ボードには、二枚の写真とそれぞれの相関図が描かれていた。
「では、早速だが、本日の成果を聞こうか」
 ゲンイチロウはキョウジとナオトに目を向けた。
 ゲンイチロウとナオト、キョウジの前には、シオリ特製のカクテルが不気味な色彩を放ち、その存在を余すことなく主張していたが、三人とも口をつけようとはしなかった。それは、生命いのちにかかわる、とまではいわないが、地獄に片足を突っ込むような行為であったからである。
「いい加減、シオリにはセンスが無い、と、はっきりいったらどうかね? 事あるごとに避けてばかりいては、なんの解決にもならんぞ」
 キョウジはナオトの耳元で囁いた。声を潜めて話している時点で、キョウジ自身もナオトとゲンイチロウと同意見で、大声でいうのを憚っているのだが、その事実にはナオトは気がついてはいなかった。
「なら、キョウジがいってくれないか? おれは御免こうむる」
 仏頂面でそう語ったナオトとは反対に、キョウジは、人の悪い笑みを秀麗な満面に浮かべた。
「おれは、シオリの才能を高く評価しているのさ。シェイクしている姿は、まさに一流の手並みだね」
「それはおれも同意するが、問題はそこじゃあない」
 キョウジは悠然と髪をかきあげながら、もっともらしいことを口にした。
「美味い不味いは表裏一体だろう。それに、百回に一回くらいは奇跡が起こるかもしれない。違うかね?」
「わずか一パーセントの確率なら、無いに等しいと思うがね」
 ナオトが深く嘆息したのを目にして、キョウジは楽しそうに笑った。
「その奇跡に、お前さんは賭けてみる気はないのかね」
「奇跡といっている時点で、おれの射幸心はなんの反応も示さないね」
 ナオトはもう一度、深く溜息をもらした。
「そういやキョウジは、シオリのカクテルに口をつけたのを見たことがないな」
「君子危うきに近寄らず、というだろう。断る理由がはっきりしていれば、シオリだって無理強いはせんよ」
「そうはいうがな。シオリに悪気はないんだよな」
「だからこそたちが悪い」
 キョウジは、大真面目な表情をナオトに向けた。
 シオリには、これっぽっちの悪気もないのである。ただ、なんでもかんでも放り込んで、美味いカクテルが完成するとは限らない。少なくともシオリが味見ができるまでは、ナオトとゲンイチロウは我慢、傍観することに決めていた。これは、高次の決定事項であったのだ。
 アイス・コーヒーはゲンイチロウが仕込んだものであった。ナオトたちの前には、アイス・コーヒーも置かれていた。ちなみに、十八歳の特定少年の秋津あきつカナタの前には、愛してやまないホット・レモンティーが置かれていた。
「そこのふたり、なにをこそこそとしているんだ。早く成果を話せ」
 ゲンイチロウがナオトとキョウジを叱責した。どうやらゲンイチロウは、シオリの特製カクテルを前にして、少々気が立っているようである。
「ん。じゃあ、おれから話そうか」
 キョウジは、いつものように手を上げてから腰を上げた。そして、ホワイト・ボードの横に立つと、貼られている間仲有佳里《まなかあかり》の写真の側を軽く小突いた。
依頼人クライアントの間仲有佳里についてだが、彼女にのことを悪くいう生徒はいなかった。しかしながら、だ、すべての生徒に聞いたわけではないので、裏で陰口を叩いている生徒もいるかもしれないね。まあ、こいつは、致し方あるまい」
 すべての人から気に入られることはまずないだろう。半分が味方をしてくれれば充分であろうとキョウジは思っていたし、確か、そのようなことを、最近、女生徒に話したことがあったような気がした。
「才色兼備で物腰も柔らかく、人当たりも良い。大企業の御令嬢だが鼻にかけることはなく、少々天然めいたところがあるが、それすら彼女の魅力となっている。風間慶一かざまけいいちとの結婚についてだが、こいつは、社長令嬢として生まれてきた運命として受け入れているようだね。そして、どちらかといえば、尽くすタイプだな。加えて、こいつが一番重要なんだが、美しい女性に成長するだろう。間違いなくね」
 キョウジは、「美しい」という言葉を強調した。それは、とても重要なことでもあるかのような口調であった。
 キョウジの個人的見解は丁重に無視しておいて、ゲンイチロウが太い眉をひそませた。
「社長令嬢として生まれてきた運命か……。確かに、いつかは自分が政略結婚の道具にされるかもしれないというのは、生まれた時から決まっていた避けることの出来ない運命なのかもしれんな。間仲有佳里は自分の立場というものを正しく理解しているというわけだな。少し、かわいそうな気もするが」
「健気だろう? 生まれてきたのが普通の一般の家庭であれば、普通に幸せを願ってやまないんだがね」
 親の決めたレールを拒むには、十七歳では、まだ幼すぎてできないのであろう。しかし、歳がもっといっていれば抗うことは出来たであろうか。それはわからなかった。ただ、社長令嬢として生まれてきたのは変えることが出来ない運命である。そして、結婚相手さえ自由に決めることが許されない身分であった。有佳里はその運命を受け入れたのである。受け入れるしかなかったのかもしれないが。
「しかし、今更ながら政略結婚とは、時代錯誤もはなはだしいな」
 ナオトの見解に、キョウジは首を横に振った。
「いいや。おれも最初はそう思ったがな、こういうご時世だからこそ、かもしれんよ」
「ん? どういうことだ?」
「確か、何年か前の政権で、国民に痛みを伴う改革になるといっていただろう? あらゆる規制を取っ払えば、それこそ究極的には〇か一か、白か黒かとなる。生き残るためには、他の企業との合併も致し方あるまい。そうして淘汰される。弱小企業の社長としては、自社を高く売るためには、あらゆる手段を講じなければならない。間仲グループは決して弱小企業ではないが、より大きな企業との合併も必要と考えたのであろうよ。繰り返すようだが、生き残るためにはね。そのために、娘を高く売ったのであろうさ」
 黙って話を聞いていたシオリが、深くため息をついた。
「あたし、有佳里って子に同情的だな。あたしだったら、自分が業務提携や合併かなんかわからないけれど、そんなことの餌にされるなんて耐えられないと思う。それに、会ったこともない人と突然結婚しろなんて、親の言葉とも思えない」
「ちっちっちっ」
 キョウジがシオリに向けて、人差し指を左右に振ってみせた。
先刻さっき、おっさんもいっていただろう。間仲有佳里はすべてを知っている、わかっているのさ。知っていて、わかっていて受け入れることを選んだ。そう、選んだんだ。それは、しかたがないと諦めた結果なのかもしれないが、全ては間仲グループの為を思えばこそだろうよ。そいつは、とても理性的な判断だろうね」
 シオリは不満そうに頬をふくらませた。
「でも、まだ十八歳にもなっていないじゃない。重すぎると思うし、酷だと思うし、ひどすぎると思う」
「それは、間仲有佳里の決断を軽んじる発言じゃないかな。有佳里は自分の価値を冷徹に判断したのさ。それに、ひどいと思うのは感傷的な問題だね。仮に有佳里が二十歳で慶一と同い年であれば、酷だとは思わないのかい?」
 シオリは不満そうに口を尖らせたが、反論はしなかった。年齢にこだわるのは、自分と近い年で、感情移入しやすかったと悟らされたからであった。でも、やはりそこにはこだわりがあった。十八歳にも満たない年齢で、十万人以上の従業員たちの人生を背負うのは、酷だと思えた。シオリ自身が有佳里の立場ならどうするか。結婚は恋愛の延長上にあると思うし、そうありたいと望んでいた。すべての社員の生活に関わることだとしても、我を通すだろうか。そこまで責任を負わなければならないとは思いたくはなかったが、自分の決断が多くの人達の人生を左右するのである。仮に、結果的に誰かが生命を投げ出したとしたら、平然としていられるだろうか。おそらく正気ではいられないと思う。でもそれでは、自分の存在理由とはなんなのだろう。間仲有佳里は、自分の意志を押し殺して生きていくしかしかたがないのであろうか。
「かわいそう、だと思うかい?」
 キョウジの問いかけに、シオリは黙ったままうなずいた。
「そんなの、あまりにも悲しすぎるじゃない」
 ポツリとつぶやいたシオリは、目を落としてオレンジ・ジュースの入っているグラスを見つめた。
「シオリ、間仲有佳里に同情するのはわからんでもない。だがな、冷たいようだが、こいつは仕事だ。仕事に私情をはさむのは禁物だ。わしらは、間仲有佳里の依頼を引き受けた。風間慶一の身辺を探る、とな。どうしても納得ができないというのであれば、今回の依頼から手を引いてもいい。後は、わしらで始末する」
 ゲンイチロウは口元に微笑を漂わせた。
「それに、経過は順調なようだしな。シオリに出張ってもらわなくても、コイツで大丈夫なようだ」
 コイツ呼ばわりされたキョウジが反論もせずに、少々不本意そうに肩をすくませた。
 シオリは、ゲンイチロウの言葉を聞いて、顔を上げた。心なしか、瞳が潤んでいるように見えた。
「あたしは必要がないってこと?」
 ゲンイチロウは、慌ててつけ加えた。
「いやいや、そうじゃない。気にそまないのなら無理に動くことはないってことだ。間仲有佳里についてはコイツでなんとかなりそうだしな。そういう意味であって、シオリが必要がないということじゃあない。そうだよな? キョウジ?」
 キョウジは、口元に微笑を漂わせた。
「ナオトはどう思うね?」
 ゲンイチロウとシオリはナオトに目を向けた。ナオトは慌てたように、組んでいた脚をほどくと、表情を改めるために頬をひと撫でした。
「マスターのいうとおりだ。身辺調査には大人数は必要がない。マスターはそういう意味でいったんだ。決して、シオリが必要がないってことじゃあない」
「ほんとに?」
「ああ、本当だ。シオリにしかできないことがある。その時まで英気を養うっていうことで、そういう意味だよな? マスター?」
 ナオトはゲンイチロウに目を向けた。
「そのとおりだ」
 シオリに再び目を向けられて、ゲンイチロウは、今度はキョウジに目をやった。ナオトとシオリにも目を向けられて、キョウジは、ふっと一笑した。まったく、ゲンイチロウとナオトはシオリに甘かった。甘すぎた。
「まあ、基本的には、そちらの情けないふたりのいうとおりだが、ひとつ腑に落ちないことがある」
「それは、なに?」
 尋ねたのはシオリであった。
「ああ、それはな、なぜ、いいとこの御令嬢が、おれたち場末の探偵事務所にすがりついたのか。社長令嬢ともなれば、なにもおれたちに頼まなくても、身の回りの世話役の中に、そういった微妙デリケートなことを頼める人物がいても不思議はないからね」
「それはおれも気になっていた。なぜ、おれたちに仕事を依頼したのか、ずっと不思議に思っていた。探偵事務所ならそこらへんにいくつもあるからな」
「もしかしたら……」と、ナオトは、顎を指でつまんで考え込んだ。
「それは、こういうことではないでしょうか」
 ナオトは発言者に目を向けた。普段無口な秋津カナタが、無愛想な顔でなにか制作していた。
「わかるのか? 理由が?」
 ゲンイチロウがカナタを見て、目を白黒させた。
「依頼に来た時、間仲有佳里はひとりではなかったですよね」
 侍女を連れていた。その女性は、間仲有佳里と深い絆で結ばれているのであろう。もしかしたら、なんでも話せる唯一の相手なのかもしれない。なぜならば、有佳里が抱えてきたのは、非常にデリケートな問題であったからである。
 有佳里は最初から身分を明かしていた。それはつまり、隠しても無駄であることがわかっていたからであろう。当時、間仲有佳里と風間慶一の婚約は大々的に公表されていた。大企業同士の合併は世間に広く周知されていたのである。それに、仮にも『四季』は探偵事務所である。身分を偽って依頼できる内容ではなかったし、調べればすぐにわかることであった。そのうえで、有佳里は婚約者である慶一の身辺調査を依頼してきた。
「それは、なぜか。突き詰めて考えると、こう推論できます。間仲有佳里は風間慶一との結婚を、心の底では望んではいないからでしょう。だから、どのような些細なことでもいい、慶一の弱みを手に入れたいからではないでしょうか?」
 婚約者の弱みを手に入れることができれば、婚約を反故にする理由になる、というのではなく、灰色の結婚生活で主導権を握ることができる。それがカナタの見立てであった。
「有佳里が慶一との結婚を望んでいない、か。確かキョウジも同じようなことをいっていたが。まあ、その前提に立てば、カナタの指摘するように、慶一の弱みを手に入れたいという理由にはなるが……」
 ゲンイチロウは顎をさすった。
「しかし、それでは、普通に大手の探偵事務所に頼めばすむことではないか? わしらに依頼する理由はなんだ?」
「そうですね、質問に答えていなかったですね。少し先走りしすぎたかもしれません」
 カナタは手を止めて、四人を見まわしてから言葉を継いだ。
「風間一族は忍者の末裔であることは広く知られています。大手の探偵事務所は、風間の息がかかっている公算は高いでしょう。そいういう理由ですよ」
「ふむ」
 ゲンイチロウが、いたく感心したようにうなずいた。
「さすがは人間嫌いを公言するカナちゃんだ。人を疑ってかかれば、右に出る者はいないようだね」
「それはどうも」
 カナタは謙遜すると、再びなにかを制作し始めた。自分のやることは終わった、とでもいいたそうな表情をしていた。そんなカナタに目を向けて、ナオトはかすかに頷いた。
「間仲有佳里については、ようくわかった」
 ゲンイチロウはナオトに視線を転じた。
「では、ナオト。お前からの報告を聞こうか」
「ああ、わかった」
 ナオトは立ち上がると、キョウジが座るのを待ってから、ホワイト・ボードの側に立って話し始めた。
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