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1、鯖寿司の日

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 月曜日の朝はいつも軽い憂鬱になるけど、今朝は違うのだ。
 何故ならば、今日は会社で新製品の試食会があるからなのだ。
 鯖寿司でござるよ。それも焼き鯖寿司なんだよ。
 これだけで月曜日の朝が幸せになれるんだから、毎週月曜日は試食会の日にしてほしいくらいなのだ。
 「お母さん、今日はお弁当いらないからね。」
 「もう何度も聞きました。今日は試食会なんどっしゃろ。それより京子、早く着替えないと遅れまっせ。」
 わかってるのだ。昨日、梅の花が咲いているのを見たから、今日から春の服にするのだよ。
 ブルーのボーダーのセーターはもう三年目だけどお気に入りなのだ。このセーターは高校を卒業した春休みに買った。就職してからもう二年だ。学生の頃が懐かしいな。
 外に出るとまだちょっと寒いけど、お昼頃には暖かくなるはず。広沢の池の水面に映っているのは、桜の樹。なんだか薄い桃色に見える。春はすぐそこまで来ているのだ。

 会社までは自転車で行くでござるよ。嵯峨野の広沢の池から大映通り商店街まで下りの坂道で気持ちいい。
 あたしが勤めている会社は太秦うずまさの大映通り商店街にあるのだ。昔、大映の撮影所があったから大映通りの名前なんだよ。今でも東映と松竹の撮影所が近くにある映画の街なのだ。
 商店街のゲートをくぐると大魔神君がいるんだよ。
 「大魔神君、おはよー。」
 大映特撮映画の大魔神君の像は六メートルの巨人なんだ。鎧兜に怖い顔なんだけど、あたしたちを見守ってくれているみたいにみえるのだ。
 商店街の店はまだシャッターが閉まったままだから人通りも少ない。自転車はスイスイ進む。
 会社は大映通りの真ん中あたりにある。昔はお魚屋さんだたんだけど、二十年ほど前に社長が回転寿司のお店を京都駅前に出店して、今では三店舗を展開するチェーン店になっている。本社の一階は調理工場になっていて、二階と三階が本社なのだ。

 今日も会社の裏口に自転車を停めて、階段を駆け上がる。事務所に入ると真っ先に阿部部長に挨拶するのだ。
 「戸部京子君、おはよう。」
 阿部部長はいつもあたしのことをフルネームで呼ぶ。社長が回転寿司のお店を始めた頃から会社の経営を支えてきたのが阿部部長なのだ。この会社、三好水産の経営を取り仕切る偉い人なのだよ。
 あたしの所属は経理課なんだけど、上司の浅野課長と下田主任はあたしが嫌いみたいでいつも意地悪してくる。
 入社したころに、浅野課長と下田主任が作った資料が変なフォーマットだったので、あたしが作りなおした。そしたら、こっぴどく怒られた。新入社員のくせに余計なことをするなって。
 阿部部長はあたしが作った資料を見て、「こっちのほうが見易いね。このフォーマットでこれから経理の資料をまとめ欲しい」って言った。浅野課長と下田主任には内緒で作るようにねって。阿部部長はいいひとだけど部下に気を使いすぎなのだ。
 それからあたしは経理課というより阿部部長の秘書のような仕事をすることになった。だから意地悪されても平気って顔をしている。腹が立つことがあっても我慢することにしている。

 杉山のおばちゃんが出勤してきて事務所の暖房を切った。
 「今日は暖かいから暖房なんてもったいないよね。」
 まだ三月だから朝は肌寒いんだけどね。
 パートの杉山さんは肝っ玉母さんみたいな太ったおばちゃんで、あたしのことを可愛がってくれ優しい人なのだ。

 朝はちょっと寒かったけれど、お昼ごろにはぽかぽかしてきた。
 お昼前になると一階の工場から酢飯の甘い匂いが漂ってくる。お腹がすいたのだー。
 試食会、まだかなあ。
 エレベーターがチンって鳴った。「がらがら」っていうのはワゴンが降ろされる音だ。
 来たのだ。来たのだ、鯖寿司が来たのだ。「回転はんなり寿司」の新製品、焼き鯖寿司のお通りだ!
 工場長の後藤さんが焼き鯖寿司のワゴンを押して登場なのだ。後藤工場長はいつもぼーっとしてるように見えるけど、腕は確かな職人さんなのだ。
 「えー、これ新製品の焼き鯖寿司です。焼き鯖寿司言うてもそこらに出まわっとるのは酢飯の上に焼き鯖乗っけただけのまがい物ですわ。これは違いまっせ、皮はパリっと焼いて中身はとろとどのほんまもんの焼き鯖寿司ですわ。この味と食感を出すのにはそれなりの創意工夫が必要でして…」
 長いのだ。後藤工場長の能書きはいつも長いのだ。おなかの虫は待ってくれないのだよ。
 「まあまあ、工場長、とにかく食べてもらわんことには話になりませんから。」
 阿部部長はフォローを入れてくれた。
 「せやな、ほな皆さん、試食、頼んまっさ。」
 みんなワゴンに寄って来たのだ。油の乗った鯖のお腹のあたりがあたしの好きな部分なのだ。いつもはとろいあたしだけど、食べ物の事となると話は違うでござるよ。獲物を襲う鷹のような素早さで焼き鯖寿司に襲い掛かるのだ。いちばんおいしそうなところを二切れ確保なのだ。
 一切れといっても大きいのだ。一口ではとても食べきれない。「かぷっ」ってかぶりつくと皮は香ばしく焼けていてぱりぱり、中身はほどよく火を通しただけのジューシーな味わいなのだ。これが酢飯を合わさると思わず笑顔になってしまう。阿部部長も笑顔、杉山のおばちゃんも笑顔だ。調理のパートさんたちも焼き鯖寿司をおいしそうに頬張っている。
 鯖寿司は「回転はんなり寿司」の人気商品なのだ。新商品として焼き鯖寿司をラインナップしようという計画なのだ。

 後藤工場長が新しいワゴンを載せてエレベーターで上がって来た。
 「忘れるとこでした。いつもの鯖寿司と食べ比べてみとくれやす。」
 危ないところだったのだ。このまま焼き鯖寿司を食べ続けていたら鯖寿司が入らなくなるところだったのだ。後藤工場長はいつも肝心なことを言い忘れる困ったおじさんなのだ。
 でも、食べ比べとは後藤工場長の粋なはからいなのだ。焼き鯖寿司の味に少し飽きたところで、いつもの定番の登場なのだ。いつ食べてもこれは旨いのだ。幸せな気分になるのだ。太りそうでコワイけどね。

 またエレベーターがチンと鳴った。あたしと同期入社の石崎君がワゴンを押して上がってきた。
 「みなさーん、みなさんの味覚のテストっスよ。こっちも食べ比べてみてほしいっス。」
 何処から見ても、さっきの鯖寿司と同じなのだ。
 阿部部長がにやりと笑っている。答えを知ってるのだ。石崎君も笑ってる。この味の違いが分かるかと言いたげだ。
 石崎君は寿司職人なのだ。東京のお寿司者さんで一年修業したけど続かなかったそうだ。それからぶらぶらしていたみたいだけど、京都に遊びに来た時に鯖寿司の奥深さに触れたって言ってった。今は後藤工場長の下で修業している見習い職人さんなのだよ。
 石崎君が運んできた鯖寿司をほおばってみる。この違いは口に入れただけで分かるのだよ。
 「みなさん、わかるっスか。」
 石崎君があたしを見ている。ご指名とあらば答えるのだよ。
 「これは作り立ての鯖寿司なのだ。熟成していない分、味が爽やかなのだよ。」
 「戸部京子君、さすが料理屋のお嬢さんだけあるね。」
 阿部部長がすごく感心したような口調で褒めてくれた。
 鯖寿司は時間の経過とともに味が変わるのだ。握りたてを食べる江戸前寿司とは成り立ちが違う。うちの鯖寿司をお店に出すときは、一日寝かせて味を熟成させるのだよ。
 「そうだね、京都は海が無いから塩と酢で締めた鯖は保存食だった。魚を発酵させるなれ寿司が京都の鯖寿司のルーツだ。」
 阿部部長は京都学院大学を出ているだけあって物知りなのだ。いつもいろんなことを教えてくれる。
石崎君も満足そうに鯖寿司を頬張っている。
 同期入社だから石崎君なんて呼んでるけど二つ年上のお兄さんなのだよね。
 「それから、みなさん知ってるスか? 今日、三月八日は鯖の日っスよ!」
 みんなが石崎君の豆知識に笑った。

 またエレベーターがチンって鳴った。浅野課長と下田主任だ。それに恰幅のいいおじさんも一緒に降りてきた。
 「社長、どうぞ!」
 小男の下田主任が太鼓持ちみたいにへーこらしておじさんに事務所を案内している。のっぽの浅野課長も揉み手をしながら後からついていく。このおじさん誰なんだろう。腕に金色の高そうな腕時計をしている。その割にスーツはなんか安っぽいよね。
 社長と呼ばれたおじさんと浅野課長と下田主任は、事務所を一回りすると三階に上がっていった。

 死んだお父さんが言ってた。身の丈に合わない高そうな時計をしてる男には、気をつけなさいってね。
 お父さんの言葉は正しかった。この男が、あたしたちの会社を窮地に陥いれることになるなんて、この時あたしは想像もしていなかったのだ。


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