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「Novatos~プロレスリングと僕とメキシコ~」

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 毎晩、日本に帰る夢を見ていた。目を覚ませばそこはメキシコ。暑くて遠くて見知らぬ国の見知らぬ街の片隅にある、プロレスラー養成学校の4階にある2人部屋。二段ベッドの上段に、僕は寝そべっている。それがちっとも実感出来ずに、まだ夢から覚めていないような気さえする。2005年の夏のことだった
 海の向こうを夢見て、夢の終わりを抱きしめて生きている。あの夏、ずっと憧れていた夢を追いかけた短い日々のこと
 子供の頃からプロレスラーになりたかった。強くてカッコ良くて逞しい、筋肉モリモリマッチョの男たちに憧れていた。柔道や拳法を習いつつ、プロレス雑誌やレスラーの本を読んで真似したトレーニング。食事も豪快に、そして大量に
 そんな風にして身も心もプロレスに夢中のまま渡ったメキシコで、僕はあっという間に挫折を味わった。生まれて初めて家も故郷も離れ、文字通り遠い世界で暮らし始めた。情けない話だけど、毎日とても辛かった。先輩や同期はみんな優しくて、何度も、何時間でも励まし説得してくれた。だけど結局は振り切って、僕は日本に舞い戻った
 そして二度と、その夢を追いかけることはしなかった

 2020年。僕は仕事を転々としていた。何をやっても長続きせず、いつも辞める理由や諦める原因を他人に求めて暮らしていた。そしてストレスが溜まると、放り出すようにして仕事も辞めて人づきあいも断ち切って生きていた
 このままじゃ、もう後は転がり落ちていくように生きるしかない……どうしてこんなことになっちゃったんだろうなあ。どうしてこんな風に生きてるんだろうなあ、これからどうしたらいいのかなあ……ぼんやりとそんなことを考え不安がるフリをして、僕がすがるかつての夢と夏の記憶。何度も拾い上げては放り投げて、すっかりバラバラになったものをまた紡ぎ合わせた、いびつにゆがんだ夢の記憶。それがきっと今の僕
 まるで怪獣のように自意識と逃避癖だけが膨らんだ許されざる命

 プロレスかあ。あれからもずっとプロレスの事は応援しているし、ずっと好きで見続けている。自分より若くて才気あふれる選手が沢山いる。かつての先輩も頑張っているし、そのうちの一人は今や歴史に残る選手、そしてチャンピオンとして世界的なメジャー団体に君臨し金の雨を降らせ続けている
 レインメーカー。そう呼ばれる華やかで煌びやかな先輩が繰り広げる、泥臭くも熱く燃えるような激戦の数々。僕も、いつかこんな風にリングに上がってみたかった
 いつか、世界中を旅して戦って回ってみたかった
 いつか、と夢見た世界が目の前にあるのに。いつしか、僕はその夢の欠片にすがって生きることにすら慣れてしまっていた
 辛いとき逃げ出したいときに励みとなり力となる寄る辺が夢ではあるけれど、辛いから逃げだすときの言い訳や隠れ蓑にしてしまってはいけない
 そうだ、もう一度戦おう──
 僕は、まだギブアップしていない。ギブアップする勇気すらなく、日々を怠惰に過ごしてきた。鈍ったのは体だけじゃなかった。すっかり腑抜けになり及び腰で生きてた心を入れ替えて、きっとまた僕は戦える。前を向いて、また夢を掴むんだ
 メキシコから舞い戻ってからの日々を、そしてあの国で過ごした短い夏の日々を、僕は取り留めもなく書き連ねてゆくことにした。そしていつか、沢山の人に読まれるようにと願っている。僕の夢、そして今もその夢の舞台で戦い続ける大好きなプロレスラーたち
 僕も僕の戦いを始めよう、新しい夢、新しい戦い、そのために書き続けよう
 僕は僕の夢を描こう、そして紡いでいこう。素直に、真っすぐに、何処までも書き続けよう。そう決めて僕は、まっさらなファイルを開いて、僕の物語に名前を付けた
 Novatos~プロレスリングと僕とメキシコ~
 ノバトス、新人、新入りだったあの頃の気持ちで、また戦うんだ
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