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33.兄上はお仕事中
しおりを挟む監査は滞りなく進められた。
総帥の後ろには、他監査官、最高導師と数人の上級魔道士が付き従った。
訓練場、研究棟、そして宿舎と整然とした案内のもと、監査官は歩を進め、一行は寸分違わず総帥の靴音と揃えて響かせながら魔塔の現状を精査していく。
実演模擬戦を行う上級魔道士以外は、通常通りの生活を送るように──そう通達が下された。
監査官一行が魔塔内を巡回し、日常の様子を視察する中、ジルバードとカイルはある程度の自由を与えられていた。
彼は距離を保ちながら、一団の後ろを静かに追う。
それは、ただ兄の背を追い求めるためだった。
その姿を、その目に焼き付けるためだった。
「おい、ジルバード……そんなに怖い目で見つめたら公爵様だってやりづらいだろ?」
「あ、いや……そうかな。兄上は俺に気づいていないような気がするけど」
ジルバードの言葉が一瞬途切れたあと、彼は苦笑しながら答えた。
静かにそう続けた声には、明確な寂寥と悲嘆が滲んでいて、カイルはやるせない気持ちになった。
カイルは当然だとして、絶対的な権力者である公爵を唯一兄上と呼ぶことを許されているジルバードにすら、レイリアは一瞥もくれない。
ジルバードの視線が、これほどまでに真っ直ぐ向けられているのを知っているはずなのに。
背後から、ひたすら追い続けていることを感じているはずなのに。
レイリアがこの地に降り立ち、その場で頭を垂れ、レイリアが通り過ぎるのをしばらく待ったあと顔を上げたジルバードの瞳は、もう本当に眩しいほど輝いていた。
憧憬に身を焦がし、歓喜に震える――痛いほどに熱を帯びた表情。
カイルは思わず息を呑んだ。
四年もの間、耳にし続けた「兄上」への執着が、今まさに目の前で形を成したことに感動すら覚えたほどだった。
ジルバードがまるで小さな子供のように目を輝かせて頬を染める姿に、彼の視線の先の偉大な人物よりも目を奪われてしまったことを思い出して、カイルは小さく咳払いをした。
───
訓練場、実技模擬戦を視察した後、魔塔の高層階に位置する研究棟に足を運んだ。
長年使い込まれた棚と書物が並び、机上には溶けた蝋燭や書き殴られた羊皮紙が無造作に散乱していた。
レイリアはその無秩序な光景に微かに眉を寄せたが、すぐに元の鉄仮面を嵌めて問う。
「研究棟における新規術式の進捗は?」
「予定通り進んでおります。先月の実験では魔力効率の向上が確認されております。」
「では、その効果を実証するための実験結果を示せ」
そこに宿る感情はない。責め立てている訳でもないのに、言葉の節々に威圧が込められているような気がしてならず報告を行っていた研究主任が一瞬たじろぐ。
やましい事など無いはずなのに冷や汗が流れるような錯覚を覚えた。
「…は、はい。ただいま資料を」
研究主任は慌てて魔導書を取り出し、レイリアに差し出した。
レイリアは革手袋を嵌めた手でそれを受け取り、手早くページを捲りながら、上から順に流れるように目を走らせた。
「……記録は確かに整っている。しかし、この魔力効率の向上が実戦において有用であるかの検証が不十分だ。理論上の数値ではなく、実際の戦闘を想定した応用実験を行え」
「……承知しました、閣下」
ジルバードは、次の部署へと歩を進め始めた監査官達を遠巻きに見つめながら、レイリアの厳格な言葉を噛み締めるように瞼を閉じた。
──兄上は、かっこいい。
そして、ジルバードが出会ったあの日から、ずっと美しい。
兄上が人を従えるのは、畏怖や力で押さえつけているばかりではない。
彼の一挙手一投足に、隙などどこにもない。冷酷で、無慈悲に見えるが、実際は何もかも計算し尽くした上での行動だからこそ、誰も逆らえないのだ。
監査が終盤に差し掛かると、監査官一行は上階から順に下り入口近くの防衛部門へと足を踏み入れた。
魔塔の防衛部門では、防衛魔道士たちは日々、塔を守るための警戒と巡回を担当している。その指揮官がレイリアの前に進み出て、現状報告を始めた。
「現在、塔の外部結界は万全の状態を維持しております。加えて、先月の襲撃事件を受け、防衛体制を強化し──」
「襲撃事件について詳細を」
「はい……先月、未確認の魔物が塔の周辺に出現しました。警戒班が即時対応し、塔への侵入は阻止しましたが、一名の魔道士が負傷しております」
「魔物の種類は?」
「詳細は不明ですが、通常の個体よりも魔力値が異常に高く、従来の結界では完全に防げませんでした」
「……」
レイリアは背後から静かに手渡された資料を眺め、手を顎にやって目を伏せた。
数秒の沈黙の後、ゆっくりと視線を上げると、防衛指揮官は微かに肩を跳ねさせた。
「その魔物の残骸は?」
「すでに解剖・分析を行っております。魔塔の資料室にデータが保管されております。」
「後で確認する。すぐに結界師を選りすぐるように。」
「……恐れながら閣下。その件についてはこちらにて全て解決の方向に進みつつあることをご報告させていただきます」
「……ほう?」
レイリアの続きを促す視線に対し、防衛部門の指揮官は、レイリアの後ろに控えていたエドガー・ローレンスと一瞬だけ目配せを交わした。
一拍の間を置き、エドガーが一歩前に進み出ると、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「実は……塔の見習いであり、公爵閣下のご弟君の──ジルバード……様、が先日氷結の結界を展開されました。その結界は広範囲に及ぶものであり、従来の防御術式よりも遥かに安定した効果を示しております。現時点では、最も実用性の高い防衛策の一つと判断しております」
監査が始まった頃から、憐憫からジルバードの方をちらちらと振り返っていたエドガーが、その視線をジルバードへと向けるように、さりげなく手を動かして導いた。
「見習いの中で、特に優秀な者を数名選出しておりますがその中でも、彼は現在『次期・特級魔道士候補』とされています」
防衛指揮官が続けると、場は静まり返り、他の監査官や魔道士たちが一斉にジルバードの方へと振り向いた。
ジルバードがレイリアの弟であることは、ここにいる全員が知っていたからこそ、これまで触れられなかった彼の名前が呼ばれることで、その場の空気がわずかに揺れた。
「……えっ……」
ジルバードはその視線の波に、息を呑んで固まった。
エドガーに関しては菩薩のような笑みを浮かべてこちらに親指を立てている。
───そう、その場にいた全員の視線が、自分に集まった。
皆が総帥の反応を待つため静まり返る中で、レイリアの視線が、ゆっくりと彼に向けられた。
途端に心臓が跳ね上がり、喉が熱くなる。
記憶の中のレイリアよりも一層洗練され、凛とした美しさに磨きがかかった彫刻のようなかんばせに頬にカッと熱が篭もる。
目が合った、目が合った、めが、あった。
切れ長の目、瞼の奥には青く輝く宝石が鎮座している。こちらを見つめるその瞳が何を思っているのか、ジルバードには読み取る事が出来なかった。
でもそれでもよかった。四年、四年もの間この日を夢見てきた。
その視界に入ることを、同じ空気を吸うことを、言葉を交わすことを。
その為だったらどんな努力さえ惜しくなかった。
美しい世界に感謝をして眠りにつくことが出来た。
生きる原動力の兄上が、今、俺の全てをその目で認識している。事実が胸を焼切るように熱い。
「……」
そんなジルバードの様子にレイリアはわずかに目を細めると、再び指揮官へと視線を戻してしまう。
「……近日中に結界の精度を計測して数値化するように。」
期待していたわけではない。彼がここで何を言うはずもないことなど、最初から分かっていた。けれど焦がれるほどに渇望してしまう。
───もっと見てほしい。もっと気づいてほしい。もっと感じて、認めて、聞いて、もっと、もっと、俺を……!
ジルバードは強く唇を噛み締めた。血が滲んで口腔内に鉄の味が混ざりあって溶けた。口渇を誤魔化すようにこくりと唾液を嚥下して、呼吸をした。
兄の声、息のひとしずくを感じるたび、ただ遠くからその全てを追い求めるだけではもう耐えられない。どうしても、もっと近くで、その全てを掴みたい。もう、苦しいんだ。
「……氷結の結界の詳細は?」
その言葉は、ジルバードの頭の中で反芻し、大きな鐘を打ち鳴らした余韻のようにして留まった。
それは思いもしなかった、彼の口から、“氷結の結界” という言葉が発せられたことによって。
指揮官の声が遠くかすかに聞こえてくる。報告を続けるその音が、ぼんやりと耳に届いていた。
だが、ジルバードの意識はそれどころではなかった。
レイリアの唇が、ジルバードの編み出した術式を、
──俺の魔法を、口にした。
瞬間、全身を駆け抜ける熱と衝動に、ジルバードは身震いした。
たとえそれが、ただの監査の一環だったとしても。
たとえそこに、個人的な関心など一切含まれていなかったとしても。
それでも、レイリアは確かに自分の魔法をこの世に認めた。
高鳴りが身体中を打ち鳴らし襲いかかるようだった。
もっと近づきたい。もっと兄の傍に立ちたい。
後ろに立ちたい、隣に立ちたい、傍で寄り添いたい。
押し込まれていた欲望が、静かに、しかし確実に心の奥でうねりを上げ、それはジルバードの体を突き動かした。
一歩前に足を踏み出すと、クラクラ揺れる頭が重かった。
「あの、っ兄上…!兄上……俺、」
いつの間にかレイリアの背を越したジルバードを目線だけで軽く見上げると斜め後ろに控えていた最高導師に目をやり、凍てつくような声音で言い放った。
「───おい、魔塔では、見習いが無断で監査官に話しかけるのを許す教育をしているのか?」
その瞬間、ジルバードは、突然、頭から冷水を浴びせられたような気持ちになった。
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