前世を思い出したけど推しの義弟が最恐のヤンデレラスボスだったので俺が幸せにしてみせます

柊 らんか

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41.濃霧

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「……人生って、本当に、何が起こるか分からないものだな」

 アシェルは、読みかけの本をそっと顔の上に重ねるようにして置いた。
 ふわりと立ちのぼる古紙の香りが鼻先をくすぐり、思わず深く息を吸い込む。わずかに湿った紙の匂いに包まれながら、気が紛れたような、ほんの一瞬だけ現実から目を逸らせたような、そんな感覚に安堵する。

 本を少しだけずらしながら目を開けると、視界の先に映ったのは、未だ馴染むことのない天蓋の布。風もないのに、どこかゆらりと揺れているように見えるその布の陰影に、アシェルは無意識にまばたきを一つ落とした。
 まるで、まだ夢の中にいるような気がしてならなかった。

 ――村にハミルトン家の使者が訪れたのは、ほんのわずか前のことだ。
 それが何を意味するのかも理解しきらぬうちに、物事は水を流すように決まっていった。

 気がつけば、住まいは公爵領の中に移されていた。
「今日からここがお前の家だ」と言われた屋敷は、アシェルの生家が何棟あっても入りきらぬほどの広さだった。

 最初のうちこそ、アシェルを差し出すような話に眉をひそめていた家族も、あまりに手厚すぎる待遇に触れるにつれ、徐々にその現実に酔わされていったようだった。
 今ではもうすっかり、夢でも見ているかのような浮ついた表情を隠そうともしない。

 扉の向こうから聞こえてくる、兄弟たちの弾んだ声に、アシェルはふっと微笑んだ。

「……でも、いったい何のつもりなんだろう」

 公爵であるレイリアと初めて対面してから、すでに二度、三度と公爵邸に招かれている。
 そのたびに、何か無礼を働いたのではないかと不安に駆られながら門をくぐっていたが、迎えに出るのはいつもあの無表情なレイリアだった。

 その背に黙ってついていくと、決まって庭のガゼボへと案内され、丁寧に淹れられた紅茶が出されるのだった。
 特に言葉を交わすわけでもない。
 アシェルが所在なげに身をよじり、そっとレイリアを見上げても、その瞳がこちらを向くことはなかった。
 ただ静かに、お互いに紅茶のカップを傾けるだけの時間が流れていく。

 やがて頃合いを見て、レイリアは無言のまま席を立つ。
 取り残されたアシェルは、控えていた使用人に軽く頭を下げられ、何も言えないまま門へと導かれた。

「けどこの間は、びっくりしたな……」

 ――それは、ほんの先週のことだった。

 いつものように、公爵邸のガゼボで紅茶を傾けていたときのことだ。
 庭に柔らかな陽が差し込む中、レイリアはふと思い出したように言った。

「――そういえば、言い忘れていたが。実は、君のことはずっと前から知っていたんだ」

 あまりにも何気ない口調に、アシェルは一瞬、意味が掴めず瞬きをした。
 けれどすぐに、その言葉の重みに気づき、思わず手元が狂った。カップをソーサーに置いた音が、やけに大きく響いた気がした。

「……え……?」

 声にならない声を漏らしながら、アシェルは呆然と彼を見つめた。
 そして、そのあとに語られた話を、ただ黙って聞くしかなかった。

 幼い頃、家の裏手に広がっていたルクレシアの森。


 その森の中で、確かに自分は一人の男の子を助けたことがある。
 震える肩、びしょ濡れの服、そして、怯えながらもどこか強さを宿した、エメラルドの瞳。



 泣きじゃくっていたその子の姿は、今でもアシェルの記憶に鮮明に焼きついている。
 まさか、その子が、いまこうして優雅に紅茶を啜っている、このレイリアの弟だったなんて。



 となれば、あの時、森で出会った少年が繰り返していた「兄上」という呼び名の相手こそ、いま目の前にいるこの貴公子なのだろう。

 その事実に、アシェルは妙に腑に落ちるものを感じた。

 静かに紅茶を啜る彼の所作、漂う気品、そして、どこか人を圧するような沈黙の重み。


 そのひとつひとつが、まるで誰かに慕われることが当然であるかのように、揺るぎない威厳に満ちている。
 この人は――あの少年にとって、たしかに世界そのものだったに違いない。

 そんなことを考えていたときだった。

「来週、婚姻契約書の手続きをしに、王宮へ同行してもらう。……いいな?」

 思考の海に沈んでいたアシェルは、ふと顔を上げた。
 突然の問いに小さく瞬きをし、慌てて姿勢を正す。

「……あ、はい。承知いたしました」

 僅かに遅れた返事にも、レイリアは特に表情を変えなかった。本のページを一枚捲り、わずかに首を傾けたまま言葉を継ぐ。

「君が良い働きをしてくれることを、楽しみにしているよ。……そうだな、たとえば――」

 ……あれ?そういえば。たとえばの続きは――なんだっただろうか。確かにそこで言葉は続いたはずなのに、肝心の部分だけが思い出せない。
 あれから何を言われたのか、どうにも輪郭が曖昧で、指先からすり抜ける夢のように掴めなかった。




 確か、少し不思議なことを言っていた気がする。けれど、それが何だったのか……。
 考えようとすればするほど、かえって頭の中はぐるぐると混乱して、思考はぼやけていく。

 そのまま瞼を閉じて、ぼんやりとレイリアの横顔を思い浮かべているうちに――アシェルは静かに、深い眠りへと落ちていった。
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