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50.俺を壊して救ってよ
しおりを挟む意識の淵で、ゆらりと浮かぶように届いた声。もう夢か現かもわからない。
けれど、それが誰の声かだけは、確信を持ってわかった。
レイリアは、一歩ずつ、静かにジルバードへと歩み寄る。
何の躊躇いもなく、崩れた身体の前で片膝をつき、穏やかな目つきでその顔を見下ろした。
指先が髪に触れた。その感触を少しばかり楽しむように指を絡めると、冷たくなった頬の上を、ゆっくりと、ひと筆描くようになぞっていく。
滑るように肩へ、胸元へ――そして、そのまま迷いなく、ジルバードの身体を自分の方へ引き寄せる。
それはとても静かで、抗いようのない優しさをしていた。
ジルバードにとってそれはまるで、自分という存在をすっぽりと飲み込んでしまうかのような抱擁だった。
拒む理由も、抗う余地もなかった。
骨の芯まで染みていくような温もりは、冷えた身体の奥にまで、ゆっくりと沁み込んだ。
「……ぁ、あ……」
レイリアは、血に濡れた頬を手のひらで包むように、ゆっくりと撫でた。
まるで壊れ物に触るような動きで、唇の端に伝う血を、親指で優しく拭う。
ひとつひとつの動作が、まるで夢の中の出来事のようだった。
息をするように、小さな音が喉の奥から漏れる。
言葉にならない。ただ震える声だけが、その場に響いた。
ぴたりと重なる胸板の感触に、ジルバードの全身が一瞬で脱力する。
けれどそれは、力が抜けたのではない。
力を入れる理由など、もう何ひとつ、残っていなかった。
ジルバードは、自分の心臓の音が聞こえなくなったような気がした。
――ああ。あったかい。
――夢みたいだ。
叫びたくなるような痛みも、嗚咽しそうなほどの苦しさも、全部。
レイリアの腕の中にいるだけで、消えていく気がした。
想像していたよりもずっと柔らかくて、穏やかで、そして、どこまでも優しかった。
「……レイリア……兄上……」
――やっと、やっとその名を、呼べた。
何度も口にした名。紙に、魔道具に、夜の闇に、祈りのように繰り返し刻み続けてきた名前。
その名をいま、腕の中で、口に出して呼べる。
それだけで胸がいっぱいになった。
このまま心臓が止まってしまってもいいと、そう思えるほど――幸福だった。
こんなに幸せなことが、自分の人生の中にあっていいのだろうか。
あっていいわけがない。
だからこそ、きっと、これは最後なのだとわかっていた。
兄上がこんなにも優しいのは――もう、自分を手放すと決めたからだ。
「……ジルバード」
そして次の瞬間。張り詰めていた糸のような何かが、ぷつんと音を立てて切れた。
ぽろぽろと、涙がこぼれる。頬を伝って、地に落ちていく。けれどその顔には、安堵の微笑みが浮かんでいた。
まるで救われた子供のような、柔らかい、あまりにも無防備な笑顔だった。
「ありがとう……ありがとう……兄上」
震える手で、そっと兄の背に腕を回す。
それだけの動作に、残っていた全ての力を振り絞った。
「あにうえ、あにうえ……さみしかった……あいたかった……声を聞きたかった……顔を見たかった……!」
言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
伝えたいことなんて山ほどあるのに、口から出たのはあまりに単純で、まるで子供のような言葉ばかり。
でも、それ以外、もう何も出てこなかった。
「大好き、大好きっ……ずっと、大好き……!」
それだけを伝えたかった。
それだけを、どうしても伝えてから死にたかった。
心臓が潰れるほど強く、そう思っていた。
「……ねえ、兄上。もう、俺のこと、終わらせてください。その手で」
血に濡れた手で、そっとレイリアの手を取る。
その手を、自分の首へと導いていく。
ひんやりとした兄の細い指が、喉元に触れた瞬間――全身が歓喜に震え、うっとりと微笑んだ。
こんなにも優しい死を、誰が想像できただろう。
目を閉じる。もう、何も怖くなかった。
このまま、終われるなら。兄上の手で、命が途絶えるのなら。それ以上の幸福なんて、この世界にあるはずがなかった。
レイリアは何も言わない。
されるがまま、静かに、ジルバードの首に手を添える。
その目は細められ、指先に、少しずつ力が込められていく。
首を撫でるその感触が、愛おしくてたまらなかった。
その力が、命を断ち切るものではなく、存在を確かめるように優しく、抱きしめるような愛を感じたからかもしれない。
この家に来て、初めて名前を呼ばれた日。初めて褒めてもらった日、叱ってもらった日。
触れてくれた手。呼んでくれた声。抱きしめてくれた腕。
――素晴らしい、人生だった。
兄上と出会えたこと。兄上の名を、心から呼べたこと。
その目で見てもらえたこと。
なによりも、こんなにも人を、愛せたこと。
いくつもの幸せが、たったひとつの終わりへと導いていく。
ジルバードは、ゆっくりと温かい闇に意識を手放すように力を抜いていく。水底に落ちていくように、静かに、ゆっくりと体の重みさえ消していく。
そうして全てを手放した――はずだった。
「――ん、ぅ……っ!? っ、な、に……っ――」
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
温かく、湿った感触が唇に触れた瞬間、脳裏が真っ白に塗り潰される。
手放しかけていた五感が、意識が一気に息を吹き返した。
舌先がジルバードの唇をなぞる。柔らかく、湿った熱が、ひとつひとつの感覚を丁寧に目覚めさせるように、じわじわと這ってくる。
「……っ、ぁ、……っ、あに、うえ……っ」
言いたかった。なぜ、どうして、そう声に出したいのにそれすら許さないというように、少しの隙も与えてくれない。
問いかけは、キスで塞がれ、言葉のかわりに、レイリアの舌が深く、口内を暴いていく。
血の味がした。涙のしょっぱさも混ざっていた。
それなのに、その味は、ひどく甘くて。おかしいほどに、心の奥を痺れさせてくる。
「……まっ、…なん、……で」
苦しい。けれど、それ以上に、嬉しい。
怖い。けれど、それ以上に、もっと欲しい。やめて、やめないで。逃げたい、もっと近くにいきたい。
ぐちゃぐちゃになった感情が、思考を飲み込んでいく。
ただ、ひとつだけ――確かだったのは、兄上が、口付けをしている。自分に、口付けをしている。
それだけが、現実だった。
「……っ、……」
わずかに緩んだ唇の隙間に、レイリアの舌がそっと触れた。
それは決して荒々しくも、強引でもなかった。けれど――抗う余地など一つも無いほどに、ひとつの迷いもなく、ジルバードを絡めとって離さなかった。
柔らかな感触が、じわりと歯の裏側をなぞる。
舌先は遠慮も躊躇も知らずに、ゆっくりと内側を探りながら、ジルバードの舌へと絡みついてくる。
くすぐるように、押し広げるように、じっとりと絡まりながら、逃げ道をひとつずつ塞いでいく。
抗うより先に、思考が追いつかなかった。
脳が熱を持つより早く、心が痺れるよりも早く――
感覚のすべてが、ただレイリアに侵されていく。
粘膜をやさしく舐めて、喉の奥へとゆっくりと進んでいく。
じわじわと広がる熱に、身体の内側まで染められていくようだった。
自分がどんな顔をしているのかも、もう分からない。
目元は濡れて、唇は震えて、声は漏れているはずなのに――何も、実感できなかった。
ただ、そこに触れているのがレイリアの舌だというだけで、ジルバードはもう、自分という境界を保てなくなっていた。
どこまでが自分で、どこからが彼なのか。わからない。わからなくていい。
ただ、すべてがひとつに溶け合ってしまえばいいと――そう強く願ったのは確かだった。
羞恥も、怖さも、やましさも、狂ってしまいそうな愛も。
ぐしゃぐしゃに絡まりながら、溶けていく。
甘くて、苦しくて、ひどく熱いものが、口の中を満たして離してくれない。
視線をふと上げると、レイリアの瞳がすぐそこにあった。
伏せがちの睫毛の下から、じっとこちらを見つめるその目は、柔らかい光を湛えていた。
けれど、それは冷たいものではなく、慈しむような眼差しだった。
逃げられないように、ジルバードの頭を後ろからしっかりと支え、その身体を、自分の足でそっと押さえつけていた。
ジルバードは掠れた息を繰り返しながら、かろうじて目を開けた。
滲んで歪む視界の中で、必死に、ただひとつの光を捉えようとする。
兄上を――この胸を満たして、壊して、救うたった一人の人を。
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