不憫令嬢は偏物公爵の難解な寵愛に翻弄される

岡村紗季

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第1章

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 思いもよらない提案に、ステラは返答に窮した。
 そんなステラの様子には予想がついていたのだろう。イグナスは一方的に話を進めることなく、ステラが落ち着くのを待っている。

「取引というのは、つまり私にも相応の利があると、そう受け取ってよろしいのでしょうか」
「実に聡いな。その洞察力、ますます手中に収めたくなる」

 イグナスの唇が、静かに弧を描いた。
 ――笑った。
 しかしその笑みはぬくもりを感じさせない、思考の底に潜む企みを滲ませているものだった。

「この国での君の立場は把握している。状況を覆すことは難しいだろう」
「………」

 それはつまり、この国での結婚を望めないことを意味していた。
 これまでにステラが情事に踏み入ってしまった貴族たちは、権威ある者がその割合を多く占める。ましてや一人で立ち向かうには圧倒的に不利な人数差だ。数に押し負けることは目に見えており、一年の歳月で積み上がった不信感を立て直すことは絶望的と言える。
 どなたか私と情に溺れた方がいるというなら、名乗りを上げてください。
 そう訴えたところで、彼らはそれを退けるだけの権力を有している。それこそ、浮名を流す下位貴族に名乗り出るよう、手を回すことも出来るだろう。
 ステラにとって今の状況は八方塞がり、将来についてはお先真っ暗だ。
 ステラのささやかな夢である、幸せな家庭を築くことは、少なくとも国内においては不可能であった。

(自分の外聞も、置かれている状況も分かってるつもりだった。だけどこうして直接事実を突きつけられるのは、さすがに辛いな)

 ステラの長い睫毛が影を落とす。全身の力が抜け、イグナスと対峙していることすら意識から抜け落ちていた。
 今はもう、何も考えたくない。
 こんな私に取引を持ち掛けるなんて、ジークバルド公爵も人が悪い。これは取引という名の圧力だ。
 希望の打ち砕かれた今、ステラはイグナスの言葉を待つしかない。死刑宣告に等しい、”相応”の利益とやらを。

「取引とは、双方に公平な利があって初めて成立する。安心しろ、悪いようにはしない」

 イグナスは身体を屈め、向かい合うステラにわずかに近づく。
 そして秘密を共有するよう、小さく、しかしはっきりとした声音で囁いた。

「君を国外へ連れ出す。そして、確かな血統を持つ貴族との婚姻を取り計らおう」

 ゆっくりとステラは顔を上げる。
 イグナスの双瞳はステラを射抜くよう、ただ彼女だけを映していた。
 耳に届いた言葉からは、ステラを謀ろうという意思を感じない。いや、そう思いたいだけかもしれない。それでも、もう縋るものなどないと諦めていた心に、わずかな光が灯る。
 イグナスの口調は終始変わらず、感情の色を排したまま、厳正な力強さを帯びていた。

「そのようなことが……本当に、可能なのでしょうか」
「無論だ。ジークバルド公爵家の威信にかけて、必ずや果たしてみせよう」


 家名にかけての誓約は、それを裏切ることを決して許さぬ厳然たる契約である。
 本当に?私をここから連れ出してくださるというの?

「ドロッセル家のことは案じるな。君には年の離れた弟がいたな。彼が成人するまでジークバルド家で庇護することを約束しよう」

 冷えた指先に熱が集まるのを感じる。
 もしかして、本当に。心臓がうるさいほどに高鳴っていく。

「君を害するすべてから、必ず守ってみせる」

 迷いは晴れた。
 ステラは立ち上がり、イグナスに向けゆっくりと膝を折った。

「――その申し出をお受けいたします。イグナス・ジークバルド公爵の婚約者として、必ずお役に立ってみせます」

 ステラの返答に、再び笑みを浮かべたイグナスは軽やかに立ち上がる。その動きには計算と余裕が漂っていた。
 そのままイグナスはステラに歩み寄る。膝をつき、恭しくステラの手を取ると、静かに口づけた。
 ステラを見上げる鳶色の瞳には、甘さはなく、策略と期待だけが満ちていた。

「契約成立だ。君の働きに期待している」

 腰に手を回され抱き込まれたことも、求婚の口づけも――何もかもがステラにとって初めての経験だった。
 そして、そのすべては、軽やかに、美貌の公爵に攫われてしまった。


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