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22 賢者、うじうじする

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 チュアの弟――アルセド・アティス・ロージアンという名で、アルセドと呼んでもかまわないと許可を貰った――はきっかり一時間、姉との婚姻を考えてくれという話だけをして、部屋を去っていった。

「お似合いだとおもうっすよ」
「……」
 キュウに返す言葉が見つからない。

 チュアは大事な存在だ。
 はじめは、料理が上手い、美味しい飯を食べさせてくれる貴重な相手だとしか認識していなかった。
 人間不信だった僕の心を溶かし、誰かを「信頼する」ということを教えてくれたのはチュアだ。
 でも、僕は未だにチュア以外の人間を、頭から信じるつもりはない。

 子供の頃の僕を虐げていた城の連中。
 僕の見目が変わったら途端に魔法薬を買わなくなった町の女たち。
 森の奥に静かに住んでいたいのに、道を敷いた礼だと勝手に狩ったものを持ってくる狩人たち。

 どいつもこいつも、僕が何かした、見目が良かったという理由だけで、擦り寄ってきた。
 僕が良い見目を失えば忘れ去られたし、道を敷かなかったら、彼らは僕のことなど気にも掛けなかっただろう。
 だけど、チュアだけは、ずっと僕のそばに居てくれる。
 そう信じているし、チュアが僕を見捨てることがあるなら、きっと僕が悪い。

 こういうことを、ぽつぽつとキュウに話して聞かせた。
「エレルさま、そんなにチュアさんのことが大好きなら、結婚したらいいじゃないっすか」
「大好き、か。そうか、僕は……」
 確か、男女間で好き合うことを、別の言葉で表現するのだったな。

 その言葉がしっくりくることに気づいた僕は……。



 翌日、僕はアルセドの部屋の扉を叩いた。
 まだ陽が昇ったばかりの時間だが、何時でも来ていいと言っていたから問題ないだろう。
 扉の向こうから応えがあって、僕が名乗ると、ばたばたと慌ただしい音がした。
「エレル殿、決心しましたか!」
 扉を開けたのはアルセド本人だ。開け放つなり、僕の腕をつかんでぐいぐいと引っ張ってくる。
「待て、離せ。決心は着いたが、アルセドが思うような決心じゃない」
「え……」
 がっかりした表情が、チュアそっくりだ。
 あまり見ていたくないから、手短に伝えた。

「僕は森へ帰る。チュアに、世話になったと伝えてくれ」
 アルセドが何か言う前に、僕は転移魔法を使った。



「本当によかったんっすか!? もうチュアさんの料理も食べられないんすよ!?」
「お前は元から食ってないじゃないか」
「おいらのことじゃないっす! エレルさまの心配をしてるっす!」
「僕は半妖魔だからな。城にいた頃から不思議だったんだ。あまり食べなくても平気だった」
 この世界の普通の人間は魔力を持たないが、動物や植物、魔獣は魔力を持っている。
 その魔力は極微量だが身体から漏れていて、空気のように漂っている。
 どうやら僕は幼い頃から無意識のうちに、漂う魔力を取り込んで栄養にしていたらしい。
 今は意図的にそれができる。
 森の中ならば動植物から魔獣まで豊富に生息している。
 もう僕も、普通の人間のような食事を摂る必要はないだろう。
「食事は要らないが、水は必要だな。厨房は……取り壊すか」
「エレルさまっ! 本当にいいんすか!?」
「納得いかないならお前も出て行け」
「……エレルさまの意地っ張り!」
「誰が主人か忘れたのか?」
 ぎゃんぎゃんと騒がしいキュウを睨みつけると、キュウも負けじと睨み返してきた。
「主人が間違ってたら正すのが良い従者っす!」
「わかってる。チュアのためだ。我慢しろ」
 一国の女王の伴侶が半妖魔だなんて、有り得ない。
 僕が城に居続ければ、アルセドが煩いだろうし、チュアも気を遣う。

 僕はこれ以上人間と関わりたくないし、誰にも迷惑を掛けたくない。

「だから、これでいいんだ」
「……わかったっす」
 キュウは不承不承ながらも、僕に従った。



 普通の食事は摂らなくなったが、果物類は嗜好品のように食べることにした。
 特に林檎はしゃくしゃくとした歯ごたえと甘酸っぱい味が良い。
 キュウにも勧めてみたが、一口齧ってぺっと吐き出してしまった。
「口の中に水以外のものが入るっていうのが、気持ち悪いっす」
「そうか。無理に食べさせて悪かった」
「おいらも気になってたっす。やっぱり駄目だってわかってよかったっす」
 食事の時間が無くなったから、その分自由に使える時間が多くなった。
 と言っても、元々森暮らしは殆どが自由時間だ。
 暇を持て余したので、魔法でやっていた身の回りのことを、自分の手でやってみることにした。
 掃除、洗濯、水汲み、薪割り……。魔法を使わない生活は、結構、力が要るのだと気付かされた。

 近くの町へは、図書館で本を借りるか、本屋で本を買うときにしか行かなくなった。
 城の禁書に書いてあった魔法に、認識阻害というのがあった。
 この魔法が掛けられたものは、路傍の石の如く、誰からも気にされず、誰の記憶にも残らないのだ。
 町へ行くときは変身魔法の代わりに、こちらを使用するようになった。
 一々姿を変えずに住むので、楽でいい。



 他人と関わらなくなって、三ヶ月が経った頃、誰かが家の前へやってきた。
 ここは森の奥深くで、家自体にも認識阻害魔法を掛けてある。
 認識阻害魔法が通じない相手は、僕とキュウと、ここに絶対家があると知っている人間、つまり……。

「エレル様!」
「チュア!?」

 チュアは僕に駆け寄り、飛びついてきた。チュアは僕の首に腕を回し、ぶら下がるようにくっついた。
「ようやく時間がとれました……お会いしとうございました」
「何故来た」
 もう少しでチュアの声を、顔を、ぬくもりを、忘れられるところだったのに。
「エレル様に会いたかったのです」
「だから、何故来た。女王の仕事はどうした」
 国の仕事に興味も関心もないし、僕には無関係なものだ。
 しかしチュアは違う。
 国には民がいる。王は民のために働く者でなくてはならない。
 チュアはあの柔らかな笑みを浮かべると、僕に巻きつけていた腕を外し、僕の前に立った。
 手は握ったままだ。
「王位はアルセドに譲りました。私は王族から除籍されました」
「除籍? そんなことが……」
「私は元から王位に就くつもりはないと周囲に言っていましたし、何なら義兄は私が王になることを邪魔していました。でも、いざ義兄に王位譲渡を打診したらあの人、尻込みしたのですよ。笑えます」
 笑える、と言って本当にクスクスと笑うチュア。
 ああ、チュアだ。
 チュアがここにいる。
 僕は最後の理性を振り絞って、チュアの手を振りほどいた。
「駄目だ。アルセドは、年齢の割にしっかりしているが、まだ十三歳だろう。政を任せるのは荷が重すぎる。チュアが支えてやらなければ、国が滅ぶぞ」
「エレル様はこんなときでもお優しいのですね。大丈夫です。エレル様が『こいつに二心はない』と太鼓判を押した宰相がいますから」
 確かに言った。あの宰相は、心の底から国の安定と繁栄を願い、尽力する人物だ。彼に任せておけば、間違いはない。
「僕は、半妖魔だぞ。チュアに……釣り合わない」
 僕が一歩後退ると、チュアが一歩近づいてくる。
「そんなことは気にしておりません。というか、今の今までそのことを忘れていました。その程度のものなのです」
 後退り続けた僕の背中が、家の扉に当たった。チュアはどんどん僕に近づいて……ぱっと離れた。
「突然押しかけてこられては、エレル様も驚かれますよね。また来ます。今度は色よい返事を期待しております」
「ま、待て。ていうかどうやってここまで来た?」
 周囲には他に誰もいない。
「これをお忘れですか?」
 チュアが首元から取り出したのは、僕が魔法で作った指輪だ。
 チュアはそれをちりりと揺らして、微笑んだ。
「では、また」
 優雅なカーテシーをしたチュアは、身を翻して町の方へ駆けていった。

 僕は暫くの間、その背中が見えなくなっても、チュアが駆けていった方を見つめていた。
 それから、ようやく気がついた。
「……チュアのやつ、城から一人で、歩いてきたのか?」
「おいら、後つけてくるっす」
「そうだな、頼む。危険があったら知らせてくれ」
「はいっす!」


 キュウは予想より早く帰ってきた。
「ただいまっす! チュアさん、近くの町に宿とってたっす」
 最初に出会ったときのように、寝食忘れて歩き通してきたわけじゃないと分かって、安心した。
 いや、安心している場合じゃないな。
「説得しに……こっちから会いに行ってどうする。これ以上、顔を見てしまったら……」
 決心が鈍る。
「無事なら、いい」
「本当にそれだけっすか、エレルさま」
 キュウが真面目な目つきで僕を見上げる。
「きっとまた来るっすよ」
「……次からは会わない。キュウが応対してくれ」
「そんなっ」
「頼む」
 キュウをじっと見つめると、キュウは溜息をついて、僕に背を向けた。
「わかったっす」



 チュアは毎日やってきた。
 最初のうちは料理を持ってきたらしいが、キュウが「エレルさまは最近、食事しないっす」と説明してからは、この森では手に入らない、珍しい果物を持ってくるようになった。
 勿体ないので食べてはいるが、僕は断固としてチュアと顔を合わせなかった。

 ある風雨の強い日も、チュアはやってきていた。
 家の出入り口でキュウが何か言っているが、チュアはそれを断っている様子だ。
 しばらくして、自室で椅子に腰掛けて目を閉じていた僕の足元へ、キュウが駆け寄ってきた。
「エレルさま! チュアさんずぶ濡れなんす! あのままじゃ風邪ひくっす!」
「……」
「エレルさまっ!」
「キュウさん、大丈夫です。私、帰りますね」
 チュアが大きな声を出したから、僕にも聞こえてしまった。
 久しぶりに聞いた、チュアの声。
 すぐに顔も、触れたときの感触も、匂いも、何もかもを思い出す。
「……キュウ、これを持っていってやれ」
 魔法で雨具を作り出し、キュウに渡した。
「はいっす!」
 キュウは嬉しそうに返事をして、雨具を咥えて入り口へ戻っていった。


 嵐は翌日も吹き荒れていた。
 チュアは大丈夫だっただろうか。
 キュウの話では、雨具を受け取った後もなかなか身に着けなかったらしい。
「今日はチュアさん、遅いっすね」
 キュウに言われて気づいた。いつもなら、昼過ぎには家へやってくるはずだ。

 やはり、風邪でも引いたのだろうか。

 馬鹿なやつだ。
 僕なんかに構うから、雨に打たれて。

 僕は無言で立ち上がり、無言で家を出た。
 キュウもついてきた。
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