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牢人うどん

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 神無月に入った。日増しに吹く風が冷たくなってきている。それもその筈、暦の上ではもう冬だ。
 市兵衛はいつもの時刻より四半刻程、でん留に着くのが遅れた。日はとっくに落ちている。
「あれ……三村さんどうなさったんですかそのなり……」
「似合いませんか」
 と言って笑った市兵衛は、お仕着せの綿入れ紺看板に腹当て、股引姿である。差料はもう帯刀していない。髪が総髪なので、どうしてもその職人の衣装とは違和感はあるが、上背のある市兵衛は、何を着させても絵になる。と、お春は思った。
 牢人の為、脇差は遠慮し一本刺しになったとは云え、決して肌身離さず帯刀していた武士の証を身に帯びずに人前に出る事が何を意味するか、それが判らないお春ではない。易々と掛ける言葉も見当たらずお春は市兵衛を見つめたまま黙り込んでしまった。
「いつものをお願いします。今日は少し風が出て来た様ですから、幾分酒は熱くしていただけませんか」
「はいっ、只今」
 刀掛けに寄らず、そのまま真っ直ぐ定位置の長床几へ向かうと、長次郎と伊之助も、猪口を手にしたまま市兵衛を見たまま凍りついて動かない。入れ込みで子供達に飯を食わせながら酒を飲んでいる金助も又同様である。
「そんなにおかしいですか、この形は……」
 市兵衛は自分の姿を確認しながらおじさん達に訊ねた。
「いやいや滅相もない、良く似合ってらっしゃいますよ。なあ、伊之さん、な、な」
 長次郎は同意を求める様に伊之助へ語り掛ける。
「そうですとも。良くお似合いですよ……しかし、お腰の物はどうなさったんですか……」
 伊之助は好奇心に負けて訊ねた。市兵衛は総髪の髪を掻きながら
「武士の誇りといえば聞こえは良いのですが、こんな尾羽打ち枯らした一本刺しでも、歩いていればどなたかの目に留まり、どちらかから仕官の口が掛かるんじゃないか、拾ってくれる家中があるんじゃないか。心のどこかでそんな風に考えている自分に気が付きましてね、こんな未練を抱えていては退くも進むも儘ならぬと存じ、思い切って形を変えてみました」
 云うのは簡単だが、そう簡単に割り切れるものではなかろう。二人のおじさんは市兵衛の胸中を慮ると言葉に詰まった。
 話題を変える糸口を探していた長次郎が、目ざとく見つけた市兵衛の荷物について訊ねた。
「ところで市兵衛さん、あなたその大きな風呂敷包みは一体なんですか」
「これですか。今日仕事の帰りに、いつもの様に大横川の河岸通りを歩いておりました所、古道具屋が店仕舞いをするとかで、何でも安く投げ売りをしておりましてね、麺を打つ台と、麺棒が合わせて百文でしたので贖いました」
「するってぇとあなた、蕎麦屋でも始めるお積りで」
「うどんが食べたいと思いましてね。それがしの国元ではうどんをよく食べます。上州は田植えが遅い、何となれば、春には米よりもまず小麦を作るからです。小麦は粉にしますので、家でうどんを打ったり、水団すいとんに致します。江戸では皆さん蕎麦を好まれますが、我らにはうどんの方が馴染みがあるのですよ」
「へぇ、市兵衛さんはうどん打ちがお出来なさるので」
 伊之助が思わず訊ねた。
「はい、小さな子供の頃から手伝っておりまして、我が家ではうどんを打つのは私の仕事でございました。何せ十石二人扶持、小身の家でしたから」
 屈託なく笑う市兵衛へ、長次郎が
「しかし、わざわざご自分で粉から打たれるという様な大仰な事をなさらずとも、担ぎ荷商いの二八蕎麦屋でもうどんは出しますでしょうに」
「国元で食べていたものは江戸の饂飩うどんとは少々違うのです……」
「ほう、どの様に」
 搗米屋の伊之助は興味が有る様で身を乗り出してきた。
「そうですな……まず、麺が太い、江戸で食す物より倍、いや作る家によっては三倍程の太さの麺です」
「ひもかわですな……界隈じゃそういう平べったいうどんはひもかわと呼びます。それを出す饂飩屋もございますよ」
「ええ、存じております。木場の荷揚げ場の前の縄手道には昼時の荷揚げ人足を目当てにした蕎麦やいなり寿司の担ぎ売りが並ぶので、一度そのひもかわというのを試したことがあります。しかし、国で食べていた物とは違うのです。論より証拠、近いうちにでん留ここへお持ちしますから、試しに食してみてはいただけませんか」
「おお、それはありがたい。あっしは蕎麦っ喰いだけど是非戴いてみたいねえ、なあ伊之さん」
「手前の店では、雑穀も少々扱いがあります。ご馳走になるお礼に、小麦粉は手前の店から差し上げましょう」
 伊之助も乗ってきた。

 それから三日程が経ったある日の晩のことだ。
 朝から降っていた雨は七つの鐘の頃には上がり、雨の為今日の商いは半ば諦めていたお春のでん留にも、常連がぽつりぽつりと晩酌をやりに高下駄を突っ掛けて集まり始めていた。
 長次郎と伊之助がでん留の引戸を引くと、いつもは七つ半頃に現れる市兵衛が綿入れの紺看板に股引姿で、長床几に腰かけ矢大臣を決めていた。
「おや、今日はお早い御参詣で」
 長次郎が市兵衛を冷かすと、頭を掻きながら市兵衛が答えた。
「今日は朝から雨で仕事は休みでしたから、先日奥州屋さんに分けて頂いた小麦を打つ事ができました。お春ちゃんに無理を言って煮て頂いていますので、後程召し上がってみてください」
 いつも同じ時間に顔を出す長次郎と伊之助の酒は直ぐに出て来る。今日の肴はでんがくではなく太く切ったべったら漬けである。お春から折敷を受け取った長次郎は、
「お、浅漬けの出る季節になったか、こいつは嬉しいねえ」
 と声を上げた。
「この甘く漬けた大根、浅漬けと申されますか。中々におつなものですな」
「でしょう、手にべたべたとしますので、『べったら漬け』と呼ぶ者もありますがね。間もなく大伝馬町の恵比寿様の御祭礼でこの浅漬けを売る市が立ちます。そりゃあ賑やかでございますよ。あたしゃあ、この、大根の皮が付いた奴が好みです」
「なるほど、これは皮が付いているから歯ごたえが良いのですね、しかも、この様に厚く切るとは豪勢ですなあ」
「『浅漬けを すなおに切って しかられる』なんて川柳が有るくらいです。こればっかりは厚く切らねばなりません、そう、この位、沢庵の三倍は厚く切らねばね」
 と、川柳好きの伊之助が続けた。そこへ、
「三村さぁん、出来ました」
 とお春が市兵衛へ声を掛けた。
「これで良いのかしら。自分でこさえるのは初めてだから、あたし自信ないわ……」
「いや、これで十分です。昼にお邪魔して作ってみせた通りの仕上がりだ。味見をしなくても旨いのが判る」
「だと良いのだけれど……」
 心配そうなお春を尻目に、市兵衛はおじさん達に食べさせるどんぶりを乗せた折敷を運んだ。
「それがしの国元では、「おきりこみ」と申す食べ物です。煮込みうどんの様なものです。具が多いので酒の肴にもなります。是非ご賞味くだされ」
 長次郎と伊之助はさっそくどんぶりを手にした。
「ほう、具は大根に芋に人参に油揚げですか……なんだかでん留ここの煮しめの様ですな」
 長次郎はずずーっと汁を啜った。
「なんと、この麺の太い事。ひもかわうどんより太い、半寸程の幅はあるのではないですか」
 箸で麺を持ち上げて伊之助が驚いて見せた。
「ん、この汁は、とろみがついていてますな、うん、こりゃあやはりここの煮しめの味だ、だが出汁を足していると見え、濃くが増している」
長次郎は汁から味わい、伊之助は麺から食べた。
「ほう、この麺、良く煮込まれてとろとろになっているのに、それでもなお、麺に腰がしっかりと残っていますなあ。この、もちもちとした食感の麺ですが、噛んだ後には小麦の風味が鼻を抜けてゆきます。これが何とも小気味良い。市兵衛さん、これ、上州の小麦です。いや、我ながら良い物を仕入れた」
「伊之さん、自分のお店の品を褒めてどうするんだい。褒めるのはその粉をしっかり料理した市兵衛さんだろうに」
 長次郎が右手の箸を伊之助の方に向け、窘める様に言う。
「どうでしょう、お気に召していただけますか」
 という市兵衛の問いに対して、
「腰の強いこの麺には、同じ様に味のしっかりと乗った煮しめ等の具が丁度良い、出汁を奢ったのが正解だ。このとろみがあれば冷め難いと来ている。これから益々寒くなりますからね、これは良い。ところで、このとろみはどうやって出すんです」
「下茹でをせずに、打ち粉のついたうどんをそのまま鍋に入れて煮込むのです。打ち粉が自然にとろみをつけてくれます。実は、お春ちゃんの作った煮ものや煮しめを食べる度に、これを出汁で伸ばしてこの麺を煮たら、きっと旨かろうと思っていて、いつかやってみたいと思っていたところだったのです」
 そこへお春が、自分の作った初物が皆の口に合うのか、心配そうに調理場からやってきて言った。
「うどんを下茹でもせずにそのまま汁の中に入れて煮込んだら塩辛くなって食べられたものじゃないわって私言ったのよ」
「この、『おきりこみ』の麺には塩は加えません。塩を入れない分、煮るのに時間が掛かるのですが、その分、麺にも味が良く沁み込みますので、美味しくなります」
「おじさん……お味、どうかしら……」
「お春ちゃん、こりゃぁこれから冬の間、店で出しても喜ばれるんじゃあないか、暖まるし、煮しめを沢山作っても無駄にならないだろう」
「そう、そうでしょ、あたしも同じこと考えていたのよ。なので三村さんに打ち方を教わろうと思うの。三村さんも教えて下さるっていうし……」
「私で良ければいつでも。但し、この麺、うどんに比べて少ない水の量で打たなければこの腰は出ませんから、力が要ります。毎日朝から晩まで休む暇なく立ち働かれているお春ちゃんには少々骨が折れるでしょう。お春ちゃんさえ良ければ、明け六つ過ぎに私がでん留ここに寄って打っていきましょう」
「そんな、三村さんこそ毎日荷揚げのお仕事でお疲れなのにそんな事して頂く訳には参りませんっ」
「いやいや、あれもコツでしてね、ふた月と少しの間で、随分コツが掴めてきました。やみくもに力を使う仕事ではないのです。それに見て下さい。最近肉も付いて来たでしょう」
 市兵衛は胸板を叩いてみせた。
「そう言われればそうですけど……」
「お春坊、市兵衛さんもああ仰ってくれているのだ、一つ甘えてみれば良いじゃないかえ。その代わりと云っちゃあなんだが、市兵衛さんの朝飯と、荷揚げ場で食べる握り飯位は用意してあげなよ」
「おお、それは願っても無い。寧ろ有難い話だ」
 市兵衛は膝を叩いて喜んだ。
「そんなのはお安い御用ですけど……でも三村さん、お体が辛い時はいつでも止してくださいね」
「ええ、そうさせていただきます」
 市兵衛は笑顔で頷いた。

「おい伊之さん、気が付けば難しい顔をしていなさるが、一体どうなさったね。旨い旨いと食べていたじゃないかえ」
「はい、大変結構かと存じますよ。とても美味しい」
 伊之助は浮かない顔を上げて、しゃべり始めた。
「……実は米価が益々騰がって来る気配なのです。芋や大根などを入れてこの様に嵩増しをすれば空腹も満たされますから、このお料理は、米がいよいよ江戸でも品薄ということになった時には大層に役にたちましょう」
 伊之助は珍しく厳しい表情で続けた。
「米価の値上がりは、勿論連年の不作が原因なのですが、それに乗じて米価を引き上げようと米問屋が売り惜しみをしているという噂があちこちに立ち始めております。手前は小売ではありますが同じ米屋としてお恥ずかしい話ですが、これはどうやら真実らしい。手前は少し嫌な予感がしているのです……」

 そこへ、金助親子が引戸を開けて入って来た。
「牢人のおじちゃん、お昼のうどん美味しかった。お春ねえちゃん、ちゃんも食べてみたいって」
「あらおみっちゃん嬉しいわ。じゃあ今日のご飯はおきりこみにしましょうね」
 金助は会釈をしてまだ誰もいない入れ込みに金太の手を引き向かっていった。

 翌日から、市兵衛の日常は少々忙しくなった。
 市兵衛は身支度を整えると直ぐにでん留へ出向いた。既に朝の仕込みを始めている様で、店には灯りが燈っていた。
「御免」
 引戸を開けると、お春は大釜で飯を炊き、味噌汁を作っていた。仙台味噌の良い香りが鼻をつく。
「おはようございます。三村さん、朝から相済みません」
「何の何の、この麺打ちは十の頃に父に仕込まれて以来、我が家ではそれがしの仕事です。手間も掛かりませんから、早速に始めさせていただきますよ」
 と、奥の入れ込みに向かうと、そこには麺打ち道具一式と麻袋に入った小麦の粉が置かれていた。
 
 市兵衛の作業中、ひっきりなしに棒手振りがやって来てはでん留の引戸を開けた。
 まず納豆売りが来て、次に浅蜊の剥き身売りの小僧がやって来た。
 納豆売りはお春が頼みもしないのに土間に振り荷を降ろして決まった量の納豆やみそ豆を置いていき、
 剥き身売りの小僧は升で剥き身を量って流しに置いてある笊の中に置いていく。
 彼らは銭が置いてあるあの笊の中の銭を勝手に数えて懐に入れ、
「毎度」
 と云って帰っていく。その間もお春は挨拶はするが料理の手を止めない。
 暫くして豆腐売りがやって来ると、天秤棒に結んでいた前後の桶を土間で外し、綺麗に洗って立て掛けてあった空の桶に結びなおし、挨拶を交わして空荷を下げて帰っていった。このでんがくを売りにしているこの店は、使う豆腐の量も多いのであろう、馴染みの仕入れ先からは、こうして毎朝棒手振りが荷を運んでいるのであった。
 お春は豆腐売りが帰る際にはっと思い出した様に、
「あ、おじさん、明日から、油揚げの量を倍にして頂戴」
 と言った。おきりこみの具材用に入用と考えたのであろうか。

 市兵衛は半刻ほどかけて小麦を捏ね、一升餅程の小麦の塊を二つ作った。
 打ち粉をしっかりと打ち、乾燥させないように布巾で包んで木箱に入れた。
「後は伸ばして切るだけです、麺に腰を出すには寝かせねばなりません。伸ばすのは、一刻は寝かせてからにしてくださいね」

「三村さん、朝から雑作をお掛けして申し訳もありません。何もありませんが朝餉を召し上がってください」
 と、お春は市兵衛へ折敷を差し出した。
 折敷には、大盛の炊き立て飯、仙台味噌の浅蜊の味噌汁、納豆、厚切りのべったら漬けが載っている。
 朝から一仕事を終えた市兵衛の腹の虫は堪らず大きな音を立てた。

 市兵衛が夢中で朝飯に挑んでいると、
「おねえちゃんお早うっ」
 と勢い良く引戸を開けたおみつと金助親子が入って来た。
「御牢人さん、昨晩は煮込みうどん、大層旨かったですぜ。もちもちとした麺に出汁が沁みていて、中々他にない味わいでした。金太こいつも旨い旨いと食べていましたよ」
 と、小さな息子を指さして言った。
「それはどうも、そう言っていただけるとありがたい」
 飯椀と箸を持ったまま、市兵衛は笑顔で一礼した。

「では、お春ちゃん。それがしはそろそろ」
 市兵衛は仕事に出掛ける為、席を立った。
「あ、行ってらっしゃい。はいこれ、お弁当」
 大きな弁当箱の包みをお春は市兵衛に渡した。
「忝い、昼は自分で作った塩結びばかりでしたから、これは有難い」
 市兵衛は眩しそうに手渡された弁当箱を眺めて言った。
「帰りも又寄ってお弁当箱置いていって下さい。お礼に、晩御飯もうちで召し上がっていってね、私が切ったおきりこみの味も見て頂かなきゃならないし」
 お春が少し頬を赤らめた。
 入れ込みで二人のやりとりを見ていたおみつが目を輝かせながら何かを言いかけたが、金助が口に指を立てて制止した。
「子供だからって野暮は駄目だぞおみつ」
「ちゃん、野暮ってなんだい」
「それを聞くのが野暮ってもんだ」

この後、誰が言い始めたのか、このおきりこみは牢人うどんと呼ばれ、でん留の名物となっていくのだがそれはまだ先の話である。
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