1 / 1
月夜の下で
しおりを挟む帰り道、私は一人だった。
いつも通り残業を終え、時計を見ると二十二時。先輩も同僚も二時間ほど前にみんな帰って行った。
私といったら、帰ったところでやることも特にない。ただ夕飯を食べ、残った仕事をして寝るだけだ。
そんな日常が今日も繰り返されるのだと心のどこかで思っていた。
ため息が漏れる。
その日は雨だった。それに湿気と風の追い打ちが重なった。
今朝の天気予報では曇りと予報されていたが、念のため折りたたみ傘を持ってきたことが幸いした。
「雨粒と共に沢山の小銭でも落ちてきたらいいのに」
私は訳の分からないことを考えながら暗がりの裏路地を歩いていた。その道は駅から続く一本道から少し入ったところにあった。この路地は人通りもほとんどなく、不気味な雰囲気を漂わせていた。
冷静に考えれば、小銭なんて落ちてきたら危険である。お札の方が安全だ。そんなの小学生でもわかる。しかし私にとってはどちらでもよかった。ただ現実から目を背け、理想にふけっている、そんな時間が至福であった。
「バンッ」
と鈍い音がした。まさか、と疑念と期待が入り混じった心持ちで黒色の傘を下ろすと、灰色で液状の固形物がこべりついていた。
「小銭なんて落ちてきやしない、落ちてきたのは鳥の糞だ。余計な期待かけるんじゃねよ」
と苛立ちを隠せず、右手で激しく傘を振る。しかし糞はなかなかとれなかった。しびれを切らし、前かがみになる。私は一つ息を吐くと、左手で糞を取った。
安堵していたのもつかの間、そんな少しの隙を雨は見逃さない。角度をつけて、容赦なく雨は飛び込んできた。私は慌てて傘を戻し、続けて上体を起こす。視界には、ダラダラと続く細い小道。再び疲れがどっと押し寄せてくる。雨は激しさを増していた。
家までの距離を案じ、憂鬱に歩いていると、暗闇の先に子犬の姿が見えた。こんな時間に子犬の散歩なんて、さぞかし幸せな人生なんだろうなと理不尽な憤りを覚える。無論、子犬にもその飼い主にも恨みなどない。私はそれほどまで疲弊していた。
降りしきる雨は私の自由を許さなかった。すると徐々に、自己嫌悪の心が傀儡師のように体を操っていった。自制心は力を失い、歩く速度は加速度的に上昇していく。やがてある速度に達した時、風の力は閾値を超え、私の傘を破壊した。
「うわ。ついてねえ。バチでも当たったのかな」
私はそこで理性を取り戻した。急いで雨をしのげるものを探し、鞄を探る。鞄には幸い小さな白いタオルが入っていた。強いに雨に急かされるように仕方なくそのタオルを頭上にかざすが、やはり体の七割は雨に晒されていた。再び歩き始めた私は、やや自暴自棄気味になっていた。
しばらく道なりに歩いていると、視界に遊具の群れが見えてきた。いつにもまして淀んだ天気と雨、細い道特有の薄暗さのせいか、遠くからは目視できなかったが、かつてから馴染みのある公園の存在にその時やっと気づいた。
その近くには犬の姿も見えた。ただ、周囲に飼い主らしき人間の姿はない。犬は黒い首輪をはめられ、公園内のベンチと太い紐で繋がれていた。時計に目をくれると、短針は数字の六よりやや右側にあった。
「こんな台風の日に公園におき去りか、お前も気の毒だな」
と犬の姿に同情の念が起こる。私の足は、いつしか公園の前で止まっていた。私は犬に運命的な何かを感じていたのかもしれない。真っ白なワイシャツは肩まで濡れていた。
家に連れて帰ろうかと思案を巡らす。しかし、あいにく私の暮らすアパートはペット持ち込み禁止であった。すぐ上に大家が住んでいる手前、下手なことはできない。そこでとりあえず交番に届けることにした。一種の義務感に駆り立てられたのか黙々と括り付けられた黒い紐を解く。その時の私は、雨風と止まらない汗との格闘も全く意に介することはなかった。しばらくして無事に犬を解放すると、紐を右手に出口へと向かった。
公園を出たところで再び犬の方に視線を戻す。白い体毛に覆われ、くるりと丸くて黒い瞳と愛くるしい鼻。子犬はどうやらチワワのようだった。私は、こんなに可愛いチワワを捨てるやつなんてろくなやつではないと推測した。それと同時にワイシャツの惨劇にも気がついた。犬を駅前の交番に預けて、早く家に帰ろう。そう決意したその時、視界の隅に一輪の花の姿を捉えた。雨にも、風にもそして孤独にも負けずに咲いていた。
「みんなひとりぼっちだな」
私は子犬とつながる紐を強く握った。しかし花に近づくことはできなかった。手を差し伸べたところで何も出来やしないと頭をよぎった。そしてそのまま公園を後にし、駅の方へと戻っていった。花は水のベールをまとい、一段とたくましく輝いていた。
数十分後、交番に犬を引き渡し、公園の前を通り過ぎる頃にはスーツのズボンまで濡れていた。タオルももはや意味をなさず、ただ雨に身を任せて走っていた。ふと公園の方に目をやる。すると信じられない光景がそこにあった。
そんなはずはない。そんなはずはないのに。―どうしてー。
公園の一角にポツリと力強く咲いてたあの白い花は、綺麗さっぱり無くなっていた。公園を駆け回るあの黒猫の仕業だろうか。電線に群れるあのカラスの仕業だろうか。
「嘘…」
その時だった。闇夜が広がる視界の片隅に一筋の光が尾を出して流れていくのが見えた。
空を見上げる。するとたちまち無数の流星群が遠い空に降り注ぐのが見えた。
流星が放つ強い光とその美しさはそれまでは薄暗かった周囲の様子も、そして同じように疲れ果てた私の心をも鮮やかに照らしてくれた。そしてまた、あの不吉な様相のカラスですら光線は鮮やかに照らしていた。
カラスの一匹は光を浴びると徐に闇夜に飛び立った。
その嘴には流星群の強い光が反射してキラリと輝く。カラスは光のシャワーの中へと飛び立っていくようだった。
視界の流星群をカラスが遮ると、鮮やかな大輪の花に見える一瞬をみた。
中心付近は黒く、そしてその中心は白く、周囲を鮮やかな色彩が象っていた。
「美しい」
私は美術教師だった。唯一美しさに向き合う時だけが至福だった。私の心のカンバスに、美しさだけが彩を与えてくれるのだ。
私は夜空に輝く大輪の花に心が救われたような気がした。
再び家路に着く。
虚空の空に咲く大輪の花の中心では漆黒の斑鳩が翼を羽ばたかせる。
そしてその嘴では、一輪の白い花がたくましく輝いていたのだった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
友人の結婚式で友人兄嫁がスピーチしてくれたのだけど修羅場だった
海林檎
恋愛
え·····こんな時代錯誤の家まだあったんだ····?
友人の家はまさに嫁は義実家の家政婦と言った風潮の生きた化石でガチで引いた上での修羅場展開になった話を書きます·····(((((´°ω°`*))))))
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
【完結】狡い人
ジュレヌク
恋愛
双子のライラは、言う。
レイラは、狡い。
レイラの功績を盗み、賞を受賞し、母の愛も全て自分のものにしたくせに、事あるごとに、レイラを責める。
双子のライラに狡いと責められ、レイラは、黙る。
口に出して言いたいことは山ほどあるのに、おし黙る。
そこには、人それぞれの『狡さ』があった。
そんな二人の関係が、ある一つの出来事で大きく変わっていく。
恋を知り、大きく羽ばたくレイラと、地に落ちていくライラ。
2人の違いは、一体なんだったのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる