『婚約破棄されたので冷徹公爵と契約結婚したら、徐々に甘くなってきた件』

ひとりさんぽ(一人三歩)

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第二章 ノクターン家と悪徳商人

【第20話:あいつの名前はもう聞きたくない】

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 公爵邸の食堂は、荘厳で静かだった。

 夜の帳が下りる頃、私はカイルと二人で食卓を囲んでいた。
 彼の忙しさもありこうして夕食を共にするのは、あまり多くない。
 だが最近は、「努力する」と誓ってくれた日から、少しずつこうした時間が増えてきている。

 ナイフとフォークの音だけが静かに響く中、私は何気なく話題を切り出した。

「そういえば、今日レオポルドと庭園で少しお話をしたのですけれど――」

 カチャ。

 その音は、明らかに不自然だった。

 私は思わず顔を上げる。

 カイルの手が止まり、ナイフとフォークがぴたりと皿の上に置かれていた。

 そして、その紫の瞳が、まっすぐに私を射抜く。

「……その名を、今後、私の前で口にしないでもらえるか?」

「……え?」

 私の思考が一瞬でフリーズする。

(まっ、まっ……またきましたわこのパターン!?)

 思わず視線が泳ぐ。

「……レオポルドの名を、ですの?」

「そうだ」

「……なぜ?」

 カイルは少しだけ沈黙した。

「……嫌なのだ。お前の口から、男の名前が出ることが」

 静かで、しかし確かな熱を帯びた声。
 私はもう一度、心の中で叫ぶ。

(これはもう、間違いなく、嵐級の嫉妬ですわ!!!)

 しかも、本人は至極真面目。
 感情の爆発ではなく、冷静に、論理的に言ってのけるのが、また逆に致命傷。

(どうしましょう……これは一体、どんな返しが正解ですの!?)

 けれど、私は微笑んだ。
 
 こういう時は、焦ってはならない。
 気品と余裕を忘れずに――

「では、代わりに“筆頭騎士様”と呼ばせていただきますわ」

 その一言に、カイルの目がわずかに見開かれる。

「……まぁ、いいだろう。」

「ええ。今のお気持ちを尊重するならば、他の殿方のお名前は控えさせていただきますわ」

「その代わり……私の夫である“あなた”の名を、たくさん呼ばせていただきます」

 私は、そっとカップに口をつけた。
 カイルの視線が、どこか追いかけるように私の動きに絡む。

 そして、ぽつりと小さく呟くように言った。

「……セシリアは、誰にでも笑顔を見せる」
「だが、私の前では……特別であってほしい」

――不意打ちだった。

(っ……なんでですの……!)

(どうしてそんなことを、こんな風に、さらっと言えるのですか!?)

 思わず、カップを持つ手が少しだけ震える。
 それでも私は笑みを崩さず、静かに言った。

「……もちろんですわ。だって私は、あなたの妻ですもの」

 その瞬間――
 カイルの頬が、ほんのわずかに赤く染まったように見えた。
 けれど彼は、それをなかったかのように背筋を伸ばし、食器を再び手に取った。

「……そうだな」

 まるで、“それが当然だ”と言わんばかりの声だった。
 でも、その耳の先が赤くなっているのを――私は、見逃さなかった。

 夜も更けた頃。
 私の部屋の扉が、静かにノックされた。

「……入ってくださいませ」

 返事をすると、扉が開く。
 姿を現したのは――夫、カイル・フォン・ノクターン。

 公爵としてではなく、“一人の男”としての彼が、そこにいた。

「少しだけ、話がしたい」

「もちろん。どうぞ、こちらへ」

 私はソファを勧め、向かい合うように腰を下ろした。

 部屋には、ほんのりと紅茶の香りが残っていた。
 それを包むように、静寂が降りる。

 カイルはしばしの沈黙ののち、低い声で口を開いた。

「……先ほどは、すまなかった」

「嫉妬という感情を、自分がここまで抱くとは……想定していなかった」

 私はふわりと微笑む。

「おこってはおりませんわ。むしろ、あなたのお気持ちを聞けて、嬉しかったくらいです」

 彼の紫の瞳が、一瞬だけ揺れた。

「……私は、自分のことを、よくわかっていなかったのかもしれない」
「だが、今日改めて思った」
「私は……お前にだけ、笑っていてほしいのだ」

――心が、熱くなる。

「お前の声を、仕草を、誰かに向けるたびに――それが、自分ではないことが、どうしようもなく苦しかった」
「……それは、私が“夫”として未熟だからだ」
「けれど、だからこそ、はっきりさせたい」

 そう言って、彼はそっと手を伸ばしてきた。
 温かく、けれどどこか不器用なその手が、私の手に重なる。

「私は、これからも努力を続ける」
「お前にとって“ただの契約上の夫”ではなく、“心から選ばれる夫”であるために」
「……お前の心が、私だけに向けられるように」

 静かに、けれど確かな決意のこもった声だった。

 私は――そのまま黙って、彼の手を握り返す。

「……私の笑顔は、あなたのものですわ」
「だから、どうか安心なさってくださいませ、カイル様」

 彼は少しだけ目を見開いて、そして――静かに、微笑んだ。
 それは、ほんのわずかな変化だった。
 けれど、確かに“愛”が宿った笑みだった。

「……ありがとう、セシリア」

 その声に、心の奥が温かくなる。

(この人は、確かに変わろうとしている)
(そして、私はその変化を――愛おしいと思ってしまっている)

 私は、そっと彼の肩に凭れかける。

「……これからも、よろしくお願いいたしますわ。旦那様」

 夜の静寂の中、しっかりと抱き寄せられたぬくもりは、どこまでも優しかった。
 まるで、契約を超えた“夫婦”としての始まりを告げるように。

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