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第一章《滴る絵》

18、エピローグ

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その後、私達は新生児室に移動して、硝子窓の外から赤ちゃんと対面した。
くぅくぅと幸せそうに眠る赤ちゃんは天使のように可愛い。
「目元と口元が私にそっくりだろう?」と、早くも親バカを炸裂させる社長を見て、私はある出来事を思い出した。
初めて舘野社長に会った時、顔を覗き込まれて感じた既視感。
それは、絵の女性、八重さんと同じ種類のものだったのだ。
憎んでも、嫌っても、親子は親子。
切っても切れない絆は、もうすでに存在していたんだと私は感動すら覚えていた。

そして帰り間際、私とヨキは絵が置いてある病室に寄った。
これで、八重さんの願いを叶えたことになるのだろうか?
精一杯やったつもりだけど、彼女の望む結末になったのだろうか?
それが気掛かりで、もう一度確認したかったのだ。

病室のベッドサイドに置かれた絵は、遠目には目立った変化は見られない。
しかし近付いてみると、ある大きな変化が見られた。
絵の中には八重さんしかいないはずなのに、彼女の隣に男の人が立っていたのだ。

「あ、相沢さん……?」

呟くと、彼等はこちらを向きゆっくりと頭を下げた。
えっ?何?幻覚!?
思い切り目を擦り、一度瞬きをした。
すると、絵は元の通り。
美しい池に白い日傘の女が佇む、元の絵画に戻っていた。

「もう、水が滴ることはないだろう」

ヨキが言った。

「そうだね。きっと、八重さんも相沢さんも満足したよね?……あ、ねぇ、ヨキ?」

「なんだ?」

「絵から滴っていた水って、池の水だったのかな?もしかしたら八重さんの涙だったりして?あ、でも、あの量だと脱水症になっちゃうね」

「……お前はいい話を壊すのが得意だな」

「壊す?別に壊してないよ?」

キョトンとする私に、ヨキは諦めたような視線を向けた。

「そうか。気付かないとは、幸せなことだ」

「どういう意味?」

悪口を言われている……。
それを感じとった私は、ヨキの着物の袖を思い切り引っ張った。
どういうことか問いただしてやろう!としたのだ。
しかし、ヨキが首を捻って呟いたのを見て手を放した。

「しかし、わからんな」

「えっ、何が?」

「八重は最後まで名乗るつもりはなかったのだろう?ならば、あの日記はそのまま隠しておけばよいのではないか?だが《探して》と言った……それが矛盾している、と思ってな」

「なんだ。そんなこと?」

軽く返すと、ヨキは目を丸くしてこちらを凝視した。
あれ?ヨキってこんな表情も出来るんだ。
仏頂面か顰めっ面が多く、顔面の表情に乏しい彼の、とても貴重な表情に新鮮さを覚える。
もっと見ていたいと思ったけど、あまりにも凝視されて怖かったので、早々に答えることにした。

「生前は名乗る権利なんてないって思っていたかもしれない。でも、心の底……本心では名乗りたかったのよ。理性が邪魔していた生前と違って、絵に残る残滓になった今、八重さんの本当に叶えたい想いが、素直に出た……のだと思うよ」

ヨキは丸くした目を更に丸くした。
その顔はさっきよりも、もっと面白い顔である。
それをからかってやろうと、私が意気込んだ時、ヨキはいつもの表情へと戻った。

「ふん。理性だとか本心だとか、そんな面倒くさい想いなど、私は興味ない」

「妖怪だから?」

「そうだ」

吐き捨てるように言ったヨキは、そのまま病室を後にした。

「え、ちょっと、ちょっと待ってよ!」

ヨキは私を待つ気なんてさらさらなく、早足で廊下を抜け階段を降りる。
そして、階段下で待っていてくれた漆原さんの隣を無言で通りすぎると、出口に向かって直進した。

「え……ヨキさん、どうかしたんですか?」

ポカンとした漆原さんは、後を追う私に尋ねた。

「たぶん、お腹が空いたんですよ!」

「お腹……ですか?」

漆原さんは怪訝そうな顔をして呟いたけど、私は絶対そうだと思っていた。
お腹が空けば、誰しも不機嫌になるもの。
その上、ヨキは猫である。
突然不機嫌になったり上機嫌になったりなんて、気分屋の猫にはありがちである。
まぁ、至高のクロマグロでも買ってあげれば、万事解決!ヨキの機嫌もすぐ治るに違いない。

私は財布の中身を確かめながら、ヨキを追って出口を目指した。
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