純喫茶カッパーロ

藤 実花

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最終章 浅川池で逢いましょう

⑭新しい契約書(最終話)

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次の日の朝。

私はいつもより早く目を覚ました。
ふと秘密基地を見上げると、きちんと畳まれた毛布が寂しそうに重なっている。
ベッドの下には一之丞ではなく、幸せそうにイビキをかく四尾が寝ていて、私は彼を起こさないようにそっとベッドを出た。

身支度を済ませ店へ向かうと、しんとした静けさが押し寄せ、不安を煽る。
更に鳩時計から突然音が鳴り出して、私の心臓はドクンと大きな音を立てた。
音は全部で6回。
私は時計を確かめることなく、時刻を知った。

誰もいないフロア。
誰もいない厨房。

カッパーロ開店初日、少し緊張しながら、一人でここにやって来た時もこんな静けさだったのを思い出した。

それから、電灯を付け、空調を確認し、お湯を沸かす。
いつものルーティンで体を動かすと、カウンターに腰掛け、ぼーっと窓の外を見た。

……何分そうしていたのか。
また鳩時計の音がして振り返ると、時刻は6時30分を指していた。

「……遅刻じゃないの……」

呟いて立ち上がり、厨房へ入ると、2階から軽い足音が降りてくる。

「……おや、サユリ。一人かの?」

人型になった四尾が、降りてくるなりそう問い掛けた。

「うん。皆、遅刻かな?……それとも、家が楽しくて私のこと忘れちゃったかな?」

「そんなことはなかろうよ。昨日出勤すると言っておったしの?」

四尾は佇む私の側に来て優しく言った。
人を気遣うことをしない彼が、珍しく私を心配している。
その意外な出来事に、いつもなら軽くツッコミを入れるところだけど、今日はどうしてか頭も働かないようだった。

「……こうしていても仕方ないね。さぁ、開店準備するよ?四尾、皆の分も動いてね?」

「全く。昨日働き始めたばかりの新人に期待をかけすぎじゃ!」

四尾はブツブツ言いながら、店内の掃除をする為に布巾を取りに行く。
それを見て、私も普段通り仕事に取りかかった。


*******


モーニングの時間帯が終わり、人が一旦捌けると、四尾が青い顔でやって来た。

「こりゃたまらんわ……これを一人でするとなると、お揚げを増量してもらわんと割に合わぬ……」

カウンターに腰かけて突っ伏した彼は、気を抜いてしまったのか、尻尾を一本ひょっこりと出している。

「こらこら。尻尾隠してよー」

抑揚のない声で言うと、四尾が顔を上げて私を覗き込んだ。

「ふむ。やはり違うのぅ。元気がない……なるほどの。これがそうか……」

「何、突然……」

「前に私に哀しいという感情を教えたろう?今お前は《哀しい》のじゃな、と思うての」

「哀しい……」

そう呟いてみると、喉の奥が詰まるような気がした。
気をしっかり持っていなければ、喉の奥から感情の波が押し寄せそうで恐ろしい。
私は意識してしっかりと口を閉じた。

「だがの?お前の感情は取り越し苦労だと思うぞ?」

「え?」

意味がわからず四尾を見つめ返すと、彼はゆっくりと窓の外を指差した。
……そこには。
背の高い銀髪外国人が3人、焦ったように走ってくる姿があった。

「い、一之丞!次郎太!三左!」

私の叫び声にこちらを見た3人は一瞬で青ざめ、さっきよりも速度を早めて入口に飛び込んできた。

「も、もっ、申し訳ないっ!!」

「いやぁ、完全に遅刻だね……」

「ごめんねぇ、サユリちゃーん!わざとじゃないんだよぅ」

彼らはそれぞれに謝罪をしたけど、私は何も返せなかった。
これはさっきまで見ていた世界だろうか?
あまりにも違って言葉を失った。
まるで、冬から春になったように、白黒のキャンバスに色彩が溢れるように。
一之丞達のいる光景から、暖かい何かが流れてきたのだ。

「ち……遅刻よ!!もう11時がくるじゃない!今日はきゅうり、一本減らすからっ!わかった?」

喉のつかえが取れて、私は大声で叫んだ。
目の端に映った四尾が「ふふん、言うた通りじゃろ?」と得意げに笑っているのが見える。
私は軽く頷くと、視線を一之丞達に戻した。

「わかっておる……言い訳はせぬ」

一之丞は項垂れた。
そう、彼は言い訳をしない。
そして、いつも言葉が足りない。
だけど……それを補う人が側にいるのを私は知っている。

「あのねっ、でもね?僕たち大事な用事があったんだよぅ」

三左は私に近づくと、肩を擦り寄せてくる。

「用事?何?」

「役場の加藤さんの所に行っていたんだよ?」

次郎太も話に加わった。

「あれ?加藤さんさっき来たよ?用事があったなら、店で言えば良かったのに。なんでわざわざ?」

首を傾げる私の前に、3人は横一列に並んだ。
そして、一之丞が古い巻物と茶封筒を同時に取り出し、カウンターに置く。
彼の出した巻物には、見覚えがある。
それは又吉惣太郎と、石原仁左衛門の契約書だ。

「え?これ、どうしたの?どうするの?」

意図が読めず問いかけると、一之丞は巻物をフワッと開き、次にビリッと破いた。

「え、ええっ!?やだ、なんで破くの?意味がわからないんだけど?」

「良いのだ。これは、父と仁左衛門殿との約束。我らは……いや、私はサユリ殿と新しく契約書を交わそうと思っておる!」

「新しい契約書?」

「うむ。この中に入っているのだが……」

一之丞がカウンターの上の茶封筒をこちらに向けると、言葉足らずの長兄をカバーするように三左が言った。

「これを役場に貰いに行ってて、遅刻しちゃったんだよぅ!8時半から開くなんて、知らなかったから、めちゃくちゃ待ってさぁ。正面玄関で加藤さん捕まえて、やっと貰ってきたのっ!この契約書があると、みんな家族になれるんだって!週刊紙にそう書いてあったんだー!」

役場で貰う契約書?
家族になれる!?
さっぱりわからず、手にとって中身を確認しようとすると、一之丞が私の手を止めた。

「これは、本日の業務が終わってから見て頂きたい!サユリ殿の署名も必要であるから、間違えないようにゆっくりと確認して貰いたいのだ!」

「あ、そう。わ、わかった。じゃあ、後でね」

私は茶封筒をジーパンの後ろポケットに押し込んだ。
一之丞、次郎太、三左はそれを見て微笑むと、各々の持ち場へと散って行く。
厨房とフロアに、いつもの光景が戻ってくるのを見て、私の胸はじんわりと暖かくなった。

「いらっしゃいませぇー」

カランコロンと扉の開く音と同時に、三左の明るい声が響く。
次郎太は走って乱れた髪をサッと直し、四尾は腰を押さえてよろよろと立ち上がった。

「サユリ殿。今日のスイーツは私の新作を試したいのであるが……」

厨房から話しかける一之丞は、いつもと変わらない様子でそう言った。

「うんっ!新作ね!先に味見させてもらえる?」

「もちろんである。サユリ殿には何でも一番に……」

「ねぇ。仕事中にいちゃつくのはどうかと思うよー?」

ハッとしてカウンターを見ると、注文を取ってきたらしい三左が、ジト目でこちらを見ていた。
いちゃついてなんかないっ!……とは言えないか……。
私は陽だまりのような一之丞の笑顔を見て、フラスコのバーナーの火を強め、素早くコーヒーを出せるように準備した。




---おしまい---
























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