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王都は、黄金の熱に浮かされていた。
かつて王家の権威の象徴であった聖光花は、今や富そのものの象徴と成り果てていた。
貴族たちは領地を、商人たちは全財産を担保に借金を重ね、実体のない「聖光花先物証券」という名の欲望を買い漁る。
その価値は天を突き、もはや一輪の花の値段とは思えぬ、狂気の領域に達していた。
王都最大の取引所から響く鐘の音は、かつてない好景気を祝福するファンファーレのように、人々の耳には届いていた。
誰もがこの黄金時代が永遠に続くと信じ、疑うことさえなかった。
アラリック皇太子の名は、国を空前の繁栄に導いた偉大なる指導者として、吟遊詩人によって高らかに歌い上げられている。
断罪され、死んだはずの悪役令嬢エレオノーラの存在など、狂乱の光の中では、とうに忘れ去られた些細な影でしかなかった。
「……まるで、熱病ね」
王立アカデミーの一角にあるカイエンの研究室。
窓の外からは、熱に浮かされたような王都の喧騒が微かに届いていた。黄金の光に照らされた街並みを、エレオノーラはいくつもの水晶玉(モニター)に映し出される市場の狂騒と共に眺め、冷ややかに呟いた。
その部屋は、深海のような静寂に満たされている。
彼女の隣で、カイエンが静かに頷いた。
「熱病は、往々にして虚妄の夢を見せるものだ。そして、人為的に仕組まれた熱ならば、目覚めはより一層、残酷なものになるだろうね」
彼の灰色の瞳には、興奮とも畏怖ともつかない複雑な光が揺らめいている。
二人の前には、最後の準備が整えられていた。
テーブルの上には、カイエンが幾夜もかけて培養した、ごくありふれた土壌細菌の培養液が、不気味なほど透明な瓶の中で微かに泡立っている。
そして、エレオノーラの目の前の虚空には、彼女にしか見えない半透明のウィンドウが、静かに明滅していた。
それは、この世界の法則を記述する、神のコンソール。
そしてウィンドウには、この狂った茶番劇に終止符を打つための、最後のコマンドが入力され、実行を待っていた。
「アラリックは今頃、祝賀パーティーの主役として、己の『正しさ』に酔いしれている頃でしょうね」
エレオノーラは、かつての婚約者の愚かな、しかし傲慢な顔を思い浮かべ、小さく鼻を鳴らした。
「彼が信じ込んでいる『正しさ』が、どれほど足元の脆い、砂上の楼閣であるかも知らずに。その夢から覚めた時、彼は何を思うでしょうね」
「君がその砂を、指一本で崩すんだ」
カイエンが、エレオノーラの手をそっと握る。
その温もりが、彼女の冷え切った決意に確かな熱を伝えた。
「準備はいいかい、エレオノーラ」
カイエンが慈しむような声で、彼女の本当の名を呼んだ。
「……ええ。あなたと一緒なら、どこまでも」
エレオノーラは頷き、深く息を吸い込んだ。
彼女は瞳を閉じ、意識を目の前のコンソールに集中させる。
現実の風景が遠ざかり、無数の光の線が走るグリッド空間が、彼女の精神世界に広がった。
いよいよだ。
この世界を狂わせた「バグ」を修正し、彼女から全てを奪った者たちに、真の「論理」を突きつける時が。
彼女の思考が、一つの明確な意志として紡がれる。
それは、剣でも魔法でもない。この世界を根底から書き換える、情報という名の刃。
『――価値とは情報。そして情報は、書き換えられるためにある』
彼女の紫の瞳が、コンソールの光を反射して妖しく輝く。
そして、最後のプロンプトが、世界の深層へと放たれた。
`//Execute command: Override object properties.`
`Target: All instances of "Rosa Alba Sanctus"(聖光花).`
`Add property: "Reproductive condition is dependent on symbiotic soil bacteria (easily cultivable)".`
`Announce this information via anonymous academic paper. Reason: "Correction of long-standing academic error".`
脳裏に響くのは、システムがコマンドを受理したことを示す、無機質な電子音。
`<Executing...>`
`<Success.>`
その瞬間、世界は音もなく、しかし決定的に書き換えられた。
誰も気づかない。誰も知らない。
王家の権威の源泉であり、いまや王国経済の心臓となった聖光花の「希少性」という絶対的な前提が、たった一行のコードによって、静かに消去されたことを。
エレオノーラがゆっくりと目を開けると、カイエンが心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。
「終わったわ」
「……そうか」
カイエンは短く応えると、立ち上がった。彼の仕事は、ここからだ。
「僕も、種を蒔いてこよう。君が用意してくれた舞台に、ささやかな花を添えるためにね」
彼は悪戯っぽく笑うと、培養液の入った瓶をいくつか鞄に詰め、フードを目深に被った。
「気をつけて」
「君こそ。……今夜は、ゆっくり休むといい。明日からは、きっと世界が、君の望む通りに踊り狂うだろうから」
そう言い残し、カイエンは闇に紛れて研究室を出ていった。
一人残されたエレオノーラは、再び窓の外に目をやる。
王都の灯りは、まだ狂乱の熱を帯びて輝いている。
しかし、彼女の目には、それが燃え尽きる寸前の蝋燭の、最後の輝きのように見えていた。
◇
その夜、王都のいくつかの場所で、奇妙な出来事が起きていた。
カイエンは、自身が匿名で設立し、密かに育て上げてきた新興商会の者たちを動かしていた。
彼らは王都に潜み、エレオノーラの仕掛けた「法則の書き換え」を、現実世界に「現象」として発現させるための布石を打つ。
ある者は、場末の酒場で酔い潰れた庭師に接触し、「どんな花でも元気になる魔法の土だ」と囁き、細菌を混ぜ込んだ土の入った小袋を握らせた。
またある者は、王都の裏通りで花を売って日銭を稼ぐ貧しい人々に、「これは教会の祝福を受けた土だ」と告げ、無償でそれを分け与えた。
そして、もう一つの布石も、静かに打たれていた。
王立アカデミーのシステム内部。
エレオノーラが放ったコマンドは、もう一つの仕事を着実にこなしていた。
アカデミーのデータベースに、一本の論文がアップロードされる。
著者は、レオンハルト・フォン・ミュラー。
植物学の権威として知られるが、すでに老齢で引退し、世間との交流をほとんど絶っている碩学の名が、そこには記されていた。
もちろん、彼自身が書いたものではない。
エレオノーラによる完璧な偽装だ。
論文のタイトルは、『聖光花(Rosa Alba Sanctus)の生育における土壌細菌叢の決定的役割に関する考察』。
内容は、極めて学術的かつ冷静な筆致で綴られていた。
――聖光花の生育条件は、王家の土地が持つ特殊な魔力や地質によるものではない。
――その根に共生する、ごくありふれた特定の土壌細菌こそが、開花のための唯一の必須条件である。
――この細菌は、適切な栄養を与えれば、誰でも容易に培養可能である。
――これまで聖光花が王家の土地でしか咲かなかったのは、単にその細菌が偶然にもその土地にのみ定着していたに過ぎず、長きにわたる学術的な誤解であった。
論文は、その細菌の培養方法まで、丁寧に詳述していた。
それは、既存の権威を、より大きな「科学」という権威で上書きする行為だった。
王家の「神聖さ」という曖昧な伝説を、揺るぎない論理で否定する。
深夜、アカデミーの研究室で、新着論文のリストにミュラー碩学の名前を見つけた一人の研究者がいた。
彼は興味本位でそれを開く。
数分後、彼の研究室の灯りが、朝まで消えることはなかった。
衝撃的な論文の噂は、まずアカデミー内部で、さざ波のように静かに広がり始めた。
まだ、誰もその本当の意味に気づいてはいない。
まだ、誰も己の足元が崩れ始めていることには、気づいていない。
ただ、破滅の種は、確かに蒔かれたのだ。
◇
翌朝。
王都は、いつもと変わらぬ朝を迎えたように見えた。
市場へ向かう人々の足音。
パン屋から漂う香ばしい匂い。
朝日を浴びて輝く王城の尖塔。
しかし、水面下では、昨夜蒔かれた種が、すでに芽を出し始めていた。
王都の片隅にある、貧しい花売りの少女の家。
昨夜、見知らぬ親切な男から貰った「魔法の土」。
少女は半信半疑で、枯れかけていた花を植え替えるついでに、折れて捨てられていた聖光花の枝を、その土の入った小さな鉢に挿しておいたのだ。
そして朝。
少女は、自分の目を疑った。
たった一晩で、ただの枝切れだったはずのそれが、見事に根を張り、青々とした葉を茂らせ、そして――純白の、清らかな花を咲かせていた。
それは、貴族様しか手にできないと聞かされていた、あの聖光花だった。
「うそ……!」
同じような奇跡は、王都のあちこちで、同時に起きていた。
最初は、小さな戸惑いと、個人的な幸運への喜び。
だが、その「奇跡の鉢植え」を抱えた人々が、それぞれの思惑を持って市場へと足を運んだ時、世界は、その変貌の最初の兆候を現すことになる。
王都の中央広場。
取引所へと向かう貴族や商人たちの馬車が行き交う、最も人通りの多い場所。
一人の老人が、おずおずと声を張り上げた。
彼の前には、簡素な木の台に載せられた、見事に咲き誇る聖光花の鉢植えが三つ、並べられている。
「せ、聖光花だよ……! 本物だ! 誰か、安く、安く買っちゃくれねぇか……!」
その声は、広場の喧騒にかき消されかけた。
通りかかった人々は、最初、老人が何を言っているのか理解できなかった。
聖光花? 平民が、こんな場所で? 冗談だろう。偽物に決まっている。
しかし、足を止めた一人が、鉢植えをまじまじと見つめ、息を呑んだ。
「……本物、だ」
その呟きが、周囲に伝播する。
人々が、次々と老人の周りに集まり始めた。ざわめきが大きくなる。
誰もが知っている。この純白の花弁。
この清らかな香り。
そして、花が放つ微かな魔力の輝き。
間違いなく、聖光花だ。
その、一輪が金貨数百枚にも高騰しているはずの、王家の花が。
「おい、爺さん。いくらなんだ、そりゃ」
群衆の中から、一人の商人が唾を飲み込みながら尋ねた。
老人は、震える声で答えた。
「あ、ああ……い、一鉢、銀貨三枚で……ど、どうだい……?」
その言葉が響いた瞬間、広場は、水を打ったように静まり返った。
銀貨、三枚。
それは、貴族たちが熱狂的に取引している価格の、何万分の一、いや、何百万分の一の値段。
静寂は、一秒も続かなかった。
次の瞬間、人々は我先にと老人に殺到した。
「買わせろ!」
「俺が先だ!」
「嘘だろ、銀貨三枚だと!?」
罵声と歓声が入り混じり、押し合いへし合い、小さな暴動のような状態に陥った。
その小さな混乱を、取引所へ向かう途中の貴族が、馬車の窓から眉をひそめて眺めていた。
「何だ、あの騒ぎは」
「さあ……何やら、花を売っているようですが」
その時は、まだ、誰も気づいていなかった。
自分たちが積み上げた富の塔が、その土台から、音もなく崩れ始めたことに。
それは、王国を覆う巨大な経済システムの、ほんの些細な、しかし致命的なエラーの始まり。
一つの時代の終わりを告げる、弔鐘の最初の、か細い一打だった。
かつて王家の権威の象徴であった聖光花は、今や富そのものの象徴と成り果てていた。
貴族たちは領地を、商人たちは全財産を担保に借金を重ね、実体のない「聖光花先物証券」という名の欲望を買い漁る。
その価値は天を突き、もはや一輪の花の値段とは思えぬ、狂気の領域に達していた。
王都最大の取引所から響く鐘の音は、かつてない好景気を祝福するファンファーレのように、人々の耳には届いていた。
誰もがこの黄金時代が永遠に続くと信じ、疑うことさえなかった。
アラリック皇太子の名は、国を空前の繁栄に導いた偉大なる指導者として、吟遊詩人によって高らかに歌い上げられている。
断罪され、死んだはずの悪役令嬢エレオノーラの存在など、狂乱の光の中では、とうに忘れ去られた些細な影でしかなかった。
「……まるで、熱病ね」
王立アカデミーの一角にあるカイエンの研究室。
窓の外からは、熱に浮かされたような王都の喧騒が微かに届いていた。黄金の光に照らされた街並みを、エレオノーラはいくつもの水晶玉(モニター)に映し出される市場の狂騒と共に眺め、冷ややかに呟いた。
その部屋は、深海のような静寂に満たされている。
彼女の隣で、カイエンが静かに頷いた。
「熱病は、往々にして虚妄の夢を見せるものだ。そして、人為的に仕組まれた熱ならば、目覚めはより一層、残酷なものになるだろうね」
彼の灰色の瞳には、興奮とも畏怖ともつかない複雑な光が揺らめいている。
二人の前には、最後の準備が整えられていた。
テーブルの上には、カイエンが幾夜もかけて培養した、ごくありふれた土壌細菌の培養液が、不気味なほど透明な瓶の中で微かに泡立っている。
そして、エレオノーラの目の前の虚空には、彼女にしか見えない半透明のウィンドウが、静かに明滅していた。
それは、この世界の法則を記述する、神のコンソール。
そしてウィンドウには、この狂った茶番劇に終止符を打つための、最後のコマンドが入力され、実行を待っていた。
「アラリックは今頃、祝賀パーティーの主役として、己の『正しさ』に酔いしれている頃でしょうね」
エレオノーラは、かつての婚約者の愚かな、しかし傲慢な顔を思い浮かべ、小さく鼻を鳴らした。
「彼が信じ込んでいる『正しさ』が、どれほど足元の脆い、砂上の楼閣であるかも知らずに。その夢から覚めた時、彼は何を思うでしょうね」
「君がその砂を、指一本で崩すんだ」
カイエンが、エレオノーラの手をそっと握る。
その温もりが、彼女の冷え切った決意に確かな熱を伝えた。
「準備はいいかい、エレオノーラ」
カイエンが慈しむような声で、彼女の本当の名を呼んだ。
「……ええ。あなたと一緒なら、どこまでも」
エレオノーラは頷き、深く息を吸い込んだ。
彼女は瞳を閉じ、意識を目の前のコンソールに集中させる。
現実の風景が遠ざかり、無数の光の線が走るグリッド空間が、彼女の精神世界に広がった。
いよいよだ。
この世界を狂わせた「バグ」を修正し、彼女から全てを奪った者たちに、真の「論理」を突きつける時が。
彼女の思考が、一つの明確な意志として紡がれる。
それは、剣でも魔法でもない。この世界を根底から書き換える、情報という名の刃。
『――価値とは情報。そして情報は、書き換えられるためにある』
彼女の紫の瞳が、コンソールの光を反射して妖しく輝く。
そして、最後のプロンプトが、世界の深層へと放たれた。
`//Execute command: Override object properties.`
`Target: All instances of "Rosa Alba Sanctus"(聖光花).`
`Add property: "Reproductive condition is dependent on symbiotic soil bacteria (easily cultivable)".`
`Announce this information via anonymous academic paper. Reason: "Correction of long-standing academic error".`
脳裏に響くのは、システムがコマンドを受理したことを示す、無機質な電子音。
`<Executing...>`
`<Success.>`
その瞬間、世界は音もなく、しかし決定的に書き換えられた。
誰も気づかない。誰も知らない。
王家の権威の源泉であり、いまや王国経済の心臓となった聖光花の「希少性」という絶対的な前提が、たった一行のコードによって、静かに消去されたことを。
エレオノーラがゆっくりと目を開けると、カイエンが心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。
「終わったわ」
「……そうか」
カイエンは短く応えると、立ち上がった。彼の仕事は、ここからだ。
「僕も、種を蒔いてこよう。君が用意してくれた舞台に、ささやかな花を添えるためにね」
彼は悪戯っぽく笑うと、培養液の入った瓶をいくつか鞄に詰め、フードを目深に被った。
「気をつけて」
「君こそ。……今夜は、ゆっくり休むといい。明日からは、きっと世界が、君の望む通りに踊り狂うだろうから」
そう言い残し、カイエンは闇に紛れて研究室を出ていった。
一人残されたエレオノーラは、再び窓の外に目をやる。
王都の灯りは、まだ狂乱の熱を帯びて輝いている。
しかし、彼女の目には、それが燃え尽きる寸前の蝋燭の、最後の輝きのように見えていた。
◇
その夜、王都のいくつかの場所で、奇妙な出来事が起きていた。
カイエンは、自身が匿名で設立し、密かに育て上げてきた新興商会の者たちを動かしていた。
彼らは王都に潜み、エレオノーラの仕掛けた「法則の書き換え」を、現実世界に「現象」として発現させるための布石を打つ。
ある者は、場末の酒場で酔い潰れた庭師に接触し、「どんな花でも元気になる魔法の土だ」と囁き、細菌を混ぜ込んだ土の入った小袋を握らせた。
またある者は、王都の裏通りで花を売って日銭を稼ぐ貧しい人々に、「これは教会の祝福を受けた土だ」と告げ、無償でそれを分け与えた。
そして、もう一つの布石も、静かに打たれていた。
王立アカデミーのシステム内部。
エレオノーラが放ったコマンドは、もう一つの仕事を着実にこなしていた。
アカデミーのデータベースに、一本の論文がアップロードされる。
著者は、レオンハルト・フォン・ミュラー。
植物学の権威として知られるが、すでに老齢で引退し、世間との交流をほとんど絶っている碩学の名が、そこには記されていた。
もちろん、彼自身が書いたものではない。
エレオノーラによる完璧な偽装だ。
論文のタイトルは、『聖光花(Rosa Alba Sanctus)の生育における土壌細菌叢の決定的役割に関する考察』。
内容は、極めて学術的かつ冷静な筆致で綴られていた。
――聖光花の生育条件は、王家の土地が持つ特殊な魔力や地質によるものではない。
――その根に共生する、ごくありふれた特定の土壌細菌こそが、開花のための唯一の必須条件である。
――この細菌は、適切な栄養を与えれば、誰でも容易に培養可能である。
――これまで聖光花が王家の土地でしか咲かなかったのは、単にその細菌が偶然にもその土地にのみ定着していたに過ぎず、長きにわたる学術的な誤解であった。
論文は、その細菌の培養方法まで、丁寧に詳述していた。
それは、既存の権威を、より大きな「科学」という権威で上書きする行為だった。
王家の「神聖さ」という曖昧な伝説を、揺るぎない論理で否定する。
深夜、アカデミーの研究室で、新着論文のリストにミュラー碩学の名前を見つけた一人の研究者がいた。
彼は興味本位でそれを開く。
数分後、彼の研究室の灯りが、朝まで消えることはなかった。
衝撃的な論文の噂は、まずアカデミー内部で、さざ波のように静かに広がり始めた。
まだ、誰もその本当の意味に気づいてはいない。
まだ、誰も己の足元が崩れ始めていることには、気づいていない。
ただ、破滅の種は、確かに蒔かれたのだ。
◇
翌朝。
王都は、いつもと変わらぬ朝を迎えたように見えた。
市場へ向かう人々の足音。
パン屋から漂う香ばしい匂い。
朝日を浴びて輝く王城の尖塔。
しかし、水面下では、昨夜蒔かれた種が、すでに芽を出し始めていた。
王都の片隅にある、貧しい花売りの少女の家。
昨夜、見知らぬ親切な男から貰った「魔法の土」。
少女は半信半疑で、枯れかけていた花を植え替えるついでに、折れて捨てられていた聖光花の枝を、その土の入った小さな鉢に挿しておいたのだ。
そして朝。
少女は、自分の目を疑った。
たった一晩で、ただの枝切れだったはずのそれが、見事に根を張り、青々とした葉を茂らせ、そして――純白の、清らかな花を咲かせていた。
それは、貴族様しか手にできないと聞かされていた、あの聖光花だった。
「うそ……!」
同じような奇跡は、王都のあちこちで、同時に起きていた。
最初は、小さな戸惑いと、個人的な幸運への喜び。
だが、その「奇跡の鉢植え」を抱えた人々が、それぞれの思惑を持って市場へと足を運んだ時、世界は、その変貌の最初の兆候を現すことになる。
王都の中央広場。
取引所へと向かう貴族や商人たちの馬車が行き交う、最も人通りの多い場所。
一人の老人が、おずおずと声を張り上げた。
彼の前には、簡素な木の台に載せられた、見事に咲き誇る聖光花の鉢植えが三つ、並べられている。
「せ、聖光花だよ……! 本物だ! 誰か、安く、安く買っちゃくれねぇか……!」
その声は、広場の喧騒にかき消されかけた。
通りかかった人々は、最初、老人が何を言っているのか理解できなかった。
聖光花? 平民が、こんな場所で? 冗談だろう。偽物に決まっている。
しかし、足を止めた一人が、鉢植えをまじまじと見つめ、息を呑んだ。
「……本物、だ」
その呟きが、周囲に伝播する。
人々が、次々と老人の周りに集まり始めた。ざわめきが大きくなる。
誰もが知っている。この純白の花弁。
この清らかな香り。
そして、花が放つ微かな魔力の輝き。
間違いなく、聖光花だ。
その、一輪が金貨数百枚にも高騰しているはずの、王家の花が。
「おい、爺さん。いくらなんだ、そりゃ」
群衆の中から、一人の商人が唾を飲み込みながら尋ねた。
老人は、震える声で答えた。
「あ、ああ……い、一鉢、銀貨三枚で……ど、どうだい……?」
その言葉が響いた瞬間、広場は、水を打ったように静まり返った。
銀貨、三枚。
それは、貴族たちが熱狂的に取引している価格の、何万分の一、いや、何百万分の一の値段。
静寂は、一秒も続かなかった。
次の瞬間、人々は我先にと老人に殺到した。
「買わせろ!」
「俺が先だ!」
「嘘だろ、銀貨三枚だと!?」
罵声と歓声が入り混じり、押し合いへし合い、小さな暴動のような状態に陥った。
その小さな混乱を、取引所へ向かう途中の貴族が、馬車の窓から眉をひそめて眺めていた。
「何だ、あの騒ぎは」
「さあ……何やら、花を売っているようですが」
その時は、まだ、誰も気づいていなかった。
自分たちが積み上げた富の塔が、その土台から、音もなく崩れ始めたことに。
それは、王国を覆う巨大な経済システムの、ほんの些細な、しかし致命的なエラーの始まり。
一つの時代の終わりを告げる、弔鐘の最初の、か細い一打だった。
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誰の目にもゴミとしか映らないその塊を、ミヤコは放っておけなかった。
「こんなに汚れたままなんて、かわいそう」
彼女が生活魔法を込めたブラシで丹念に汚れを落とした瞬間、世界を縛る最凶の封印が汚れと一緒に「流されてしまう。
現れたのは、月光を纏ったような美しい銀狼。
それは世界を喰らうと恐れられる伝説の災厄級幻獣『フェンリル・ヴォイド』だった……。
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