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煌めく大理石の床は、天井を埋め尽くす無数の水晶シャンデリアの光を反射し、まるで足元に銀河を湛えているかのようだ。
星々の海を歩くような、夢幻の錯覚に陥る。
ここは、グランツ王国王城。
その最も壮麗な『暁の間』と呼ばれる場所だ。
本来ならば、祝賀や舞踏会で華やかな喧騒に満たされるはずの広間は、今はただ、凍てつくような沈黙と、集まった貴族たちの粘りつくような好奇と嘲りの視線で埋め尽くされていた。
その視線の中心に、エリアーナ・フォン・クレスメントは、たった一人で立っていた。
光の加減で色合いを変えるアッシュブロンドの髪は、わずかに乱れている。知性を宿す紫色の瞳は、しかし今は不安に揺れ、大理石の床の一点を見つめていた。
侯爵令嬢としての矜持から背筋は伸ばされているが、細い指先がかすかに震えているのを、彼女自身、止めることはできない。
やがて、広間の奥に設えられた玉座から、一人の青年がゆっくりと立ち上がる。
陽光を糸のように編み込んだ金色の髪。空の青を閉じ込めたかのような碧い瞳。
神々が気まぐれに作り上げた最高傑作と誰もが称賛する美貌を持つ、この国の王太子、アルフォンス・ルキウス・グランツ。
そして、エリアーナの婚約者であるはずの男だ。
彼の唇が、冷たく完璧な弧を描いた。
「エリアーナ・フォン・クレスメント」
朗々とした、だが氷のように冷たい声が、静まり返った広間に響き渡る。
その声に、エリアーナの肩がびくりと震えた。
「本日、余は汝との婚約を、この場に集った全ての貴族たちの前で破棄することを宣言する!」
まるで、雷が頭上に落ちたかのような宣告だった。
わかっていたはずの言葉。
予期していたはずの未来。
それなのに、実際に彼の口から放たれたその言葉は、鋭い刃となってエリアーナの胸を深く抉った。
貴族たちの間から、抑えられた驚きの声と、待ってましたとばかりの嘲笑の囁きが、波のように広がっていく。
「な、なぜ……ですの、アルフォンス殿下……」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにか細く、震えていた。
アルフォンスは、そんな彼女を見下ろし、心底から軽蔑しきった目を向けた。
「なぜ、だと? 未だ己の罪状すら理解せぬとは、その鈍感さに呆れる他ないな」
「罪……?」
「そうだ、罪だ! 君が日頃から口にする、あの荒唐無稽な空想の数々! それこそが、未来の王妃としてあるまじき最大の罪だ!」
アルフォンスは芝居がかった仕草で腕を広げ、聴衆である貴族たちに語りかける。
「皆も聞くがいい! この女は、夜会の席で何を語ったと思う? 『流れる雷を導線で流し、夜を昼日中のように照らす』だの、『磨いた石板に人の顔を映し、遠くの者と話す』だのといった、正気の沙汰とは思えぬ戯言を吹聴して回ったのだ!」
どっと、広間に下卑た笑いが満ちる。
ある者は腹を抱え、ある者は扇で口元を隠しながらも、侮蔑の視線を向けてくる。
かつては友人として微笑みかけてくれた令嬢たちも、今はただ冷ややかに目を逸らすだけだった。
違う。あれは戯言ではない。空想なんかじゃない。
エリアーナの頭の中に、まるで神の啓示のように、時折浮かび上がるビジョン。
それは映像であり、設計図であり、数式だった。
この世界の誰も知らない、けれど確かに存在するはずの、世界の理。
だが、それをこの世界の言葉でどう伝えればいいのか。
半導体も、集積回路も、トランジスタも、この世界には存在しない概念なのだ。
存在しない言葉なのだ。
「あれは、空想ではございません! 『流電』の性質を正しく理解し、その流れを制御することができれば――!」
「黙れ!」
アルフォンスの怒声が、エリアーナの必死の言葉を遮る。
「流電だと? 魔術師どもが照明に使う、あの気まぐれな力を何だと思っている! 王太子妃たる者が、くだらぬ妄想に耽るとは、王家の威光を貶める所業! 自らの立場を弁えぬか!」
「ですが、実際に可能なのです! 精製した土の水晶に、特殊な紋様を刻み込むことで……それは『天命石』となり、流電の流れを自在に――」
必死に説明しようとすればするほど、言葉が空回りしていく。
エリアーナの脳裏には、シリコンウェハーに刻まれる微細な回路のパターンが、目も眩むような精密さで浮かんでいる。
この世界の言葉では、なんて言えばいいの?
『集積回路』も『半導体』も、誰も知らないのに――!
彼女の語ることは、この場にいる誰にとっても、狂人の戯言にしか聞こえないのだ。
「……もうよい。聞くに堪えん」
アルフォンスはうんざりしたように首を振った。
その瞳には、憐れみすら浮かんでいる。狂人を見る目だ。
「君のその奇妙な空想癖は、もはや病だ。そのような者を、未来の国母として玉座の隣に置くことは断じてできぬ」
決定的な言葉だった。
エリアーナは助けを求めるように、広間の片隅に立つ実の父親、クレスメント侯爵に視線を向けた。
侯爵は、まるで魂を吸い取られたかのように青白い顔で、だが厳格なまでに表情を固くしていた。
苦渋に満ちたその瞳は、しかし、娘と目を合わせようとはしなかった。
王太子の決定は、すなわち王命に等しい。
一介の貴族に、それを覆す力などない。
理解されず、見捨てられたのだ。誰からも。
「殿下……っ、エリアーナは、ただ、少しばかり独創的な発想を……っ! 夢見がちではございますが、悪しき心など、これっぽっちも持ち合わせておりません!」
かろうじて侯爵が絞り出した弁護の言葉。
だが、侯爵は一歩踏み出そうとした衛兵に軽く制止され、アルフォンスの凍えるような視線に射竦められた。
その言葉は、喉の奥でかき消されていく。
「侯爵、余は慈悲深い。本来であれば、王家を侮辱した罪でクレスメント家そのものを取り潰してもおかしくはないのだぞ。だが、これまでのそなたの功に免じ、娘一人の追放で済ませてやる。感謝するがよい」
「つ、追放……!?」
侯爵の顔から血の気が引いた。
エリアーナも、息を呑む。
追放という言葉の重みが、現実となって全身にのしかかってきた。
「そうだ。王都に置いておけば、いつまた良からぬ妄想を吹聴し、民を惑わすやも知れん。北の辺境領……確か、クレスメント家の管理する最も不毛な土地があったな。そこにでも蟄居させるがよい。金輪際、王都の土を踏むことは許さん」
北の辺境領。
冬には厚い雪と氷に閉ざされ、夏は短く、痩せた土地では麦もろくに育たないと言われる場所。
それは、貴族社会からの、完全な追放宣告だった。
もはや、生きているとは言えない。社会的に殺されたも同然だ。
「さあ、衛兵! この者をここから連れ出せ! その顔を見るのも不愉快だ!」
アルフォンスが手を振ると、両脇を固めていた屈強な衛兵たちが、ためらいなくエリアーナに歩み寄る。
がっしりと、両腕を掴まれた。
鉄の枷をはめられたかのような、冷たくて無慈悲な感触が伝わる。
「いや……やめて……!」
抵抗しようにも、華奢な令嬢の力ではびくともしない。
引きずられるようにして、広間を後にする。
その間も、貴族たちの囁き声は容赦なく彼女の耳に突き刺さった。
「まあ、可哀想に。とうとうお頭がおかしくなってしまわれたのね」
「空想令嬢、などと揶揄されてはいたが、まさかここまでとは……」
「クレスメント家も終わりだな。あのような娘を王太子妃にしようなどと、身の程知らずも甚だしい」
冷たい視線。好奇の視線。侮蔑の視線。
そのすべてが、無数の針となってエリアーナの心を刺し貫いていく。
誇りも、未来も、積み上げてきた全てが、音を立てて崩れ落ちていった。
最後に見たアルフォンスの顔は、己の正しさを確信し、邪魔者を排除した満足感に満ちていた。
その隣で、新しい婚約者候補と目される伯爵令嬢が、勝ち誇ったような笑みを浮かべているのが視界の端に映った。
もう、どうでもよかった。
◇
王城の裏門から、紋章も剥がされた粗末な一台の馬車が、慌ただしく出発した。
罪人を運ぶかのような、無骨で揺れのひどい馬車。
その中に、エリアーナは荷物のように押し込まれていた。
供の者は誰もいない。父も母も、見送りにすら来なかった。
いや、来られなかったのだろう。
クレスメント家が王家に見限られたと見なされぬよう、必死に体面を保っているに違いなかった。
ガタン、ゴトンと、不規則な振動が体に響く。
窓の外を流れていくのは、見慣れた王都の街並み。
華やかな大通り、活気のある市場、美しい公園。
もう二度と、この景色を見ることはない。
そう思うと、不思議と涙は出なかった。
あまりに大きな絶望は、涙すら枯らしてしまうらしい。
私の人生は、今日、終わったのだ。
ただ、頭に浮かぶビジョンを、夢を、語っただけなのに。
なぜ、誰も信じてくれなかったのだろう。
なぜ、あれがただの「空想」だと、誰もが決めつけたのだろう。
紫色の瞳から、光が消える。
虚ろな心で、エリアーナはただ馬車の揺れに身を任せていた。
思考は停止し、感情は麻痺し、ただ時間が過ぎていくのを待つだけの、まるで人形のようになって。
どれくらいの時間が経っただろうか。
王都の喧騒が完全に遠ざかり、馬車が街道をひた走る単調なリズムだけが支配する頃。
不意に、エリアーナの脳裏を、閃光が貫いた。
―――ッ!?
あまりの眩しさに、思わず目を固く閉じる。
しかし、その光は物理的なものではなかった。
彼女の意識の内側で、直接発生したものだ。
これまで見てきた、どんなビジョンよりも強烈で、鮮明な光。
そして、光が収まった後に現れたのは―――。
(……これは……何……?)
息を呑むほどに、美しく、そして複雑怪奇な幾何学模様だった。
それは、まるで神が描いた都市計画図のようだった。
無数の線が走り、交差し、規則正しく配置された区画を形成している。
その一つ一つが、恐るべき精度で計算され尽くされているのが、直感的に理解できた。
今まで見てきた断片的な知識――流電、天命石、精製土水晶――それら全てが、この壮大な設計図を構成するための一つの部品に過ぎなかったのだと、エリアーナは悟った。
これは、『集積回路』の設計図。
そして、これを核とすることで、『遠見の水晶板』が生まれる。
言葉が、知識が、意味を持って脳内に流れ込んでくる。
与えられた。
婚約破棄され、全てを失い、絶望のどん底に突き落とされた、まさにこの瞬間に。
これまでで最も鮮明で、最も強大な『天命』が、私に与えられた。
あまりにも、皮肉な贈り物だった。
なぜ、今、この力を与えるのか。
全てを失い、絶望の淵に突き落とされた、この瞬間に。
世界を変えるほどの力を持ちながら、それを実現する術を全て奪われた少女に。
怒りが、しかし胸の奥から湧き上がる。何という、愚かな世界なのだろう。
絶望を乗せて走る馬車の中、エリアーナは脳内に焼き付いた神々しいまでの設計図をただ見つめていた。
しかし、その虚ろだった紫色の瞳の奥に、確かな光が宿り始めていた。
与えられた『天命』を、この世界に突きつける時が来たのだ。
自分を嘲笑った愚かな者たちに、その真価を思い知らせるために――エリアーナは、静かに、そして強く誓った。
星々の海を歩くような、夢幻の錯覚に陥る。
ここは、グランツ王国王城。
その最も壮麗な『暁の間』と呼ばれる場所だ。
本来ならば、祝賀や舞踏会で華やかな喧騒に満たされるはずの広間は、今はただ、凍てつくような沈黙と、集まった貴族たちの粘りつくような好奇と嘲りの視線で埋め尽くされていた。
その視線の中心に、エリアーナ・フォン・クレスメントは、たった一人で立っていた。
光の加減で色合いを変えるアッシュブロンドの髪は、わずかに乱れている。知性を宿す紫色の瞳は、しかし今は不安に揺れ、大理石の床の一点を見つめていた。
侯爵令嬢としての矜持から背筋は伸ばされているが、細い指先がかすかに震えているのを、彼女自身、止めることはできない。
やがて、広間の奥に設えられた玉座から、一人の青年がゆっくりと立ち上がる。
陽光を糸のように編み込んだ金色の髪。空の青を閉じ込めたかのような碧い瞳。
神々が気まぐれに作り上げた最高傑作と誰もが称賛する美貌を持つ、この国の王太子、アルフォンス・ルキウス・グランツ。
そして、エリアーナの婚約者であるはずの男だ。
彼の唇が、冷たく完璧な弧を描いた。
「エリアーナ・フォン・クレスメント」
朗々とした、だが氷のように冷たい声が、静まり返った広間に響き渡る。
その声に、エリアーナの肩がびくりと震えた。
「本日、余は汝との婚約を、この場に集った全ての貴族たちの前で破棄することを宣言する!」
まるで、雷が頭上に落ちたかのような宣告だった。
わかっていたはずの言葉。
予期していたはずの未来。
それなのに、実際に彼の口から放たれたその言葉は、鋭い刃となってエリアーナの胸を深く抉った。
貴族たちの間から、抑えられた驚きの声と、待ってましたとばかりの嘲笑の囁きが、波のように広がっていく。
「な、なぜ……ですの、アルフォンス殿下……」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにか細く、震えていた。
アルフォンスは、そんな彼女を見下ろし、心底から軽蔑しきった目を向けた。
「なぜ、だと? 未だ己の罪状すら理解せぬとは、その鈍感さに呆れる他ないな」
「罪……?」
「そうだ、罪だ! 君が日頃から口にする、あの荒唐無稽な空想の数々! それこそが、未来の王妃としてあるまじき最大の罪だ!」
アルフォンスは芝居がかった仕草で腕を広げ、聴衆である貴族たちに語りかける。
「皆も聞くがいい! この女は、夜会の席で何を語ったと思う? 『流れる雷を導線で流し、夜を昼日中のように照らす』だの、『磨いた石板に人の顔を映し、遠くの者と話す』だのといった、正気の沙汰とは思えぬ戯言を吹聴して回ったのだ!」
どっと、広間に下卑た笑いが満ちる。
ある者は腹を抱え、ある者は扇で口元を隠しながらも、侮蔑の視線を向けてくる。
かつては友人として微笑みかけてくれた令嬢たちも、今はただ冷ややかに目を逸らすだけだった。
違う。あれは戯言ではない。空想なんかじゃない。
エリアーナの頭の中に、まるで神の啓示のように、時折浮かび上がるビジョン。
それは映像であり、設計図であり、数式だった。
この世界の誰も知らない、けれど確かに存在するはずの、世界の理。
だが、それをこの世界の言葉でどう伝えればいいのか。
半導体も、集積回路も、トランジスタも、この世界には存在しない概念なのだ。
存在しない言葉なのだ。
「あれは、空想ではございません! 『流電』の性質を正しく理解し、その流れを制御することができれば――!」
「黙れ!」
アルフォンスの怒声が、エリアーナの必死の言葉を遮る。
「流電だと? 魔術師どもが照明に使う、あの気まぐれな力を何だと思っている! 王太子妃たる者が、くだらぬ妄想に耽るとは、王家の威光を貶める所業! 自らの立場を弁えぬか!」
「ですが、実際に可能なのです! 精製した土の水晶に、特殊な紋様を刻み込むことで……それは『天命石』となり、流電の流れを自在に――」
必死に説明しようとすればするほど、言葉が空回りしていく。
エリアーナの脳裏には、シリコンウェハーに刻まれる微細な回路のパターンが、目も眩むような精密さで浮かんでいる。
この世界の言葉では、なんて言えばいいの?
『集積回路』も『半導体』も、誰も知らないのに――!
彼女の語ることは、この場にいる誰にとっても、狂人の戯言にしか聞こえないのだ。
「……もうよい。聞くに堪えん」
アルフォンスはうんざりしたように首を振った。
その瞳には、憐れみすら浮かんでいる。狂人を見る目だ。
「君のその奇妙な空想癖は、もはや病だ。そのような者を、未来の国母として玉座の隣に置くことは断じてできぬ」
決定的な言葉だった。
エリアーナは助けを求めるように、広間の片隅に立つ実の父親、クレスメント侯爵に視線を向けた。
侯爵は、まるで魂を吸い取られたかのように青白い顔で、だが厳格なまでに表情を固くしていた。
苦渋に満ちたその瞳は、しかし、娘と目を合わせようとはしなかった。
王太子の決定は、すなわち王命に等しい。
一介の貴族に、それを覆す力などない。
理解されず、見捨てられたのだ。誰からも。
「殿下……っ、エリアーナは、ただ、少しばかり独創的な発想を……っ! 夢見がちではございますが、悪しき心など、これっぽっちも持ち合わせておりません!」
かろうじて侯爵が絞り出した弁護の言葉。
だが、侯爵は一歩踏み出そうとした衛兵に軽く制止され、アルフォンスの凍えるような視線に射竦められた。
その言葉は、喉の奥でかき消されていく。
「侯爵、余は慈悲深い。本来であれば、王家を侮辱した罪でクレスメント家そのものを取り潰してもおかしくはないのだぞ。だが、これまでのそなたの功に免じ、娘一人の追放で済ませてやる。感謝するがよい」
「つ、追放……!?」
侯爵の顔から血の気が引いた。
エリアーナも、息を呑む。
追放という言葉の重みが、現実となって全身にのしかかってきた。
「そうだ。王都に置いておけば、いつまた良からぬ妄想を吹聴し、民を惑わすやも知れん。北の辺境領……確か、クレスメント家の管理する最も不毛な土地があったな。そこにでも蟄居させるがよい。金輪際、王都の土を踏むことは許さん」
北の辺境領。
冬には厚い雪と氷に閉ざされ、夏は短く、痩せた土地では麦もろくに育たないと言われる場所。
それは、貴族社会からの、完全な追放宣告だった。
もはや、生きているとは言えない。社会的に殺されたも同然だ。
「さあ、衛兵! この者をここから連れ出せ! その顔を見るのも不愉快だ!」
アルフォンスが手を振ると、両脇を固めていた屈強な衛兵たちが、ためらいなくエリアーナに歩み寄る。
がっしりと、両腕を掴まれた。
鉄の枷をはめられたかのような、冷たくて無慈悲な感触が伝わる。
「いや……やめて……!」
抵抗しようにも、華奢な令嬢の力ではびくともしない。
引きずられるようにして、広間を後にする。
その間も、貴族たちの囁き声は容赦なく彼女の耳に突き刺さった。
「まあ、可哀想に。とうとうお頭がおかしくなってしまわれたのね」
「空想令嬢、などと揶揄されてはいたが、まさかここまでとは……」
「クレスメント家も終わりだな。あのような娘を王太子妃にしようなどと、身の程知らずも甚だしい」
冷たい視線。好奇の視線。侮蔑の視線。
そのすべてが、無数の針となってエリアーナの心を刺し貫いていく。
誇りも、未来も、積み上げてきた全てが、音を立てて崩れ落ちていった。
最後に見たアルフォンスの顔は、己の正しさを確信し、邪魔者を排除した満足感に満ちていた。
その隣で、新しい婚約者候補と目される伯爵令嬢が、勝ち誇ったような笑みを浮かべているのが視界の端に映った。
もう、どうでもよかった。
◇
王城の裏門から、紋章も剥がされた粗末な一台の馬車が、慌ただしく出発した。
罪人を運ぶかのような、無骨で揺れのひどい馬車。
その中に、エリアーナは荷物のように押し込まれていた。
供の者は誰もいない。父も母も、見送りにすら来なかった。
いや、来られなかったのだろう。
クレスメント家が王家に見限られたと見なされぬよう、必死に体面を保っているに違いなかった。
ガタン、ゴトンと、不規則な振動が体に響く。
窓の外を流れていくのは、見慣れた王都の街並み。
華やかな大通り、活気のある市場、美しい公園。
もう二度と、この景色を見ることはない。
そう思うと、不思議と涙は出なかった。
あまりに大きな絶望は、涙すら枯らしてしまうらしい。
私の人生は、今日、終わったのだ。
ただ、頭に浮かぶビジョンを、夢を、語っただけなのに。
なぜ、誰も信じてくれなかったのだろう。
なぜ、あれがただの「空想」だと、誰もが決めつけたのだろう。
紫色の瞳から、光が消える。
虚ろな心で、エリアーナはただ馬車の揺れに身を任せていた。
思考は停止し、感情は麻痺し、ただ時間が過ぎていくのを待つだけの、まるで人形のようになって。
どれくらいの時間が経っただろうか。
王都の喧騒が完全に遠ざかり、馬車が街道をひた走る単調なリズムだけが支配する頃。
不意に、エリアーナの脳裏を、閃光が貫いた。
―――ッ!?
あまりの眩しさに、思わず目を固く閉じる。
しかし、その光は物理的なものではなかった。
彼女の意識の内側で、直接発生したものだ。
これまで見てきた、どんなビジョンよりも強烈で、鮮明な光。
そして、光が収まった後に現れたのは―――。
(……これは……何……?)
息を呑むほどに、美しく、そして複雑怪奇な幾何学模様だった。
それは、まるで神が描いた都市計画図のようだった。
無数の線が走り、交差し、規則正しく配置された区画を形成している。
その一つ一つが、恐るべき精度で計算され尽くされているのが、直感的に理解できた。
今まで見てきた断片的な知識――流電、天命石、精製土水晶――それら全てが、この壮大な設計図を構成するための一つの部品に過ぎなかったのだと、エリアーナは悟った。
これは、『集積回路』の設計図。
そして、これを核とすることで、『遠見の水晶板』が生まれる。
言葉が、知識が、意味を持って脳内に流れ込んでくる。
与えられた。
婚約破棄され、全てを失い、絶望のどん底に突き落とされた、まさにこの瞬間に。
これまでで最も鮮明で、最も強大な『天命』が、私に与えられた。
あまりにも、皮肉な贈り物だった。
なぜ、今、この力を与えるのか。
全てを失い、絶望の淵に突き落とされた、この瞬間に。
世界を変えるほどの力を持ちながら、それを実現する術を全て奪われた少女に。
怒りが、しかし胸の奥から湧き上がる。何という、愚かな世界なのだろう。
絶望を乗せて走る馬車の中、エリアーナは脳内に焼き付いた神々しいまでの設計図をただ見つめていた。
しかし、その虚ろだった紫色の瞳の奥に、確かな光が宿り始めていた。
与えられた『天命』を、この世界に突きつける時が来たのだ。
自分を嘲笑った愚かな者たちに、その真価を思い知らせるために――エリアーナは、静かに、そして強く誓った。
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