いくつものはじめまして

有馬れい

文字の大きさ
1 / 4

僕の大切な土曜日

しおりを挟む
 今日も聴いているのは彼女の歌声。通勤時間・昼休み・寝る前、常に彼女の歌声を聴いている。彼女の歌声は素晴らしい。でも、彼女のことを知っている人はきっと少ないだろう。彼女は路上ライブで活動して自分で焼いたCDを販売している、いわゆるアーティストの卵だ。彼女みたいな活動をしている人は、数えきれないほどいるだろう。僕は彼女のように夢を追いかけている様な人間の類は、はっきり言って嫌いだった。いい歳して夢を追いかけるなんて、現実主義の僕には到底理解できなかったからだ。でも彼女の歌声を偶然街で聴いたあの日、僕は雷に打たれたかのごとく、体中に衝撃が走った。彼女の歌声は、僕の心、いや魂を震わせた。こんな経験は生まれて初めてだった。僕は思わず立ち止まった。すると彼女は歌いながら微笑んだ。立ち止まっているのは僕だけだった。僕は彼女の歌を最後まで夢中で聴いていた。



「聴いて頂いてありがとうございました。」

「い、いえ。」

「ここで毎週土曜日に歌うことにしたので、良ければまた来てください。」

「そうなんだね。また来るよ。」



そう言って微笑むと、彼女は機材の片付けを始めたので、僕は帰ることにした。僕は帰り道も帰ってからも眠りにつく前も彼女のことが頭から離れなかった。来週の土曜日にまた彼女の歌声が聴ける。そう思うとなかなか眠りにつけなかった。



 それから毎週土曜日、僕は仕事で疲れているはずなのに、街を早足で歩き、彼女のもとへ一直線に向かうようになった。通うごとに立ち止まる人数は多くなり、ちょっとした街の人気者になっていく彼女の歌声を僕だけのものにしたくなった。一か月程通い詰めた僕は勇気を出してライブの後に話しかけた。



「あのー、CD欲しいんですけど。」

「あ、あなたは一番初めに立ち止まってくださった…」

「覚えててくれたんだね。」

「もちろんです!街で歌い始めた私の歌を聴いてくれた初めての方ですからね。」

「最近、人気出て来たね。」

「人気だなんてそんな、CDが欲しいと言ってくださったのも、あなたが初めてです。」

「え?そうなの?」

「嘘はつきませんよ。」



コツン、彼女に肩を叩かれた。そうか、僕が彼女のファン第一号ってわけか。僕が発掘したようなもんだな。そう思うと少し顔の筋肉が緩みそうになったので、僕は話を続けた。



「で、CDはいくら?」

「オリジナル曲が六曲入って千円になります。」

「千円?じゃあ二枚買うよ。」

「いいんですか?」

「うん、応援してるからさ。」

「本当にありがとうございます!」



彼女はCDを僕に渡して、僕は二千円を支払った。彼女は深く深くお辞儀をして、僕が帰るまで頭を上げることはなかった。歌声が素晴らしいだけでなく、人間性も素晴らしいなと感じた。家に帰ると僕は彼女から買ったCDをパソコンで読み取って、すぐにスマホに曲を移した。スマホにイヤホンを付けて彼女の歌声を聴いてみる。すると、何とも言えない幸福感に満ち溢れた。彼女が僕のためだけに歌ってくれているような気がした。



 僕が夢追い人を嫌いになった理由は母にある。僕の母親は、彼女と同じく歌手を目指す、アーティストの卵だったのだ。しかし、母は僕をお腹に宿してしまった。母は、女の子を強く希望していた。自分の夢を女の子に託したかったらしい。しかし、産まれてきたのはこの僕。一応僕の物心がつくまで面倒を見てくれたが、父が朝起きたある日、母はいつの間にかまとめた荷物とともに行方知れずになった。母親がどうしようもない人なら、父親もどうしようもない人で、僕は孤児院に入れられた。面倒を見るのが嫌だったかららしい。そんなこんなで僕は、僕より夢を追った母を恨み、僕を捨てた父を恨み、孤児院から出て、孤児だからと言われないために真面目に頑張って働いてきたのだ。疲れを癒すものなんて何もなかった。しかし僕は、恨んでいた母と同じ道を歩んでいる彼女の歌声に癒されるようになっていた。人は変わるものなんだな。と思った。



 それから一年程ぼくは毎週彼女のもとへ足を運んだ。ライブが終わった後に他愛ない話をして笑い合ったりする関係になっていた。ある日、彼女は真面目な話をしてもいいか、と僕に聞いてきた。僕はなんだろう、と思いながらも頷いた。



「実は、母があなたに会いたがっているんです。」

「僕たち、恋人でもないのにどうして?」

「私、母と同居していてよくあなたの話をするんです。私の事を一番に応援してくれている人がいるって。」

「なんだか恥ずかしいな…」

「そしたら、昨日あなたに一度会ってお礼が言いたいって言い始めて、それは迷惑だよって言ってるのに、どうしても聞かなくて。迷惑ですよね、すみません。」

「迷惑ではないけど…」

「本当ですか?やったあ!母は昔から頑固で一度決めたら人の意見なんて聞かないんですよ。助かりました。では、明日の夕方ここで待ち合わせてカフェでも行きましょう。」

「色々急だけど、分かったよ。また明日ね。」



決して僕は彼女に恋心を抱いているわけではなかった。彼女の歌声がただ好きで、彼女の歌声に浸りたいだけだった。僕だけに歌って欲しいといった独占欲みたいな感情はあったが、でもそれを表に出すことはなく、妹のように可愛がって応援していた。そう、まさに妹のような存在だった。



 次の日の夕方、日曜日なのに僕はいつもの場所に向かっていた。彼女の姿が見えた。大きく手を振っている。その横には、小柄で少し歳を取った女性が並んで立っているように見えた。僕は恋人の母親に挨拶をするわけでもないのに、なぜか実際目の当たりにすると緊張してしまって、目線を合わせず軽くお辞儀をして、カフェに向かうことになった。カフェでも僕は彼女の母親を直視できずにいた。全員コーヒーを注文した後、いよいよ彼女の母親が口を開いた。



「娘から話は聞いているかと思いますが、娘を応援してくださって本当にありがとうございます。」

「いえ、彼女の歌声は本当に素晴らしいですから。」

「実は私も昔アーティストを目指していて、この子に夢を託しているので、その娘を応援してくださって本当に嬉しいんです。」

「そうだったんですか。」



僕の嫌いな母親そっくりだな。そう思って初めて彼女の母親の顔を直視した。どこかで見たことがある顔だと思ったが、思い出せなかった。彼女の母親の話は続いた。



「この子が産まれた時、本当に嬉しかったんです。恥ずかしながら、昔の私は恋愛体質だったようで、アーティストを目指しているくせに、子供を作ってしまいました。女の子なら子供に夢を託そうと決めていたので、娘が産まれた時は本当に嬉しくて…」

「お母さん、もうそのぐらいでいいよ。」

「そうね。」



彼女の母親はやっと自分の昔話をやめた。と、同時に僕は見覚えのある顔をはっきりと思い出した。間違いない。彼女は、僕の嫌いな、僕を捨てた母親だった。今度は僕が話を切り出した。



「お子さんは、娘さん一人なんですか?」

「えっ?」

「いえ、なんとなく聞いてみただけです。」

「恥ずかしいお話なのですが、実は昔男の子を授かりました。けれど、私は女の子が欲しかったので、旦那と息子を置いて逃げたんです。」

「お母さん、その話重いから…」

「ええ、分かってる。でもなぜだか彼には話しておきたくて。今となっては息子に申し訳ないことをしたと後悔しています。元気でやってくれているといいのですけれど。」

「きっと、元気にやっていますよ。」



僕は微笑んだ。



「これからも娘の応援をしてやってください。」

「もちろんですよ。」



 応援するに決まってるじゃないか。妹みたいな存在ではなく、本当の妹だったんだから。そう続けたかったが、僕はグッとその言葉を飲み込んだ。来週の土曜日も、その次の土曜日も、僕は必ず彼女のもとへ向かうだろう。お兄ちゃん、応援してるからな。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...