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しおりを挟む全ての明かりが失われか、本多 梨加は不安に包まれた。
(真っ暗)
暗闇のステージに、梨加たった一人だ。扉は閉鎖され、三方の窓は遮光カーテンで覆われている。
梨加の目が慣れていくと、ポツポツと仄かな光が、闇のステージにぼんやり浮かび上がる。夜に舞う蛍に似ている。
(どっちだっけ)
室温はぬるく、からからの喉は叫び声も出ない。23人の視線に囲まれながら、人形のように梨加の足は硬直した。人形のような格好で。
(う、動けない……!)
「ストップ! 柚子、どうしたの?」
フリル袖のノースリーブワンピースはもはや抜け殻となり、梨加は暗闇の中で黙り込んだままだ。
「――リカちゃん」
役名でなく愛称で呼ぶ声を、梨加の耳は捕らえた。頬を伝う汗をさらりと撫でられた気分になる。
「リカちゃん、大丈夫?」
舞台上座(※客席から見て右)に立つ梨加の逆、下座から部長かつ、劇の主役である柊司だ。
公家顔の柊は心配そうに声をかけるが、いつも通り落ち着いた声音は、梨加の体を解いていく。
「ソロパートの動き、忘れちゃった?」
「あ、あの。く、暗くて」
「暗くて?」
上目遣いで梨加は続ける。
「こ、怖くて、う、動けなくて」
夜に怯える子どもの言い訳のようで、すぐに後悔した。
それと同時に、舞台と客席側の灯りがつく。暗転から日常灯へ。
つくりものの夜から、昼の眩しさに戻れば、いつもの体育館が現れる。
桐明高等学校演劇部は、来月、夏の地区予選を控えている。日曜日の体育館貸し切り使用を許可され、初の通し稽古を迎えていた。
通しでは、幕開けから緞帳が降りるまで芝居が進む。誰がミスしようが、止めない。
けれど今、〈柚子〉役から抜けた梨加に、客席のスタッフチーム部員の顔がはっきりと見える。うだる空気の中、刺すような視線の先に2年の水戸さやかがいた。今作の演出担当のさやか、愛称・ミントは舞台を見渡した。
「通しは、まだ早かったね。皆、ごめん。撤収!」
演出が決めたからには中止だ。
(私のせい)
説教される覚悟をした梨加は、肩を落とした。
板張りの床に貼られたビニールテープが目に入る。テープを重ねて作った✕マーク。暗転中に光る正体を見つけ、梨加は上から踏みつける。
「ごめん。ひょっとして、外れかけてた? それ」
慌てて振り返ると、同じ1年で装置スタッフの土田将生が舞台脇から現れた。大きな体を屈みこんで点検し始める。
悪さを覗かれた気分だ。
「ツッチー……、ち、違うよ」
「……ならいいけど、もし、そのバミリのせいだったら、装置スタッフの責任だし」
スポーツ刈りの頭を掻きながら、土田は詫びるように顔を歪める。
ステージ上で大道具の位置等を定めることを、舞台用語でバミリと呼ぶ。
観客からステージを見た際、バランス良く見えるように配置を整え、専用のテープを床に貼る。蓄光性のプラスチックテープは、暗い中で仄かに光り、舞台側だけの目印となる。
確認する土田の背中に、梨加は腹が立ってきた。
「違うって言ってるじゃん!」
「……そっか。なら、ごめん」
何で謝るんだ。バミリに引っかかり、動けなくなったわけではない。トゲトゲしさを隠さない梨加を察し、土田は黙ってスタッフチームの元へと戻っていった。
〈柚子〉のステップに合わせ照明チームがピンスポットを当て、音響チームがBGMを流す。
(なめてた)
昨日まで、通常の照明下で出来ていた動きを、梨加は出来なくなっていた。
(舞台、なめてた……)
この春、梨加を含む1年生が入部し、桐明高等学校演劇部は、総勢24名の大所帯となった。受験で3年が引退し、2年が指揮をとっている。
演出のミントは、キャスト9名のうち4名をオーディションで1年から選んだ。梨加含め、未経験者ばかりだ。
「少しずつ慣れていけばいいから。それにリカちゃんは、見た目が柚子まんまだし。演技は……、こっちで何とかするから」
役を得た喜びも、緊張感で覆い尽くされた。
160センチと長身で髪の短い梨加は、ボーイッシュな印象を与えやすい。
ところが、仮試着で衣装スタッフが用意したマイクロミニのワンピースを着ると、長い脚が際立った。
ライムグリーンの化繊素材セミロングのウイッグを被って大きな瞳をのぞかせば、初々しいアイドルへと変身した。
「リカちゃん、お人形さんみたい!!」
同学年の女子部員は作業の手を止め、大はしゃぎした。男子部員が喉をごくりと鳴らすのを、梨加は気付いていた。
(やっぱり私って可愛いな)
「似合うわぁ。私の目に狂いなかったなー」
「さすがミント、素材を見抜くね」
2年部員は、満足そうに梨加を囲んだ。
柊は、役柄のシンガーソングライターの衣装を身につけて現れると、驚いた顔をして呟いた。
「リカちゃん、当たり役になるかもね」
梨加は震えた。
この演劇部に入るきっかけを梨加に与えた柊が、眩しく見つめていた。
梨加の演じるアイドルの〈柚子〉は、柊が演じる新人ミュージシャン〈ケンジ〉に恋をする。ときめきは、ステージの外でも少しずつ育っていった。
一方、連日続く稽古は、梨加の予想をはるかに超えていた。全国を目指す2年部員の本気度は、劇場3階席よりも高い。
「柚子。台詞飛んだよ」
「柚子! もっと言葉を理解して!」
「柚子!! 自分の出番以外、ぼーっとしない、役から抜けてる!」
(鬼か!)
先輩のミントを睨み返そうになるのを、梨加はぎりりと奥歯を噛み締めた。
「す、すみません……」
「ミント。ちょっと飛ばしすぎかも。リラックスしてやらないと、体に動き入らないよ。ね?」
苛烈な演出をするミントを諌め、柊は何かと初心者の梨加を庇った。ひきつっていた梨加の顔は、その度ふにゃりと弛む。
「こら、部長までたるむなぁ!」
「私が暗記していないせいで、す、すみません!」
「あとで、二人で台詞合わせしよっか」
胸の奥が、きゅっと鳴る。
二人きりになれるチャンスに梨加は舞い上がるのに対し、柊は穏やかさを崩さない。
柊の演じる主役〈ケンジ〉は、劇中、ヒロインのために脱獄する。
台本なしの稽古を初めて観た時、梨加は圧倒された。〈ケンジ〉の顔は、後輩を気遣う涼しい顔とは、全く別人だった。
(たった一歳違うだけなのに、どうしてこんなに違うんだろう)
それから梨加は一学期の成績を捨てる覚悟で、授業中も台本を読み直して、頭に叩き込んだ。はずだった。
「リカ、帰ろ?」
着替えずぼんやりしたままの梨加に、1年の川野さくら、愛称・サフランが心配して声をかける。
「1年皆でファミレスでご飯しよって、リカも行こ?」
「……先、帰ってて」
さくらは、意固地な梨加を困ったように見る。
「今日のもさ、明日にはきっと大丈夫だって。ね、行こ?」
1年で役を貰った女子部員は、梨加一人だ。
(裏方に、キャストの何が分かんのよ)
音響スタッフのさくらの余裕に、思わず言い放った。
「先帰ってって言ってるじゃん! ほっといて」
八つ当たりしたと気付いた時には遅かった。
「……何か、悪いこと言ったなら、ごめん」
さくらはドアを開け出て行った。
部室には梨加以外、誰もいなくなった。朝から練習を始めたはずが、窓には夕焼けが広がっている。
消えてしまいたい。
「あれ? リカ、ちゃん? まだいたんだ」
扉の開く音に、慌てて涙を拭うと、驚いた顔をして土田が入ってきた。
少し照れながらちゃん呼びする土田を見て、部長の柊と比べてしまう。柊はいつでも、紳士然と梨加に対応した。
(一歳違うだけで、どうしてこうも違うかな)
身長は、柊より土田のほうが高いことは目をつむる。
夕暮れの部室に二人きり、ぎこちなさげに土田はゴミ箱へと近づく。右手に握られた白い固まりに「それ、何?」と梨加は訊いた。
「これ? バミリテープだよ、剥がしていたんだ」
暗いステージでほのかに光っていた残骸が、くしゃくしゃに丸められている。
「ツッチー、先輩に雑用、押し付けられてんじゃん」
「そう、かな? でも、舞台を元に戻すのも、装置の仕事だから」
土田の声は、ささやかな誇りが滲み出ていた。
(裏方の何が楽しんだか)
劇中、ステージ以外は全ての光を遮断する。そのため、場面転換など暗転中は正真正銘真っ暗になる。装置等の移動では、バミリが目印となり、キャストがステージを移動するためにも使われる。
劇中盤、〈柚子〉はスポットライトを浴びながら〈ケンジ〉への想いを歌い上げる。夜空に星が輝き始めるように、真っ暗なステージに〈柚子〉がステップを踏んで現れる演出だ。
「……バミリ、多すぎじゃない?」
「装置だけじゃなく、キャストの位置もたくさん貼るからね」
悪意のない土田の言い方に、梨加はむっとする。失敗したシーンへと、梨加は引き戻される。
「ありすぎて、逆に移動しにくいんだけど」
「そ、そうなんだ……。でも、客席からバランス良く位置しないと締まらないって、ミント先輩も言ってるし」
「装置の印とも混ざるし、他キャストもあると分かりづらいんだよ?!」
バミリの光に迷い、梨加は昨日までのように動けなくなった。梨加の声は、通し稽古よりも大きく部室に響く。
「……ごめん。装置の俺が、キャストに口出して」
申し訳なさそうに土田は頭を下げた。「部室、俺が施錠しておくから。先に帰って大丈夫だよ」と、スポーツ刈りの頭を掻く。
「お疲れ様。衣装姿のリカちゃん、綺麗、だったよ」
照れくさそうに褒めると、土田は手を振った。
追い出されるように部室を出ると、梨加はまた一人きりになった。目の前で、夕焼けを背景にした体育館が、オレンジの逆光を受けて闇へ沈んでいく。
生まれて15年間、何とも思ってこなかった褒め言葉に、梨加の胸はあまりにも痛んだ。
(……綺麗なだけじゃ、キャスト失格なのに!)
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