碧き世界のサルバトーレ

横浜あおば

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Ep.1

第11話 亀は甲羅を剥がされて

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 晩餐会の開始時刻まであと少し。
 薄暗い聖堂の中、サラーキアは城の方角を見つめていた。

「この魔力反応、嫌な予感がする……」

 行かなくちゃと足を踏み出したと同時、聖堂の出口を塞ぐようにネプトゥヌスが立ちはだかった。おもむろに扉を閉めて、鍵までかける。

「どういうつもり?」

 眉を顰めて問い詰めると、彼の緑色の双眸がこちらを向く。

「また世界に干渉しようとしただろう、サラーキア?」
「そうだけど、だから何? 凪沙なぎさちゃんが危ないんだよ。早く助けに」
「それだよそれ。この世界で起こる事象に手を出すなと俺は言っているんだ」

 サラーキアの言葉を遮り、苛立ちを露にするネプトゥヌス。
 足音も立てずに、一歩、また一歩と歩み寄ってくる。

「知っているぞ。お前はひと月前にも海異かいいに手を出して、更には騎士軍にリークまでした。これはお前に与えられた役割じゃない。お前の役割は何だ? 俺の監視役だろう? 忘れた訳じゃないよな?」
「それはもちろん、忘れてないよ。だけど私は、凪沙ちゃんに何かあったら嫌だから。ちゃんと元の世界に帰してあげるまでは」
「黙れ」

 胸ぐらを掴まれる。

「俺たちは世界を管理する存在だ。たった一人の人間の為にいちいち世界に干渉するな。それで世界の運命が変わってしまったら、お前は責任を取れるのか?」
「それは……」
「もしもこの後、亀有かめあり凪沙がフロリダに殺される運命だったとしよう。だがお前が介入したらその運命は簡単に書き換わる。それがお前の望みかもしれんが、下手をすれば世界を壊すかもしれん危険な行動なんだぞ」

 分かってる。分かってるけど、それでも……。
 心配で、不安で、怖い。凪沙ちゃんが死んでしまったら。考えるだけで胸が痛む。
 彼女の存在を失うことが、ただひたすらに怖い。

「あなただって、世界に干渉してるでしょ。なのに何で私はダメなの?」

 今にも泣き出しそうな震えた声で、サラーキアが訊く。
 するとネプトゥヌスは胸ぐらを掴んでいた手を離して、それから呆れたような笑みを浮かべて答えた。

「まさか本当に忘れたのか? 俺は世界の管理者だが、お前は俺の監視役だ。俺が間違った方向に世界を誘導した時、それを止めるのが仕事だろう? お前自身が間違えては意味が無いじゃないか」

 無言のままの私に、彼は続ける。

「それに考えてもみろ。お前が出て行かずとも、あの城には最強の騎士だってチートレベルの女王だっている。たまには世界が辿る運命を信じてみてもいいんじゃないか?」

 滅多に見せない優しい表情で、私を安心させるようなことを言うものだから。それでなんだか、全身の力が抜けてしまった。

「ごめん、そうだね……」

 その場にへたり込んだサラーキアの頭を、ネプトゥヌスがよしよしと撫でる。

「全く、お前はストッパーが外れるとすぐ暴走するからな。世話の焼ける奴だ」
「いやいや、あなたに言われたくないし」
「ははは。言い返せるくらいには元気になったみたいだな」

 晩餐会の始まりを告げる鐘が鳴る。
 ステンドグラスに吹雪の打ち付ける音だけが響く聖堂の中で、サラーキアは凪沙の無事を静かに祈り続けた。


 雪が一段と猛威を振るい始めた夜七時。城の広間には王室や軍の関係者、貴族などの来賓が集まっていた。
 かすかに聞こえた聖堂の時鐘が鳴り終わるのを待って、オトが特設された壇上に上がる。マイクを口元に近づけ、参加者を見渡しつつ挨拶を始めた。

「皆様、本日はお足元の悪い中、ようこそ王室主催晩餐会へお越し下さいました。この聖なる農神祭のうしんさいの日の夜を、皆様と共に過ごせることをとても喜ばしく思います。今年もささやかではございますが、王室使用人特製の料理や菓子をご用意しております。遠慮なくお召し上がり下さい。それでは、晩餐会を開宴致します」

 さすがは一国の女王。とても十代半ばの少女とは思えぬ堂々とした開宴の辞に、賓客からパチパチと盛大な拍手が沸き起こる。それを見た凪沙も隣にいるアーシムと共に精一杯の拍手を送る。

 静かになるのを待って、オトは深々と一礼して壇を下りると。胸に手を当てホッと息を吐きながら凪沙とアーシムの元へやって来た。
 その姿は全校生徒の前でのスピーチを終えた女子高生と変わらぬ佇まいで。彼女もやはり同年代の女の子なのだなと改めて思う。

「お疲れ様です、オト女王」
「オトさん、かっこよかったです」

 アーシムと凪沙に声を掛けられて、オトは緊張の糸が解けたのかうっすらと笑みを浮かべた。

「人前で話すのはまだ少し苦手。というよりも、一生慣れない気がするわ」

 そう応じつつデルフィーノからグラスを受け取ると、中身の水を一気に流し込んだ。

 今のオトの気持ちはとてもよく分かる。高飛び込みの選手である凪沙もメディアの取材や大会後の会見など大勢の人の前で話す機会があるのだが、こればかりはどうしても緊張してしまう。一生慣れない気がするという彼女の言葉には同感だ。

「さて、それじゃあ私も何か食べようかしら。あなたたちも好きなもの適当に取ってきなさいな」

 女王がご馳走の並べられたテーブルへふらっと行ってしまったので、凪沙もアーシムと一緒に料理を選びに向かう。

「どれも美味しそうですね」
「そうだね。デルフィーノさんの料理の腕前は一流だから」

 カルパッチョやアクアパッツァから、ローストビーフに生ハムサラダまで。魚や貝だけでなく、この世界では貴重な肉や野菜を使った料理がずらりと並んだテーブル。まるで高級ホテルのビュッフェのような豪華さに、自然と気分も上がってくる。
 どれを食べようかなとゆっくり吟味していると、何か見つけたらしいアーシムが嬉しそうに声を弾ませた。

「あっ、ケーキだ!」

 広間のど真ん中に設置されたテーブルの上。この立食会場の一番目立つ場所に、生クリームとイチゴで綺麗にデコレーションされた三段重ねのホールケーキが聳え立っていた。他の参加者からも注目を集めているそれを遠目に見つめるアーシムに、凪沙は話しかける。

「アーシムさん、甘い物好きなんですか?」
「うん、大好き。お菓子の原料は希少品だから滅多に食べられる機会は無いけど。だからこそ年に一度の、農神祭の日のケーキは楽しみにしてるんだ」

 待ちに待った一年ぶりのケーキを前に、普段よりもテンション高めのアーシム。

「あのケーキの材料、私がブランツィノさんのお店までおつかいに行ってきたんですよ?」

 私は彼の顔を覗き込んで、自分のことを指差しながら言う。
 そんなちょっぴり自慢げな様子の凪沙を見て、アーシムはにこりと優しく微笑んだ。

「へぇ、そうだったんだ。じゃあナギサにも感謝しないとだね。ありがとう」
「いえ、どういたしまして」

 言い合って、お互いに照れ笑いを浮かべる。

「さて。ケーキは最後に食べるとして、まずはご飯を選ばないと」
「はい。オトさんをいつまでも待たせてたら悪いですからね」

 それから二人であれこれ話しつつ、食べたい料理をプレートに乗せていく。
 こんな風に彼と他愛もないやり取りをしている時間が、このパーティーの雰囲気とも相俟って何だかとても幸せに思えた。


 凪沙とアーシムが食事を楽しんでいる間も、オトは引っ切り無しに色々な人から声を掛けられていた。彼女の皿に綺麗に盛り付けられた折角の美味しい料理が冷めてしまいそうで、見ているこちらは勿体無いなと思ってしまう。
 けれど、このパーティーに参加しているのは貴族や富豪のような偉い人ばかりなので、女王としては無下にすることも出来ないのだろう。彼女は話しかけてくる一人ひとりに、丁寧に応対している。

「お久しぶりでございます、女王陛下様。農神祭の宴に今年もご招待下さりましたこと感謝申し上げます」
「アングイッラ卿、お久しぶりです。あなたはこの国に多大な貢献をして頂いているのですから、宴に招待しないなんてあり得ませんよ」
「貢献だなんてそんな。もったいないお言葉でございます」

 今は立派な髭を蓄えた白髪混じりの老紳士と会話をしている。着ているスーツや左手に持った杖はいかにも高価そうで、この人もきっと何かすごい人なんだろうなとぼんやり眺めていると。

「この方はアングイッラ卿。培養肉の国内最大手会社の創業者で、海の底に沈んじゃったトレスターニョ地方の領主の血を引く方だよ」

 そうアーシムが耳打ちしてくれた。

「謙遜なさらないで下さい。海面上昇による陸地の減少に加え海異による航路の寸断が起きたことで、国民の食料事情は年々厳しさを増しています。その中でアングイッラ卿の開発した培養肉は、食料不足、栄養問題の解決だけでなく、私たちが忘れかけていた食事の楽しさも提供してくれました。これを貢献と言わずして何と言うのですか」
「女王陛下様にそこまで仰って頂けるとは、身に余る光栄に存じます」

 功績を褒めちぎる女王に対し、深々と頭を下げて最大限の謝意を表するアングイッラ卿。
 祖父と孫ほどの年齢差のある二人の、本来とは正反対とも言えるその主従関係。
 しかしオトは自らの立場に全く驕ることなく、相手にリスペクトを持って接しているように見えた。

「ところで、アングイッラ卿はもう何か食べられました?」
「はい、ローストビーフを少々。女王陛下様の宴以外に本物の肉を食べられる機会などありませんからな。これで更に培養肉の品質を向上させられます」
「宴の場でもそんなことを考えているなんて、アングイッラ卿は研究熱心ですね」

 女王と老紳士の会話がまだ続いている中、また一人こちらに向かって歩いてくる人が目に入った。今度は派手な真紅のドレスに身を包んだ女性だ。年齢は凪沙と同じか少し年上くらいだろうか?
 この人もオトに挨拶に来たのかと思ったが、彼女が声を掛けたのは意外な人物だった。

「ごきげんよう、アーシムさん。貴方の軍服姿はいつ見ても本当に素敵ですわ」
「ああ、ええっと……。ごきげんようメルルツォ嬢。お褒めいただき光栄です……」

 どうやらこのメルルツォという女性はアーシムが目当てだったらしい。金色の長い髪をなびかせて、ドレスの裾を軽く持ち上げ優雅に一礼する。
 だが、当の話しかけられたアーシムはどこか困惑しているように見えた。一応笑顔で取り繕ってはいるが、引きつっている感は否めない。

 けれどそんな彼の戸惑いに気付くこと無く、メルルツォは更にぐいぐいと距離を詰める。

「貴方の真面目なところはもちろん魅力の一つではありますが、このような時ばかりは少々残念に思えますわ。女王様の警護は確かに大事です。でもだからと言って折角の宴を楽しまないのは勿体無いですわよ。どうせ今年も一人なのでしょう? 今宵はこのメルルツォが、お相手して差し上げますわ」
「いやあの。僕は」
「遠慮など要りません。私はずっと、貴方のことをお慕いしているのです。願わくば人生を共にしたいほどに。さあ手を取って下さいまし。朝まで踊り明かしましょう」

 アーシムの言葉に耳を傾けもせず、強引にどこかへと連れ出そうとするメルルツォ。
 その上彼女はすぐそばに立つ凪沙の存在すら見えていないようで、無意識に肘で押し退けてアーシムとの間に割り込んでくる始末。
 自己中心的でわがままな貴族の令嬢。確かにこれは、私も苦手かもしれない……。

 彼の優しさ故か、はたまた海伐かいばつ騎士軍大佐としての義務感故か。未だ断りきれずに視線をさまよわせているアーシム。
 その間にも、メルルツォは一人で盛り上がって勝手に話を進めていく。

「ねえ知ってまして? 農神祭の日に一夜を共にし愛を育んだ男女には、例外なく天から贈り物が授けられるそうですの。世界中の何よりも美しい、究極の愛の結晶。私も貴方と、その愛の結晶を受け取りたいですわ」

 メルルツォは彼の腕に勢いよく抱きつくと、幸せそうな満面の笑みを浮かべた。

「さあアーシムさん、今宵は楽しみましょう。うふふふふ」

 このままではいよいよ連れ去られてしまう。
 そう思った時、アーシムがほんの一瞬だけ凪沙の方を見た。何かを訴えかけるような、そんな目をしていた。

 私が助けてあげなきゃ。
 ここで見逃してしまったら、私はきっと永遠に後悔する。

「あの、ちょっと待って下さい……!」

 凪沙は何の戦略も無いまま、咄嗟に口を開いていた。
 するとメルルツォは邪魔されたことがよほど不満だったのか、振り向くや否や苛立ちを露に言った。

「何ですの貴方。このメルルツォに命令するなんて、どんな教育を受けてきたのでして?」
「すみませんっ。ですが、アーシムさんが嫌がっているみたいだったので。何かしたいなら、ちゃんと同意を得てからの方がいいんじゃないかなと」

 見下すような態度で威圧してくる金髪の令嬢に歯向かうのは、正直とても怖かった。
 だけど、アーシムさんを見捨てて引くなんてあり得ない。

 そう、私は亀有凪沙。ジュニアの頃から天才と呼ばれた、日本を代表する高飛び込みの選手だ。
 この程度の緊張感、飛び込み台の上に立った時と比べたら全然大したことないじゃない。

 心の中で自分に言い聞かせ、怯む気持ちを抑え込む。

「それにメルルツォさん言ったじゃないですか。女王様の警護は大事だって。だったらアーシムさんにこの場を離れさせるのはよくないことも当然分かってますよね?」

 一流のアスリートになるべく鍛え上げたメンタルが、ここに来て思わぬ効果を発揮した。
 スイッチが入った、ギアが上がった凪沙には恐れるものなど何も無い。
 程よい緊張と興奮。言うなればゾーン。

 予想に反して強気に打って出た凪沙に、メルルツォは激昂し顔を真っ赤にした。

「はぁ!? 私に説教をするなんて万死に値する行為ですわよ! 自らの身分を弁えなさい! 誰か今すぐこの非常識な女を追い出して下さいまし!」

 会場中に彼女の怒号が響き渡る。
 その瞬間、周囲の視線が一斉にこちらに集まった。

 オトも隣で起こった異変にすぐに気付いて、アングイッラ卿を安全な場所まで遠ざけさせる。

「こんな場所で騒ぎを起こしたら、あなたの立場が悪くなるんじゃないですか? 実際、女王様や他の貴族の皆さんに迷惑をかけている訳ですし」
「それは貴方も同じでしてよ? というかそもそも貴方誰なんですの? 見かけない顔ですが、招待された功労市民か何かかしら? 貴方みたいな勘違い女は、安酒場の悪酒がお似合いですわ。いいから早くこの女をつまみ出しなさい!」
「確かに私は、この場には相応しくない人間かもしれません。でもだからこそ思うんです。メルルツォさんの振る舞いは自分勝手で傲慢で。直した方がいいんじゃないかなって」
「なっ、よくも言ってくれましたわね……! 顔を見せなさいこの無礼女、この国に居られなくしてやりますわ!」

 刹那、メルルツォがこちらに右手を伸ばしてきた。
 殴られると思った凪沙は反射的に目を閉じたが、一向に痛みは襲ってこない。

 あれ、おかしいな?
 目を開けると、周囲の人々の表情が心配や不安ではなく、畏怖と憎悪に変わっていた。
 先ほどまでと場の雰囲気が明らかに違う。

「っ、ナギサ……!」
「ナギサ、下がって」

 アーシムとオトが凪沙を庇うように前に立つ。

「あの。私、何かまずいこと言っちゃいましたか?」

 未だ状況が掴めない私に、メルルツォが後ずさりしながら言った。

「その銀色の髪と碧い瞳……。か、海族かいぞく……!」

 その言葉でようやく理解した。
 彼女は凪沙の顔を殴ろうとしたのではなく、被っていたフードを脱がしたのだと。
 つまり私は今、衆人環視の中でオセアーノの特徴である銀髪碧眼を晒してしまっている。

「何でここに海族がいるんだ」
「忌まわしきオセアーノめ、王城を汚しに来たか」
「目を見るな、海異の力で呪われるぞ」

 会場のあちらこちらから一斉に声が上がる。
 浴びせられる暴言や罵詈雑言の中には、迷信のようなものまで交じっていて。

 オセアーノに対する偏見や差別感情は、ここまで酷いのか。

 高飛び込みのアウェーの大会ではブーイングに遭うこともあったけれど、これはそんな生易しいものではない。凪沙の強靭なメンタルを持ってしても心が痛むほどの辛苦。

 もうやめてよ……。

 その場にへたり込みそうになる私に、尚も誹謗は止まらず。数は膨れ上がり、内容の激しさも増していく。

「野蛮な海族など、さっさと殺してしまえ!」
「きっと海異の力でも使って、そこにいる軍人さんを誑かしたのよ。ああ嫌らしい」
「お前みたいな汚い海洋民族は廃棄フロートでゴミでも漁りながら漂流してろ!」

 いよいよ凪沙は、耳を塞いで床に膝をついた。
 加速していく人々の悪意に、これ以上はもう耐えられなかった。

 その様子を見て、アーシムが凪沙を擁護すべく発言する。

「彼女は何も悪いことをしていません。それなのにどうして皆さんはそこまで彼女を責めるんですか?」

 すると真っ先に答えたのはメルルツォだ。

「オセアーノだから。理由などこれだけで十分でしょう?」

 それが当然の常識であるかのように、金髪の令嬢は平然と言ってのけた。
 そしてその言葉に、周囲の大多数の人間も頷いている。

 そう、これはメルルツォの個人的見解などではなく。この国ではそれが本当に当然の常識なのだ。

「そんな……。そんなのは理由でも何でも無い、ただの人種差別だよ……」

 アーシムは怒りとも嘆きとも取れる独り言を口にして、拳を強く握りしめる。

「さあアーシムさん、早くその女を処分して下さいまし。宴の邪魔をしたんですもの。とどめを刺す前に、たっぷりと痛めつけて差し上げなさい」

 メルルツォの意見に同調するように、この場にいる何百人もの視線がアーシムへと向けられる。
 海伐騎士軍の大佐は、この敵をどう討つのかと。

 プレッシャーを受けてアーシムは、悲痛な表情で凪沙を見つめる。
 そんなアーシムに凪沙は、彼にだけ聞こえるくらいの(もしかしたらオトにも聞こえていたかも)微かな声量で囁いた。

「私を、殺して下さい」

 何度も助けてもらったのに、こんなことになってしまってごめんなさい。
 だけどアーシムさんに殺されるのなら、それは決して不幸な結末なんかじゃない。
 東京五輪の夢の舞台での非業の死と比べたら、数百倍も数千倍もマシな死に方だ。

 アーシムさんは辛いかもしれないけれど、そうするのがあなたにとって最善の選択。だから。

 私を、殺して。

 彼は歯噛みし、握りしめた拳に更に力を込める。相当に葛藤しているようだった。
 どうするのが正解なのか、丸く収まる方法は無いのか。軍人として、人間として、足掻いているようだった。
 やがてアーシムは意思を固め、ゆっくりと口を開いた。

「……無理だよ。僕にはこんなこと出来ない。こんな、正しさなんてどこにも無い殺人は、僕はしない!」

 最後は前を向いて、はっきりと言い切ったアーシムの顔には強い決意が滲んでいて。
 メルルツォと周囲の貴族たちは面食らった様子で反駁した。

「なっ、何を言っているんですのアーシムさん。オセアーノを殺すのはこの国を守るため。正義ですのよ? まさかアーシムさん、その女に洗脳でもされているのでして?」
「洗脳……。そうだよ、メルルツォ嬢の言う通りさ。きっと大佐殿はこの海族に操られているんだ。だからこうやっておかしなことを言い出した」
「目を覚まして下さい軍人さん。そいつは汚らわしい海族なのよ!」

 またしても始まる言葉の暴力の嵐。
 あくまでも矛先は、凪沙にだけ向けられている。

「違うよ! 目を覚ますべきなのはみんなの方だ!」
「私達は至って正常ですわ。問題なのは貴方です。一刻も早く医者に脳を診てもらいなさい」
「オセアーノは誇り高き民族だ。君たちの言うような悪人なんかじゃない!」

 凪沙のことを守るため、必死の抵抗を続けるアーシム。
 だが、議論とも呼べぬ言い争いはいつまでも平行線を辿り続け。

「ああもう埒が明きませんの。ひとまずその女は私達で殺しませんこと?」

 最終的にメルルツォは、海伐軍大佐の主張を差し置いて強硬手段に出ることを提案した。

「仕方ないか、この場にいる海伐軍はこいつだけだもんな」
「この国と下民への貢献と思えば、直接手を下すのも悪くない」
「誰かその軍人さんから剣を奪い取ってくれない? あとは包丁とか使えそうな物を片っ端から集めて来てよ」

 彼女に賛同する人たちが一斉に行動を開始する。

 そんな中ありがたいことに、アングイッラ卿などごく一部の人は彼女らの暴走を食い止めるべく動いてくれた。ここまで静かに見守っていただけで、会場内に味方が存在していたというのはせめてもの救いだった。
 けれど高々数人程度ではこの流れを止めるに至らない。

「結局僕は、また大切な人を守れないのか……」

 俯いたアーシムが、そう呟いたのが聞こえた。

 結局。また。
 彼が過去に負った、二つの心の傷。
 オセアーノの差別を異常に嫌う原因なのであろう十年前ものと、それより以前のもう一つのもの。それが無力感となってアーシムを襲い、苦しめている。

 するとそこへいきなり燕尾服を着た若い男性がやって来て、憎々しげに言葉を吐き捨てた。

「所詮お前は、一代爵位のメッキの騎士ってことだな」

 一代爵位? メッキの騎士?
 何やら気になるワードだが、今はそれどころではない。

 男性がアーシムの剣帯から剣を奪おうと手を伸ばす。
 だが心が折れかけてしまっている彼は、それに反応すらしない。

 この剣が貴族たちの手に渡れば、私が殺されるのは時間の問題だ。
 アーシムが戦意と武器を失い、味方がオトとデルフィーノ、アングイッラ卿やごく少数の貴族だけとなってしまったら、戦力的に勝ち目は無くなったに等しい状況となる。
 だからここが、極めて重要な分水嶺。

 私は決めたじゃないか。
 アーシムさんの心を救ってみせると。

 何か、何か言わなければ。
 でも何を言えばいい?
 何を言ったら彼の心の傷は癒される?

 考えれば考えるほど分からない。
 早くしなければ、手遅れになってしまうのに。

 アーシムが凪沙を殺すと決めたなら、それはそれで良かった。
 だけど彼がそうしないと決めた以上、私はここで死んではならない。

 それでは今度は、凪沙が彼の心に傷として刻まれてしまうから。

「私がこの世界に来た意味って、何だったんだろう……」
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