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犬は誰がなんと言っても癒し系の動物ナンバーワンである。 ~その名はポチより
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1
ポチは自分の名前が気にいらない。
なぜ、飼い主の水戸源吾さんが、こんなありふれた名前をつけたのか、頭の中身を疑いたくなる。
人というものは、「ポチ」という名を耳にしただけで、「なんだ、おまえ犬を飼っているのか? どんな犬なんだ」と、いっては犬の迷惑も顧みることなく、わざわざ、ポチを覗きに見に来るのである。
ポチはどんな人間が覗きに見にきても、気にはしないようにしているが、たまに、生後五ヶ月目のポチを抱き上げ、股間をみては、何に関心するのか、急に笑い出したり、嫌がるポチを無視して、ほおずりをする奴がいるから、頭にきているのである。
そんな失敬なことをする人間が、子供たちや若い女の子たちだけだったら「ガキや女のすることだ、たいしたことねえや」と、我慢できるが、ほおずりする奴らが、髭づらの男たちだったりするとどうにもやりきれなくなってしまう。油と垢に汚れた髭が、ポチの柔らかい頬を刺し、昨夜、飲んだらしい安物の日本酒の臭いが、ポチの敏感な鼻をおかしくするのである。
犬にとって生後五ヶ月目といえば、人との交わりにようやくなれてくる時期である。その大事な時期に野蛮な男どもに、ほおずりされ、腐った魚のような臭いを嗅がされたんじゃあたまったもんじゃあない。
ポチという名が悪いのか、それとも生後五ヶ月目に入ってますます魅力的になってゆく自分に落ち度があるのか、これじゃあ、ぐれて不良になってもおかしくねえやと、ポチは嘆くのであった。
まっ、嘆いてみたってしょうがない。
カラスのカーこうが「カー カー」鳴くから、ひと眠りしようと犬小屋の前で一声吠えて、眠りに落ちるポチだった。
2
ちゅん、ちゅん、ちゅんと、スズメさんたちが、気持ちよさそうにさえずると、新しい朝がやってくる。
ポチは、この瞬間が大好きで、スマイルをたたえたお日様が、「おはようー」と、お空に顔を覗かせると、嬉しくなって一声吠える。お日様は決して「ハーイ、お元気!」と言ってはくれないが、ポチが気持ちよく吠えると次の日も、また、スマイルをたたえた顔を覗かしてくれるのである。
そんなもんだから、ポチは毎日吠えることにしている。調子にのって吠えていると、三日に一回の割合で愛ちゃんまでが、ポチと一緒に吠える。
「うるさいわね~ ばか犬。朝ぱらっから何よ!」
愛ちゃんは猛々しく吠えると、思い切り、二階の子供部屋の窓を閉めるのである。
で、三日に一回、愛ちゃんが、ポチと一緒に吠えると、五日に一回の割合で、隣の正子さんがわざわざ水戸家までやってきて「ガオー」と吠える。よっぽど、ポチの吠え声が魅力的なんだろう。
「ちょっと、その犬、黙らせてよ。うちのウルフが真似して困るのよ」
隣の正子さんは、「ガオー、ガオー、ガオー」と、吠えると、水戸家の玄関のドアを乱暴にしめて、すたこらさっさと自分の家に戻って行くのであった。
ちなみにウルフというのは、正子さんちの愛犬で、生意気にも血統書つきのチンである。ポチの目から見ると、ウルフはどう見ても、へちゃめくれのすっとこどっといのアホ犬にしか見えないのだが、ウルフは由緒ある血統書つきの犬なのであった。
朝の恒例行事のポチの吠える声が響くと、さくらさんが柔軟体操を始める。一番最初に起きて来たさくらさんがやっている柔軟体操というのは、エアロビスクという美容にとってもいいもので、本人はかっこよくポーズをつけてやっているつもりなのだが、くねくねとナメクジのように身体を動かす、その姿は、どう見ても、年老いたお猿さんが痛み出した間接を、癒そう癒そうと、涙ぐましく努力して身体をうごかしているような姿にしか見えない。
一度、本物のお猿さんを、水戸家に連れてきて、さくらさんと一緒に、エアロビスクをやらせたら、たいそうおもしろいだろうと、ポチは思うのだった。
さくらさんの次に起きてくるのは、愛ちゃんである。
炊飯器が湯気をたてる頃、二階の子供部屋から寝ぼけ眼で起きてくる。たまに、寝坊して、さくらさんに「愛! いつまで寝ているのー 遅刻したらしょうがないからね」と、どやされるが、そんなときは、きっとおいしいものでも食べている夢を見ているのだろう。
愛ちゃんの次に起きてくるのが、大くんである。
大くんは、朝から元気がいい。
パジャマのまま、家の中をドタバタと走り回る。トイレに行って用をたし、洗面所に行って、顔を洗って、歯ブラシを口の中に突っ込んだまま、ポチのところに来る。
ポチのところに来て、歯ブラシを口の中にいれたまま挨拶をするもんだから、なにを言っているのかさっぱり分からない。それでも、ポチが愛想よく尾を振るもんだから、大くんはニコリと笑って茶の間のほうに戻ってゆく。
源さんは、大くんの次に起きてくるのだが、今日はぐ~うぐ~う寝ている。
昨日、遅番で帰りが遅くなり、仕事が終わった後、飲みにいったので、おそらく起きて来るのは昼頃になるだろう。
言っておくけど、水戸家の大黒柱、源さんは、パチンコ屋『パーラ フレンド』に勤めている。ポチはパチンコ屋という所が、どういう所かよく分からないが、ものぐさの源さんが一生懸命に勤めているところだから、きっと、おもしろい所なのだろう。
「愛~ 愛~ 愛~」
さくらさんが、愛ちゃんを呼んでいる。今日は寝坊をしているようだ。
時刻は七時半である。このまま寝ていると完全に学校に遅刻する。
「愛。いい加減に起きなさい!」
さくらさんが、台所で大きな声をたてたが、愛ちゃんは起きてこない。うまいもんでも、たらふく食べている夢でもみているのだろうか。起きて来る様子もない。
「なにしてるのよー。起きているんでしょう。ぼやぼやしてると、朝ごはん、抜きますからねー」
さくらさんは二階に通じる廊下に出て、大きな声で叫んだ。
返事がない。
いつもなら、このくらいの大きな声で叫ぶと、日本アルプスに響くやまびこのような声が返ってくるのだが、今日に限って、日本アルプスのやまびこはストライキをしている。
「本当に抜くからねー」
さくらさんはもう一度、声をかけた。が、返事がない。日本アルプスのやまびこは、ストライキを続行中である。
「変ねえ? 」
さくらさんは、首を傾げた。
確かに、変である。食いしん坊の愛ちゃんはゼッタイ、朝ごはんを抜かしたりはしないのだ。
愛ちゃんに一体なにがあったのだろう。
ポチは鼻をヒクヒク、動かした。
鼻をヒクヒク動かして、考えてみると、思い当たることがある。
愛ちゃん、たまに懐から写真を取り出しては、「はぁ~」と溜息をついている。
なぜ、溜息なんぞついているのだろう。
ポチは考えた。
考えたけれど分からない。けれど、問題の写真は、家族を写した写真でないことは確かである。家族そろっての写真は(もちろん、ポチも一緒である)茶の間に「デーン」と飾ってあるし、愛ちゃんが、それを見て溜息なんぞついたところなんかみたことがない。
では、愛ちゃんが溜息をつきながら見ている写真には、一体なにが写されているのだろう。
見えないところで予想が出来ない問題が勃発したんじゃあないかと、思うポチだった。
3、
愛ちゃんは、ギリギリのタイミングで起きた。
朝食抜きで、そのままカバンを持っての登校である。
ポチは、朝飯を抜かして昼までもつのかなーと、心配したが、一緒に学校まで行けないので、とりあえず昼寝をする事にした。
愛ちゃんが、通う釜石第二中学校は、愛ちゃんの家から歩いて十五分ぐらいの距離にある。歩いて十五分だから、遠いといえば、遠いが、近いといえば近い。ちょっと微妙な距離である。愛ちゃんは、この道をさっちゃん’いう友人と歩いて学校まで通う。
今日も、愛ちゃんが歩いていると……。
「愛ちゃんー 」
と、さっちゃんが声をかけてきた。
「どうして、家によってくれなかったのさ」
普段なら七時五十分頃、にこにこ顔の愛ちゃんが、さっちゃんちに寄ってくれるのだが、今日に限って、愛ちゃんはさっちゃんちに寄ってくれなかったのである。
「八時まで、まったんだからね」
さっちゃんは、不平を言った。
「ゴメン……。家でちょっとあってね」
「なにが、あったの?」
「ちょっとね」
「ちょっとって、なによ」
「ちょっとは、ちょっとよ……」
「だから、ちょっとってなによ。親友の私にも言えないことなの? 」
「そんなことないわよ。でもね……」
愛ちゃんは言葉を濁す。
「でもねって……。は~はっあ~」
さっちゃんは、意味ありげな目で愛ちゃんを見た。
「もしかして、恋の悩み?」
「そ、そんなんじゃあないわよ」
「恋の悩みでしょう」
「そんなのじゃあないわよと言っているでしょう」
「いいえ、恋の悩みだわ。ひっひっひっ……」
「ひっひっひって、なによ。気持ち悪い」
「ひっひっひっ。だ・か・ら。恋の悩みでしょう」
「もう! そんなんじゃあないと言っているでしょう!」
愛ちゃん、思わず大きな声を出してしまった。
「……そんなに大きな声、出さなくてもいいじゃあない。大きな声を出されると、私…… 」
さっちゃん、声を詰まらせた。
「私……。私……。笑うちゃうからね」
さっちゃんは、口角を上げた。
「笑うって……それって」
(やばい~ 大笑いをする気だ)
さっちゃんには、大笑いをするぞ怖いぞ超音波女という異名がある。
愛ちゃんは辺りを見渡した。
こんなところで、さっちゃんに大笑いされては困るのだ。前に一度、クラスの朝の会の最中に大笑いされて酷い目にあったことがある。
さっちゃんが、朝の会の最中にクラスメート全員の前で思い切り笑うもんだから、クラスメートたちは何事が起こったんだと騒ぎ出し、あまりにもおもしろおかしく笑うので、つられて一緒になって笑ってしまったのである。
担任の先生は、騒ぎ出した生徒を静めようとしたが、なかなか収まらない。
右往左往して、発生源のさっちゃんを叱ると、さっちゃんは、とてつもない大きな声で笑い、その笑い声の大きさに、クラスメートと担任の先生は、腰を抜かしてしまったのだった。
こんな公衆の道路で、同じ過ちを、繰りかえしてはならない。
愛ちゃんは、さっちゃんを宥めることにした。
「いい子、いい子、大笑いしないでね。アッププ、プー」
愛ちゃん、お馬鹿さんである。赤子をあやしているわけではない。中学二年の女の子をなだめているのである。そんな、なだめ方をすれば、さっちゃんの気を損ねるだけである。
「なに~よ~う、その言い方、馬鹿にしてー いいよ、私、大笑いしちゃうからね~ 」
さっちゃんは大笑いする構えを見せた。
どうする、愛ちゃん。絶体絶命のピンチだぞ。
「さち、いいもん、見せてあげる」
愛ちゃんは、気転を利かせてカバンの中から、一枚の写真を取り出した。写真には一人の男の子が映っている。
「わっー 武さん。愛、これ、どこで手にいれたの?」
女心と秋の空とは、よく言ったものである。写真を手にした途端、さっちゃん、腰を動かし、ウキウキ気分でニコニコしている。
「かっこいいわよね。しびれちゃう~ 」
さっちゃんが、「キャアキャア」言っている写真の中の男の子は、一文字 武といって校内一の色男である。
色男であるから、当然、ファンクラブというようなものがあって、この写真はそのファンクラブから手に入れたものだった。
「これっ、もらってもいいの?」
さっちゃんが言った。
「えっ?」
「もらってもいいのね」
さっちゃん、愛ちゃんの手から強引に写真を奪った。
「えー! え、え、ええ」
愛ちゃん、愛しい人の写真を渡したくない。奪われた写真を、さっちゃんから取り戻そうとしたが、さっちゃんは、腕を上下に振って、写真を返さない。
「もらってもいいんでしょう。もらってもいいでしょう。もらうからね」
と、言って、愛ちゃんから逃げ回った。
「いいでしょう。いいよね」
さちちゃんは、死んでも一文字武の写真を返すつもちはないらしい。ジタバタと暴れて、ポチのように愛ちゃんの周りを、ぐるぐると回った。
「いいわ、あげるわよ」
愛ちゃんは、写真をあきらめることにした。まさか、暴力をふるってまで、さちちゃんから、写真を奪い返すわけにはいかないのである。
「えっ、本当! ラッキー」
さっちゃん、素早くカバンの中に一文字武の映った写真を入れた。
「大変! 遅刻しちゃうわー」
愛ちゃん、腕時計を見て言った。
「えっ? もうそんな時間」
さっちゃんも、腕時計を見る。時計は八時十五分を指していた。始業ベルは八時二十分である。五分しか時間がない。
「さち、走るわよー」
「えっ、走るの?」
愛ちゃんは脚が早いが、さっちゃんは、どん亀である。体力だってそんなにない。だから、走りたくないし、走ったってどうせ遅刻するに決っていると思っている。
さっちゃんは立ち止まった。
「走るわよー」
愛ちゃんは、走り出した。学年で一番の脚力にかけても、遅刻するわけにはいかないのだ。
「待ってよ~ 愛ちゃん。置いてゆかないでー 」
愛ちゃんにつられて、さっちゃんも、仕方なく走った。
4、
さて、申し遅れたがこの物語の舞台は昭和五十九年頃一地方の話である。
昭和五十九年といえば、グリコ・森永事件があったり、大きな地震が長野県であった年である。ちなみにこの年には、新札が発行されて、一万円札の絵柄が聖徳太子から福澤諭吉になった年でもある。さらば、聖徳太子、こんにちわ、福澤諭吉である。
ちなみにポチには聖徳太子と福沢諭吉の違いが分からない。違いが分からないというより、なんで、この人たちがお札の図柄になったんだろうと疑問に思っている。
人ではなく、僕たち犬の仲間、がそこに描かれてもいいではないか。
ポチが憧れるシェパード犬やシベリアンハスキー犬が、そこに鎮座してもなんの問題はない。その方が断然いいと本気で思っているのだ。
断っておくけれども、ポチは雑種である。
北海道犬の血が少し混じったそこらへんにいる犬なのである。雑種の中型犬なので、どうあがいてもシベリアンハスキーやシェパードのような大きくてカッコいい大型犬にはなれないし、シー・ズーやマルチーズのような可愛らしい犬にもなれない。
ポチはシー・ズーやマルチーズのような可愛らしい犬になんぞ、なりたくはないが、シェパードやシベリアンハスキーのようなカッコいい犬にはなりたいと思っている。
シェパード犬やハスキー犬はいかしている。
勇猛果敢なシェパード犬は、警察犬や災害救助犬として大活躍しているし、シベリアンハスキーは見た目、精悍で力強いし、頼りがいがある。
ポチは、どうやったら、ああいう犬になれるのだろうと、時々考える。どうあがいても、なれないことは知っているが、頭をひねってひねってひねりまわして考える。
大型犬用のドック・フードをたくさん食べる?
毎日、50Kmぐらい走り回る?
愛ちゃんと、大くんに前足と後ろ足を、思い切り、引っ張ってもらう?
う~ん。う~ん。うう~ん。と、考えるが良い案が浮かばない。
グッドアイディアが閃かないので、ポチは、せめて格好だけでも真似てみようと、お目目をキッとさせ、その場で座り込んでみた。
「なんだよ。急に座り込んで……。おかしな物でも食べたか」
大くんが言った。
「こんな所で座りこむなよなぁ~」
散歩の途中である。
「ポチ! 立てよ」
大くんはリードを引っ張った。
夕方の散歩は、大くんの仕事である。午後の五時ごろになるとポチを連れて散歩に繰り出す。
「あっ、あれえ? あの人、どこかで……」
大くんの目の前を、一人の男が通りすぎていった。
どっかで見た男である。誰だっけ?
大くんは考え込んだ。
ポチは、その男からガソリンの臭いを嗅ぎとっていた。
犬であるポチは嗅覚が鋭いので、いろんな臭いを嗅ぎ取るが、ガソリンの臭いを漂わせて歩く男など、滅多に出会わない。
ポチはポチなりに、ちょっと危ない男だと首を捻った。
大くんは、男が何者か思い出したようだった。首を斜め三十度に傾けて考え込んでいたが、元に戻して目ん玉を上に上げた。
(確か……。姉ちゃんの担任の先生で、名前は……)
その時……。
「大くんー 」
大くんを呼ぶ声がした。振り返ると、そこにラッキーという名の犬を連れた女の子がいた。
さっちゃんと、さっちゃんちの愛犬、ビアデッド・コリーのラッキーの登場である。
《ラッキーさん。お元気してますか》
ポチが言うと、
《お元気だわよ。ポチは?》
と、ラッキーが応えた。
ラッキーはメス犬で、ポチより二年も前に生まれているお姉さんの犬である。
ポチの大先輩で、飼い主である、さっちゃんちのご隠居さんのおかげで、とにかく物事を良く知っている。
そんなもんだから、ポチは何か分からないことがあると、よくラッキーに聞く。
いや、ラッキーに聞くというより、ラッキーの愛嬌のある顔に尋ねる。
白と薄茶色のダブルコートで覆われたラッキーの顔は、眉はアーチ状で、目は大きく離れているから、お世辞にも凛々しい顔だとは言いがたいが、とてもチャーミングなのだ。
ポチとラッキーが、じゃれていると、
「大くん……お願いがあるの」
さっちゃん、胸のポケットから一枚の封筒を取り出した。
「これ、愛ちゃんに返して欲しいの」
取り出した封筒を大くんに渡す。
「なに。これっ? 」
「写真よ」
「写真?」
「この中に写真が入っているの。今朝ねえ~ 愛ちゃんから、獲っちゃった」
「獲っちゃったって?」
「そう、なりゆきでそうなっちゃたんだけど……。この写真、愛ちゃんにとって、きっと大事なものだから返すことにしたの」
「へぇ~ 」
大くんは、渡された封筒を翳して見た。
「何が映っているの、中の写真」
と、大くんが言う。
「決っているでしょう。好きな人の写真よ」
さっちゃんがニコリと笑った。
「えーーっー 好きな人の写真」
大くん、驚いた。驚いて、尻もちをついて、ついた尻もちを食べたくなった。
愛ちゃんに好きな人ができたとは、初耳である。
「えっ? 大くん。武さんのこと知らないの」
さっちゃんは、慌てて口をふさいだ。
余計なことを、言ってしまっただと思っているのだろう。さっちゃんは、大くんから目を逸らし、「アレレ」と言っていた。
「姉ちゃんの好きな人……。武っていうんだ。武さんねえ……」
大くんは、武という音の響きから、武という男がどういう男か想像しているようである。
武。武。武……。
勇ましい名である。名から想像すると、本当に格好いい男なんだろうなあ。
《格好いい男か……》
ポチは、格好いい男は好きではない。好きではないが嫌いでもない。格好いい男を見ても何の感情も湧かないが、一つだけ癪にさわることがある。
《格好いい男は、いつもそうなんだ……ヒロインがピンチに陥ると……》
ポチが思い出しただけでも癪に触った出来事を考え込んでいると、道の向こうから愛ちゃんが、ポチが知らない女の人とともにやってきた。
国道に面した中妻町一丁目の歩道は、二メートルほどの歩道だ。道路と歩道の間に、プランターや街路樹などはないから、隠れるところはない。
もっとも街路樹に隠れて、大くんを困らせるのは、ポチぐらいだろう。
「姉ちゃん~」
大くんが、二人に声をかけた。
「あら、水戸さんの弟? 」
ポチの知らない大人の女の人が応えた。後で聞いた話によると、この女の人は保健室の先生で、木村涼子といった。
ハンサムショートカットが似合う、宝塚歌劇団で男役でもやらせたら、ものすごく人気がでるんじゃないかなあと思われる長身の美人さんでもある。
「山崎さんも……。その犬、山崎さんの犬?」
さっちゃんのフルネームは、山崎さちという。
「ええっ、そうだけれども……。それより、愛、大丈夫?」
さっちゃんは、愛ちゃんの方に目を向けた。
「私は、大丈夫よ。このとうり」
愛ちゃん、力瘤を作って見せた。
「愛ちゃん、復活する、かー」
さっちゃんは笑った。
学校で、何かあったようである。何かがなければ保健室の先生と連れ立って帰ってはこない。
「姉ちゃん、どうしたの? なんかあったの」
大くんが、さっちゃんに尋ねた。
「実はね……」
さっちゃんの話によると、今朝の全校集会の時に、愛ちゃんが「どーん」と倒れてしまったということである。
驚いたクラスメートが、愛ちゃんを保健室まで運び、心配したクラスメート数人が保健室に残って、愛ちゃんの様子を見ていると、愛ちゃん、一言、「お腹がへって、へって、もう、だめえ~ 」と言って、また倒れたというのだ。
「先生の作った、おかゆ、おいしかったんだから」
保健室のベッドを占領した愛ちゃんは、涼子先生におかゆを作ってもらい、愛ちゃんは、腹一杯、おかゆを食べた。涼子先生のおかゆは、なるほど、ほっぺたが落ちるほど、おいしく、いくらでも、お腹に入る。お腹が満腹になると、どうしても眠りたくなる。瞼が重くなる。瞼を擦って眠気を覚まそうとするが、擦っても、擦っても、眠気はおさまらない。愛ちゃんは、眠りに落ち、ずうっーとそのまま授業が終わるまで眠ってしまったのであった。
「いくら、起こしても、起きようとはしないんだから……」
涼子先生が言った。
「だって、眠たかっただもん」
「本当に、眠たかっただけ? どこか、悪くはないの?」
涼子先生は、もしかして、愛ちゃんの身体に異常があるんではないかと勘繰った。なにしろ朝、保健室に運び込まれてから授業が終わるまで、ずっと寝ていたのである。
おかしいと思っても、不思議ではない。
「どこも悪くはないわよ」
と、愛ちゃんが言う。
「本当に…… 」
「全然、どこも悪くはない」
愛ちゃん、再び、力瘤を作って見せた。
「元気がいいわね」
涼子先生が言うと、
「そうでしょうね。朝、倒れて、ずうっーと授業が終わるまで寝ていたんだから。体力が回復しないほうがおかしいわよ」
と、さっちゃんが言う。
「えっ、姉ちゃん。ずうっーと寝ていたの。授業も受けないで。いいなあ~ 」
大くんは、うらやましそうに愛ちゃんを見た。
「愛ちゃんはね、この私が呼んでも、起きようとはしなかったんだから」
さっちゃんが、口を尖らせて言った。
授業が終り、一緒に帰ろうと思ったさっちゃんが、保健室に行ったが、愛ちゃんは、ウンともスンとも反応しなかったらしい。
「起きたら、下校時間を過ぎていました」
愛ちゃんが、悪びれず言う。
「それで、涼子先生が愛ちゃんを自宅まで送ることにしたわけね」
さっちゃんが言った。
「そうよ。いいでしょう」
愛ちゃんが、にっこりと微笑んだ。
「そうよ、いいでしょうじゃあないでしょう。文集の入った手提げ袋、忘れようとしたくせに」
涼子先生が首を傾げて言った。
「涼子先生が忘れなければ、それでいいのよ。涼子先生は男子のアイドルだもんね。アイドルは可愛いだけではダメ、賢くなければねえ」
愛ちゃん、得意げである。
いま家庭の事情でちょくちょく休んでいる保健体育の先生の代わりに、涼子先生は臨時で、二中に来てはいるが、二中の男どもは、できれば、ずっと二中にいて欲しいと思っている。若くて、美人で優しい保健室の涼子先生は、みんなの憧れの的なのだ。
二中の男子生徒は、なんとか、涼子先生に近づきたくて、仮病を使ってまで保健室に行こうとするし、独身の男の先生もなんだかんだ言って、涼子先生に近づこうとする。普通、それだけ、男子に人気があれば、同性から煙たがれるのだが、誰にでも優しい涼子先生は、同性にも好かれる。涼子先生に憧れた女生徒がなんと、涼子先生にラブ・レターなんぞ、したためたという話まであるのだ。
「おねえちゃーん、はい」
大くんが、愛ちゃんに封筒を手渡した。
「なに? これ」
愛ちゃんは封筒を手に取った。大くん、愛ちゃんが封筒を手に取ったのを見ると、
「ねえちゃんに、好きな人ができたんだ」
と、言ってニタリと笑った。
「えっ? えええっぇええ~ 」
愛ちゃん、大くんの奇襲攻撃に、お目目をパチクリさせた。慌てて、封筒を開け、中身を見る。
サッカーボールを小脇に抱え、ブイサインを作り、笑顔でたたずむ一人の少年の写真が封筒の中から出てきた。
二中のアイドル、三年五組の一文字武の写真である。
「なんで、あんたが、この写真を持っているの? まさか……」
愛ちゃんは、涼子先生の後方に隠れようとしている、さっちゃんを睨んだ。
「さち! あんた、なんていうことをするのよ。知られたくなかったのに」
愛ちゃんは、怒った。怒って当然である。
愛ちゃんは乙女である。
春に散りゆく桜色の花をみては、「はっーあ」と溜息をつき、夏の夜空に線を引いて流れ行く流れ星を見ては、夜風にさらさらの髪をなびかせ、そんでもって、秋には、枯れゆく木の葉を見ては、ハラハラと涙を流し、冬は冬で白い雪を見ては、静かに眠りに落ちたい。
そんな、乙女ちっくな感傷にふけりたいのである。
だ・か・ら、少しの間、家族の人たちだけには、意中の人の存在を知られたくなかったのである。
源さんや、さくらさんに知られたら、それこそ、秋空の下、白樺並木を彷徨うような、大感傷に、浸る暇がなくなるに決っている。
乙女ちっくな愛ちゃんとしては、大感傷に浸って、ロマンチックな夢を見ることのできる素敵な時間を、もうちょっとだけ、もちたかったのだが、それなのに、意外に早く家族の人に、隠しておきたい秘密を知られてしまった。
大くんは、きっと源さんやさくらさんに、写真のことを話すだろう。
「ねえちゃんの好きな人、サッカー部」
大くんが、さっそく好奇心一杯の瞳をウルウルさせて、聞いてきた。
愛ちゃん、それを無視して、さっちゃんに詰め寄る。
「さち、……さち! だいだい、あんたねえ~」
「ゴメン! うっかりしてた」
「うっかり、大に写真をわたしたわけ」
「ゴメン、ゴメン、ゴメン……」
さっちゃんは、ひたすら謝った。
「水戸さん、許してやりなさい。こんなに謝っているんだから」
涼子先生が言った。
「いいえ、許しません! さちって、いつもそうなんだから」
さっちゃんには、「うっかりさち兵衛」という、あだ名がある。悪気はないのに、うっかり、何かをしでかして、人の怒りをかってしまうのだ。
この間も、後ろから人が来ているというのに、うっかり、ドアを閉めて、後から来た人がドアにいきなり挟まれたということがあった。
「でも、意外ね。陸上一筋だと思っていたら、愛ちゃんにも、好きな人がいるのね」
涼子先生が、クスリと笑った。
「いません、いません! そんな人、いません。武さんは……その~うただ憧れているだけで……」
「憧れているだけ?」
と、涼子先生。
「ええっ」
「ただ、憧れているわけじゃあないんでしょう」
「あ、憧れているだけです。好きだなんて……」
「好きなんでしょう」
涼子先生が確信を込めて言うと、
「は、はい」
愛ちゃんは、素直にうなづいて、顔を赤くした。
「わーあぃ。赤くなった。赤くなった」
さっちゃんが、からかう。
「愛ちゃん、告白しようよ。告白」
「そんな…… 」
「よし、分かった。ここは親友の、このさちが、代わりに告白してあげる」
「えっーー」
うっかり八兵衛と言われるさっちゃんに、恋のキューピット役なんか務まるわけがない。
「まずは、ラブレターなんかを出して……。ん? まてよ、ラブレターってどう書くのだろう。う~ん」
さっちゃんは、あれこれ、考え始めた。
「ラブレターなんか、書いたことないし……」
「さち 」
愛ちゃんが、考え込む、さっちゃんの肩を指先で叩いた。
「文学部の先輩に、ラブレターの書き方を教えてもらおうかしら~」
「さち…… 」
「でも、文学部って、なんか近づきがたいし……」
「さち……」
「知り合いに文章のうまい人がいれば…… 」
「さち……」
「うるさいわねえ。さっきから、さち、さちって、なによ…… 」
さっちゃん、肩に触れる愛ちゃんの指先を邪険に振り払った。
「さち! これ以上余計なことをしないで」
愛ちゃんは、大きな声をあげた。
さっちゃんが、振り向くと、そこに仁王様のような憤怒の顔をした愛ちゃんがいた。
「ひぇえ~ぇー」
さっちゃんは、なんとも異様な叫び声をあげた。
愛ちゃんの憤怒の表情は、迫力充分で、さっちゃんは、闇夜に根性悪のお化けに出逢ったように、目を吊り上げて、怯えたのである。
さっちゃんは、怯えた後、
「そんなに怒らなくても……」
と、言って、しょげた。
「怒られて当然よ。愛ちゃんは、そっとしてもらいたいのよ。それなのに、山崎さんは事を大袈裟にして、騒ぎすぎます」
と、涼子先生が言った。
「さっちゃん、いつも、そうなんだんだよ。いつもいい気になって」
大くんが、追い討ちをかける。
「いい気になんて、なっていないわよ」
さっちゃんが、弱弱しく言うと、
「いいえ、さちはいい気になっています」
と、愛ちゃんが、さっちゃんを断罪するのであった。
「いい気になんて、なっていないってばあ~ 」
さっちゃん、意地を張り、自分の非を認めようとはせずに、いいわけをしている。いいわけしたって、事態は好転しない。火に油をそそぐようなものでる。
「山崎さん。水戸さんに謝りなさい」
涼子先生が言った。
「なんで、謝らなくちゃあならないのよ~う」
「謝らなくちゃあいけないでしょう。水戸さんは、そっとしてもらいたいのよ。それなのに山崎さんたらぁ~」
「そうだ、ねえちゃんに謝りな」
大くんが、生意気にも高飛車な口ぶりで言った。
「ううっ……。みんなして、責めて」
さっちゃんは、目頭を押さえた。が、一転して口角をあげた。
おいおい、みんな忘れているぞ! さっちゃんには、もう一つの呼び名があることを。
「さち、聞いているの!」
愛ちゃんが、またまた、さっちゃんに詰め寄った。
さっちゃんが、口角をさらに上げる。
《やばい………》
ポチとラッキーは身を伏せた。
《大変なことが起きるわ》
ラッキーがこれから起こることを予測して、辺りを見わたした。
《怪我人がでなければいいけど……》
「わはっははは。わははっははは。いひっひっひっひひ、おっほほほほほほ」
さっちゃんが笑い出した。大笑いである。物凄い大音量だ。120デジベルは出ているだろうか。ちなみに、120デジベルが飛行機のエンジン音だとすれば、かなり、大きな笑い声である。いや、笑い声というレベルではない。これはもう凶器である。
案の定……。
「どうした? 何があった。車が家の中に突っ込んだのか」と、言って、慌ててラーメン屋の親父がフライパン片手に店の中から出てきたし、魚屋からは、赤ちゃんを抱えた若い嫁さんが、「どうすんのよ~ 赤ちゃん、泣き出したじゃあない」と、言って、くるくると回って出てきた。
上を見れば、空を飛んでいたカラスのカーコウが電信柱に、ぶつかって、墜落するし、下を見れば、ごみ箱を漁っていた、猫のにゃん太が、ひきつけを起こして、泡を吹いて倒れてしまっている。浪人中の受験生が「地震だ。火事だ。雷だ。親父だーあ」と、言って、自宅の二階の窓から飛び出して、大騒ぎしているが、この浪人生は、日頃から、ちょいとおかしいので、これはご愛嬌だろう。
外に出てきた人たちは、一体、何が起こったんだと言って、辺りを「キョロキョロ」見わたしていた。
愛ちゃんと大くんは、耳を押さえてその場にうずくまり、涼子先生は口をあんぐり開けていた。
さっちゃんは………。
さっちゃんは、何もしなかったような顔をして立っていた。
「わ、忘れていたわ……。さちが大笑いすると、とんでもないことが起きてしまうことを」
愛ちゃんが、身体をぶるぶる震わせて、言った。
さっちゃんには、「うっかりさち兵衛」というあだ名の他に、大笑いするぞ怖いぞ超音波女というあだ名があった。その超音波砲がさく裂したのである。
「ななな、何、いまの? なにがあったの? 」
初めて、さっちゃんの大笑い声を聞いた涼子先生は、いまだに何が起こったのかわからないでいた。
「な、な、何があったの? 水戸さん、一体何があったの」
涼子先生は、ハンドバッグの中からハンカチを取り出して、それを額にあてながら、愛ちゃんに尋ねる。
愛ちゃんは、どう説明すればいいのか分からない。いまのは、さちの大笑いよと言ったところで信じてもらえるのだろうか。
「ひっひひひっひつ」
さっちゃんは、小さく笑い出した。
おいおい、なに小規模に笑ってんだよ、さっちゃん、きみのせいだろう。
ポチは、やれやれと右足で頬を撫でるのだった。
5
お日様が西の空に沈むと、夜というものが来る。
夜になると、真っ暗なお空にキラリと光るお星さまが現われる。満天の夜空の中に、お星さまが現われ、お星さまの傍らにお月さまが顔を覗かせると、ポチは無性に寂しくなる。
ポチだけが寂しいわけではない。山崎さんちのラッキーもそんな夜は寂しくてしょうがないようだ。寂しい夜はねえ、夜空に向かって吠えてもかまわないのよと、ラッキーは言うが、ポチは夜空に向かって雄叫びをあげるような無粋な真似などしたくはないのである。
夜空に向かって、雄叫びをあげて、なにが楽しいんだろう。
大昔の犬たちは、夜になると群れなして「ウオォ―ン、ウオォーン」と吠えたというが、とても信じられない。 吠えるのは凶暴な狼たちに任せて、僕たち犬たちは、優雅に寂しさと戯れていたほうがいいに決っている
寂しさと戯れる……。おー、なんというカッコいい言葉。我ながらセンスのよさに、うっとりしてしまう。
そんなわけで、ポチは、寂しさと戯れて眠りについた。
翌日、お日様がまた空に顔を覗かせた。
ポチは、朝起きると、いつものように吠え、いつものように愛ちゃんに叱られ、毎度おなじみのさくらさんと、散歩に行き、散歩を終えると、犬小屋の前でさくらさんが用意したドックフードを食べる。
今日も一日が始まった。
と、言っても、特別な一日が始まるわけではない。
ドックフードを食べ終わると、夕方の散歩までやることがないので、居眠りをするしかないのである。
犬小屋につながれているリードが外れていれば、外に出て、自由というものを満喫できるんだけど、そうは問屋が卸さない。犬小屋とポチを結ぶリードはガッチシと犬小屋と結ばれていて、遊び盛りのポチの自由を奪っているから、ポチは居眠りをするしかないのである。
居眠りをしていると、たまに、郵便配達のおじさんが来て、ポチの頭を撫でてくれるが、ポチは男なんぞに大切な頭を撫でられたくはない。できれば女の人……。それも美人さんに頭を優しく撫でてもらいたい。美人さんが、かぐわしい手でポチの頭を撫で、頬を近寄せてくれると思うだけで興奮する。興奮して、思わず美人さんの唇をベロベロとなめたいが、そんなことを考えていると、決ってやってくる奴がいる。
源さんの弟、寅男さんが、ポチの所にやってくるのである。
水戸家にやってきた寅男さんは、犬小屋の前にやってくると、「よっ、アホ犬、元気かー」 と、言って、ポチの頭をいきなり叩く。いきなりやってきて、藪から棒に頭を叩くなんてそれはないだろう。
「ワン」と抗議するが、寅男さんは、「今日も元気じゃあねえかー よしよし」 と、言って、家の中に入ってゆくのだった。
夕方、四時過ぎに、大くんが犬小屋の前にやってきた。
散歩の始まりである。
朝の散歩は、さくらさんと家の近くにある川べりの土手の上を歩くが、夕方の散歩は中妻町の商店街を歩く。
商店街といっても,中妻町の商店街は住宅地の中にある小さな商店街で、とても商店街とはいえないが、ちょっとした買い物をするのには、とても便利なので、それなりに賑わっている。
賑わっている肉屋さんの前に、山崎さんちのご隠居さんと、さっちゃんがいた。山崎さんちの愛犬、ラッキーもさっちゃんの隣にいる。
「おーっ、大くん。奇遇だな。こんなところで逢うなんてのーお」
早速、ご隠居さんが話しかけてきた。ご隠居さんの孫であるさっちゃんが、ご隠居さんの横でニコリと微笑んでいる。
「昨日はどうもね~ 」
さっちゃんが、言った。
大くんは、思わず、一歩後ずさった。
昨日の今日である。大くんは、昨日のあの惨劇を忘れてはいない。昨日は、大笑いすると怖いぞ超音波女の咆哮で、辺り一体修羅場になったのである。
「ん! 少年、なにをそんなに怯えている。男の子なんだろう。びしっーと胸を張って、堂々とした態度をとらなけりゃあいかんー。わしを見ろ。いつもかくしゃくしているだろう。かっかかっかっーのか」
山崎さんちのご隠居さんは、杖で地面を叩いた。
「わしはのーお~ 大くんの歳には、もう、子分を十人ぐらい抱えての~お、お山の大将になっていたでのーお。大くんを見るとのーお、幼い頃、わしが子分にした奴らを想いだしてのーおー。子分? おお、そういえば、野山の野郎、どうなった。しばらくあってないが元気で暮らしているだろうかのう。あいつは、わしの子分でのう……。子分といえば、川原はどうなった? あいつも、音沙汰なしで全然会ってはいないが、元気でいるかのーう。……かっかかっかっ。今でも思い出すわい。わしの武勲を……。そもそも、わしが……」
おい、おい、長講釈を始める気かい……。
いつもそうだが、山崎さんちのご隠居さんは、親しい人に会えば、聞いてもいないのに、長々とどうでもいいことを話し始める。
ポチは、「はぁー」と長い溜息をついた。
《ポチ! 昨日の火事は放火らしいぞ》
と、ラッキーが言った。
《ええっーー》
ポチは、ラッキーの言葉に目を丸くして驚いた.。
昨日の昼間、火事があったことは知ってはいるが、放火とは思いも及ばなかった。
放火という行為は、火をつけて他人の物を燃やす行為であるが、そんなことをする人間が、この町にいるなんて信じられないし、信じたくもない。
物を燃やし、へたをすると人の命さえ奪ってしまう放火という行為は、とってもとっても恐ろしい悪魔の所業なのである。そんな恐ろしい行いをする人間が、この町に本当にいるのだろうか。
《誰が放火をしたの? 僕の知っている人?》
ポチはラッキーに訊いた。
《まだ、犯人は捕まっていないわ》
《つかまっていないの。でも、すぐ、とっ捕まるんでしょう。昼間の火事だったし……》
《……それが難航しているのよ》
ラッキーはため息を漏らした。
昨日の火事は、パーラー『閻魔大王』というパチンコ屋で起こった。十二時頃の火事である。
《うちの、ご主人もおかしいと言っているのよ。昼間に起こった火事なのに、誰も犯人らしき人を目撃していないなんて……》
ラッキーのご主人は、山崎のご隠居さんである。
《ご隠居さんは、現場にいたんだ》
ポチが言った。
《ええっ、パチンコを打ちにいったんだけど……、ご隠居さん、火事が起きたら、身をひるがえして、野次馬の一人になっちゃったわ》
《野次馬? 野次馬って何だ。馬の一種か?》
ご隠居さんが馬になる。
ポチは馬に変身した、ご隠居さんを想像した。
白いたてがみを風になびかせ、真丸の分厚いレンズの眼鏡を、ちょこんと鼻にかけ、青い和服の上に渋い茶色の羽織を着た馬が、何を見て、いきりたっているのか、宙を睨みつけている……。
《ポチ、……なに、にやにやしているんだよ》
《いや~あ。ご隠居さんが馬になった姿。一目、見たかったなーと思って……》
《はーあ?》
ラッキーはポチの頭の中を覗いてみたくなった。本気で人が馬になったとでも思っているのだろうか。
《バカッ、人が馬になるわけないじゃないのよ。野次馬っていうのはねえ、自分に関係ない事をわいわいと大袈裟に騒ぎ立てている人のことをいうのよ》
《えっー そうなの?》
ポチの頭の中にいたご隠居さん馬が「ズルリ」とこけた。
《なんだー 人が馬に変身するわけではないのか》
《ありまえだろ》
ラッキーは、眉をよせて呆れた。
もし、火事場の煙にまかれて、人が馬に変身するのなら、火事現場の『閻魔大王』の周辺は馬たちの洪水で埋め尽くされていただろう。
背広を着たサラリーマン風の馬もいれば、厚化粧で年齢をごまかし、派手なワンピースを着ている馬もいる。タバコを咥えて、けだるそうな顔をしている労務者風の馬もいれば、シャツの上にねずみ色のどてら一枚、はおっただけの姿でワンカップをあおっている酔っ払い馬もいる。Tシャツ一枚にジーンズといった格好で仲間とわいわいやっている若い馬が、同じ格好の若い馬と喧嘩をしていてもおかしくないだろう……。
馬。馬、馬馬……。
ポチは、愉快な馬の団体さんの姿を想像して悶絶するのであった。
悶絶しているポチを尻目にして、ラッキーは犯人がどんな奴なのかを想像していた。
《店員さんが、火をつけたのではないのかという説もあるけど……。店員さんが自分の店に火をつけるかな……。火元は二階の火の気のまったくない物置部屋で……。火事が起きた時間、店員さんたちは全員、一階のホールにいたというし……》
店の外で怪しい人が目撃されないとすれば、火事は店の内部の人間の犯行ではないかという噂がたっていた。
店に不満を持つ店の内部の人間が、火をつけたのだというのだ。
《ねえ、大将! そうなの? 店の内部の人が放火犯人なの》
ラッキーは、山崎のご隠居さんに向かって、「ワン、ワン」と吠えた。
「おっ、腹がへったか。よしよし。カッカッカカッ。帰ったら、うまいものをくわせるのでのーう」
山崎のご隠居さんは、ラッキーの頭を撫でた。
所詮、人には犬が何を言っているのかなど、わかるはずがないのである。いくら、「ワンワン」と吠えても「キャン、キャン、キャン」と鳴いてみても、「ウウッー ウウウー」と、唸ってみても、何も分かってくれない。
ラッキーは、またまた、小さくて長い溜息をつくのであった。
6、
「あっ、涼子先生!」
大くんは、釜石第二中学校の方からくる涼子先生を目ざとく発見した。
美人さんは、やはり得である。大くんは昨日あったばかりの愛ちゃんの担任の先生の名と顔を、一日で記憶していたのだ。
涼子先生は一人でやって来たわけではなかった。女の子が一緒だった。女の子といっても、愛ちゃんではない。愛ちゃんより、一つ歳上の女の子、通称〝スケ番のお由美〟と言われている粗暴な女の子が、涼子先生といたのである。
「今日も逢うなんて奇遇ねえ~ 」
涼子先生は、大くんたちを見つけて微笑んだ。
「およよよよ~。美人さんの登場だのーう」
ご隠居さんが、目を細めて涼子先生を見た。
「先生。昨日はどうも……」
さっちゃんが挨拶をした。
「そ、そ、そのせつは、どうも…… 」
恐る恐る挨拶を返す涼子先生。涼子先生は、いまだに昨日の出来事が信じられないでいる。
(あんな大音量で大笑いすることができる人間がいるなんて……。こ、鼓膜が破れると思った)
「先生。様子がおかしいじゃん」
由美が、さっちゃんから目を逸らした涼子先生に気づき、涼子先生とさっちゃんの顔を交互に見比べた。
さっちゃんは、うつむいている。昨日は、驚かして悪いと思っているのだろう。
「おまえ、由美か……。角のタバコ屋の」
山崎のご隠居さんは由美を知っているようだった。
「ご隠居さん、この人、知っているの? 」
大くんが聞く。
「知ってるよ。タバコ屋の梅婆さんに頼まれて、何回もおしめを替えてやったこともあるでのーう」
「へぇー 何回もおしめをねえ……」
と、涼子先生が言う。
「この子のお尻を叩くと、ピシャピシャいい音がしてのーう。どれ、もう一回だけ、このジジイにお尻を叩かせてくれや」
「誰が叩かせるかー この、もうろくジジイ~ さっさとくたばりやがれ! 」
由美は毒づいた。
「……相変わらずだのーう」
「何が、相変わらずだー このスケベじじい」
由美の罵詈雑言は止まらない。
「由美…」
ご隠居さんが咳払いをして言った。
「おまえ、その~う、なんだ……。スケ番のお由美と言われているんだろう。スケ番、スケ番と言われて悔しくないのかのーう」
‘スケ番’。今となってはほとんど使わない言葉だが、(いわゆる死語)当時、小中学生の間で手に負えない暴れん坊の女の子を指して、‘スケ番’という言葉が使われていた。
「う、うるせーいやい」
スケ番の由美は物凄い形相で、山崎のご隠居さんを睨みつけた。
「先生、この娘が何かやったのかのーう? 」
ご隠居さんが言った。
「何かをやったのかって。人の顔を見れば直ぐそんなことを言う。俺が何をしたっていうんだ」
由美が叫んだ。
「由美さん……」
涼子先生が由美をたしなめる。
「おまえのーう、いつもこの時間、陽子たちとつるんでいるだろうが。それが、麗しい先生さまと一緒にいるなんて、ちょっとおかしいなと思ってのーう。何かあったんだろう」
ご隠居さんは、真丸の分厚い眼鏡を指で挟んだ。
だてに歳をとっているわけではない。ご隠居さんは、町内に住む、近しい人たちの動向を、ちゃんと把握しているのだ。
「この娘は何も悪くはないのよ。ただ、昨日の火事現場にいたというだけで、警察に事情をきかれただけなの」
と、涼子先生が言う。
「警察!」
ご隠居さんの眼鏡がキラリと光った。
「あいつら、俺が放火犯人だと思っていやがるんだ」
由美が奥歯を嚙み締めた。
「おまえが犯人! おまえが犯人なのかのう? 」
ご隠居さんが、そう言う。
「んなわけ、ないだろう」
由美は激しい口調で否定した。
おまわりさんは、今日の昼に中学校にやってきた。
二中に来た、おまわりさんは、職員室を訪れ、居並ぶ先生たちに、昨日の火事の説明をし、現場で仲間とはしゃいでいたという由美たちを職員室に呼ぶように頼んだ。
「おまえら、なにをやったんだ」
担任の先生が、由美に聞いた。
「俺らは、よう……」
昨日、パチンコ店『閻魔大王』が燃えていると聞きつけた由美、陽子、美智子の三人組は、授業をボイコットして、自転車に乗り、火事現場に駆けつけ、燃える『閻魔大王』を見て大いに騒いだ。
店の上部に飾られてある派手な電飾の看板が炎と一緒に弾けるたびに、「もっと燃えろー もっと燃えろー 」と囃し立てたり、建物の中に溜まったガスが、大きな音をたてて爆発するたびに、「いま、すげーぇー音がしたぞ。見にゆこうぜ」と言って、火災現場をうろついた。うろうろと、ほっつき歩き、火を消そうと消火活動をしている消防団の邪魔になったのである。
「おまえら、火事場でそんなことをしたのか?」
ご隠居さんが言った。
「して悪いかよーう。俺ら、ただ、おもしろがっただけだぜ」
由美は、うそぶいた。
「おまえのそんな態度では、おまわりさんは納得しなかっただろう」
「納得? そんなものするわけないだろう。あいつら、あんまり、しつこいんで面倒くさくなってよーう……へっ。仮病を使って保健室に逃げ込んでやったぜ」
「えっ! 仮病だったの?」
涼子先生がびっくりしている。由美が仮病でなく、本当に具合が悪くなって保健室に駆け込んだと思っていたのだろう。
「ばれたか。こら、じじい、おめえが余計なことを言うから……」
「かっかかっかー。まあ、いいではないか……。ところで、火事現場にはわしもいたがのーう。おまえが、いただなんて、気がつかなかったでのう」
「気がつかなくても、おかしくないじゃん。人がいっぱいいたし……」
「確かに、たくさんの人だったわい。あれだけの人がいて、誰も犯人らしき人を見ていないとは、これまた、おかしい話じゃのーう」
ご隠居さんは、杖で地面を三回叩いた。
「実は私もいたのよ。これ、見てくれる。その時汚しちゃって」
涼子先生が、ハンドバッグの中からレースのピンク色のハンカチを取り出した。
「えっ、涼子先生もいたの? 授業をしないで……」
と、さっちゃんが訊いた。
「午後は保健の授業は無かったし……ほら、私、臨時で働いているわけでしょう。だから、自由がきくのよ。それで愛ちゃんに食べさせるインスタントのおかゆを買いに外に出たら、消防車がサイレンを鳴らして走っているわけ。どこが火事だろういと思って、それで、つい……」
つい、火事場見学に赴いたわけか。
いわゆる、涼子先生も野次馬になったというわけで、綺麗で優しい涼子先生にも意外な一面があるなと、ポチは思った。
「今月に入って、これで三件目でしょう」
涼子先生が言いながら、ピンク色のハンカチをハンドバッグにしまった。
「そうじゃ。これで三件目じゃ」
ご隠居さんが応える。
「三件とも放火なの? 」
「それは……、分からん」
ご隠居さんは、ぼそっと言った。
ことの始めは、陽春薫る五月の初旬だった。中妻町三丁目にある新聞屋のバイク置き場が何者かの手によって燃やされた。幸い発見が早かったので大事には至らなかったが、バイクが十台、おしゃかになってしまったのである。
それから五日後、今度は二丁目のパン屋さんで、店の前に出しているゴミ箱が燃える火事があった。このときも見つけるのが早かったので、大騒ぎにはならなかった。
パン屋さんのゴミ箱が燃えてから、一週間後、乾物屋さんの商品倉庫が焼えた。
干し椎茸だの、とろろ昆布だの、三陸ワカメのカットなどが、焼け出され、店を経営する町内会長の吉井さんが、その場でくるっと三回廻って泣いたという醜態を演じ、みんなの笑いものになったのである。
一体、誰が火をつけているのだろう。
いつも、遊びほうけている茶髪の兄ちゃんが犯人ではないだろうかとかいう奴がいたり、浮浪者が暖をとろうとして火をつけたのではないだろうかという奴がいたり、いやいや、どこそれの親父が競馬に負けた腹いせに火をつけたんだ。そうに違いないと決め付ける奴がいたり、勝手な憶測が、ちまたに流れたが、どれもこれも信憑性がうすかった。
《ジョンと話ができれば何か分かるかも知れないわ》
ラッキーが言った。
《ジョンって?》
ポチが尋ねる。
《味三番さんちのところのシェパードだよ。ジョンは警察犬として嘱託されているから、きっと何かをつかんでいるはずよ》
《警察犬! そ、それもシェーパード》
ポチは、密かに憧れているシェパードの名が出てきて、瞳を潤ませた。
シェーパード。正式名をジャーマン・シェーパードという。
ドイツ生まれの優秀な犬である。本来、シェーパードは牧羊犬だったというが、その能力を高く評価され、戦争中に軍用犬として改良された。現代は軍用犬というより、警察犬や災害救助犬その名を知られている。
格好いい! 格好良すぎる……。
《ねえ、シェパードって人の心を読むって聞いているけれども、ジョンも人の心をよんで、次に人が何をやりたいのかわかるの?》
ポチは訊いた。
《ジョンは凄いわよ。味三番さんが、次にどういう行動をとるか事前に察知して、ご主人さまが何も言わなくても、玄関から朝刊を持ってきたりするのよ》
《ふ~うん》
ポチは感心した。
(人の心を読むなんて、とてもできそうにもない……。いつもいつも、ドジを踏んで、源さんやさくらさん、愛ちゃんや大くんに怒られている僕とは違う。とほほのほ)
ジョンに感心して、落ち込むポチだった。
ポチよ! 落ち込むのはまだ早い。
君には、人の心は読めないが、人の心を動かすある術があるのだ。
えっ? どんな術だって。
それは、話が進めばおいおいと分かるだろう。
《ジョンは優秀だわよ。ひったくり犯や、空き巣を捕まえて、何回も表彰されているのよ。そうそう痴漢も撃退したことがあったわね。今回の放火犯人だって、ジョンなら……》
ラッキーが期待を込めて言った。
《ジョンとは会えないの》
ポチが聞く。
《難しいわね……。味三番さんは、流行っている食堂だし……今いろんな事件がおきているでしょう。警察からの協力要請が多いと思うから、当分、ジョンとは会えないかもよ》
残念である。一目だけでもジョンと会いたいものである。
「ポチ……帰るぞ」
大くんが言った。
午後五時半である。夕方のポチの散歩の時間は六時で終了である。
「帰るの?」
さっちゃんが訊いた。
「うん、六時半から晩御飯なんだ。遅れると、母さんが怒るから」
大くんは、ポチのリードを軽く引っ張った。
「じゃあ、私たちも…… 」
涼子先生が言った。
「先生、由美は……」
ご隠居さんが尋ねた。
「帰り道が同じだから、家まで送ります」
涼子先生は優しく微笑んだ。
「先生よーう。陽子や美智子はどうした? 職員室にまだいるのか」
由美が涼子先生に尋ねた。
「知らないわ。先に帰ったんじゃあないの」
「チェ。待ってくれたっていいだろうに……」
由美は路上につばを吐いた。
「じゃあ、行きましょう」
涼子先生が、由美に笑いかけたとき、ポチの第六感というものが騒いだ。
《胸騒ぎがする……》
《ポチ! どうしたの?》
ラッキーが言った。
《愛ちゃんの身に危険が降りかかろうとしている……》
《えっ! 》
《愛ちゃんの危機なんだ》
ポチは、リードをグッグッウと引っ張った。
7、
ポチの引っ張る力は、そんなに強くない。けれど、火事場の馬鹿力というもがある。
ポチは、ものすごい強い力で、大くんが持つリードを引っ張った。
「どうしたんだよ。ポチ」
ポチが四肢を踏ん張って暴れている。愛ちゃんの危機を、全身を使って大くんに知らせようとしているのだ。しかし、しかしである。悲しいことに、大くんの目には、ポチが、ただじたばたしているようにしか見えない。
「ワン、ワン、ワン」
ラッキーが吠えた。ポチの代わりに、愛ちゃんの危機を知らせようと吠えた。
「どうしたの? ラッキーまで」
さっちゃんが、ラッキーの頭を手で押さえた。
「ラッキーまで……。なんだと言うんだ」
大くんは、横目でラッキーを見た。リードを持つ手が緩む。
《いまだ!》
ポチは全身に力を込めた。大くんの手からリードが離れる。
「あっ~ ポチが……」
リードが宙に舞った。リードを掴もうとした大くんの手が、むなしく空を掴む。
ポチは、自由になった。自由になったポチは一目散に走った。どこに行こうとしているのだろう。
「ポチが……。ポチが……」
大くんは、走り去るポチを目で追った。が、大くんのつぶらな瞳で追ってもおいつけるものではない。
ポチの姿は、あれよあれよという間に見えなくなった。
「何かがあるじょい」
ご隠居さんが、目を細める。
「何かがあるって? 」
さっちゃんが尋ねる。
「おとなしいポチが暴れて、跳んでいったんじゃ。何もないほうがおかしいじゃろ。そうじゃろ。ラッキー、そうじゃろーう」
ご隠居さんは、ラッキーの肩に手を置いた。
「ワン、ワン、ワン、ワン、ワン」
ラッキーが鳴いて応えた。
「ほれ、ラッキーも言っておる。何かとんでもないことが起こっているってのーう」
「とんでもないことって、なあに? 」
さっちゃんが聞いた。
「それは、わしにも分からん。わしに分かるわけないだろう。かっかかかっか」
ご隠居さんは、大きく口を開けて笑った。
「どうしよう…… 」
大くんが困っている。
散歩の途中に、ポチに逃げられたのだ。このまま家に帰ったら源さんに、どやされるに決まっている。
「心配するな、大くん。ポチは直ぐに帰ってくるでのう」
「でも……」
「心配するなって……。ラッキーとさちが、ポチのことを探してくれるからのう。さち、頼んだぞい」
「ええっ!」
さっちゃんは、お目目を白黒させた。
(ポチを探すの。これから家に帰って‘北斗の拳’でも見ようと思っていたのに……)
さっちゃんは、‘北斗の拳’が大好きである。
‘北斗の拳’は、あの「あたたたたー。おまえはもう死んでいる」という名台詞で有名な漫画である。
「さち、ポチを必ず見つけろよ。母さんには、さちの帰りが遅くなると、よろしく言っておくからのーう」
ご隠居さんは、さっちゃんたちと一緒になって、ポチを探す気はないらしい。
笑って、家に帰る用意を始めていた。
「じ、じいちゃんは? 」
さっちゃんは、カメムシを握りつぶしたような顔をした。
「わし? わしは一足早く家に帰って、おまえとラッキーの帰りを待っているわい」
「そんな……」
「そんなじゃあないわい。おまえはこの老い先短い年寄りを、こき使う気かい」
「そういうわけではないけど……」
「そうだろ、そうだろ。さちは優しいからのーう。かっかかかっかっ」
ご隠居さんは、大きく口を開けて笑うと、ラッキーの頭を撫でた。
「頼んだぞ、ラッキー」
ご隠居さんの期待に応えて、ラッキーは「ワン」と大きく吠えたのだった。
8、
ポチは中妻二丁目を、ひたすら走っていた。
《急がなければ……、急がなければ……。愛ちゃんが、愛ちゃんが……》
走る、ポチの脳裏に愛ちゃんの笑顔が浮かぶ。
ポチに朝御飯をくれるとき、ひまわりのように微笑む愛ちゃん。源さんに怒られて、舌を出し「エヘへ」と笑う愛ちゃん。さくらさんと楽しそうに夕ご飯の用意をする愛ちゃん。大くんとふざけてテレビのリモコンを奪い合っている愛ちゃん……。
愛ちゃんの笑顔は、お日様よりも輝いている。愛ちゃんの悲しむ顔なんか、見たくはない。
ポチの加速メーターがいっきにレッドゾーンに入った。
《待てよ。おまえ、そんなに急いでどこに行く》
ポチの行く手に黒い影が立ちふさがった。急ブレーキをかけて立ち止まるポチ。
何者がポチの前に現われたのだろうか?
ポチは、目をこらして前に現われた黒い影を見た。
暗闇から出てきた黒い影は、水玉模様のマフラーをした犬だった。
さすらいのフレンチ・ブルドック。水玉マフラーのサンダーちゃんの登場である。
「プッ」
ポチは思わず笑ってしまった。
おもしろい顔なのである。
鼻はぺったんこ。頬はたれ、青い耳かきを口に咥えて、眠たそうな目でこちらを睨んでいる。こうもりのような二等辺三角形の耳は、多少格好いいが、小さい身体には微妙に似合わない。
「なに、言っているのよ! そのアンバランスのところがいいのよ。あなたには高貴な魅力を持つフレンチ・ブルドックの良さがわからないのよ」と、フレンチ・ブルドックファンの人に怒られそうだが、ポチの目の前にいるフレンチ・ブルドックは独特な顔をしていて、高貴さには程遠いのだ。
《プッーって、それなに? なにが、おかしい。俺は由緒正しき、フランスの生まれなんだぞ。名を聞いて驚くな。俺の名は……。俺の名は、さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんって言ってな……》
ポチの目の前にいる、フレンチ・ブルドック、サンダーちゃんの鼻息は荒い。
《えっ! さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃん!》
《そうよ。聞いたことがあるだろう》
《全然》
《あら、あらあらあら……》
サンダーちゃんはこけた。
さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃん。
なるほど、サンダーちゃんの首には水玉模様のマフラーが巻いてある。
《で、その水玉マフラーのサンダーちゃんが、僕に何用》
《用があるから止めたのよ》
《だから、何の用だ? 》
《用っていうのはよーう……》
《こっちは急いでいるんだ。用があるなら早く言ってくれ!》
《用っていうのは……》
サンダーちゃんは一呼吸おいて、
《ここは俺の縄張りだー 通りたけりゃあ何か置いてけ》
と、言った。
サンダーちゃんは、やぶにらみしている。
やぶにらみすると、恐がると思っているのだろうか。けれど、サンダーちゃんの斜視は遥か彼方の空を見ていて、どこかおかしい。
《食いもん、おいてけ》
《お腹、へっているの? 》
《おうよ。自慢じゃあないがな。もう二日も食い物を食べていないんだぜ。二日もだぜ。驚いたか》
サンダーちゃんの腹の虫が、「グッグググッッー」と鳴った。
《ご主人様は? 御飯をくれないの》
《ご主人様ってかー 俺にはそんなのいねえよ》
《捨てられたんだ……。かわいそうに……》
《ば、馬鹿なことを言うな。こっちから捨ててやったんだ。餞別代りによう、これをもらってやったぜ》
サンダーちゃんは、口に咥えた青い耳かきをクルクル回した。
《それ、なに? 》
ポチが質すと、
《耳かきだよ、耳かき。昔から言うではないか、武士は食わぬど高楊枝ってなあ……。まっ、俺様は武士っていうよりも騎士だよな。なんせ、生まれがフランスだからな。フランスだぜ。そこんとこ、よろしく!》
《楊枝って……口にくわえているのは耳かきでしょう、耳かき》
《うるさい。楊枝も耳かきも同じようなもんだろう。とにかく、俺様はフランス生まれの貴族なんだよ》
サンダーちゃんは、自分がフレンチ・ブルドックだということに誇りを持っている。雑種のポチを完全に見下している。おまえなんか雑種だろ、俺は血筋がいいんだぞ。どうだ、まいったかーとでも言いたいのだろう。
フレンチ・ブルドックという種は、その名が示すとおり、フランスで生まれたブルドックである。ブルドックにテリアを交配させて誕生させたといわれているが、交配させたテリアがどのテリアかはっきりしていない。各種のテリアの他に、バグ犬もかけあわせた結果できた種だという話もある。
ブルドック特有の顔つきとテリア犬の楽天的な性格を受け継いでいる犬なので、人には好かれるはずなのだが……。
《捨てられたんでしょ 》
と、ポチが言った。
《う、うるさい。そ、それより食料だ、食料……》
サンダーちゃんの腹の虫が、また、また「ググッーウ」と鳴いた。
《よっぽど、お腹がへっているんだね》
《う、うるさいって言っているだろう》
《お腹がへっているのに、よく、耳かきを口から放さないで、しゃべれるね》
口に耳かきを咥えたまま話すなんて、とてもできそうにもない。大抵の奴はできないだろう。
《よく、訊いてくれた。これにはコツがあってな……》
サンダーちゃんが、得意になって講釈をたれようとした時、
《いけない! こんなことしていられない》
と、ポチは跳ねた。
《おい! どこに行く? 》
《悪いけれど、急いでいるんだ》
《待てよ……。待てったら……》
サンダーちゃんは、ポチの後を追いかけた。
ポチは走る、愛ちゃんのところへ……。
さて、ここで筆者のうんちくをご披露しよう。(おっー、偉そうに)
ポチに限らず、犬には不思議な能力があるらしい。
そこで、不思議な能力を持った犬たちの話を紹介しよう。
まず、始めに、見知らぬ土地に置き去りにされた犬が、一ヶ月かけて、飼い主のもとに帰ってきた話。
なぜ、犬が見知らぬ何百キロも離れた土地から、ご主人様のもとにたどり着けたのか、それは分からないが、凄い話である。
二つ目は、ご主人さまの死期を予知し、一週間も前から、ご主人さまの枕元から離れることがなかった犬の話。この犬は家族のものが犬をいくら動かそうとしてもそこから動こうとはせず、餌も食べずに、ご主人さまが亡くなるまで、ずっとそこにいて、ご主人様の最後を看取ったという。本当に感動する話である。
感動する話の後は、超能力者顔負けのご主人様の帰宅時間を予知する犬の話。
たとえご主人様が、自宅に帰る時間をずらして、早くしても、遅くしても、ちゃんと玄関で座って待っていたという不思議な逸話がある。なぜ、帰る時間をずらしても、ご主人様がいつ帰って来るか分かってしまうのか?
なんとも不可解な話である。
最後に広い土地を駆け回る牧羊犬の話。
数百頭の羊を一匹の残さず全て完全に管理する牧羊犬は、放牧場に放している羊たちを、時間がくると放牧場の柵の外に追いやり、羊を小屋まで全て引率する。仮に一匹の羊が樹の陰に隠れていようとも、それを瞬時にみつけ、小屋まで追いたてるのだ。
いやはや、どれもこれも、生半可な人間にはできそうもない摩訶不思議な能力である。
ポチの能力は、愛ちゃんの危機を予知した
愛ちゃんの危機を予知したポチは、中妻三丁目に辿り着いた。
愛ちゃんの匂いがする。愛ちゃんの他に嫌な匂いも漂っている。ポチは匂いがする路地裏に入っていった。
愛ちゃんはいた。愛ちゃんの他に見知らぬ二人の女の子もいる。嫌な匂いは、その女の子たちの匂いだった。
「ポチ!」
ポチを見つけて、愛ちゃんが叫んだ。ポチは、愛ちゃんを視る。愛ちゃんは、怯えていた。脚をガクガク震わせていた。
「へぇ~ このちっこい犬、おまえの犬なのか」
ポチの姿を、めざとく見つけたガラの悪そうな女の子が言った。
「もしかして……。ご主人さまのピンチを知り、助けにきたってかー」
同じくガラの悪そうな、ちぃーとばかり太目の女の子が言う。
「こんな小さな身体で何ができるっていうーの。笑わせるなよー」
「ほんと、笑ってしまうぜ」
ガラの悪い二人組みは、口を大きく開けて笑った。
愛ちゃんは、二人組みの不良少女にからまれていた。
きっかけは、ささいなことだった。
上中島町にあるレンタル・ビデオ屋に行った帰り道。上中島町から中妻三丁目に入ったとたん、目があったという、たわいもない理由で、愛ちゃんは二人組みの不良少女「キィーキィーキィーの美智子」と「ゴ、ゴ、ゴリラの陽子」にいちゃもんをつけられたのである。
キィーキィーキィーの美智子と、ゴ、ゴ、ゴリラの陽子はむしゃくしゃしていた。
火事現場で“スケ番のお由美”と一緒に、騒いでいただけなのに、職員室に呼ばれ、そこにいた警察官に延延とお説教をくらったのである。
騒いで何が悪い。派手に燃えているのがおもしろいから騒いでいただけなのに、放火犯人であるがのごとく、しこたま怒られた。
頭にきた美智子と陽子は、うっぷんを晴らそうと中妻三丁目を徘徊していたのであった。
《やっと、追いついた》
サンダーちゃんがポチの後から現われた。
《とにかく、もらうもんはもらわないとな~》
サンダーちゃんは、やぶにらみの目をきかせて言った。
「おいおい、また、おかしな犬コロが出てきたぜ」
美智子が言った。
「この暑いのに、よれよれで汚いマフラーを首に巻いてよ、頭がいかれているぜ、この犬」
陽子が相槌を打つ。
《よれよれの汚いマフラーだと!》
さすらいの一匹犬、サンダーちゃんは、トレード・マークである水玉模様のマフラーをこけにされて怒った。
《武士にとって刀は命。この俺様にとっては、マフラーがこの俺様の存在意義なんだ。そのマフラーを貶めるものなど……》
サンダーちゃんは、近くにいた陽子に跳びかかった。
「バシッーツ」という音が鳴った。
陽子が、跳びかかってきたサンダーちゃんを、手に持っていたカバンで叩き落した。
《くっ~ 腹さえ空いていなければこんな奴らなど……》
サンダーちゃんはひざまづいた。
「陽子、まさか本気じゃあないよね」
美智子が言った。
「本気で叩くわけないじゃん。手加減してやったわよ」
「そう、それならいいけど……」
美智子は苦しそうに呻いているサンダーちゃんを、視ながら言った。
熊木陽子。通称‘ゴ、ゴ、ゴリラの陽子’の腕力は半端じゃあない。同学年の男子生徒の中で、彼女の腕力に勝てるものなどいない。陽子は、力自慢の体育の若い男の教師と、腕相撲の勝ち負けを争っている男勝りの筋肉ウーマンでなのである。
「ワンワン、ワン」
ポチは、鋭く吠えた。いや、本人は鋭く吠えたと思っているが、悲しいかな、まだ仔犬のポチの吠え声は、周りから見れば、ただの鳴き声にしかきこえなかったらしい。
美智子が笑いながら、
「なに、鳴いているのよ。この坊やは、この私が相手をしてあげるわね」
と、言った。
榎本美智子。通称‘キィーキィーキィーの美智子’は、直ぐに頭に血がのぼる。おもしろくないことがあると、すぐヒステリーを起こし、カバンの中から下敷きを出して、取り出した下敷きで「キィーキィーキィー」と爪をとぎ、戦闘に備えるのである。
「覚悟しな! ゆくよ」
美智子の鋭利な爪が光った。
ポチ、危うしである。
「ワン! 」
ラッキーが現われた。ラッキーに連れられてか、さっちゃんの姿も見える。
《ポチ! 大丈夫か》
ラッキーが言った。
《僕は大丈夫だけれども……。サンダーちゃんが……》
《なぬ?》
ラッキーはポチの傍らで、倒れているサンダーちゃんを発見した。
(なんだい、こいつは? ここらへんでみたことのない犬だが……)
ラッキーは、中妻町にフレンチ・ブルドックがいるなんて思いもおよばなかった。
中妻町には、最近、やけに人気があるシベリアン・ハスキー犬や、プードルが増えてきていることは知ってはいたが、フレンチ・ブルドックなる犬は初めて見たのである。
《サンダーちゃんが……、サンダーちゃんが、カバンで張り飛ばされて……》
倒れているサンダーちゃんの身を心配して、ポチが悲しそうな顔をしている。
ポチは涙を流していた。本当にサンダーちゃんの身を案じているのである。さっき知り合ったばかりの犬を涙を流して思っている……。
《お、俺は大丈夫だよ……。なあに~ これくらい屁でもねえや》
サンダーちゃんは、ぬっくと、立ち上がった。
さすがである。さすがは、一匹犬をきどる孤高の男、いつまでも、倒れている奴ではない。
ヨッッ! さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃん。満身創痍でもカッコいいぞ。
《サンダーちゃん、大丈夫か?》
ポチが、サンダーちゃんに駆け寄った。
《俺様は騎士だぜ。騎士様がこんなんで倒れてたまるかってーの》
サンダーちゃんは青い耳かきを回した。
《あなた、なに? ここらへんで見かけないけれど……》
ラッキーは首を傾げた。フレンチ・ブルドックも初めて見たが、口に耳かきを咥えている犬もはじめてみた。
《俺か……。俺は水玉マフラーの……》
サンダーちゃんは、口に咥えている耳かきを、ユラユラ揺らして、話していると……。
「おい、また新手が現われたぞ」
と、美智子が言った。
「犬コロ一匹と、二年の女子じゃあねえか」
陽子が応えた。
「どうする?」
「どうするったって、おめえ……。たたんでのすだけよ」
陽子は指をポキポキと折った。
ラッキーはうなった。
二人組みの女の子は、さっちゃんまでその毒牙にかけようとしているのだ。
うなるラッキー、一際高く吠え、戦闘態勢に入った。入った……が。
美智子と陽子は、ラッキーを全然恐がっていない。恐がるというより、うなるラッキーを馬鹿にしている。
ラッキーのかまぼこみたいな眉と、大きく離れた目を笑い、他のビアっテッド・コリーより少し長い口髭を「じいさん、じいさん、そんなに怒っちゃ、いやよ。身体に毒よ。毒なのよ」と嘲笑しているのだった。(ちなみにラッキーはメス犬である)
どうやら、美智子と陽子を恐がらせるには、もっと大きくて凶暴な犬。たとえば、獰猛などーベルマンとか、体格が立派なグレート・デーンじゃないとダメらしい。
「ふっ、こいつからやるかー 」
陽子は、路傍に捨てられてあったビール瓶を片手に持った。
「覚悟しな」
陽子はビール瓶を振り上げた。ラッキーをそれで叩きのめそうとしているのだ。
その時……。
「おまえら、人の家の裏でなにやっている!」
と、いう声が道に響いた。タイミングよく車のヘッドライトのフラッシュと共にである。
車は道を間違って入ってきたみたいで、直ぐに引き返したが、その男は殺気を放っている陽子と美智子を見ても、引き返さなかった。
不良少女の眼光など男の眼中にはないのだ。
男は悠然と歩いてやってくる。
しきしまった身体に青いTシャツが、男の筋肉質の体に映え、スリムジーンズが男の鍛え抜かれた下半身をタイトに覆っている。
男が太陽の下で男が白い歯を見せて微笑むと、太陽がかすんで見えるだろう。夜になれば月と星を友とし、虫の泣き声と語らうことができるであろう。
男の名は、一文字武。一文字武の登場である。
陽子と美智子は身構えた。武から発するオーラが美智子と陽子に緊張感を与えていた。武は、ラッキーやサンダーちゃんとは役者が全然違うのだ。本気になってかかっていかなければならない相手である。
「ワン……」
ポチは短く、頼りなく吠えた。
これだから、二枚目は嫌なのである。
ヒロインがピンチになったとき、どこからともなく颯爽と現われ、あれよあれよいうまに悪党どもをやっつけて、ヒロインのハートを独り占めにして帰って行く。
他の登場人物たちが、これから大反撃を開始しようとしているのに、二枚目は他の役者を全然無視して、敵を叩きのめして、格好をつけて帰ってゆくのである。とんびに油揚げをさらわれるとは、こういうことをいうのだろう。
ポチは、とんびなんかに油揚げをさらわれたくないので、睨みあう不良少女と武の間に割って入った。
《ポチ! 何をするの。あなた大怪我するわよ》
ラッキーが叫んだ。
《こら。俺様に食べ物をよこさないうちに死ぬつもりかー》
サンダーちゃんも吠える。
「ポチ―ー!」
愛ちゃんがしゃがみこんで、顔を両手で覆った。
「なんだ? おまえ。あたいらとやるっていうのか」
美智子がポチに眼を飛ばした。
「笑わせるんじゃあねえ!」
陽子が恫喝をする。
「いい度胸だ。その度胸に免じて、この美智子さまの爪で、ズタンズタンのギィチョンギチョンにしてやるからな」
美智子が木の壁に爪をたてた。「キィーッキィー」という不快な音が鳴る。
ポチ、大ピンチ!
このままキィーキィーキィーの美智子の手によって八つ裂きにされるのであろうか。
美智子の爪がポチに迫る。
その時……。
ポチは笑った。
人間のように目を細め、えくぼを作り、首を斜め四五度にして微笑んだのであった。
「えっー ええええっつー」
ポチの魅力的な笑顔に、美智子が振り上げた手を、思わず、下に降ろした。
(な、な、なんなんだ。これは……)
美智子の力が抜けた。
「どうした。美智子」
「こいつ……。笑いやがった」
「笑ったって? おめえ犬に笑われたのか。犬に笑われるようじゃあ、おめえもおしまいだな。どれ、あたいが、やってやる」
「やめようよ……」
「やめろだと! なんだ、おめえ、犬に笑われて、怖気ついたか」
「そういうわけじゃあないけれども……」
「じゃあ、なんだ?」
「その~う……。なんだか急に優しい気持ちになって……」
「アン? 優しい気持ちだと。馬鹿言ってんじゃあねえ」
「だって……」
「そこで、見ていろ。こんな犬、こてんぱに叩きのめしてやる」
陽子が美智子の前に出た。手にはビール瓶を持っている。
ポチ、再び大ピンチ!
ゴ、ゴ、ゴリラの陽子の腕力に、叩き潰されるのであろうか。
陽子は、ポチににじりよった。
一文字武よ。何をやっている。このままでは目の前で犬が一匹、ゴリラの手によって殺られてしまうぞ!
「くっ!」
一文字武は拳を握り締めた。
おっ! 戦う気だな。それでこそ男である。やはり二枚目は、格好いいなあ~
武が、陽子の魔の手から、ポチを助けようと決意した、その時……。
ポチは笑った。再度、首を斜め四五度にして笑ったのであった。
陽子は手に持っていたビール瓶を地面に落とした。
(あれ、あれあれれ。なんだ、この感覚は……)
陽子の力も抜けた。陽子もまた優しい気持ちになったのであった。
「美智子……」
陽子は呆然としている美智子に声をかけた。
「陽子……」
美智子が力なく応える。
「あたい、なんだか、おかしい気持ちになっちゃった」
「陽子もかい……。私たち……、一体何をやっているんだろうね」
「帰ろう……。帰ろうな、美智子」
「ああ、帰ろう……」
驚いたことに、美智子と陽子から怒りの感情が消えていた。
愛ちゃんに因縁をつけ、サンダーちゃんを張り飛ばし、助けに入ったラッキーとさっちゃんを、殴ろうとした美智子と陽子の怒りの感情が、どっかに飛んでしまっている。あれほど憤怒の炎が燃えていたのに、怒髪天をつく炎は、化学消火器でもぶっかけられた天婦羅なべのように、シューと、消えてしまったのであった。
「帰って、飯でも食おう……」
陽子が言うと、
「そうだな……」
美智子が力なく応え、二人は肩をガックリおとし、車が行き交う表通りの方へ歩いていった。
《ポチ、いま、なにをやったの? 》
ラッキーが右足でポチの背中をこずいた。
《何も……。僕は何もやっていないよ》
《何もやっていないって? そんなことないでしょう。あの凶暴な女の子たちが、すごすごと帰ったじゃあない。何をやったの》
《何もしてないよ》
《何もしていないわけないでしょう。あの子たち、ポチを殺る気でいたわよ》
《何もしていないよ。ただ……》
《ただ……、なに? 》
《僕、人が、大好きだから、そんなに怒らないでよ。ねえ、怒らないでよと、願っただけだよ》
《願っただけ⁉……。願っただけ……。願っただけで、あの子達、帰って行ったの? 》
《そうだよ》
《あの子達……、ポチを殺る気でいたのに……》
ラッキーは目の前で起きたことが信じられなかった。キィーキィーキィーの美智子とゴ、ゴ、ゴリラの陽子は、ポチに対して、尋常でない激しい敵意を持っていた。溢れるばかりの暴力的な感情を抑えきれずにいたのだ。血を見なければ、場は収まらなかったはずである。
《ポチ、一体何をしたのよ》
ラッキーが言う。
《だから、願っただけだよ》
《願っただけね……》
願っただけで、物事が解決するなら、こんなめでたいことはないだろう。
実際、ありえない話である。
犬が笑っただけで、どうにも収まらない争いごとが、嘘のように収まることなんてありえない。犬が笑って、問題が解決し、全てが丸く収まるなら、犬に総理大臣でもをやらせて、政治というものを行なったら、世の中はばら色になるだろう。
《ポチ》
《なあに?》
《さっき、首を傾げただろう》
《首を?》
《もう、一回、やってみて》
ポチは、首を斜めにし、何かをしたのだ。何かをしなければ、あれだけ怒っていた美智子と陽子が、すごすごと肩を落として帰るわけがない。
《もう一回。お願い》
ラッキーは、ポチに同じ事をしろと催促した。
《こう~》
ポチは、首を斜め四五度にして、微笑んだ。
《こ、こ、これは……》
ラッキーは、ポチの身体から発散される、ある種の匂いに戸惑った。
《こ、こ、これは……。何! 何なの。これは!》
ラッキーがうろたえていると、
「一文字さん。ありがとうございます」
と、いう嬌声が路地裏に響いた。
さっちゃんである。
さっちゃんが、「キャア、キャア」騒いで、武に頭をペコペコ下げているのである。武が美智子と陽子を撃退したと思っているのだろうか。感謝感激雨あられという状態なのであった。
「さすがは、一文字さんね。ねっ、愛ちゃん」
と、さっちゃんが言った。
「う、うん……」
「あの美智子たちを、一睨みで、退散させるなんて」
さっちゃんは、あくまで武が美智子たちを追い返したと思っているのであった。
「ど、どうしよう……。さち」
「どうしようって?」
「お礼をしようかしら……」
愛ちゃんは、憧れの人を目の前にして、あがっている。お顔を真っ赤にして、何もいいだせないでいるのである。
「なに言っているのよ。ちゃんと、助けてもらったお礼を言わなければダメでしょう」
「うん……」
愛ちゃんは、ニッコリと微笑んだ。
じょ、冗談だろ!
美智子と陽子を返り討ちにしたのは、ポチだろう。ポチが勇敢にも、美智子と陽子の前に出たから、二人の心が揺れ動き、美智子と陽子は喧嘩をする事が馬鹿馬鹿しくなって、帰っていったんだろう。
愛ちゃんとさっちゃんが助かったのは、ポチのお陰だろう。ポチにお礼を言うべきではないのー。
「あの~ 」
愛ちゃんは、武に近づき、声をかけた。
「なんだい?」
「あの~ 助けてもらって本当にありがとうございます」
愛ちゃんは、勇気を振り絞って言った。
「いや~あ。俺、なにもしていないよ」
武は、頭を右手で掻いた。
そう、おまえさんは、何もしていない。ポチが笑顔でキィーキィーキィー美智子とゴ、ゴ、ゴリラの陽子を退散させたのだ。
ポチが笑って……。はて? 犬が笑うものかと思う紳士淑女といると思うが、犬は笑うのである。
犬は笑わないと示す文献もあるが、いろいろと調べてみると、犬は嬉しくて嬉しくて機嫌が良い時、尻尾を振って、親愛の情を見せ、ご主人様が笑顔でご機嫌がいいときは、犬もうれしくて、ご主人様の真似をして、笑顔になるのである。
信頼するご主人様の表情を学習することにより、犬も笑顔を作れるのだ。
「愛……。大丈夫」
と、さっちゃんが言った。
憧れの人を目の前にして、ときめく愛ちゃんの顔は真っ赤である。地肌が白い愛ちゃんの、お顔が真っ赤っかになっているのである。
「だい、だい、大丈夫よ」
ちっとも、大丈夫じゃない。愛ちゃんは、フラフラと倒れそうである。
「しっかりして。目の前に一文字さんがいるのよ」
「えっー 一文字さん」
愛ちゃんは、よろめいた。
《あっー 愛ちゃんが……》
ポチの右足が一歩、前に出た。
《愛ちゃんが、愛ちゃんが……》
ポチは、愛ちゃんのもとに駆け寄ろうとした。
《ポチ、愛ちゃんは大丈夫よ》
ラッキーが、ポチの行く手を遮った。
《大丈夫じゃないよ。あんなに苦しがって……》
《あれは、苦しがっているわけではないのよ》
《ええっ! 違うの》
《違うのよ。ポチ、よく聴いて……。女の子はねえ……。夢見る乙女というものはねえ、恋をすると……、燃えあがるような恋をすると、ああっ、なるのよ》
《夢見る乙女? 燃えあがるような恋……。夢見る乙女って、愛ちゃんのこと》
ポチは訝る。
夢見る乙女ってなんだ! 起きているときに夢をみるの? そんなこと、ありえないでしょう。そもそも夢っていうものは、眠っているときにみるもじゃあないの。
ポチの脳内に、ハテナ(?)マークが四つも五つも湧き出た。
《ポチ》
ラッキーが怪訝な顔をしているポチに、声をかける
《ポチ……。ポチ! 何を考えているの》
《ん⁉ そのう……。なんだ……。起きているとき見る夢ってどんなもんだろうなーって思って》
ポチは、勘違いしている。ポチが言っている夢と、ラッキーが言っている夢見る乙女の見る夢とは、全然違う。
《……あのね、ポチ。私の言っている夢は、そういう意味の夢じゃあないのよ》
《そういう意味の夢じゃあない? じゃあ、どんな夢》
《強いていえば、希望という夢ね》
《希望……。わかんない》
《わからない? そう、ポチにはまだ難しいかもね。でも、人、いや、生き物というものは、希望がなければ生きてゆけないものなのよ》
《希望がなければ生きてゆけない? そんなことないよ。僕は毎日楽しくてしょうがないもの》
幼いポチには、希望という言葉に込められている切ない願いがわからない。ポチが‘希望’という言葉を真に理解するにはもう少し、時間が必要である。
9、
しわがれた声が表通りのほうから聞こえてきた。
「こちらは地元消防団です。お休みのさいは、火の用心に気をつけて、お休みしてください」
しわがれた声は、町内会長の吉井さんだった。数人の消防団員と共に消防自動車に乗っている吉井さんは、消防車に備え付けられてある大きな拡声器を使い、がなりたてていた。
「こちらは地元消防団です。火の用心~ 火の用心~ 火の用心」
吉井さんは、天にも届きそうな大きな声を出す。
なぜ、がなりたてるか?
昨日も火事があり、町内は大騒動になったが、数週間前にも、放火犯人は吉井さんの乾物屋に火をつけているのである。小火で済んだが、大火事になっていたら、今頃吉井さんは一文無しで夜空の下をさまよっていただろう。
放火犯人、許すまじである。
「火の用心。マッチ一本火事のもと」
吉井さんの、しわがれ声が表通りに響き、しわがれ声を響かせた消防自動車が、愛ちゃんたちがいる路地裏の前に止まった。
「おお~い。何、やっている」
消防車の中から、聴きなれた声が聞える。
寅男さんだ。
源さんの弟、愛ちゃんの伯父、寅男さんが、路地裏の愛ちゃんたちを見つけ、消防車の中から降りてきたのだ。
「いま、何時だと、思っている。さくらさんが心配するぞー」
時刻は八時十分前。いつもなら、テレビを見ながら、大くんとふざけあっている時間だ。
「あのね、おじさん……。これには深い理由があって」
愛ちゃんに代わって、さっちゃんが、応えた。
「深い理由……。深い理由ってなんだ。そこにいる男前と関係あるのか?」
寅男さんは、武を舐めるようにみた。
いい男である。同性のそれも大人の男から見ても、身震いするほどいい男である。
「も、もしかしたら……。おまえら、三角関係のもつれとか」
「そんなんじゃないわよ」
さっちゃんは、ほっぺをプーウウーっと膨らました。
「俺が説明するよ」
さらさらの髪を風になびかして、武が言った。
武は、愛ちゃんとさっちゃんに暴力を振ろうとした陽子と美智子のことを、簡潔に説明した。
「ふう~ん。それじゃあ、おまえさんが、うちの愛とさっちやんを助けたわけか」
寅男さんは、事情を飲み込めたようで全然飲み込んでいない。本当はポチが愛ちゃんを助けたのに、武が陽子と美智子を追っ払ったと思っている。
「俺は何もしていないさ」
武が言う。
「何もしていないって、おまえさんが、そのゴ、ゴ、ゴリラの陽子とキィーキィーキィーの美智子の前に立ちふさがって、愛とさっちゃんを守ったんだろう」
「いや、俺が行動を起こす前に、この犬が……」
武は、ポチの能力に気づいているのだろうか。武の鋭い視線がポチを射った。
「ポチが……。ポチが何かしたのか」
「…………」
何かしたのかと言われても、武は応えられない。何かをしたはずなのに説明ができない。
何かをしたはずなのに……。
武は、もどかしさに舌をうった。
「愛、家まで送るぞ」
寅男さんが言った。
「いいでしょう。会長」
吉井さんが、いつのまにやら消防自動車から降りて来ている。寅男さんの傍らに着いた吉井さんは、「うん、うん」うなずいた。
「さっちゃんも送るんでしょ。さっちゃんの家まで」
愛ちゃんが言った。
「もちろん。さっちゃんもラッキーも、そこにいる……。えっ! どこの犬だ。その犬」
寅男さんは、見知らぬ犬にまごついた。
「ちょっと、待って」
愛ちゃんが、サンダーちゃんを抱きかかえた。抱きかかえてサンダーちゃんの身体を見ると、首に巻かれてあるマフラーにサンダーちゃんと名前が書かれていた。名前と一緒に「この子は、サンダーちゃんといいます。新しい飼い主の方。よろしくね」と書かれてあった。
「よろしくね……。新しい飼い主の方。よろしくねだって。この犬、もしかしたら捨て犬?」
もしかしないでも、サンダーちゃんは捨て犬なのである。半年前、二月の寒空の下、風が枯れ木をもてあそぶ大天場山に捨てられた哀れな捨て犬なのである。
「かわいそう」
愛ちゃんは、サンダーちゃんの頬に自分の頬をつけた。
「捨て犬か……。よし、屯所に連れて行こう。会長、いいでしょう」
「そうだな。だいぶ弱っているようだから、屯所に連れていって、飯でも喰わせてやろう。飯でも喰わせれば元気になるだろう」
おやおや、意外な展開である。さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんは消防団第二分団第一部の消防屯所に連れてゆかれることになったのであった。
10、
町の防災のかなめ、消防団。
各市町村にもあるが、我が街、釜石市にも消防団というものがある。
消防団というのは、町の安全と安心を守るため、有志が集まった組織である。ほとんど無償で働く。ただ同然で、火事が起きると夜中でも起きて消火活動をするのである。それだけでも、ごくろうさんなのだが、消防団の仕事は消化活動だけではないのである。大きな地震が起きれば、町を周って被害場所をチェックしたり、大規模な風水害が発生すると、率先して、救助活動をするのである。
「ブウッウウー」と派手な音をたてて、一台の消防車が第二分団第一部の消防屯所に帰ってきた。
屯所の中から、迎えの男たちが出てくる。
「あれっ! さっき出て行ったばかりなのに。もう帰ってきたんですか?」
屯所で、ご苦労さんの宴を準備していた居残り組みが不審に思い、首を傾げた。
夜のパトロールは通常七時から始まるが、今日は団員の集まりが悪く、団員がそろうのを待って、七時半からパトロールが始まった。遅く始めたので、九時頃まで町内パトロールがかかると思っていたのである。
消防自動車の中から、寅男さんたちが降りてくる。寅男さんが降り、次にサンダーちゃんを抱えた町内会長の吉井さん。味三番のラーメン屋のおやじ。そして愛ちゃんが、ポチを抱えて消防自動車の中から、降りてきたのであった。
愛ちゃんは消防自動車から降りると、
「屯所に着いたの? 家の近くにあるけれども、中に入るの初めて」
と、言った。愛ちゃんは、屯所の中に入る気らしい。
「あれっ? 源さんちの愛ちゃんじゃあないの。なんで、こんな夜分に」
屯所で留守番をしていたお菓子屋のケンちゃんが、愛ちゃんに声をかけた。
「ちょっと、これにはいろいろあってな」
愛ちゃんの代わりに、寅男さんが答えた。
「それより、冷えたビール、あるか」
「ちゃんと、用意してあるよ。酒のつまみに焼きイカもあるし」
と、ケンちゃんが言うと、
「ほーう。焼きイカがあるか。他には?」
と、吉井さんが言う。
「他に? 他には焼きそばもあるし、鶏の唐揚げもあるよ」
「よし、その鶏の唐揚げと焼きそばを、こいつにやってくれ」
吉井さんは、腕の中に抱えたサンダーちゃんを、ケンちゃんたちに見せた。
「どうしたんですか、その犬」
「捨て犬らしいが、かわいそうだから連れてきてやったんだ」
吉井さんは、サンダーちゃんを床に降ろした。
電灯に照らされたサンダーちゃんの姿は、ボロボロである。二月に山に捨てられたサンダーちゃん。今は七月。半年の放浪生活が、サンダーちゃんの容姿を、みすぼらしい姿に変えていた。
「待ってろよ。いま、うめえもの食わせてやるからな」
団員さんたちが、サンダーちゃんの周りにしゃがんで、テーブルの上の鶏の唐揚げだの、焼きそばだのを、サンダーちゃんに与えた。
《良かったね。サンダーちゃん》
ポチが言うと、
《うん、うん、良かった……。良かった……》
サンダーちゃんは、顔をくしゃくしゃにして喜ぶのだった。
中妻三丁目の路地裏で愛ちゃんたちを拾った第二分団第一部の消防自動車は、山崎さんの家に寄って、さっちゃんとラッキーを降ろし、一路、水戸家に向った。
水戸家に向ったが、さくらさんの、お叱りを恐れた愛ちゃんが、一度屯所の中を見てみたいと言いだしたのである。
屯所から、寅男さんが家に電話してくれると、そう、考えたのに違いない。
夜の町から直接家に帰るより、屯所にいたから遅くなったと、いいわけができるというわけだ。
寅男さんが「さくらさんが心配するからわがままをいうなよな」と、愛ちゃんをたしなめたが、寅男さんの隣にいた消防団長でもある、太鼓腹の町内会長の吉井さんが、「さくらさんには、俺が言っておく。少しぐらいいいだろう。社会勉強だ。社会勉強」と言ったので、愛ちゃんと、ポチが、は屯所に無事に来ることになったのであった。
寅男さんは、早く愛ちゃんを家に帰したがったが、団長の言うことには逆らうことはできない。
消防自動車は、急遽道を変え、さっき出たばかりの屯所に帰ってくることになった。
「じゃあ、わし、表にある公衆電話から、源さんちに電話をかけてくるから。さくらさんが心配していると思うから」
寅男さんの代わりに、吉井さんは、電話をかけに屯所から出て行った。
いまでこそ携帯電話という便利なものがあるが、この当時はそういうものはなかった。高価でかさばる自動車電話が携帯電話の代わりにあるが、もちろん、そんなものが屯所にあるわけないので、吉井さんは屯所の外にある公衆電話に行ったわけである。
「えっ、先生。なぜ、ここに」
愛ちゃんが、担任の佐々木勇雄先生に気づいた。
「佐々木先生は。この春から我が消防団の一員になってもらったんだ」
寅男さんが言った。
「先生、消防団員なの」
愛ちゃんが尋ねる。
「ああっ、忙しい教職のかたわら、こうして地域に貢献している。先生には主に車両の整備をしてもらっているんだ」
と、お菓子屋のケンちゃんが言った。
「へえぇ~ 先生、車両の整備もできるの」
「へえぇー じゃあないだろう。この先生はちゃんと車両の整備をし、防火活動もきちんとやっているんだよ。俺はよう、先生は凄いと思うぞ。教師をしながら消防団員をやるなんて、凄い、凄い。佐々木先生はきっと凄くて偉い人なんだと思う」
と、寅男さんが言った。
「へえぇー」
「だから。へえぇ~って。へえぇ~って、なんだ。近頃じゃあ消防団員になる奴は、なかなかいないんだぞ。それなのに、この佐々木先生は自分から、消防団に入れてくれと言ってくれたんだ」
消防団員の数は年々、減ってきている。整備された消防自動車があっても、消防団は団員がいなければ、はなしにならない。
団長である吉井さんは、責任を感じ、あっちにいいなあ~と思う若者がいればスカウトに走り、こっちに消防団員になってもいいという中年のおじさんがいれば、ゴマをスリスリ勧誘をする。が、なかなか、人が集まらない。
そんな状態の中、消防団に入ってきた佐々木先生は、待望の新人消防団員であった。
ちなみに、佐々木勇雄先生は、今年の四月に釜石第二中学校に赴任してきたばかりの先生である。
歳は三十一才。独身。数学の教師。二年二組の愛ちゃんの担任の先生だ。
《この人……》
ポチが眉間にしわを寄せている。
《どうした?》
鶏の唐揚げを食いながらサンダーちゃんが尋ねる。
《この人……。火事があった日。ガソリンの臭いをプンプンさせていたんだ》
《ガソリンの臭い……》
サンダーちゃんは、目を細めて佐々木先生を見た。
誠実そうである。頭をきれいに七三に分け、にこやかに笑っている。とても、ガソリンを使って悪い事をするような人間には見えない。
《ポチ……。おまえ、考えすぎだ。この人間が悪い人間か》
《でも……》
《さっき、この人に車両を任せていると言っていただろう。きっと車を整備しているとき、服にガソリンがついたんだろう。おまえ、その臭いを嗅いだんだ》
《そうかな~》
《そうだよ》
サンダーちゃんは、そう言って、十二個目の鶏の唐揚げを、ほお張るのであった。
ポチが、毅然と顔を上げた。なんだ、何があった?
《大変だ。今度はあの子が大ピンチだ》
11、
上中島一町目にあるゲーム・センター『イップク』には、なぜか、いかずの年配者が集まる。
もちろん、遊び盛りの中学生や高校生も来るには来るが、彼らは、人気のゲーム・マシンを年寄り連中に占領されて、ぶつくさ言って、隅で、たむろしているのである。
隅でぶつくさ言わないで、直接、「俺らにもそのゲームをやらせてもらえないですか」と、言えばいいのだが、年寄り連中の持つ、あのなんともいえない独特の雰囲気に押し倒されて、言うにいえない。
前に一度、中学生が勇気を出して「あの~ すいません。俺たちにもそのゲーム台、やらせてもらえませんか」と、言ったら、「いいか良く聞け。物事には順番ていうものがあるんだ。いい若いもんのくせに、そんなことも分からんのかー」と怒鳴られた。
頭にきた中学生が「そんなこと言ったって、おじいちゃんたち、もう、三時間もそのゲーム台、占領しているでしょうが。みんな、おじいちゃんたちが席を離れるのを待っているんだよ」と、言い返すと「うっううっ……。年寄りの唯一の楽しみを奪うのか。わしらは、これだけが生甲斐なんだ。分かるかい。これだけが生甲斐なんだよーう」と、言って鼻水を垂らしながら泣くのであった。
いやはや、誠に困った年寄りたちである。
が、悪意があるわけではないので、中高生たちはしかたがねえなと、あきれ返り、『イップク』の店主は見てみぬふりをしているのであった。
『イップク』のど真ん中にある柱時計が、午後八時四五分をさしていた。
さすがに、この時間になると年寄りたちは家に帰ってしまい、『イップク』の中には中学生と高校生しかいない。
その中に由美がいた。涼子先生に家まで送ってもらったはずの通称スケ番のお由美がイライラしながらピンボール・マシンを弾いていた。
(家に帰っても、誰もいねえしよ~う)
ピンボール台のボタンを押す、由美の指使いが荒くなった。台が大きく振動する。TiLtの文字が電光板に浮かび上がって、フリッパーが止まった。
由美は舌をうった。
ピンボール・マシンが異常を感じ、止まったのである。
由美はピンボール・マシン機の脚を蹴った。
「由美ちゃん~ いたの?」
自動ドアを開けて、一人の老婦人が、愛犬のプードル犬〝さゆり〟を引き連れて『イップク』の中に入ってきた。
「えっ、徳子さん」
由美は怪訝な顔をした。
今年、七十になる上辺徳子さんは由美の友人で、可憐なプードル犬さゆりと一緒に暮らし、歌曲やお茶を趣味にしている、とってもとっても優雅なおばあちゃんなのである。用もないのに、暇つぶしに、ゲームセンターに入り浸るような、おばあちゃんではないのだが、なにやら思惑があるらしく、しずしずとさゆりを連れて『イップク』に入って来た。
「良かった。ここで逢えて。家にいったらいないから、こちらに回ったら、やはり、ここにいたのね。由美ちゃん。はい、これっ」
上辺ばあさんは、手に持っていた紙袋の中から、なにやら取り出して、由美に渡した。
「徳子さん。ありがとう」
由美はたい焼きをほおばった。
「冷めたら、おいしくなくなっちゃうでしょう。だから、急いで来たのよ」
「夜八時を過ぎているのに、こんな所に来なくてもいいと思うけれど」
「夜八時だから、ここに来てみたのよ。この時間、由美ちゃん、いつもアパートに独りでいるでしょう。母さんの帰りは十時過ぎだし、それまで待っていたら、たい焼き食えなくなってしまうわよ」
「ごめんなさいね。気をつかわせて」
「いいのよ」
上辺ばあさんは、優しく微笑んだ。
「由美ちゃんも大変ねえ。放火犯人、扱いされたって」
「そうなの。頭にきちゃう」
「由美ちゃんが、そんなことするわけないのにね」
「そうよ。私がそんなことするわけないでしょう……。て、徳子さん。誰から聞いたの? 私が放火犯人扱いされたってこと」
「美智子たちから、聞いたよ」
「美智子……」
由美は、あの、おしゃべりめと、小声で呟いた。
「早く、捕まるといいのにねえ……放火犯人」
上辺ばあさんは、ぼやいた。
「捕まって、欲しいような、欲しくないような……」
「えっ、由美ちゃん。放火犯人、捕まって欲しくないの?」
「そういうわけではないけど……」
由美は言葉を濁した。
放火犯人は捕まって欲しいとは思う。けど、捕まったら、火事場見物ができなくなる。せっかく火事場見物という楽しみが増えたのに、放火犯人が捕まったら、おもしろくなくなるなーとも、由美は思っているのである。
「由美ちゃん、捕まって欲しくないの」
「いや、その……。火事場の、あのお祭り騒ぎが大好きなもんで」
「お祭り騒ぎ? 由美ちゃん!」
「はい」
「そんなこと考えているから、犯人扱いされるのよ」
「す、すいません」
由美は素直に謝った。
上辺ばあさんは、心を許せる、数少ない友人である。だからというわけでもないが、由美は上辺ばあさんにだけには、素直になれるのである。
「その台、難しい?」
上辺ばあさんが、由美がいままでプレイをしていたピンボール台に手を置いた。
「この台、おもしろいけど、頭にくる台だぜ。もう、三十回もやっているのに全然、点数が伸びやしねえ」
「ふん~ん」
上辺ばあさんは、ピンボール台にコインを入れた。
「えっ! 徳子さん。できるの」
由美の困惑を尻目に、上辺ばあさんはプレイを開始した。
ボールが弾かれる。レーンを通り、次々とドロップターゲットを倒し、役を作り上げてゆく。わずか三分後には、規定の得点に達してエキストラ・ボールが追加されていた。ボールはまだ一度もホールアウトしていない。
「す、凄いじゃない。徳子さん」
由美は目を丸くした。
「どういたしまして」
上辺ばあさんが、得意になると、足元のさゆりが「キャン」と一声、吠えた。
上辺ばあさん、どうやら、お忍びでここに通っているようである。用もないのに、ゲームセンターに来るような人であった。
「うまくて、あたりまえだろ。こいつは日中、ずーっとこいつで遊んでいるんだぜ」
高校生らしき三人組の男たちが声をかけてきた。
「なんなの、あんたら」
由美は身構えた。
「俺たちか。俺たちは……。俺たち、何なんだろうな」
スポーツ刈りの男が言った。
「さあ、しらねえな。イサム、俺たちって一体なんだ?」
太めの男が応える。
「何なんだろうな。ポリ公じゃあねえことは確かだな」
イサムが茶化した。
「ばっかか……。俺たちがポリ公なはずねえだろう」
「じゃあ、何だ」
「決まっているじゃあねえか。俺たちは……俺たちは札つきの不良よ」
「そうだな。俺たちは札つきの不良だよな」
「札つきの不良か……。ちげえねえ……。あっはははは」
三人の男たちは大きな声で笑った。
「ウウッ~」
さゆりが唸った。
見かけは可愛らしいが、さゆりとて、犬である。ご主人さまの身を案じたのである。
「おっ、この犬、俺たちに歯向かう気だぜ」
仲間から、イサムと呼ばれているリーゼント野郎が、さゆりを高々と持ち上げた。
上辺ばあさんが、「あれぇー」と悲鳴をあげる。
「なに、するのよ。あんたたち」
由美が不良たちに立ち向かった。
「なにもしねえぜ。こうやって遊ぶだけよ」
イサムはさゆりを放り投げた。太目の男がさゆりをキャッチする。
「こいつこれでも犬か。まるで、縫いぐるみじゃあねえか」
太目の男は、そういうと、スポーツ刈りの鋭い目つきの男に向かって、さゆりを放り投げた。
「ふん、犬コロが。おい、みんな、こいつをどうする」
さゆりを受け取ったスポーツ刈で鋭い目つきの男が、さゆりの首に手をかけた。
「どうする。おう、どうする」
鋭い目つきの男は、三人組のリーダーのようだった。他の二人を威圧しながら話している。
「どうするって、そりゃあ~ 中村さんのお好きなように」
イサムが言った。
「好きなように、しろってかー 横田、おまえはどうなんだ」
「ええっ、あっしも、イサムと同じですでえ。中村さんのお気に召すように」
横田は、卑屈に笑った。
「じゃあ、こいつをボールにしてサッカーでもするか」
中村の口元から良く発達した八重歯が覗いた。
「ふざけないでよ。そんなことしたら、さゆりが死んでしまうでしょうー」
由美が止める。
「ふざけてないよ。俺たちは本気だよ。なあ~」
「へっへっへ。犬でサッカーなんて、さすがは中村さん。蹴るたびにいい声が聴けますぜ」
横田が言った。
「ほんと、キャンキャン鳴いて、あっちこっちに逃げ回り、おもしろいゲームができるてぇもんだ」
イサムがはしゃぐ。
「やめなよ」
由美は近くにいた横田の頬を張り倒した。
「いてえっっー。いてぇえー いてえよ。あっー いてえ」
横っ面を張られた横田は、大袈裟に騒いだ。
「このスケ、横田の面を殴りやがった。中村さん、こいつどうします」
イサムが言うと、
「そうだな~ 」
中村は、よく発達した八重歯を見せ、由美に鋭い視線を送った。
「おい、そいつを連れて外に出ろ」
中村が、横田に命令した。外に由美を連れ出し危害を加えようとしているのだ。
「あなたたち、由美ちゃんに何をするのよー」
上辺ばあさんが、中村の袖を掴んだ。
「うるさい」
中村は上辺ばあさんの手を邪険に払った。
「イサム、わかっているな!」
中村が指示を出す。
「わかっていますよ。このばあさんと……、そこに隠れている管理人を見張っていればいいんでしょう」
イサムは、トイレのドアの隙間から、こっちの様子を窺っている爺さんを睨みつけた。
「そこから、出てこいよ。出てこないと、この婆さんの面を張ったおすぞー 張っ倒した後で、そっちにいっておまえも殴るからなー」
イサムの恫喝に、トイレからモヤシみたいに痩せた爺さんが出てきた。
「おまえ、俺たちが来てから、そこに隠れただろう」
イサムの隣で、中村が言った。
「なんで、俺たちの姿を見て、そこに隠れたんだ」
「……あんた、工業高校の中村 元だろ」
もやしみたいな爺さんが、中村の方を見て、ぼそっと言った。
「ほう、俺のことを知っているのか」
「あんたは、有名だよ。何をするのかわからんから、関わらないほうがいいと……」
「俺と関わらない方がいいという噂があるのか。ふん。誰がそんなこと言っているんだ」
「誰がって……」
もやしみたいな爺さんは目を泳がせた。
中村たちが、ゲーム・センター『イップク』に入ってきたとき、『イップク』の管理人である、もやしみたいな爺さんは一目散にトイレに避難し、『イップク』にいた他の中高生たちは、中村の姿を見るなり、蜘蛛の子を散らすように店から出て行ったのであった。
中村は有名な悪なのである。
「えっ!! あんたが、あの中村 元」
由美は振るえた。
中村 元の噂は聞いている。
街でちょっと顔をきかせている不良たちの中で、中村の名を知らない奴はいない。
「お嬢ちゃん。あんた災難だねえ~ あんた、ピンボールに夢中で、中村たちが、ここにやってきたのに、気がつかなかったんだよ」
もやしみたいな爺さんが、震えながら言う。
「横田、さっさとそいつを外に連れてゆけ!」
中村が横田に言うと、由美は横田の腕から逃れようともがいた。
「気が強い女だな」
中村は由美の右腕を、強く掴んだ。右腕を中村に掴まれ、左腕を横田に掴まれている由美は、もう、もがくことすらできない。
「離して、離してよ~ 」
由美が叫ぶと、中村は由美の頬を張った。
「俺をなめると、どういう目にあうか、思い知らせてやるー」
中村はそういうと、横田と一緒に由美を引き連れて、『イップク』から出て行った。
「イサム、その爺さんは、おまえに任せるよ。余計なことをしないように見張っておけよ」
『イップク』を出る間際、横田がイサムに指示を出すと、表に出た中村たちは、路地を通り抜けて、裏通りに入っていった。
「さて、どうしてやろうか」
中村は由美の頬を、右手で鷲掴みにした。
「中村さん、どうするんでぇー」
横田がほくそ笑む。
「そうさな~」
中村は口を歪ませた。
街一番の悪と呼ばれている中村 元。
中村の悪行は、田舎の高校生が行う所業ではない。高校生とは思えない悪戯をする。
バイク屋から、大型バイクを盗み、それに乗ってお菓子屋さんのウインドーに突っ込んでみたり、夜道、ちょっと気にくわない担任の先生を待ち伏せしては、叩きのめし、翌日校舎の屋上からぶら下げてみたり、気ばらしに、道路上にあるマンホールをこじ開け、消火栓を開放し、町内を水びたしにした。
恐れ入る、中村の悪行。
中村は何度も悪戯を繰り返し、幾度となく補導されるが、更生することは決してなかった。中村の悪さは、増すばかりである。
「こいつの家に火をつけて、仲間を呼んで、高見の見物といこうか」
中村がふざけて言った。
「火をつけるって……。あんたら、まさか……」
由美が、おののきの目で中村を見た。
「あんたたちが、あんたたちが放火しているのー」
中村たちが放火犯人だとしても、全然おかしくない。いや、中村なら、きっかけさえあればやってしまうだろう。
「俺たちが放火をしていると思うか?」
中村は由美の瞳を覗きこむように見ると、路上に唾を吐いた。
由美は心の底から震えていた。手向かう気持はすでに失せている。
もやしみたいな爺さんが言っていたように、中村は何をするのかわからない。女の自分にも容赦はしないだろう。
「ワン!」
ポチが現れた。唐突である。
薄暗い裏道に、場違いな、かわいらしい仔犬が突然現れたのである。
「あん? なんだ、この犬。横田、おめえの家で飼っている犬か」
中村が横田に訊いた。
「いえ、うちの犬じゃあありませんよ。うちの犬はウルフという名ばかりが格好いいチンがいるだけで……」
「ばっきゃーろー。名なんかどうでもいいんだよ。こいつは、おめえところの犬かって、聞いているんだよ」
「うちの犬じゃあありません。どっかの犬だと思いますが……」
「おめえところの犬じゃあねえのか。それじゃあ、何も問題はねえな」
「問題ないというと……」
「始末しろ」
「はっ?」
「はっ、じゃあない。さっさと始末しろと言っているんだ」
「へぃ~」
横田は、ポチに近づいて行った。
天然パーマのちりちりした髪の毛が、ポチに迫ってくる。横田の体重は軽く百キロを超えているだろう。まん丸の眼鏡がどことなく滑稽な感じがするが、見方によっては、チンピラが眼鏡をかけて凄んでいるようにも見える。
「さて、どう始末しようかな」
横田はポチを掴もうとした。
ポチは、横田の手からスルリと逃げた。掴むタイミングを外された横田が地面に片膝をつく。
「この野郎~ ちょこまかちょこまか動きやがって」
横田は、ポチを捕まえようとするが、そのたびにポチは横田の手をかわした。
「ワン、ワン、ワン、ワン」
逆方向から、別の犬の鳴き声が聞こえた。
「なんだ」
中村が振り向くと、青色の耳かきを咥え、水玉模様のマフラーを首に巻いたちんけな犬が、山のように高く積まれたビール箱の蔭から姿を見せた。
さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんである。
《ポチ!》
吠える、サンダーちゃん。
突如現れた、サンダーちゃんは、屯所で腹一杯、飯を食べたので、体中に力がみなぎっているように見えた。
《ポチ、およばずながら、このさすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんが力を貸すぜ》
サンダーちゃんは風に水玉模様のマフラーをなびかせる。
《どうしてここへ?》
《どうしても、こうしてもねえだろう。おめえのおかげで、たらふくおいしいものを食べることができたんだ。それによう、宿無しのこの俺を、消防団でこの俺さまを飼うことにしたらしいぜ。まったく、おめえのおかげだわな。おめえは恩犬というわけさ》
サンダーちゃんは、ポチにウインクをして見せた。
ポチが、急に立ち上がり、屯所から出て行くには相当な理由があるに違いないと思ったサンダーちゃんは、口の中にあったたくさんの鶏の唐揚げを、無理やり、腹の中に入れ、ポチの後を追い、ここに駆け付けたのであった。
《ポチ、ここは任せてろ。こんな奴らの一匹や二匹……。このサンダーちゃんが……》
サンダーちゃんは、無謀にも横田に挑んでいった。
勇ましく、かかっていったが……。
「ぶぎゃあぁー」と、車でのら猫を轢いたような声がした。サンダーーちゃんが横田に張り飛ばされた声である。
《こ、こ、こんなはずでは……》
果敢に横田に挑んだサンダーちゃんは、いとも簡単に路上に転がされたのであった。
「へっ、てんで話しにならないの。次はおまえだな!」
サンダーちゃんをのした横田は、指をポキポキ折って、ポチに近づく。
その時……。
車のヘッドライトのフラッシュが路上に光輝いた。
眩しい閃光の中から現れたのは、ご存じ、一文字 武であった。
12、
だから、だから嫌なのである。
二枚目という奴は……。
いつもいつも、登場人物が危機に陥ったときだけ、颯爽と現れては、いいところを横取りする。
さっきだって、ポチがこれから格好いいところを見せようと思っていたところに、武が、その凛々しい姿を見せて、いいところを、かすめ取ったのである。
まったく、もう~ これだから、二枚目という奴は……。
ポチは、都合よく現れた武を見て、「ワンワン」と鳴いたのであった。
「おまえたち。おまえたちだな。うちの爺さんを泣かせたのは」
武が言った。
「うちのジジイを泣かせたと? へっ、おめえは誰なんだ。おめえところのジジイなんか知らねえよ」
横田が凄む。
「イップクで管理人をしているのが、うちの爺さんだ」
「あん? あのもやしみたいな爺さんがおめえの爺さんだというのか。あの爺さんなら、いまごろ、イサムが可愛がっているだろうよ」
「イサム? あ、あー あのリーゼントの男のことか。そいつなら中でのびているよ」
「なぬ」
横田は驚いた。
一緒に暴れまくっているイサムが、中学生風情にやられたというのである。
イサムは、そう簡単にのされる男ではない。喧嘩慣れしている。そのイサムをやっつけたというのだから、武の実力も相当なものだろう。武は格好いいだけの男だけではなかったのだ。
「どいてろ」
中村が横田を押しどけて、武の前に出た。
「おめえ、高校生に手を出すとはいい度胸してるじゃあねえか」
中村が野獣の目のような瞳を光らせる。
武は後ずさった。
かなう相手ではない。武は咄嗟に悟った。
武、危うし!
武がいくら喧嘩が強いといっても、中村は相当な修羅場を踏んでいる。腕力も強そうだ。とてもたちうちできる相手ではない。
「ワン!」
ポチが吠えた。中村が振り返る。
「この犬、まだいやがったのか」
中村が舌を鳴らした。
舌を出して、こちらを見た中村はまともにポチを見た。
ポチは笑った。首を斜め四五度ほど傾けて、微笑んだのである。
「なぬ?」
中村は犬に笑われると思っていなかった。「この野郎ー」と言わんばかりに、ポチに迫る。
迫った……、迫った……迫ったが……。
なんだか、中村の様子がおかしい。宙を見つめ、呆然としている。
「中村さん。どうしたんですかい」
横田が言った。
「中村さん……」
横田がおずおずと言うと、中村は、その場で三回転半をして、横田を見た。
「僕たち、何を馬鹿なことをしていたんだろうね」
中村が満面の笑顔で言う。
「はっ?」
横田は困惑した。
なんか、おかしい。中村が“僕”なんていう言葉を使うはずない。それにくるりと三回転半も回って、笑顔でものを言うなんて、おかしすぎる。
目の前にいる人物は中村なのだろうか?
「横田くん。お遊戯しない。お遊戯、楽しいよ~」
「へっ?」
「こうやってさあ~」
おかしくなった中村は、突然、その場でお遊戯を、おっぱじめたのであった。
「中村さん……。一体どうしたんです。おかしいですよ中村さん」
「おかしいのは、君たちの方だよ。なんで、こんな楽しいことやらないの? お遊戯、楽しいよ。ほら、君もやりなよ」
中村は横田の手をとった。
「タラタラタラッータラ~ ウサギのダンス~」
中村は調子にのって、クルリクルリと横田の周りを回り始めた。
横田は中村と、つきあいが長いがこんなふうになった中村を一度もみたことがなかった。どんな悪ふざけをしても、歌を唄いながら踊ったことなんて一度もない。
なにが、中村に起こったんだろう。
横田は、その場から逃げだしたい気持ちになった。
「なにしてるの。君も踊りなよ」
「はっ?」
「はっ、じゃない踊るんだよ」
「いえ、そのう……」
「踊れっていってんだよ」
「へぃ……」
横田は逆らっても仕方ないので、踊ることにした。
「こうですか。中村さん」
「違うよ。こうやるんだよ」
中村は手取り足取り、横田にお遊戯を教える。横田はお遊戯なんて何十年もしたことがないので、身体が中村の動きについてゆけない。ぶざまに転んでしまう。中村は手をかして横田を立たせ、また、一緒にお遊戯を繰り返したのであった。
「中村さん。お、お遊戯、うまいですね。練習、していたんですか?」
「そんなのするわけないじゃん。こういうものは、ちょっとした“コツ”よ。ちょっとした“コツ”」
「はっぁ~」
「あっ、それそれそれっ、ウサギのダンス~ 横田、一緒に唄え」
「はい。ウサギのダンス~ ウサギのダンス~」
踊りながら、横田は半べそになっていた。
「中村さん……」
山のように高く積まれたビール箱の蔭から、イサムがよろよろと現れた。
「中村さん……。かたきをとってくださいよ」
裏道に現れたイサムは、自分を叩きのめした武に一瞥をくれると、中村の姿を探した。
「な、な、な、中村さん!」
イサムがそこに見たもの。
それは、楽しそうにお遊戯をしている中村たちの無邪気な姿だった。
「な、なに、やっているんですかい。中村さん」
イサムは目の前の光景が信じられなかった。
「なにをって、見ればわかるだろう。お遊戯だよ。お遊戯」
「お遊戯って……」
イサムは言葉を失った。
街一番の悪が、こともあろうに夜の街でタラッタラッタラッターとお遊戯を踊っているのである。
「横田。……おまえまで、なに、踊っているんだ」
「仕方がねえだろう。中村さんが踊れって言っているんだ。踊るしかないだろう」
「踊るしかないって……。おまえなあ……」
でぶっちょの横田が必死になって踊っている。百キロを超す巨体が汗水たらして、かわいらしく踊っているのである。腰に手をやり、脚を上げたあと、胸のところで、両手でハートマークを作ったりして、けなげにリズムをとっている。
懸命に踊る横田の姿は、病み上がりのメガネをかけたオラウータンが、ディスコではしゃいでいるかのようにも見える、とっても、とってもユーモラスな姿であった。
「は~ぁあぁ」
イサムは大きくため息を漏らした。
「イサム、おまえも、踊れ!」
「えっ?」
「えっ、じゃあない。踊るんだよ」
「そんな、踊れって言ったって……」
イサムは困ってしまった。
(いくら、中村さんの命令でもこんな所で、しかも、お遊戯なんて、踊れるわけねえじゃあねえか)
「踊れねえのか」
「いえ……。その~う」
「……そんなに踊るのがいやか」
と、中村。
はっきり嫌だと、口が裂けても言えない。
中村に反抗して、女子トイレの中に生まれたままの姿で放り込まれた奴だとか、蛇がたくさんいる落とし穴に落とされて、一晩中、泣き叫び、助けを求めた奴だとか……。そんな哀れな奴らを、イサムはずいぶん、見てきている。
中村の命令は絶対で、命令に逆らうと、とんでもない目に遭うのだ。
「そんなに嫌ならいい。無理強いは言わん。そのかわり……」
「そのかわり……。なんですか」
イサムの身体に悪寒が走った。
なにか、とんでもないことをやらされるに決まっている。
一体、何をやらされるのやら……。
「そのかわり……」
「そのかわり……。なんですか」
イサムの額から冷や汗が、一すじ流れた。
中村はイサムに何をやらせようとしているのだろうか。
イサムは、あれこれ、酷い目というものを想像した。
もしかして、あんなことをやらされるのか。いやいや、あんなことではすまない。きっと、あれか。いや、あれかもしれない。いやいやいや、もしかすると……。
イサムは思いを、あれこれ巡らし、きっといままで遭ったことも出遭ったこともない、とんでもないことをやらされるだろうと、恐怖に震えるのだった。
震えるイサムに中村が発した言葉とは……。
「僕と一緒に小鳩幼稚園までスキップしよう」
中村は実に意外な命令を出した。
「ええっ⁉」
なんの因果で、ここから一キロも離れている小鳩幼稚園までスキップをしなければいけないんだろう。
考え方によっては、裸になって女子トイレに飛び込んだ方がよかったかもしれないし、蛇の穴に落ちた方が良かったのかもしれない。
「スキップ。スキップ。スキップ、楽しいスキップ。愉快だな~ 君い~ スキップ、知っているだろう」
「ええっ……」
「よし。三人で手をつないでスキップしよう。スキップしながら小鳩幼稚園まで行くんだ!」
中村は、しっかりと横田とイサムの手を握った。
「レッツ・ゴー。目指すは小鳩幼稚園!」
「本当に小鳩幼稚園まで行くんですか」
半べその横田が言った。
「もちろんー 行くよー」
中村が満点の笑顔で応える。
「中村さん。考え直してくださいよ~」
イサムが懇願した。
「なにぃ~」
中村が、怒りの目を見せる。
「す、すいません。スキップ、スキップ、楽しいな」
「楽しいだろう。じゃあ、みんなでスキップしような」
中村たち三人組は、唖然としている由美や武をその場に残し、裏道から出て行ったのであった。
《ポチ……。おまえ、何かやったのか?》
サンダーちゃんが言った。
《別に、何もしていないよ》
《何もしてないってことないだろう》
《何もしていなったら……》
ポチは二コリと微笑んだ。
《そ、その笑い……。その笑いに何か秘密があるんだ》
サンダーちゃんは、ポチの笑顔のその中に、何か意味深長なものがあると睨んだ。
ゴ、ゴ、ゴリラの陽子とキィーキィーキィーの美智子を撃退した時も、ポチは、なんともいえぬ魅力的な笑顔を造ったのである。
《ポチ……》
《はい?》
《俺、思うんだけどな……。その~う、なんだ、おまえがさ……、おまえがさ、笑って、首をこう曲げると、何かが起きるんだよ》
《首をこう~》
ポチがサンダーちゃんに合わせて、首を四五度、曲げた。
《そう、そうやって、おまえが首を曲げるとな……。ん!》
サンダーちゃんが、鼻をヒクヒクさせた。
ポチの身体から、異臭が放たれている。異臭といっても不快な匂いではない。いい香りとはいわないが、ちょっと気になる匂いが辺りに香りだしたのである。
《なんだ? この匂いは……》
サンダーちゃんは、平べったい鼻を、さらにヒクヒクさせるが、思い当たる匂いが見つからない。
一体、何の香りなんだろう。
サンダーちゃんは、ポチに負けじと首をかしげるのだった。
武は、いまだに唖然としていた。
何が中村に起こったんだろう。中村は、あきらかに異常だった。
喧嘩の最中に、おちゃめなお遊戯を「タラッタラッタラッタラー」と踊り、さんざん踊った後、「るん、るん、るん」と、スキップしながら表通りに出て行った。
予想もできない展開である。
武はしばらく唖然としていたが、傍で震えている少女を見つけ、
「大丈夫か……」と、声をかけた。
「うっわわああ~ん」
と、大声で由美が泣いた。
中村が、よっぽど怖かったんだろう。“スケ番のお由美”が大粒の涙を見せていた。
「怖かったよ~う。怖かったよ~う。でも……」
由美は、うつむき……。
「でも、おもしろかった。きゃはははっはは」
と、腹を抱えて笑い出した。
さっきまで滂沱の涙を見せていた由美が声を出して笑ったのである。
「あっあっはははははっ」
由美は笑い続ける。
「おいおい、そんなに笑うなよ」
「笑うなって言ったって……。これが、笑わずにいられるものですか。あの悪の中村がお遊戯を踊るなんて……、あっあっはははっはっ」
強面の中村が、由美を地獄の三丁目辺りへ突き落とし、おちゃらけの中村が由美を、お笑い極楽浄土の二丁目辺りまで導いたのである。
言うまでもないが、強面もおちゃらけも、同じ中村である。
中村の身に一体、何が起こったのか?
中村自身にも、それは分かっていないだろう。
《僕、願ったんだ》
ポチが言った。
《喧嘩をしないで、もっと楽しいことをしようよって》
《願う?》
サンダーちゃんが訝る。
願うだけで、問題が解決するなら、こんな簡単なことはない。
《願ったんだよ。お遊戯しようよって。お遊戯したら楽しいよって》
《お遊戯って……。おまえさ~》
サンダーちゃんは、顔をしかめた。
願うだけで、人を動かせるはずがない。願うだけで物事が成就するのなら、ポチは周りの世界を、瞬く間に変えてしまうだろう。ポチが変える世界がどのようなものになるか、予想もできないが、きっと笑顔があふれる素敵な世界になると思う。
《あの凶悪な人間が、おまえの願いなど聞くはずないだろうに》
サンダーちゃんが言った。
《聞いたよ。あの人、僕の願いを聞いてちゃんとお遊戯を踊ったもの》
《そりゃあ~ ……確かに踊ったよな》
サンダーちゃんの脳内に、極彩色のハテナマークの大群が現れた。現れては、しきりにサンダーちゃんの脳みそをを突っついている。突っついたと思ったら、大脳の右側から左側に流れてみたり、小脳の上でボヨーン、ボヨーン、ジャンプしたりして、サンダーちゃんを苛めているのであった。
《踊ったよな……。あの中村っていう悪い奴、確かに踊ったよな……なんで、踊ったんだ? わ、わ、わからない》
サンダーちゃんは、前足で頭を抱え込んだ。
ポチは、ニコニコ笑ってる。
《笑うなってーの。こっちまで、おかしくなる》
サンダーちゃんは、その場に仰向けになると、手足を投げ出して、ジタバタしたのだった。
13、
パンチパーマで黒ぶちのメガネで三段腹の正子さん。
暇を持て余した正子さんが、愛犬ウルフと連れ立って水戸家に来ると、水戸家はいつもすったもんだの大混乱に陥る。
この間はこの間で仕事で失敗をしでかした源さんが、さくらさんにあたり散らして、さくらさんを泣かしてしまったし、その前はその前で、喧嘩に負けた大くんが、ぼろぼろの状態で家に帰って来た途端、「大、男だったら泣くんじゃあねえ~ 男だったら泣くんじゃあねえ。ええぃ~ 勝つまで家に帰ってくるな~」と、源さんに大声で怒鳴られていた。
幸い、まだポチの身には災難が降りかかったことはないが、この調子だと、いつポチの身にも災難が降りかかってもおかしくない。
そんなもんだから、正子さんとウルフが水戸家にやって来た日は、ポチは犬小屋の中に避難することにしているのであった。
「正子がきやがった」
源さんが言った。
「正子って……。隣の横田正子さんかの~う」
ご隠居さんが応える。山崎のご隠居さんは、水戸家に遊びに来ていた。
「カァツカッカッー わし、あのご婦人、ちと苦手での~う。勝負はまたの機会っていうことでどうじゃろう~」
ご隠居さんは、ニンマリ、顔を崩した。将棋の勝負は、あきらかにご隠居さんの負けである。
「逃げるのか……」
「逃げる? このわしが。カッカカッカッ、この勝負、どうみてもわしの勝ちだろう」
「ふん、俺が勝っているだろう? 負けていると思っているのか」
源さんの休みの日。源さんの数少ない楽しみの中に、山崎さんちのご隠居と将棋の勝負をするっていうものがある。
が、毒舌で噂話大好き人間の正子さんが、水戸家に来てしまっては将棋どころではない。
必ず、ひと悶着起こる。これは、逃げるが勝ちである。
「それじゃあ、わしは帰るでのう~」
ご隠居さんは、立ち上がって茶の間の戸を開けた。
「あらっら、焼き肉屋のご老体、いたの?」
茶の間の戸を開けると、目の前に正子さんがいた。愛犬ウルフを抱えている。
「どうせ、源さんと将棋でもやりに来たんでしょう。……で、将棋のどこがおもしろいの? 山崎のご老体」
あった途端、これである。“ご老体”と、あざけり、人の趣味をこ馬鹿にする。
「カッカッカッー ご婦人には将棋の持つ魅力と奥深さがわからんと見える」
「わかるわけないでしょう。あんなもの」
「カッカッカッカッ 将棋はあんなものではない」
ご隠居さんは、正子さんの頭に一発、くらわせてやろうと思った。
「あっ、源さん。どこ行くのよ」
正子さんは、茶の間から出て、廊下を歩いて、奥に行こうとしている源さんに気づいた。
「どこって……。部屋に行って寝るのよ」
「寝る? 昼間から。なにも私が来たからって二階に行くことないじゃない」
源さんは、おまえが来たから眠りたくなくても眠るんだよ。と、言いたかったが、正子さんに逆上されても困るので、
「眠りたいから眠るんだ」
と、適当にごまかした。
「眠れないでしょに~ 昼間から。源さん、本当に眠るの」
「あっー うるさい! とにかく俺は寝る」
源さんは、階段を乱暴に駆け上がり、自室へ退避したのであった。
数分後、茶の間には、さくらさんとウルフを抱えた正子さんの姿があった。
正子さんの膝の上のウルフは、いまのところ静にしている。
前にも、ちらっと言ったがウルフは狆(チン)という犬である。今時珍しい日本産の犬なのだ。
狆っていう犬はその愛くるしい容姿のせいか、最初の座敷犬として飼われた犬であり、文明開化の頃、おおいにもてはやされた犬でもある。が、西洋から新たな抱き犬が紹介されるようになると、数を減らし続け、現在、日本産の犬でありながら、狆は珍しい犬種となってきている。
「こんにちわ! さくらさん。いる?」
正子さんが、いけしゃしゃと、ゴマセンべエを齧っていると、上辺ばあさんが愛犬“さゆり”と連れ立って水戸家にやってきた。
「あらっ? また、誰か来たみたいだわ」
さくらさんは、茶の間から廊下に出た。
「徳子さん」
さくらさんは、上辺ばあさんの姿を見つけると玄関に向った。
上辺ばあさんは、玄関までやってきたさくらさんに回覧板を手渡した。
さくらさんの、お眼目が大きく開く。
「ええっ! 今度の土曜日“夕涼み会”があるの?」
長方形のなんの変哲もないB5判のバインダーの上の白いピラピラの回覧板が載せてあって、週末の催事を知らせていた。
七月一五日(日) “納涼 夕涼み会 & もってけ市”なるものが、お知らせとしてそこにある。
本日は、てんてん、天下の月曜日。日曜日まで、今日を含めて六日しかない。
「さくらさん、知らなかったの?」
「ええっ……。私……。全然……」
「ええって、源さんから何も聞いていなかったの? 源さん、この町の副会長さんでしょう」
「そうだけれども……。あの人、何も言ってくれないから……」
さくらさんは、二階で寝ているはずの源さんを「ギロリ」と睨んだ。
源さんが、町内で行われる行事の予定を、さくらさんの耳に入れなかったのは一度や二度ではない。
先月の町内大清掃の時も、さくらさんに知らせなかったし、先々月のカラオケ大会の時も、一言も言ってはくれなかった。
(いつも、そうなんだから。なんで、言ってくれないのよ~)
さくらさんは、キリキリと唇を噛んだ。
「ここんところに、もってけ市と、書いてあるけれど……。もってけ市って、去年もやったフリー・マーケットのことでしょう」
上辺ばあさんが、さくらさんに尋ねる。
「えっ? なに……」
「やだっ、なに、ぼけっとしているのよ。もってけ市……。もってけ市のことを言っているのよ」
「もってけ市?」
「もってけ市って、前にもやったフリー・マーケットのことなんでしょうと聞いているの」
「フリー・マーケットをやるの? 誰が」
「誰がじゃあなくて、夕涼み会でやるって、そこに書いてあるでしょう」
上辺ばあさんは、もう一度、回覧板をさくらさんに示した。
「えっ! また、あれやるの」
さくらさんは、去年の夕涼み会で、やったフリー・マーケットなるものを思い出した。
フリー・マーケットで『古着市』なる店を任された、源さん一家。
任されはしたが、さくらさんたちが、店で売る古着は、町内の青年部の若者が町内の各家庭を廻り、集めてきた、どうしようもないものばかりで、今流行りのトレーナーとか、セーター、Tシャツなどはそこにはなく、捨ててもいいような、どてらとか、袴とか、商店の名が入った前掛けとか、とにかく古めかしい物ばかり集まったのであった。
『古着市』なる店だから、古めかしい物ばかり集まるのは当たり前のことだが、捨ててもいいような物ばかりだけでは、商売にならない。
さくらさんは、店の前にやってきた、じいちゃん、ばあちゃん連中のゴマをすりすり、ようやくの思いで古着を売りきったのであった。
「去年、さくらさんの店で買ったあの膝かけ……。あれっ、ちょっと変な臭いがしたわよ」
上辺ばあさんが言った。
「そう……。でも、徳子さん。気にいっていたじゃあない」
「私の好きな柄だったからね……」
上辺ばあさんは目を細めた。
上辺ばあさんは、柄が気にいれば臭いなんかどうでもいいのだろうか。
きっと、どうでもいいのだろう。
「誰が来たの?」
茶の間から、正子さんの声が聞こえる。
「お客さん、誰なの?」
「あの声は正子。正子が来ているのかい」
上辺ばあさんは、思わず、さゆりを抱きしめた。
「誰が来ているの?」
正子さんは、茶の間の戸を開けて、顔を出した。正子さんが、そのおたふくみたいな顔を出すと、三十センチ程、あいた戸と柱の間からウルフが飛び出した。
一直線にプードル犬“さゆり”を目指して走る。
おとなしい犬であるはずの狆が、プードル犬めがけて、猛り狂って突っ走ったのである。
「よ、よるな。バカ犬」
上辺ばあさんが叫んだ。
ウルフはなりふりかまわず、突っ込んだ。
上辺ばあさんは、B5のバインダーを振り回して、突っ込んできたウルフを叩きのめそうとした。
が、上辺ばあさんの、バインダーは空しく宙を切った。ウルフになんなくかわされたのである。
バランスを崩す上辺ばあさん。その拍子に上辺ばあさんの腕の中から、さゆりが滑り落ちた。さゆりが、ウルフの目の前に落ちると、ウルフは、にんまりと顔を崩した。
さゆりは、「キャン」と鳴いて逃げ出した。
ウルフは「キャン、キャン」泣き叫んで逃げるさゆりを追いかけた。
「あれっー 誰が助けて! 私のさゆりが穢される」
上辺ばあさんは、膝まずいた。
逃げる、さゆり。追うウルフ。
二匹はところかまわず走り回った。
「なんとかしてー さゆりがー さゆりがー」
上辺ばあさんは、さくらさんにすがりついた。
「なんとかしてくれったって……」
さくらさんは、ただ、右往左往するばかりだった。
もの静な座敷犬であるはずのウルフは、さゆりに逢うと豹変する。
発情期であろうと、なかろうと、さゆりを見つけると、さゆりの背に乗りナニを、おっぱじめようとするのである。
「なに、騒いでいるのよ」
正子さんが、廊下に出て来た。
「正子さん、あんたの犬でしょう。このバカ犬、なんとかしてよ」
上辺ばあさんが、早速、正子さんを責めた。
「バカ犬って……。うちのウルフちゃんがバカ犬?」
「バカ犬よ。バカバカバカの大バカ犬よ」
「ちょっとー そんなにバカ、バカ、言わないでよ」
「バカにバカって言ってなにが悪いのよ~ 本当にこのバカ犬、誰かさんに似てどうしようもないバカ犬よね。ねえ、正子さん」
「私がバカだっていうの」
「バカもバカ。大バカよ。バカなご主人を持つと犬までバカになるっていう話、聞いたことないの。聞いたことないなら、教えてあげるわ。ウルフとあんたはねえ~ 町内で一番の大バカものの、うんこたれよ」
「だ、だれ、誰が、誰がうんこたれなのよ! も~う、頭にきた」
正子さんは、三段腹を「ぶるる~ん、ぶるるん」揺らした。
「徳子さん。だいたい、あんたなによ。あんたこそおかしいじゃあないの。道で逢う人逢う人に、この犬可愛いでしょう。さゆりっていうのよ。さゆりちゃんをよろしくねとかなんとか言っちゃって、可愛くない、ぶざいくなプードルを見せつけて自慢してるっていう話じゃあないの。みんな、迷惑しているんですからね」
「な、なんですって!」
上辺ばあさんの上品な白髪が逆立った。
上辺ばあさんは、さゆりのことを世界で一番愛している。
愛しているさゆりのことを、こうまでケチョンケチョンにけなされて、めちゃくちゃに頭にきているのである。
「もう、一回、言ってみてよ! さゆりのどこが可愛くないっていうのよう~」
上辺ばあさんは、歯ぎしりして、正子さんに迫る。
正子さんの頬に、ビンタを一つ二つくらわせようと土足のまま廊下にあがった。
ウルフがさゆりに追いつく。さゆりの尻にしがみつき腰を動かし始めた。
「えっ! なにするのよ」
上辺ばあさんは、ウルフの不埒な行為に足を止めた。
「誰かなんとかしてよー 」
足を止め、身震いして、上辺ばあさんは悲鳴をあげた。
上辺ばあさんの大きな声に驚いたのか、一瞬、ウルフが腰を動かすことを止めた。
その隙に、さゆりがウルフの元から逃げ出した。
ウルフは、すかさず、さゆりを追った。
「さくらさん、なんとかしてよー」
「なんとかしてって言ったって……」
「お願いよ~ なんとかしてよ」
上辺ばあさんは、卒倒寸前だった。
「ちょっと、待ってて……。なんとかするから」
さくらさんの脳裏に妙案が閃いた。台所に走ってゆく。
「ピンポーン~」とチャイムが鳴った。水戸家に、また、人が尋ねてきたのである。
ドアが開いた。ドアを開けて尋ねてきたのは若い男の人だった。
「な、なんなんだ! これは?」
やってきた男は、玄関先でもつれあうウルフとさゆりに、戸惑っていた。
玄関先で二匹の犬が、からみあっているとは思ってもみなかったのである。
「あんたー あんた、この犬、止めてよ」
上辺ばあさんが、男に頼み込んだ。
「止めてよと、言ったって……」
「止めてよ。このバカ犬、こともあろうことに、さゆりに性…性……。いえいえ、繁殖行為。繁殖行為を挑もうとしているのよ。こんなこと、こんなこと許されることではないはずよー」
「繁殖行為?」
男は、再び、さゆりの腰をとったウルフを見た。
なるほど、普段、おとなしいはずの狆が、ふさふさした毛を振り乱し、果敢にプードルに挑んでいる。
「どいて、どいて、どいてー」
さくらさんが台所からやってきた。手に水を湛えた黄色のバケツを持っている。
ウルフがさくらさんの足元を横切った。
「あれっー」
さくらさんは、ウルフに蹴躓く。
黄色いバケツが宙を舞った。宙を舞った黄色いバケツは、大きく弧をえがき男の頭に被さった。
「な、なに、するんですか」
水浸しになった男は、頭から黄色いバケツを取り払った。
「あら、ごめんなさい」
さくらさんは、水浸しになった男を、まじまじと見た。
どっかで見た顔……。
「先生! 先生じゃあありませんかー」
やってきた男は、愛ちゃんの担任の佐々木勇夫先生だった。
「いきなり水をぶっかけるなんて、酷いじゃあありませんか」
「すいません……。これにはいろいろとわけがあって」
さくらさんは、その場に土下座して謝った。
「まったく、なぜ、この僕が頭から水をかけられなくちゃあならなかったんですか」
と、佐々木先生が言った。
「……先生、今日は何用でうちにいらっしゃたんですか」
「昨日、電話で言っていたでしょう。愛ちゃんのことで、お話があるから午後三時頃、お宅に伺うって」
「そうでしたっけ?」
さくらさんは、佐々木先生から電話があったことなど、すっかり忘れていた。
申し訳なさそうに頭をペコペコ下げた。
「それじゃあ、さくらさん。そういうことで」
正子さんは、ウルフを連れて、すたこらさっさと帰って行く。
「ちょっと待ってよ、正子さん。さゆりに謝らないで帰るつもりなのー」
上辺ばあさんが、正子さんの後を追う。きっと、道端で捕まえて謝罪を迫るのだろう。鬼気迫る表情をして正子さんを追っていた。
「あの人たち……。なんなんですか?」
佐々木先生が、呆然とした顔で言うと、
「さあ、なんなんでしょうね」
と、こたえるしかない、さくらさんだった。
14、
正子さんがウルフを抱きかかえて逃げ、上辺ばあさんが、正子さんを追って水戸家を退出してから三十分後。
水戸家の茶の間に、さくらさんと源さんのトレーナーを着た佐々木先生の姿があった。
「これって、あれですよね……」
佐々木先生は咳ばらいをした。
「すいません。そんなものしかなくて……」
「別にいいですよ。着るものがあれば」
佐々木先生が、両手を広げてぶつぶつ言っている。
アニメのキャラクターがプリントされているトレーナーは、源さんが部屋だが、佐々木先生は気に入らなかったらしい。高級嗜好が強い佐々木先生は、こんなもの着たくないなーと、言いたげに、しきりにトレーナーの袖をまくるのだった。
「水浸しになったスーツは、洗濯屋さんに出して、後で学校の方に届けますので……」
さくらさんは、申し訳なさそうに言った。
「アルマーニのスーツだから、そこんとこ、よろしくね」
佐々木先生が気どって応える。
「はっ? アルマーニってなんですか」
さくらさんは、アルマーニがなにを意味するのかわからない。
「えっ、アルマーニを知らないの? 有名なイタリアのファッションデザイナーでしょうが」
「イタリアのデザイナー? ごめんなさい。私にはちょっと……」
さくらさんは言葉を濁した。
「やれやれ、とんだ女の人だな。じゃあこれもしらないでしょう。この鞄ベルサーチュの鞄なんだけれども、ベルサーチュもわからないでしょう」
「ベルサーチュ? どっかのスーパーの名前?」
どこをどう考えたら、ベルサーチュがどっかのスーパーになるのだろう。
佐々木先生は、あきれて、額に手をやり、視線をテーブルの上に落とした。
「で、愛ちゃんのことなんですが……」
「ち、ちょっと待ってください」
佐々木先生が、言い終わらないうちに、さくらさんが、立ち上がった。立ちあがって戸棚を開ける。戸棚の中から、ショートケーキを取り出した。ショートケーキは二つある。白いお皿の上にのっている。さくらさんは、皿ごと、ショートケーキをテーブルの上に置いた。
「どうぞ、召し上がってください」
さくらさんは、正座して、佐々木先生にショートケーキを勧めた。
「先生、愛のことで何か」
さくらさんは、おもむろに切り出した。
「実はですね……」
佐々木先生は、ショートケーキを二つ食べ終えると話し始めた。
愛ちゃんの行動が不審に満ちているという。
週に二、三度、平気で遅刻するようになり、宿題もちょくちょく忘れる。一回もサボったことのない掃除当番をサボり、学校で問題児扱いされている生徒と、ともに歩いているという姿を見た人もいるという。
「学年で生活指導を担当している僕としては、見逃すわけにもいかず、こうしてお邪魔したわけですよ」
佐々木先生は、お茶を「ズィーズィーズゥー」と飲み干した。
「実は先日の土曜日、学校で持ち物検査がありましてね。……愛ちゃんが持っていた手提げ袋の中を調べたら、こういうものが出て来たんです」
佐々木先生は、ベルサーチュの鞄からタバコとライターを取り出した。テーブルの上に置く。
「タ、タ、タバコ。愛が吸っていると言うんですか」
もんどりうつことができるになら、さくらさんは、その場でもんどりうっていただろう。
とにかく、驚いた。
「あの真面目な愛ちゃんが、タバコを吸うとはね」
佐々木先生が唇を歪ませた。
「そんな……。そんな……。本当に愛がタバコを吸っていると言うんですか」
「吸っているとしか、考えられないでしょうな。鞄の中から、こんなものが出て来たんだから……。職員室に呼んで、キツク注意しておきましたけれども、やはり、ここはご両親の方から一言、言ってもらわないと」
「まだ、子供だと思っていた愛が、タバコを吸っているなんて……」
さくらさんは、煙をもくもく曇らせている愛ちゃんを想像した。
妄想の中の愛ちゃんは、髪を赤く染め、長いスカートを穿き、竹刀を持っている。タバコをプカプカ吸い、「なんだ、文句あるのかー」とたんかを切っているのだった。
「あっー 嫌だ」
さくらさんは、顔を左右に振った。
「ドタドタ」と音がした。階段の方だ。源さんが二階から降りて来たのだ。
「おい、なにか、食べ物ねえかー」
源さんが、茶の間の戸を開けた。
佐々木先生と目があった。
「あ~ん。おめえは……」
源さんは、青い青い大草原で、でっかいでっかいマムシに遭遇したような、とことん嫌な顔をした。
佐々木先生は厚顔な男である。源さんの横柄な態度を無視してエヘラ、エヘラ、笑っている。
「なんで、おめえがここにいるんだ」
源さんは、ぶっきらぼうに言った。
「おめえって、なんです。とうさん、失礼でしょう。先生に向かって。このお方は愛の担任の先生よ」
と、さくらさんが言った。
「んなこと、分かっているよ。俺はなんで、こんな豚の小便みたいな野郎がここにいるんだと聞いているんだ」
「な、なんてこと言うのよ。先生さまを豚の小便だなんて……」
「豚の小便で悪いか。豚の小便で悪けりゃ~ お猿のチーちゃん、へのへのもへじ、そんなに急いでどこ行くの~ でもいいんだぜ」
源さん、わけのわからないことを言う。わけのわからないことを言って、佐々木先生を愚弄しているのである。
「とうさん!」
さくらさん、席を立った。源さんを睨みつけている。さくらさん、睨みつけて、源さんに謝罪を求めているのである。
源さん、さくらさんの烈火のような瞳の勢いに、いたたまれなくなり、
「けっ、おもしろくねえ」
と、言って、茶の間の戸を閉めた。逃げたのである。
「すいません……。うちのとうさん、悪気はないのですが、口が悪くて……」
さくらさんが、佐々木先生に謝った。
「そんなに謝らなくてもいいですよ。別に気にしていませんから……。あはっはっはは」
佐々木先生はテーブルの上のタバコの箱を握りつぶした。内心では頭にきているのだろう。タバコの箱がくちゃくちゃになっていた。
「あの~ 本当にうちの愛がタバコなんか、吸っているんでしょうか」
さくらさんが聞いた。
「動揺する気持ちはわかりますが……」
「本当に……。うちの愛がタバコを……」
「そんなに動揺しないでくださいよ」
「でも……」
「いいですか。こんなこと、珍しくもなんともないんですよ。実際、うちのクラスの半分以上の男子は喫煙の経験があるみたいだし、二、三、の女性徒もしょちゅう職員室に呼ばれていますよ」
「はぁ……。そんなもんですか」
「そんなもんですよ……。ただね、クラスの中でも真面目で人気者の愛ちゃんが、タバコを吸っているなんて思わなかったもんですから、こうしてお邪魔しているわけで」
「私も思いたくありません」
さくらさんは、声を落として言った。
脳裏に今度はモヒカン刈りにして、眼を飛ばしている愛ちゃんの姿が浮かんだ。どうやら、さくらさんが思い浮かぶイメージは、タバコ、イコール不良のイメージがあるらしい。
「今回だけは、不問にしました。魔がさしたんでしょう」
「罰しないんですか」
「ええっ、日頃の愛ちゃんに免じて、今回だけは特別許してあげましょう」
「それは、ありがたいことで……」
さくらさんは、胸を撫で下ろした。
「親御さんからは、キツク、言っておいてくださいよ。こういうことは非行の原因になりかねないですから」
「わかりました。愛の方にはキツク言っておきますから」
「よろしく、お願いしますよ」
佐々木先生が、恩にきせるように言うと、
「娘をどうぞ、よろしくお願いします」
と、さくらさんは、何度も何度も畳に頭をこすりつけるのだった。
「まあまあ奥さん、そんなに頭を下げないで……。僕も中学生のときタバコを吸っていたし、シンナーも時々、やったかなあ~ 」
「えっ、先生がシンナーをですか?」
「シンナーぐらいで、驚かないでくださいよ。大げさな」
「大げさですか」
「大げさですよ。シンナーぐらいで……。大体、ここの町の人は小さなことにこだわりすぎているんですよ」
「小さなことですか……」
「小さいことですよ。女生徒がタバコを吸ったくらいで、おたおたしやがって」
「えっ、誰が……。その~う…。おたおた?」
「うちの教頭ですよ。たかが、タバコぐらいで家庭訪問して来いなんて。教頭の野郎~」
佐々木先生は、教頭の命令で家庭訪問したのである。
愛ちゃんを、心配してきたわけではなかった。
「教頭がどうした!」
茶の間の戸を開けて、源さんが顔を見せた。廊下で立ち聞きしていたのである。
「さっきから、黙って聞いていりゃあ~ 言いたい放題言いやがって」
源さんが、茶の間にはいってくる。
「娘がタバコを吸っている? 俺も中学のときタバコを吸っていた? シンナーぐらい、どってことない?」
源さん、べらんめえ口調である。
「バカ野郎! 俺の娘がタバコなんて吸うかよ。おめえ、愛がタバコを吸った現場を見たっていうのか」
源さんが、佐々木先生の胸倉を掴んだ。
「現場を見たわけじゃあありません。しかしですね。愛ちゃんの持っていた手提げ袋の中から、タバコの箱とライターが出てきているわけですから」
「だから、愛が吸ったというのか」
「ええっ……。そうとしか考えられないでしょう」
「このタバコとライターはだな」
源さん、佐々木先生の胸倉から手を離し、テーブルの上のタバコとライターを掴んだ。
「誰かが……。きっと誰かが愛を陥れようと、こっそりと手提げ袋の中に入れたものなんだ。そうだ。それに間違いがねえ」
「一体誰が、そんなことをするっていうんです」
「どっかの誰かだ」
「だから、誰がそんなことをするんです」
「そんなこと、俺にわかるかー」
源さんは、手に掴んでいたライターとタバコの箱を佐々木先生に投げつけた。くしゃくしゃになっていたタバコの箱と、赤いライターが佐々木先生の顔面にあたる。
「なに、するんですかー」
佐々木先生は立ちあがった。源さんとさくらさんを交互に見つめてから、
「まったく、この家の人たちはどうにかしている」
と、言った。
「どうかしている? どうかしているのは、てめえの方だろうが」
「僕がおかしいというのですか」
「ああっ、おかしいよ。この、とうへんぼく野郎のすかんたれ!」
「とうへんぼく野郎のすかんたれってなんですかー」
「とうへんぼく野郎は、とうへんぼく野郎だ。とうへんぼく野郎のすかんたれの、おたんこなすめが!」
源さんの罵詈雑言は止まらない。
「つ、ついでに言うとなあ~ おまえなんか、ロバの顔したへっぷり腰のあほーうたれの、おまえの母ちゃんでーべそだ。と、とにかく、愛の悪口を言うやつは、産気づいた雌猫の隣で阿波踊りでも踊っていやがれーだ」
「な、な、なにを」
佐々木先生は、源さんの支離滅裂な悪態に身を震わせた。
「とうさん、わざわざ家庭訪問してくださった先生さまに、なんてこというのよ」
さくらさんが言った。
「うるさい。おまえは黙っていろ! こいつはなあ~ 人の大事な娘にケチをつけているんだ。愛の担任でなけりゃあ、とっくに叩きのめしているところだ」
源さんは、腕をまくった。
「叩きのめす? どうして僕がそんな目にあわなくちゃあならないんですか。僕はですね。愛ちゃんの、愛ちゃんの将来のことを心配してここにきたんだ」
「娘の将来のことだーあ。おめえ、さっきなんて言った。教頭のハゲに行ってこいと言われたから来たって、言ったじゃあねえか」
「それはですね……」
「それはですねーじゃあない。おめえ、生徒のことを本当に思っているのか。思っていないだろう。愛は、おめえなんかに心配されなくても、この俺がりっぱに育ててみせるよ。りっぱになあ……。おめえなんかはだなあ……。おめえなんかはだなあ……。おまめえなんか……。おめえなんか、学校裏の溝にいるぼうふら相手に、ややっこしい方程式でも教えていやがれってんだ」
源さんは、そう言うと、佐々木先生をもう一度、睨みつけるのだった。
「なんて、失礼な男だ」
激怒した佐々木先生は、茶の間から廊下に出た。
「逃げる気か!」
源さんが言う。
「帰るだけですよ」
「そうか、帰るのか。二度とうちの敷居をまたぐなよ」
「言われなくても、もう二度と来ませんよ!」
佐々木先生は、ドタバタと足音をたてて、水戸家から出て行った。
「とうさん!」
さくらさんの中のマグマが大噴火した。
源さんの、人を人と思わない態度に腹をたてているのである。
「いくらなんでも、あんまりでしょう。人をなんだと思っているんですか」
「いいんだよ。あんな奴」
「あんな奴じゃあないでしょう。あの人はねえ、愛の担任の先生なのよ」
「担任だかなんだか、知らねえが……。俺は大嫌いだよ。うっ~虫ずが走る。さくら、おめえ、角の薬屋に行って虫除けの薬でも買ってこいや。あんな奴、殺虫剤でもかけて燻り殺してやる」
源さんは、パタパタと手を振って、想像上の煙を外に追い払った。
「いい加減にしてよ!」
さくらさんの、マグマが恐ろしいほどの迫力で再噴火する。
まるで、鬼押し出しで有名な浅間山の大噴火のように、はたまた、地獄河原と呼ばれる溶岩河原が、山すそにある、桜島の大爆発のように大噴火したのである。
「おおっ」
源さん、思わず声を出してたじろいだ。
「担任の先生を、あんなに怒らしちゃあダメでしょう。あんなに怒らしちゃあ愛の立場がわるくなるでしょうに……。とうさん、そこんとこ考えてものを言っているの!」
さくらさんが、激しく、源さんに詰め寄った。
「愛の……。愛の立場が悪くなる前に、担任を代えてもらうさ」
源さんが、かぼそい声で答える。
「物事がそんなに簡単にゆくと思う?」
さくらさんが、問う。
「物事がそんなに簡単にゆくはずないでしょう」
「そんなこと、言ったって……」
「いい、聞いて。あの人が、いい加減なところがある人間だなっていうことは、それくらい、私にもわかるのよ。でもね、物事には順序というものがあるのよ。順序っていうものが……。順序をふんで、一つ一つ物事を進めなければ何も解決しないの。あなたのように、ただ、悪態ついて人を非難しているだけでは、問題はこじれるだけなの。……とうさん! 聴いているの」
「ああっ……」
源さん、かろうじて返事をした。
さくらさんから、あふれ出たマグマは、源さんの首にまでたどりついている。
真っ赤な溶岩流の熱気にあおられて、源さん、窒息寸前なのであった。
「ただいま~」
愛ちゃんが、水戸家に帰って来た。
なんとも間が悪いご帰宅である。
「かあさん、ご隠居さん、来たんでしょ?」
愛ちゃんは、源さんが休みの日、必ず、山崎のご隠居さんが水戸家に訪れることを知っている。水戸家にやってきて、お土産に、おいしい物を置いてゆくことを、ちゃーんと知っているのである。
愛ちゃんは、ニコニコ微笑んで茶の間に入った。
「今日は、何、持って来たの? もしかしたらケーキ……」
愛ちゃん、そこまで言って、場にただならぬ雰囲気が漂っていることに気がついた。
「かあさん……。どうしたの?」
愛ちゃんは、怒りの頂点に達しているさくらさんを見て、わなないた。
「愛……。ちょっといい。話があるの」
さくらさんが言った。
「話って、なあに……。私、これから用事があるから……」
「大事な用事でなければ、後にしなさい」
「でも……」
愛ちゃんは、さくらさんから目を逸らした。助けを乞うように源さんの方を見る。
源さんの様子も尋常ではない。いつになく、けわしい顔をしている。助けを乞うなんて、できそうにもない。
愛ちゃんは困ってしまった。困ってしまってもどうにもすることができない。その場に佇んでいると、愛ちゃんの方を向いた源さんと、目があった。
愛ちゃんと目があった源さんが動いた。愛ちゃんの前に来て、いきなり……。
「パーン」
愛ちゃんの、ほっぺを平手で殴ったのである。
(えっ? )
源さんに殴られた愛ちゃんは、一体何が起きたのか分からなかった。呆然とした顔をして突っ立っている。まさか、いきなり、殴られるとは思わなかったのである。
「とうさん、何をするんですかー」
さくらさんが、源さんと愛ちゃんの間に入った。
「うるさい。俺は寝る!」
源さんは、そう言うと、二階の自分の部屋に戻って行ったのであった。
(なに? なにがあったの)
愛ちゃんの瞳は、傍らにいる、さくらさんに説明を求めていた。
「愛……。あなた、タバコを吸っているの?」
さくらさんが、愛ちゃんに尋ねた。
「はっ?」
「タバコ、吸っているの」
「タバコって?」
「とぼけないで、佐々木先生がねえ……」
「佐々木先生? えっ、まさか……」
愛ちゃん、ひらめいた。
二、三日前、愛ちゃんは、クラスの文集を入れる手提げ袋の中から、出て来たタバコについて、担任の佐々木先生に問いただされたことがあった。
今週の文集の係であった愛ちゃんは、たまたま、その時手提げ袋を持っていただけで、手提げ袋の中に、そんな物がはいっていただなんて思いも及ばなかったのである。
愛ちゃんは、タバコこのことなんて知らない、なんで、こんな所に入っていたのか分からないと、否定し、佐々木先生は了解したはずなのだが……。
「とうさん、私がタバコを吸ったと思っているの」
愛ちゃんは、なんで、源さんが自分を殴りつけたか、わかったような気がした。
「いいえ、とうさんは愛がタバコを吸っていただとは思ってはいないわ。思っていないから、佐々木先生と大喧嘩をして……」
「じゃあ、なんで殴るのよ」
「そ、それは……。とうさん、取り乱して」
「ごまかさないで。私がタバコを吸っていると思っているからでしょう!」
愛ちゃんは思い切り叫んだ。
(タバコなんて、吸ったことないのに……。タバコなんて吸ったことないのに……)
愛ちゃんの胸は、悔しさでいっぱいになる。
「自分たちの娘のこと、信じられないのー」
愛ちゃんは、いきなり茶の間のドアを閉めて、二階の自分の部屋に行った。
一人茶の間に残されたさくらさんは、呆然と佇んだ。
どうしたらいいのか分からないでいる。
そんな、さくらさんを嘲笑うかのように、佐々木先生の汚れたブランド物の服が、廊下の片隅にきちんと置かれていた。
15、
あの日から早いもので、六日経った。
本日は夕涼み会&もってけ市である。
ついでに言うと、愛ちゃんの機嫌は直らず、さくらさんと源さんは喧嘩をしたままである。
「およっと、吉井さんが何か喋るでのう~」
山崎のご隠居さんが、本部テント前の台に乗った町内会長に拍手を送った。
「えっ~ 本日は……」
あいかわらず、吉井さんの話はおもしろくない。
吉井さんが、どうでもいいことをグダグダと話し、副会長さんが開会の挨拶を告げると、会場にいたお客さんが、夕涼み会&もってけ市の各店舗に散らばって行った。
会場となった昭和園グランドには、町内会が各家庭を歩き回り、いらなくなったものを売るために設置した店舗がおよそ二十ほどあり、その周りを、的屋さんたちが取り囲んでいた。
町内会が設置した店舗は、古本屋や古着や中古の服を売る店舗、台所用品売り場や雑貨や、型が旧くなっただけの電化製品を売る電化用品売り場などの店が並び、その周りを陣取った的屋さんたちは、金魚釣り屋さんや、タコ焼き屋さん、お好み焼き屋さんや射的屋さんたちである。
ポチは、グランド内にたくさん集まった人を見て、目を白黒させていた。
見たことのない人波の凄さに驚いているのである。
《そんなに驚かなくてもいいのよ》
ラッキーが言った。
《だって、凄いよ。こんなにいっぱい人がいて、それぞれ顔が違うもの》
ポチが尾を振っている。
《顔が一人一人違うのは、当たり前のことじゃあないの。みんな同じ顔だったらそれこそおかしいわよ》
《でも、こんなに大勢の人がいるんだから、同じ顔の人が一人や二人、いたっていいと思うよ》
《本当に、そう思うの?》
《うん》
《そうね、このくらい人が多ければ、中に双子がいても、おかしくはないわね》
《双子? 双子ってなあに~い》
《双子って、双生児のことよ。同じ母親の胎内で一緒に育つから、性別も一緒、血液型も一緒、顔を似ているのよ》
《ソウセイジ?》
《そう、双生児よ》
《ソウセイジか……》
ポチはよだれを垂らした。
《ポチ! なに、よだれを流しているの?》
《いやぁ~ そのう、早くそのおいしそうなソウセイジがやってこないかなと思って》
《えぇ?》
ラッキーは、眉を寄せた。
まだまだ小さいポチに、おそらく見たことのな双子のことを、専門用語を使って理解させるには無理があるのだ。
《ソウセイジねえ……》
ラッキーは、これ以上、ポチに説明することを止めることにした。
ポチとラッキーは、台所用品売り場にいた。台所用品売り場は水戸家の担当だ。
売り場には、ポチとラッキーの他に、源さんとさくらさんと大くん、応援に来ている山崎さんちのご隠居さんがいた。
「ちょっと聞くけど……佐々木先生のこと、なんでそんなに嫌っているのよ」
と、さくらさんが言った。冷戦の最中でも話ぐらいはする。
「あいつはなぁ~」
源さんが、顔をしかめながら言う。
調度一週間前、源さんが、上中妻町二丁目にある喫茶店『水車』に行ったら、佐々木先生が喫茶店の店主に愚痴を漏らしていた。それでも源さんは、挨拶だけでもしようかなと思ったが、佐々木先生の話す愚痴が、あまりにも人を馬鹿にしたものだったので、頭にきてしまった。
「なにを言っていたのよ、佐々木先生は……」
さくらさんが、源さんに問う。
「消防団に入団したのは、地元の住民の人気をとるためだと言いやがった」
「人気をとるため⁉ 地域の安全を守るためじゃあなくて?」
「この僕が、どんな凄い男か思い知らせてやるよ。学校の先生をしてばかりじゃあ、それが分からないだろう。こんな田舎の人間たちに……と、奴はいいやがったんだ」
「こんな田舎の人間にって……それ、どういうこと?」
「あいつは見下しているんだよ。俺たちのことを」
馬鹿にされて黙っているような源さんではない。
佐々木先生と喫茶店のマスターの所に行き、喧嘩をふっかけた。
「それで、どうなったの?」
「どうなったも、こうなったかもあるかい」
源さんに、喧嘩を挑まれた佐々木先生は、とるものもとらず一目散に逃げだしたのだ。
「逃げたの。案外だらしない男なのね」
「ああっ、あいつは格好ばかりつけている、とうへんぼくなのさ」
源さんは、腕を組んで「ウン、ウン」と頷いた。
「じゃあ、俺、裏をちょっと片づけてくるからよ」
さくらさんと冷戦中の源さんは、面白くなさそうに裏の方に行ってしまった。
《お客さんが、来た~》
ポチが言った。
《台所用品売り場、第一番号のお客さまね~》
ラッキーが店の入り口を見る。
《おおおう》
ポチは、思わず目ん玉を大きくさせた。
源さん、さくらさん、山崎のご隠居さんが、切り盛りする台所用品売り場にやってきたのは、な、なな、なんと寅男さんと涼子先生だったのである。
なんとも意外な組み合わせである。
さえない中年男の寅男さんと、美人で才媛の誉れ高い涼子先生が、一緒に並んで楽しそうに微笑んでいるのである。
《およ、およおよおよおよおよよ》
ポチは、首を斜め二十五度ほど傾げた。
首を四五度ほど、傾けて、微笑むと、また何か起きるのだが、角度は二五度で、微笑みもしないので、とりあえず何も起こらない。何も起こらないが、場に妙な空気が漂っていた。
(この空気は、何だ)
一体何なんだようーと、ポチが怪訝な顔で、二人を見ると、寅男さんと涼子先生の周りに桃色のハートマークが、四つも五つ飛び交っていたのであった。
《えっー!》
ポチは、お眼目をパチクリさせた。
桃色のハートマークが宙を飛び交っているって……そんな馬鹿なことがあるわけない。
マンガじゃあるまいし……。
ポチは、不思議に思い、目を凝らして、寅男さんと涼子さんを再び見る。
飛んでない。桃色のハートマークなど飛んではいない。どうやら、目の錯覚らしい。
そりゃあーそうだろう。桃色のハートマークが宙を飛んでいたら、豚が空を飛び、魚が陸を走り、クジラがラップダンスを踊るだろう。
クジラがラップダンスを踊り、魚が陸を走る?
そんなことはありえないのである。
しかし、しかしである。桃色のハートマークが宙を飛び交っていなくても、この場の雰囲気は尋常ではない。
なんだか、ほんわりと温かい空気が流れている。
寅男さんが、流し眼を送ると、涼子先生も流し眼で返し、寅男さんが、はにかんでうつむくと、涼子い先生は恥ずかしそうに、コクリとうなずく。
いい大人が、初めて恋をした少年と少女のように、じゃれあっているのである。
なんとも、まあ、春の田園の中にいるキタキツネのようなというか、夏の海辺の太陽の輝きの中にいる子供たちのようなだというか、とにかく、不思議な空間がそこにあったのだった。
《二人は恋をしているのね》
ラッキーが言った。
《恋?》
ポチが、またまた怪訝な顔をする。
《恋、恋ってなんなの》
ポチには恋などというものが分からない。
《恋っていうものはねえ……。そうね……》
ラッキーは、ちらりとポチの方を見て、
《まだ、あなたには早すぎるわ》
と、言って、意味深に笑った。
ポチは恋というものなど分からないが、なんだか、とっても不思議なものだというものなんだということだけはわかる。
普段、身なりにかまわない寅男さんが、身ぎれいにオシャレをしているし、寅男さんに寄り添っている涼子先生も、なんだか普段と違う。いつもきれいなのだが、いつもより数倍輝いているように見える。
ポチはなんだか嬉しくなった。
「と、寅男さん。そ、そちらの女性は?」
さくらさんも驚いている。寅男さんが女の人を連れて歩いている姿など見たことがないのである。
「いま……。そのう~ つきあっている人なんだ」
寅男さん、照れて、恋人なんだとはいえない。視線を下に落し、顔が真っ赤になっている。
「木村涼子っていいます。いま、寅男さんとおつきあいさせてもらっています。よろしく、お願いします」
照れている寅男さんに代わって、涼子先生が、さくらさんにきちんと挨拶をした。
「そ、そうですか。 こちらこそ、よろしくお願いします」
さくらさんの驚きは二の三乗くらいに大きくなっている。寅男さんが、こんな若くてきれいな女の人を射止めたとは信じられないでいるのである。
「あららら、涼子先生……。その隣にいるのは寅男ではないかー こりゃあ~ ぶっとんだ組み合わせじゃのう~」
山崎のご隠居が笑った。
「涼子先生って……。ご隠居さん、この女の人、知っているの?」
さくらさんが問う。
「知っているよ。二中の保健の先生だろう。臨時だけれど……。この間、そこで逢ってのう~ それから親しくさせてもらっているからのう~ かっかっかかっ」
ご隠居さんは、ついこの間、逢ったばかりなのに、さも親しくさせてもらっているような高笑いをし、
「おーい、源さん!」
と、裏で商品の整理をしている源さんを呼んだ。
「源さん、ちょっとこいや」
呼んでも返事がない。
「源さん、源の字、源さんよーう」
呼んでも無視しているので、ご隠居さんが続けざまに呼ぶと、源さんが、店の裏からしぶしぶ表に出て来た。
「なんだよ~。うるさうなぁ。源さん、源さん、源さんって、源さんの安売りをしているわけじゃあねえんだぜえぃ」
「いいから、来てみろや。寅男の奴がのう~」
「寅男? 来ているのか」
源さんは、店の中から表に出る。
「おわわっーと」
源さん、すっとんきょうな声をあげた。
源さんも寅男さんが、見目麗しい婦人を連れて歩いているなんて思わなかったのである。
「兄貴、こちら、木村涼子さん」
寅男さんが、源さんに女の人を紹介した。
「木村の涼子さん……」
源さん、涼子先生の美しさに目を奪われている。身体が硬直し、固まっている。一言も言葉がでない。
もし、ここで涼子先生が水着姿にでもなったなら、源さん、ぶっ飛んでいただだろう。
「兄貴」
寅男さん、源さんに呼びかけた。
源さん、応えない。
「兄貴。なに、黙っているんだよう。涼子先生が挨拶をしているんだぜ。兄貴も挨拶ぐらいしろよ」
寅男さんにこずかれて、源さん、ハッと、気がついた。
「木村涼子さんですか……。わしは、その~う、寅男の兄貴で水戸源吾といいます。よ、よろしく……。寅男、ちょっと」
源さん、挨拶半ばで、寅男さんの腕をとった。店の中に連れてゆく。
「いつからだ……」
源さんが聞く。
「えっ?」
「いつから、つきあっているのかと聞いているんだ」
「いやあぁ~ 涼子さんとは、ただの友達で……」
「ごまかすな。つきあっているんだろう」
「つきあっているだなんて……」
寅男さん、さっきは、さくらさんに今つきあっている女性なんだと、紹介したくせに、源さんには、つきあっている女性なんだとは言えない。顔を真っ赤にしてモジモジしている。
「はっきりしやがれ。つきあっているんだろう」
源さん、ウジウジしている寅男さんに業を煮やし、ギロリと睨んだ。
「一か月前あたりかなあ。つきあいだしたのは。えっへへへ」
寅男さんが言う。
「えっへへへじゃあない。この、このこの、このこのこのこの、この幸せ者め!」
源さんは、左手で寅男さんの首を抱き、右手で寅男さんの頭をボカボカ殴った。
「えっへへへっ。痛いじゃないか。兄貴~ 止めてくれよなあ」
「痛いのは、生きている証拠だ。この幸せ者め」
「やめてよ。痛いから。兄貴~」
寅男さんは、源さんに頭を殴られても幸せそうだった。
「痛いか。じゃあ、やめてやるー」
源さんは、寅男さんを解放した。
「寅男、しっかりやれよ」
源さんは、寅男さんの両手を握り、
「頑張れよー」
と、大きな声で寅男さんを励ましたのであった。
16、
「ところでよ、火事の件はどうなった? 放火犯人は捕まったのか」
源さんが、寅男さんに聞いた。
「それが……。捕まらないんですよ」
「警察のダンナ、なんと言っている。なぜ、捕まらないんだ」
「決定的な証拠があれば、必ず、あげてやるといっているんですがねえ……」
寅男さんは視線を下に落した。
五月の初旬から連続して発生している一連の放火事件は、いまだに継続中である。
警察関係者、消防団の団員、市井の有志が事件解決に向けて頑張ってくれているのだが、放火犯人はまだ捕まらない。それらしい人物が捜査線上に浮かぶたびに、容疑者と思われる人物をマークし、周辺を嗅ぎまわるが、決め手となる証拠がないために、犯人と思われた人物が、泡のように消えていってしまっているのである。
「毎日、見回りをしているんだろう」
源さんが言った。
「犯人が捕まるまで毎日ですよ」
寅男さんが応える。
釜石市消防団第二分団第一部の消防団員である寅男さんは、五月から起こっている放火事件以来、夜になれば、他の団員とともに毎日のように町内を消防自動車で見回っていた。
実に御苦労さまである。
「きっかけは、なんなんだ?」
源さんが聞く。
「はっ?」
「はっじゃあないだろう。涼子先生と知り合ったきっかけはなんなんだと聞いているんだよ」
放火犯の話から、いきなり涼子先生の話になっている。虚を突かれた寅男さんが戸惑うのも無理はない。
寅男さん、目を細めて……。
「それは……。ちょっと……。つまり……」
「なんだよ。照れているのか」
「はぁ~」
「はぁ~ じゃあないだろう。まったく~」
「えっへへへへへっ」
寅男さんはボリボリ頭を掻いた。
「寅男っーと、なにしている。こんな美人さんをほっといてのう~」
ご隠居さんが、店の中にやってきた。
「かっかっかかかっかっ。そんなことでは、ダメじゃのう~ ふられてしまうぞ。ふられてもいいのかいな~」
ご隠居さんが、杖を片手に笑った。
寅男さん、やっとでできた彼女に逃げられては、かなわないと思ったのか、
「じゃあ兄貴。そういうことで」と、言って、寅男さんは踵を返したのだった。
寅男さんが戻って行くと、そこに涼子先生が待っていた。これから二人だけでデートを楽しむのだろう。
源さんは、軽く会釈をして、腕を組んだ。
(あの野郎~ あんな美人さんをものにしやがって……)
源さん、弟である寅男さんに、やっとのことで彼女ができて嬉しいはずなのだが、その反面、なぜか悔しいのである。
(寅男のどこがいいんだろうな……)
源さんは、ひょっとこのように口を尖らせて思い悩んだ。
(顔は……。まあ、普通だよな。頭は……、良いとはいえないけれども馬鹿というわけではない。体力は俺より劣るけれども、ある方だし……。しかし、女にもてる男ではないはずなのだがなあ)
源さんは、うん、うんうんと頭を抱えて悩んだのであった。
17、
さて、愛ちゃんとさっちゃん。
二人は夕涼み会&もってけ市が開かれている昭和園にはいなかった。会場の端にある昭和園管理事務所の裏口の前でなにやら話し込んでいた。
「えっー、なんで、愛がタバコを吸ったことになっているの?」
さっちゃんが言った。
「わかんない……。かあさんが佐々木先生から聞いたといっているけれども……。私、吸った憶えないし……」
「愛がタバコを、吸うわけないのにねえ……」
さっちゃんは、腕を組んで考えた。
「それで、愛のとうさんはなんて言っているの?」
「とうさん……。あんな人のことなんか知らないわよ!」
愛ちゃんは、プイっと横を向いた。
「あんな人って! 愛ちゃん、何かあったの?」
「何も……。何もないわよ」
愛ちゃんの瞳から一筋の涙がこぼれた。いまだに殴られたなんて信じられない。
(私の頬を殴ったのは、本当にあの優しいとうさんなの?)
愛ちゃんは頬に手をやった。頬を突き刺すような痛みはもはやないが、源さんに殴られた感触が、ずっーとそこに残っている。
「佐々木先生に直談判しようか」
さっちゃんが言った。
「先生に……」
「直談判しようよ。だって、おかしいじゃあない。タバコは文集の手提げ袋の中に入っていただけでしょう。愛ちゃんがタバコを吸ったわけじゃあないのに……。一体、誰が手提げ袋の中にタバコなんて入れたんでしょうね」
さっちゃんは、首をひねった。
源さんに殴られた次の日。愛ちゃんは、職員室に赴き、佐々木先生に昨日のことを尋ねてみた。が、佐々木先生は「そのことについては、後でちゃんと説明するから」と言って、適当にごまかし、愛ちゃんから逃げたのだった。
愛ちゃんは、何がなんだかわからなくなってしまった。
佐々木先生は、いけ好かない所があるが、熱心に授業に打ち込み、生徒を心から思う先生だと思っていた。その先生が掌を返したように、いい加減な態度を取っている。
(なぜ)
愛ちゃんの心の傷は少しづつ拡がっていった。
「あらっ、あんたら奇遇ねえ~ こんな所で会うなんて」
ゴ、ゴ、ゴリラの陽子とヒステリーの美智子、そしてスケ番のお由美が管理事務所の裏口前までやってきた。
「おまえ、この二人を知っているのか?」
由美が美智子に言った。
「知っているわよ。この間、お世話になったもの」
美智子が言うと、
「おうよ。この前は本当に世話になったぜ」
と、陽子が睨みをきかせた。
「今日は、犬コロがいないようだな」
美智子が辺りを見渡した。
「犬コロって……。ポチのこと」
愛ちゃんが応える。
「ほ~う、あの犬、ポチっていうのか」
陽子が指をポキポキ鳴らした。
嫌悪な雰囲気である。ゴ、ゴ、ゴリラの陽子とヒステリーの美智子は、愛ちゃんとさっちゃんに敵意を抱いている。
「おまえら、何をする気だ」
と、由美が言う。
「お由美さんには、関係ないこと。あたしたち、この二人にちょいとばかり借りがあってよう」
美智子が鞄から下敷きを出した。下敷きで爪を砥ぐ気なのだ。
「かわいがってやるからよう~ 覚悟しな」
陽子が右手の中指を突き立てる。
美智子と陽子は、なぜ、あの時、優しい気持ちになってしまったのか不思議でしょうがなかった。いまのいままでポチとラッキーの犬コロ二匹と、恐怖に怯える女二匹を叩きのめそうとしていたのに、犬に笑われたでけで、なんで、優しい気持ちなんかになってしまったんだろう。
(優しい気持ちなんか。優しい気持ちなんか……。必要ないのに……)
二人は、あれから、猛烈な自己嫌悪に陥っていたのであった。
「やるつもりか……」
由美が言った。
「ああっ……」
陽子が応える。
「おまえら……」
由美が陽子と美智子を見て、
「やるんなら、後でやんな」
と、言った。
「えっ?」
「今ここでやるっていうのは、まずいいんじゃあないの」
辺りを見ると、何事が起ったのかと、人がこちらを見ている。昭和園の端にある管理事務所の裏口周辺には、人はそれほど多くは来ていないが、騒ぎを大きくするとたちまち人が集まるだろう。
「なあに~ そこのトイレの中に連れて行って締めあげれば、それで終わりよ」
陽子が言う。
「そうよ。その可愛い浴衣、くしゃくしゃあにしてやるんだからー」
美智子が下敷きの上で爪を滑らせた。
愛ちゃんと、さっちゃんは艶やかな浴衣を着ていた。
愛ちゃんの浴衣には白地に、赤と桜色のユリの花が淡い色彩で描かれ、さっちゃんの浴衣には紺色の下地に緑と水色の薔薇の花がきらびやかに咲き誇っていた。帯は愛ちゃんが薄い黄色。さっちゃんが紅色である。
愛ちゃんとさっちゃんの浴衣は、きっと、この日のためにわざわざ用意されたものに違いなかった。
「スケ番のお由美さんとあろうものが、中坊の女の子苛めかよう~」
中村が現れた。中村の傍らにイサムと横田もいる。
「あんたは……」
由美は振り向いた。美智子と陽子が由美と一緒に中村たちに顔を向ける。
「陽子……。この人、あの中村 元だよ」
美智子が陽子の腕をとった。美智子は中村の顔を知っていたらしい。顔を見て怯えている。
「なに、あの中村か!」
陽子の目が大きく見開いた。
市内の不良と呼ばれる連中の中で、中村の名とその蛮行を知らないものはいない。陽子は思わず後ずさった。
「この間はどうもな。スケ番のお由美さん」
中村が口を歪めて言った。
「ひっー。ひひひ、ひゃっははははは」
由美が突然。笑い出した。
「なにが、おかしい?」
中村が言った。
由美は笑い続けている。腹の皮がよじれるくらい笑い続けている。
「由美さん……。どうしたの」
陽子が心配そうに笑い続けている由美の傍により、由美の背中に手をやった。
「だって……。この人……」
由美は人差し指を中村に向けた。
「だって、この人、お遊戯を踊るのよ。お遊戯を踊ってスキップして……。思いだしただけで……。思いだしただけで……。きゃははっはははっは」
由美の笑いは止まらない。身体をのけぞらして笑っている。
「あ、あ、あ、あ、頭にきたー」
中村は憤怒の顔になった。
「この俺を笑ったなー この俺様を笑ったな。この俺様を」
「だって、おかしかったもの」
「なにが、おかしいんだ!」
「おかしいわよ。高校生のあんちゃんが、腰に手をやり、ランランランとお遊戯を踊ったんですもの」
「お遊戯なんて踊らない! この俺がお遊戯なんか踊るわけないだろう」
「踊ったわよ。こうやってランランランランと」
由美が腰に手をやり、踊ってみせた。
踊ってみると、結構さまになっている。
由美は、バレエのプリマドンナが最高のステージで、極上の踊りを見せた時にだけ見せるような笑顔を作って舞って魅せたのである。
けど、やはり、おかしい……。
幼稚園児ならともかく、やはりお遊戯というものは、中学生が踊る踊りではない。
由美の踊りを、黙って見ていた陽子と美智子が笑い出した。
「きゃっはははははっ……。この中村が、そんなことをしたんですかい」
陽子が笑いながら言った。
「この人だけではないわ。そっちの二人もこうやって……」
由美は両手でガッツポーズを作って見せた。ガッツポーズのまま踊る。
「俺たちが、そんなふざけたポーズで踊るかよー」
イサムが言った。
「踊ったわよ~」
由美は「クックックックッ」と含み笑いを漏らした。
「踊らない。踊るわけがない」
中村が即座に否定した。
「踊ったわよ。黄色い声をあげてね」
「どたまにきた~ イサム、横田、こいつら、叩きのめしてやれっー」
中村が言った。
「中村さん、いいんですかい。こんな所で」
横田が言う。
「そこのトイレの中に連れ込んで、いてこませ」
「なるほど、そこだと人の目も届かないですからね。イサム、やるぞ」
横田はイサムに目配せを送った。
チリチリパーマのおデブさんと、リーゼント頭でやせすぎの少年が、由美たちに迫る。
「さあ、どう料理してやろうかー」
中村は口元から、良く発達した八重歯を覗かせた。
一方、ポチはというと……。ポチは台所用品売り場の横で昼寝をしていた。
さっきまで、ここに来るお客さんを、ジィーと観察していたのだが、あまりにも多様な人間が来るのでちょっと疲れたのである。
実際、この台所用品売り場には様々な、それも、ひとくせもふたくせもあるような人たちばかりやってきた。
愛犬ウルフを抱えてやって来た正子さんは、店に並べてある商品に、ケチを、つけるだけつけて、何も買わないで帰ってゆくし、町内会会長の吉井さんは、「今後の町内会の運営について、どう思う? 源さん」と、なにもいま、相談しなくてもいいと思う相談を、源さんに持ちかけて、商売の邪魔をするし、正子さんといれかわりにやってきた上辺婆さんは、店の前に集まっているお客さんに向かって、プードル犬“さゆり”の自慢話を大げさに吹聴して、周りからひんしゅくをかったのであった。
いやはや、本当にいろんな人間がいるものである。
さすがのポチも一度に強烈な個性を持つ人間ばかり観ていると、疲れる。疲れて、少し休みましょうと思ったその時、ポチの第六勘が閃いた。
18、
《どうしたの?》
ラッキーが言った。
《愛ちゃんと、さっちゃんが……》
ポチが答える。
《危ないのね》
《うん》
ポチは、吠えた。ラッキーも吠える。いままでおとなしくしていた犬たちが、雷鳴のごとく吠えた。
「とうさん、ポチたちの様子が変だよ」
大くんが言った
「なんだ! なにごとだ」
源さんが、大くんの所へ駆け寄った。
「なにが起きたかわからないけれども、ただごとじゃあないよ」
ポチとラッキーは、吠え続け、リードを思い切り引っ張っている。リードと繋がっている台所用品売り場が「ガタガタ」と、大きな音を発ててゆらゆらしている。台所用品売り場は簡易なテントで作られているから、もしかしたら、犬二匹の力でも壊れるかもしれない。
「ポチが誰かの危機を感じているんだ」
大くんが言った。
「このアホ犬が?」
源さんが首を傾げて、ポチを見た。
「なに言ってやがる。ポチにそんな力、あるわけねえだろう。ポチにそんな力があってたまるかってもんだ」
「あるよ! だって、姉ちゃん、言ってたよ。不良に絡まれた時、ポチがやって来たって」
「愛が……。愛がそう言っていたのか。愛がか……」
愛ちゃんが、そう言っていたのなら信じてみたい気もするが、源さん、どうしても、ポチにそんな能力があるとは思えないようである。しきりに首を傾げている。
まだ、仔犬であるポチが人の危機なんて、感じるわけがないと、頭っから思っているのだろう。
「とうさん、ポチを放してみようよ。もしかしたら姉ちゃんが危ない目に遭っているかもしれないよ」
大くんが源さんを急かした。
「しかし……」
「カッカッカッカッカッ、心配なら、ラッキーも一緒に放てばいいんじゃよ」
山崎のご隠居さんは笑うと、柱にくくりつけてあるラッキーのリードを外した。ご隠居さん、手に持ったリードを源さんに預ける。
源さんは、柱に結ばれていたポチのリードを外し、大くんに預けた。大くんは、ポチのリードを手にとり、ポチの頭を撫でて、
「ポチ、行くよ!」
と、ポチと一緒に走り出した。
「とうさん、姉ちゃんの危機かもしれないんだよ」
「愛がか……」
愛ちゃんが、ピンチに陥っているかも知れないと聞いては、黙ってはいられない。
「俺たちも行くかー ラッキー、頼むぞ」
源さんと、ラッキーも走り出した。源さん、数メートルほど走って、ちょいと止まり、振りかえり、
「さくら、店、頼んだぞ」
と言って、さくらさんにウインクをして見せたのだった。
「ええっー ちょっと父さん。店はどうするのよ」
さくらさんが、フライパン片手に言った。
19、
《愛ちゃんと、さっちゃんもピンチだけれども、スケ番さんたちも危ない!》
ポチが走りながら言う。
《スケ番が、愛ちゃんとさっちゃんを襲っているわけではないの?》
と、ラッキーが言う。
《違うんだ。中村っていう奴がみんなを、やってけようとしているんだ》
《中村って、街一番の悪って言われる、あの、中村?》
《えっ? 中村を知っているの》
《知っているわよ。あいつのせいで、とんでもない目に遭ったんだから……》
さすがは、街一番の悪である。犬にも、その名を知られている。
走るポチとラッキーの目に、大きなプラタナスの木の隣にある昭和園管理事務所が見えた。
《あそこね。……大変! 凶悪リーゼント野郎、イサムと、チリチリパーマのおデブ、横田も一緒だわ》
見ると、イサムがキィーキィーキィーの美智子を、横田が、ゴ、ゴ、ゴリラの陽子に手をあげようとしていたのであった。
時刻は午後三時半。昭和園の西側、大きなプラタナスの木の隣の管理事務所の側で暴行事件が起きようとしている。
釜石工業高校三年の悪、中村が、率いるイサムと横田が、スケ番のお由美、キィーキィーキィーの美智子、ゴ、ゴ、ゴリラの陽子を叩きのめそうとしていたのだ。
「おい、そこの二人!」
中村は、キィーキィーキィーの美智子の後ろで震えている、愛ちゃんとさっちゃんに声をかけた。
「余計なことをしたら、ただじゃあおかないからな」
中村に、そんなことを言われてしまったなら、ただ、黙って震えているしかない。愛ちゃんとさっちゃんは、ブルブルブルと身体を振動させた。
「待てっー!」
真っ赤なTシャツを着た、奴が現れた。
奴の名は、一文字 武。こういうときに限って現れるニクイ奴なのである。
右胸に黒い文字でNice GaYと書かれたロゴが付いた真っ赤なTシャツを格好良く着こなし、ストレートの白いジーパンをピシッと穿いて、今日も決まっている。
武は敢然と中村たちの前に立った。
「また、おまえか……。おまえなど」
中村が、良く発達した八重歯を口元から覗かせ、「ふっふっふっ」と笑った。
中村は武など、全然相手にしていない。武など赤子同然だと思っているのだ。
その、中村に赤子同然だと思われている武に、のされた高校生もいるにはいるのだが……。
「中村さん。こいつ、喧嘩、強いですでぇ~」
イサムが言った。のされた高校生とはイサムである。
「おまえが、こいつと“やる”んだろう」
「へっ?」
「へっじゃあないよ。おまえがこいつの相手をするんだよ。中坊相手に叩きのめされて、悔しくなかったのか」
「そりゃ~あ、悔しいけれども……」
イサムは頬を、右手の指先で掻いた。ゲーム・センター『イップク』で、武にコテンパにやられているイサムには、また、武とやりあって勝てる自信など、これっぽっちもない。
横田がイサムの前に出る。
「どいてろ! 俺が、おまえの代わりにこいつの相手をしてやるから」
横田は指をポキポキ、折った。
「俺は、こいつのような、いかにも正義の味方っていう奴が、でぃきらいなんだよ。……中村さん、いいでしょう」
「いいだろう。おまえが、イサムのカタキをとってやれ」
「あいな」
横田は、一文字にかかっていった。
「ワン、ワンワンワンワワン」
ラッキーが現れた。ラッキーは仔犬のポチよりも足が速い。先に駆け出したポチを追い抜いてやってきたのだ。
ラッキーと、一緒に駆け出したはずの源さんの姿は見えない。どこに行ったのだろうか。
現れたラッキーは横田のズボンの左の裾に喰らいついた。暴れて、横田の自由を奪っている。
「ラッキー」
さっちゃんが、愛犬の登場に思わず声をあげた。
「頑張ってー ラッキー、そいつなんかやっつけて」
さっちゃんの応援が、ラッキーに奮起をうながす。ラッキーは、横田のズボンの裾を引きずりまわした。回る回る、横田が回る。が、横田も、ただ、振り回されている奴ではなかった。一瞬の隙をついて、横田の右足が、ラッキーの腹を思い切り蹴っていた。
ラッキーは啼き声あげて無様に転んでしまう。
「なんていう酷いことをするのよー」
さっちゃんが、ラッキーのもとへ駆け寄った。愛ちゃんも一緒に駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫なのラッキー?」
さっちゃんは、横田に蹴られたラッキーの腹を撫でた。
「ラッキー、苦しそう……」
愛ちゃんが言った。
「こんなことをして……。こんなことをして……。もし、ラッキーが死んでしまったら……。ラッキーが死んでしまったら……。ラッキーが死んでしまったら」
さっちゃんの顔が涙に濡れた。
さっちゃん、泣いている場合ではないぞ! 君には、君にしかできない大技があるだろう。
大笑いをするという大技が……。
「犬を蹴って、おもしろいのかよ。あたいが相手なってやる」
陽子が横田の前に出る。睨みあう横田と陽子。互いに譲らない。陽子と横田は、一目見て、相手の力量を推し量り、実力伯仲とみているのだ。
横田が、一歩前に出ると、陽子が一歩後ろに下がった。陽子が横に移動すると、横田がそれに合わせて横にずれた。
横田と陽子。その戦いのゴングはなかなか鳴らなかった。
一方、スケ番のお由美は、中村と対峙していた。
「スケ番だろうが、スケ番じゃあなかろうが、容赦はしねえぜ。俺が直々に相手をしてやるよ」
中村が一歩前に出た。その中村の前に武が出る。
「あん! おまえの相手は横田だろう」
中村が言った。
「あのデブは、陽子とやりあっている。おまえの相手は、この俺だ」
武が毅然として言った。
女性を悪の権化のような奴と戦わせるわけには、いかないのだ。
「ふん、いいだろう。相手にしてやるー」
中村は、突き出した右手の中指を下に向けて言った。
その時……。
「ワンワン、ワンワン、ワン」
ポチの鳴き声が聞こえた。
「えっ! ポチ? ポチなの」
愛ちゃんが、犬の鳴き声のした方に目をやった。目をやると、そこにはポチと大くんがいた。
ポチは元気いっぱいだが、大くんは息を切らしている。
「あっーぁ、疲れた~」
大くんは、その場にへナへナと座り込んだ。大くんが座り込むと、大くんがしっかりと握っていたポチのリードが緩んだ。ポチは、その機を逃さず大くんの元から離れる。自由になったポチは、中村と武が睨みあいを続けている戦いの場に躍り出た。
「おめえは……」
ポチに気づいた中村が、その場から半歩下がった。
「陽子、あの犬よ」
美智子と陽子も後ずさりをする。
ポチの出現に、中村は警戒し、美智子と陽子の頬には脂汗が浮かんでいた。
(こいつが、……この仔犬が俺にお遊戯を踊らせたというわけか!)
中村の額から、スッーと一筋の汗が流れた。
スキップをして小鳩幼稚園に行った直後、中村は、なぜ、自分がスキップをして小鳩幼稚園まで来たのだろうと、不思議に思った。一緒にスキップして小鳩幼稚園まで来たイサムや横田に訊いても、少しも要領が得ることができない。
なんでも、犬を見たら、中村さんがおかしくなったんですよと、イサムが言っていたが、そんなバカな話などあるものか。
中村は、いまだにあの時、自分の身に何が起こったのかわからないである。
一方、美智子と陽子も、あの時、なぜ、優しい気持ちになってしまったのか、不可思議でしょうがない。
同級生の女の子を苛めて楽しんでいた二人にとって、自分の中に突然起こった優しいという気持が、はがゆくてしかたがないのである。
その、ポチがここに悠然と現れた。
ポチが中村に一歩迫ると、中村が一歩後退した。ポチが美智子と陽子の方を振り向くと、美智子と陽子の顔が固くこわばった。ポチが首を振ると、中村の眉間にしわが走った。ポチが尻尾を振ると、美智子と陽子はお互いの手を握り合って逃げた。
ポチの可愛らしい一挙一動に中村、美智子、陽子の三人は、産気猫が「ヒャーヒャーヒャー」と跳び回るように、慄いたのであった。
20、
寅男さんはデートの最中に、涼子先生とはぐれてしまっていた。
夕涼み会&もってけ市が、予想以上の大盛況で、寅男さんが、大勢の人に気を取られている隙に涼子先生が、その場からいなくなっていたのである。
寅男さんは、水戸家がきりもりしている台所用品売り場に戻ることにした。
戻ってみると、源さんがいない。いるのは、さくらさんと山崎のご隠居さんだけだった。
「あれれ、兄貴は……」
寅男さんが訊く。
「ポチとラッキーを連れて、どっかに行ったわよ。まったくこの忙しいのに……あの人ったら~」
さくらさんは、ご機嫌斜めだった。
「日頃おとなしいポチが、あんなに吠えたんだ。大変なことが起きているのに違いないわい」
と、山崎のご隠居さんが言う。
「ポチが吠えたんですか?」
寅男さんが訊く。
「ああ、そうじゃ」
「あの仔犬がねえ……」
寅男さんが探偵をきどって顎に指をかけた。
その時……。
「火事だー 洛名荘(らくなそう)が燃えているぞー」という声が、どこからかあがった。
その場にいた一同が、声の方を振り向くと、昭和園の西口、道路一つ隔てた建物から、火の手があがっていた。
洛名荘というのは、大手企業が接待用に造った豪奢な、別荘風な建造物である。
東京の本社から、偉い人たちが来た時だけ使われ洛名荘は、普段はあまり使われることないため閑散としている。
大きな塀に囲まれた豪勢な洛名荘は、いつもは静かなただずみの中にあるのである。
その、ひっそりとした建物から、いきなり炎が出た。
夕涼み会&もってけ市の会場にいる人は、騒然となった。
慌てて、公衆電話を探す者や、「119番は110番にかけるんだろう」とか、分けの分からないことを言っている人や、「燃え移ったら大変」と、ベランダに干してある洗濯物を取り込む人や、とりあえず火事場見物に行こうという人が続出した。
「おまえら、何やっている。火事だぞ!」
源さんが、腰を押さえながらポチと中村たちが大乱闘をしている所にやっとやってきた。
満を持しての……登場といいたいが、アル中のオットセイがよたよたと歩いて来たような現れ方である。
「とうさん、腰……」
大くんが、源さんの元に駆け寄った。
「腰……。腰、どうしたの?」
大くんが、源さんの腰を触った。
「触るなって! あー痛っー ちきしょうめが」
源さんが、顔をしかめる。ここに来る途中、ラッキーの脚に追い付かず、もんどりうって転んだとは言えない。
息子の前では、頼りがいのあるとうさんでいたいのだ。
「大丈夫?」
大くんは、一度離した手を、また、源さんの腰にあてた。
「触るなってー 」
「あっ、ごめん……」
大くんは、慌てて、源さんの腰から手を離した。
大くん、おっちょこちょいである。一度、腰に触るなって言われたのに、かまわず源さんの腰に触れて怒られている。
「あっー、痛ってなあ。……ところで、もめごとは終わったのかい?」
源さんがしかめっ面で言った。
「もめごと?」
「ああっ、もめごと、もめごと。うちの愛がピンチなんだろう。ポチが愛の危機を察知して……それからどうなった?」
「どうなったって言われても……」
大くん、返事に困った。
困って当然である。
ポチと一緒になって、姉である愛ちゃんを助けにきたはずなのだが、愛ちゃんたちに絡んでいたはずの美智子と陽子は、愛ちゃんやさっちゃんを、そっちのけにして、中村たちとの争いを始めたのである。
で、中村たちと陽子たちのバトルが始まるのか、思いきや、颯爽と一文字 武が出てくるし、武が中村をやっつけてくれるのかと思ったら、ポチがでしゃばり、でしゃばったポチを見て、中村たちはなにやら異様な行動をとり始めたのだった。
小学三年生の大くんには、中村たちに起こった異常が、分かるはずないのである。
「ウッーウッーウウッー」
サイレンの音が聞こえて来た。消防自動車が数台、駆け付けてやって来た。地元消防団、第二分団第一部の消防車も見える。
第二分団第一部の消防自動車の助手席に、さすらいの一匹犬水玉マフラーのサンダーちゃんが、ちょこんと座っていた。
サンダーちゃんは、特製の消防帽子を被り、これまた特製のサンダーちゃん用に作られた消防半纏を着こんでいる。
さすらいの一匹犬水玉マフラーのサンダーちゃん、改め、消防犬水玉マフラーのサンダーちゃんの初仕事だ。
21、
消防犬、水玉マフラーのサンダーちゃんは、さすらいの一匹犬水玉マフラーのサンダーちゃんの頃に比べると、ちょっとだけ、お顔がキリリとしている。
フレンチ・ブルドックであるサンダーちゃんのお顔のどこが、どういうふうにキリリとしたんだいと、聞かれても、返事にちょっと困るが、とにかく、凛々しくなっての登場である。
もっとも、あいかわらず青い耳かきを口に咥えているし、トレードマークの水玉マフラーもよれよれで、見た目は何も変わっていないようにも見える。けれど、なぜか、とっても男らしくなったように見えるのである。
きっと、さすらいの一匹犬ではなく“消防犬”という名誉ある称号のせいで、そう見えるのだろう。
地元消防団第二分団第一部の消防自動車が、消火栓のまん前に停まった。
後部座席から、消防団員が降りる。
お菓子屋のケンちゃん、さっきまで涼子先生とデートを楽しんでいたはずの寅男さんが台所用品売り場から駆け付け、大工のカンちゃん、鮨屋の親父である鉄火巻きのみっちゃんなどの、消防団第二分団第一部の勇士の面々が颯爽と地面に降り立ったのである。
「佐々木先生!」
消防自動車から、降りたケンちゃんは、調度そこにいた佐々木勇夫先生に声をかけた。
「先生も消防団員でしょう。一緒に火を消しましょうよ」
「俺は……その~う、さっきそこで警察に職務質問されて……」
「なに、ごちゃごちゃ言っているんです。早く、これを着て」
お菓子屋のケンちゃんが、消防車に備え付けてあるトランクの中から、消防服を取り出し、佐々木先生に渡した。
佐々木先生がワイシャツの上に消防服を身に付けると、大工のカンちゃんが、手際良く、消火栓のマンホールを開く。鉄火巻きのみっちゃんは消防ホースを担ぎ、洛名荘の方に走っていた。
さすが、県の消防走法大会で上位まであがった実力を持つ男たちの仕事である。
機敏な動きで無駄がない。
さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんから、消防犬水玉マフラーのサンダーちゃんになったサンダーちゃんも、いつのまにやら消防自動車から降りていた。指揮でも執るつもりなのだろうか、青い耳かきをクルクル回して得意になっていた。
「あ~ 嫌だ嫌だ。本当に消火作業を手伝うはめになってしまった」
佐々木先生が、サンダーちゃんの傍でぼやいた。
22、
二時間後、火事は鎮火した。
消防団員さんたちの決死の消化活動のおかげで、火は消えた。
吉井さんが、走って、寅男さんたちが待機している消防自動車前までやってきた。
「おーい、みんなー」
「団長、どうなんです? この火事もやはり放火ですかい」
お菓子屋のケンちゃんが、聞いた。
「そうだな……。詳しい現場検証をやってみてからでないと、なんとも言えんが、警察と消防署は、これも火つけによる出火だと見ている」
「やっぱりな。人気のない洛名荘から火がでるなんて、誰も思わねえよ。しかし、なんだな……これってときにこの騒ぎだ」
大工のカンちゃんがぼやいた。
いよいよ、これから売れ残ったバザー商品を一か所に集めて、豪快にオークションを開始しようとしているときに、この火事騒ぎである。
「会長、これじゃあ花火も中止だよなあ」
源さんが言った。
夕涼み会&もってけ市のラストは、盛大に花火を打ち上げて終える予定だった。が、これじゃあ花火なんて打ち上げることなどできやしないだろう。
会長は、大きな大きなため息を漏らすしかなかった。
《ポチ、犯人を見つけて》
ラッキーが言った。
《えっ?》
《放火犯人を見つけてよ。放火犯は、まだ、この近くにいるはずよ。近くにいて、右往左往している人たちの様子を、笑ってみているはずよ》
《ここにいるの?》
《ええっ、放火犯は愉快犯が多いのよ。だからこの近くにいて、必ず視ているはずよ》
ポチは辺りを見渡した。
辺りには、人が溢れている。年よりもいれば、若いあんちゃんや、ねえちゃんもいる。同じ町内の人もいれば他の町の人もいる。
知っている人もたくさんいるが、知らない人も大勢いるのだ。
この中から一体どうやって犯人を捜せというのだろう。
《お願い! 願って、ポチ!》
《……》
《願ってよ、ポチ! ポチが笑って願うと、ポチの身体からある種のフェロモンが放たれるのよ》
《フェロモン?》
ポチはお眼目を細めた。
フェロモンは昆虫や動物の体内で作り出される一種の誘因物質のことである。体外に放出後同種の他の個体(犬なら犬、猫なら猫)に、決まった行動や発育の変化を促す物質なのである。
《ポチから放たれたフェロモンが、なぜ、人に異常な行動をうながすのかそれは、わからないけれど、とにかく、ポチから放たれたフェロモンが人を動かしているのよ》
ポチから放たれるフェロモンが、なぜ、人に影響を与え、とんでもない行動を起こさせるのか、それは、分からないが、そんなことは今はどうでもいい。
いまは、とにかく犯人を探し出す。探し出して、とっ捕まえる。この場を逃したら、今度はいつになるか分からない。
《ポチ、お願い。願って。この近くにいるはずの犯人に自首するように願って》
《でも……。どうやって?》
《いつものように、笑って。笑って願うのよ》
《笑えばいいの?》
《笑って、ポチ! みんなの所に行って微笑んで》
《でも……》
辺りは騒然としている。仮にポチがみんなの前に出ても、誰も仔犬には振り向かないだろう。
突然起きった火事という出来事に気を奪われているのだ。たとえ、目の前に有名人がいても、気にもしないだろう。
「ひひひひっひひ……」
気味の悪い笑い声が、辺りに響いた。
「さち、どうしたのよ」
愛ちゃんが、さちちゃんの方を振り向いた。
「だって見てよあの顔……おかしったらありやぁしない」
さちちゃんが指を射している先には、煤で真っ黒になった由美と陽子と美智子がいた。由美たち三人は、火事と訊いた途端、制止する大人たちを振り切って、火事場見物に行ったのである。
「まるで、パンダみたい。三人揃って、パンダ三姉妹ってかー パンダ三姉妹、パンダ三姉妹」
さちちゃんは、大笑いの構えをとった。
出るぞ! 出るぞ! 出るぞ! 大笑いすると怖い超音波女の大笑いが。
「あっははっはっはははっはは、ひっひっひひっひっ、おほほほほほっは」
ついに出た、さっちやんの大笑い。120db(デジベル)はいっている。まるでロックコンサートで流れるような、凄まじい音量が辺りに響きわたったのだ。
当然、そこにいた人たちは、なにが起こったんだと驚いて呆然としている。かわいそうに、ひきつけを起こした子供たちもいるし、中には尻もちをついてしまっている人たちもいた。
《いまよ、ポチ! みんなが唖然としているいまなら、みんながポチを注目するわよ》
と、ラッキーが言った。
ポチは、てくてくと歩いて、みんなの前に出た。
《こう?》
ポチは首を四十五度の傾けて微笑んだ。臭腺から、フェロモンが放たれる。
すると……。
「ご、ごめんなさい……私が悪かった。私が悪かったのよう~」
と、言って人込みから出てきた女の人がいた。
な、な、なんと出てきたのは、見た目麗しい二中のアイドル木村涼子先生だった。
「ごめんなさいって、どういうこと? なぜ、先生が謝るの?」
と、愛ちゃんが言った。
疑問を持って当然だ。いきなり、みんなの前に出て、謝るなんて、どうしたのだろう。
「先生が……、先生が火をつけたのよ。むしゃくしゃしていたから、うっぷんを晴らそうと火をつけたの」
涼子先生が告白した。
「え、えええっ!」
そこにいる誰もが驚いた。まさか、綺麗で優しいと評判がいい涼子先生が放火犯人だなんて……。
「だってみんな、私のこと、お姫様みたいに持ち上げるんですもの。なんで私のことそんなに憧れるのよ。私、本当はだらしない女なのよ。それなのに、それなのに映画スターみたいに、ちやほやして……」
涼子先生は、大声で叫び続ける。
「私ね……二週間は洗濯物ためても平気だし、よく、公園で猫を虐めて遊んでいるし……いい歳してピンポンダッシュしてふざけている女なのよ……そんな女なのに、どうして優しくて綺麗で、しっかりしているって言うのよ。息が詰まるわよ~う」
涼子先生は、うっとうしくなるほど受けたみんなからの敬愛に嫌気がさしていたのだ。とどのつまり体裁をとるのに疲れていたというわけだ。
「それで火事現場に、いつもいたわけか」
寅男さんが、人込みの中から出てきた。
涼子先生と寅男さんの出会いは、火事現場だった。消火作業を終えた寅男さんが、後片付けをしていると、火事場特有の嫌な臭いを気にせずに、放心したように宙をみつめる女性を見つけた。
どこかで見たことがある女性だと思ったら、先日起きた火事現場にもいた女性だった。
なんで、火事が起こるたびに火事現場にいるんだろうと、気になった寅男さんが、女性に声をかけて聞くと、「火事を見ると、火事に遭った人のことが心配なの。大変だなぁ~と思って。だから何か役にたちことがないかなぁ~ と、いつも様子を見るに来るのよ」と、涼子先生は言ったのだった。
「火事に遭った人を心配して、いつも現場にいたんじゃあないの?」
寅男さんが、口をパクパクしながら、涼子先生に尋ねる。
「心配している暇なんかないでしょう。心配してたら、燃えている火を見ることができなくなるでしょう」
「見ることができなくなるって……火つけして、火事場見学したわけ? みんなが消火作業をしているのに……そりゃあないでしょうよ」
寅男さんは、がっくりと肩を落とした。その寅男さんの肩に手をやった男がいる。
源さんだ。源さんは気落ちしている弟の肩を、掴んで、
「おまえと、あの女の馴れ初めは火事場で、出会ったのが始まりなのか」
と、言った。
「なんて優しいひとなんだと思ったんだ。火事に遭った人を心配して、わざわざ現場にくるなんて……それで、つい」
「声をかけたのか?」
「は……はい」
寅男さんは、意気消沈した。
そりゃあ~そうである。なんて、優しい人なんだと声をかけ、つきあい始めた女の人が放火犯人だなんて、誰が想像できたであろうか。
《ポチ、あの人……きっと、もっと隠していることがあると思うわ》
と、ラッキーが言う。
ラッキーは賢い犬だ。ポチより長く生きてきたわけで、ラッキーのその犬生経験が、ラッキーにそう言わせていた。
《まだ、悪いことしているの?》
《しているわ、さっきから愛ちゃんの方を見ているから、愛ちゃんに悪いことをしたのね》
《愛ちゃんに……》
《私の勘がそう言っている》
涼子先生は、さっきから愛ちゃんの方を気まずそうに見ている。
《ポチ、お願い、願って。涼子先生に白状させて》
《わかった。もう一度やってみる》
ポチは再び「ワン」と吠えて、涼子先生の目の前に立った。首を四十五度曲げて、にっこりと微笑む。
涼子先生が、目を大きくさせて、口をわなわなさせた。
「愛ちゃん、ごめんなさい。手提げ袋にタバコとライターを忍ばせたのは、わたしなのよ~う」
と、涼子先生は告白した。
「こ、こ、この野郎~」
愛ちゃんの傍らにいた源さんは怒った。涼子先生のたわいない悪戯のせいで、愛娘のほっぺたを張り飛ばしてしまったのである。
「寅男を騙し、娘をコケにしやがった」
源さんの怒りが頂点に達した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。みんな私が悪いのよ~う」
「いいや、許さねえ。おまえみたいな奴は……」
源さんは、涼子先生の所に、つかつかと歩いて行った。
「まあ、待ちなさい。ここから先は我々の仕事だ。この女には放火の容疑がある。そちらが先だ」
源さんを止めたのは、その場にいた警察官だった。
「木村涼子というのか。自白が本当なら、このまま署まで来てもらう」
二人の警察官が涼子先生の脇に立ち、腕を抑えた。
「えっ⁉ なんで、こうなるの?」
涼子先生は、もがいた。
「なんでこうなるのじゃあない。あんた、いま放火の事実を告白しただろう」
「ええ~え。私が告白した⁉ そんな……あの犬見たら……あの犬が笑って……」
「犬が笑う? なにをバカなことを」
「本当に、本当に犬が笑って……放火犯人さん、あなたに優しい心があったなら出てきて罪を告白してっていうもんだから……」
「犬がしゃべったっていうのか?」
「しゃべりはしないけれど……心の中に、そう響いたのよ~う。そしたら急に優しい気持ちになって……」
「それで告白したというのか」
「そうよ……でも、告白するつもなんて全然なかったのに……」
「とにかく署まで来なさい。話はそこで訊く」
涼子先生は、警察官に連れられて行ってしまった。
《おまえがやったのか?》
ポチに声をかけた犬がいた。
嘱託警察犬訓練士と食堂味三番のおやじさんに連れられたシェパード犬ジョンが、ポチに声をかけたのだ。
《ポチ、ジョンさんよ。あなたが憧れているジョンさんよ》
と、ラッキーが言う。
《ジ、ジョンさん⁉》
ポチは首を十度ほど傾けた。ここで憧れているジョンに会えるとは思ってもいなかったのである。
《君、いま何かやっただろう?》
ジョンが言う。
さすがはジョンである。ポチがスーパーフェロモンを使ったことを知っているようである。
《一体何をやったんだい?》
ジョンがポチに顔を近づけた。
ポチは緊張して、黙っている。まともにジョンの顔さえ見ることができない。
ポチの代わりに、
《この子ねえ、不思議な能力をもっているのよ》
と、ラッキーが言った。
《不思議な能力?》
《ええっ……。とっても不思議な能力》
《ポチの笑顔は人を優しくさせるの。この子が笑って人の前に立つと、人は優しくなるの。優しくなって、人に何かをしてやりたい気持ちになったり、本当の自分の良心に気づいて、懺悔したり、とんでもないおかしなことをするのよ……》
《ボウズが笑うと、人が優しくなるのかい》
ジョンが鼻っ面をポチに向けた。
(なるほど、この坊や、良く見ると、とても愛敬のある顔をしているな。ひねくれた所が一つもない。こんな顔で笑われると優しい気持ちになるかもしれない。けれど……)
ジョンは頭をひねった。
(あの時確か、笑顔の他に何かもう一つあったような気もするが……。なにか、もう一つ、笑顔の他に、もう一つ……)
ジョンは鼻をヒクヒクさせた。
(匂い……。そうだ、匂いだ。あの時、この坊やから嗅いだ事のない匂いが出ていたんだ)
さすがに、警察犬である。犬の最大の武器である嗅覚で、ポチの秘密にたどり着こうとしている。
《あの、匂いはなんなんだい?》
ジョンは鋭い眼光でラッキーを見た。
《あの匂いは……。一種のフェロモンのようなものでと思うけれど……》
ラッキーがたどたどしく説明を始めた時、
「ジョン!」
と、警察官が叫んだ。
ジョンは警察犬である。警察犬は教官(ここでは係の警察官)の命令に服従しなければならない。
ジョンは踵を返した。
《帰るけれども、とにかく助かったよ。実際、放火犯が特定されなくて、みんなイライラしていたんだ。君が何をやったのかわからないが、感謝する。事件は解決した……。それじゃあ》
ジョンは味三番のおやじさんと嘱託警察犬訓練士に連れられて帰って行った。
《凄いじゃない、ポチ》
ラッキーがポチを褒めたたえた。
《憧れているジョンに感謝されるなんて》
《それほどでもないけれども……》
《照れることないわよ。もっと堂々としなさい》
《えへっ、えへへへへ》
ポチは下を向いて、尾をクルリと回したのだった。
23、
夜である。
時間は午後九時半。完璧な夜である。
放火犯の劇的な逮捕劇があっても、夜がくるのである。
夜になると、人は一日の疲れを癒すために眠りに入る。ここ、水戸家でも、それは同じで、水戸家の二階、さほど大きくない子供部屋では、大くんと愛ちゃんが寝息をたてて、すやすやと眠っていた。
「あれれ、やっぱりね~」
眠りについた子供たちの様子を見にきた、さくらさんは、薄いかけ布団を足蹴にしている愛ちゃんと大くんを、優しいまなざしで見つめた。
さくらさんの後方で源さんが、笑っている。
「子供は元気なのが一番」
源さんは満足そうにうなづいた。
「なに、言っているのよ。風邪でもひいたらどうするのよ」
さくらさんは、そおーっとかけ布団をかけ直す。かけ布団をかけ直して大くんの頭を撫でた。
「ほんと、寝ぞうが悪いんだから」
さくらさんが、そう言うと、
「なに、言ってやがる。おまえも寝ぞうが悪いだろう。枕に足をかけて逆さまになって寝ていたのは、どこのどちらさんだっけ?」
と、源さんがさくらさんを、からかった。
「あら、あらららら。良くそんなことが言えるわねえ~ 夜、突然起きだして庭でポチを抱きしめて眠っていたのは、誰でしたっけ?」
「おまえだろう」
「私じゃないわよ。とうさんでしょう」
「俺が?」
「あなた以外に誰がそんなことをするのよ」
源さん、酔っぱらうと、日本酒片手に家の中を徘徊することがある。家の中だけだからいいようなものだが、グデングデンに酔っぱらったまま、町にでたらそれこそ大変である。警察のお世話になってしまうかもしれない。
「酔っぱらうと、なにも憶えていないんだから」
「うるさい」
「うるさいじゃあないの~ だいたい、とうさんときたら~」
「しっ! うるさくすると、愛たちが起きるぞ」
源さんは、人差し指を唇にあてた。さくらさんを畳の上に座らせると自分も畳の上に座った。愛ちゃんと大くんの間に座った源さんは、二人の手をとって優しく握りしめた。
「さくら……」
「なぁ~に、とうさん」
「愛は、やっぱりタバコなんか吸ってはいなかったんだなあ~」
「そりゃ~あそうよ。私の娘だもの」
「そうだよな。おまえの娘だものな」
源さんは、ご立派なカイぜル髭を引っ張った。
おっーと、言うのをあやうく忘れてしまいそうだったが、源さんは髭を生やしている。カイぜル髭というご立派な髭を生やして、得意になっている。この髭のせいで、またまた一悶着起こすのだが、それはまた別なお話……。
「とうさん……」
さくらさんは、いつまでも座り込んで、動こうとはしない源さんの、肩に触った。
「とうさん」
さくらさんは、源さんの肩を揺する。
「とうさん……。愛のことを信じていたでしょう。タバコなんか吸っていないと思っていたくせに、なぜ、殴ったの?」
「なぜって……。そりゃあ~、おめえ……」
源さんは、言葉を詰まらせた。
一度だって手をあげたことのない愛ちゃんを、なぜ、殴ってしまったのか分からない。「俺の娘が中学生のくせにたタバコなんか吸うもんかー」と思っていたくせに、なぜ暴力をふるってしまったの、まるでかわからない。
源さんは、自分の頬を何度も何度も叩いた。
「とうさん……」
さくらさんは、目を細くして、
「大きくなったら、……愛が成人して大人になったら、タバコぐらい吸うかもよ。いまの若い子、みんな吸っているじゃあない」
「愛がタバコを吸うのか?」
「ええっ……。もし、その時が来たらこの前みたいに、いきなり、愛を殴らないでね」
「………」
「殴らないでね……」
「ああっ、分かっているよ」
源さんは、愛ちゃんの唇を指で突っついた。
「こんな可愛らしい唇が、タバコをくわえるのかい。俺は嫌だな……」
源さんの肩が震えている。
「とうさん、どうしたの?」
「なんでもねえよ……」
「なんでもないわけないでしょう。ちょっと、おかしいわよ」
「おかしくなんかない」
源さんは手の甲で顔を擦った。
「えっ、とうさん、泣いているの?」
「馬鹿言えっ。誰が泣くもんか」
「泣いてる、泣いてる」
「泣いてなんかないっていうの」
源さんは両手で顔をゴシゴシ擦った。
「そんなことをしても、ダメよ」
さくらさんは、源さんの腕を掴んだ。源さん、さくらさんの手を振りほどいた。両手をじっと見る。
「この手……」
源さんは、両手の掌を顔の真ん前にもってきた。
「この手……。この手が悪いんだ。この手が悪い。みんなこの手が悪い。俺の大事な娘を殴りやがって」
源さんは、近くにあった勉強机に思い切り両手をぶつけた。
「こいつめ……。こいつめ、こいつめ」
何度も何度もぶつけた。
「やめなさいよ」
さくらさんが、止めるが、源さん、やめようとはしない。
「こいつめ、こいつめ、こいつめ、こいつめ……」
「ちょっと、やめて。血がでているじゃあない」
さくらさん、再び源さんの腕を掴む。源さん、それをまた振りほどき、
「こいつめ、こいちめ、こいつめ」
と、言って、また、机に手をぶつけた。
「もう、やめて。もう、やめてよ。愛だって分かっているはずよ。とうさんが分けもわからず、娘を殴る人じゃあないっていうことを」
さくらさんは、源さんにすがりついた。
「どうしようもない大酒飲みで、短気で見栄ばっかり張っている人だけれども、誰よりの娘想いで、誰よりも優しい人だっていうことを。愛は誰よりも分かっているはずよ」
「愛がか……」
源さん、机に手をぶつけることを止めた。
「ええっ、愛は小さい時から、世界中でとうさんのこと一番大好きって言っていたんだから」
「さくら……。さくら~ おめえ~ そんな人を泣かせるようなことを言うなよなぁ~ 涙が出てくるじゃあねえか」
「あらっ、泣いたっていいのよ」
「馬鹿野郎~ 男親が、そう簡単に泣いてたまるかってんだ」
源さんは鼻をすすった。
「男親が泣くときはだなあ。男親が泣くときはだなぁ~ 娘の……。娘の結婚式だけだと相場が決まっているんだ」
「娘の結婚式……。愛の結婚式で泣くの?」
「ああっ、思い切り泣いてやるから覚悟していやがれ」
「へぇ~」
さくらさんは、意味深な笑顔を作った。
「おっ、なんだなんだ、その笑いは」
さくらさんは、意味深な笑顔を作り続ける。
「なんだ、なんだ、その笑いは……ちっ、勝手にしろ!」
源さんは、プイと後ろを向いた。
「とうさん……」
さくらさんは、源さんの背中に抱きついた。
太平洋のように大きくて、懐かしい匂いがする源さんの背中。
さくらさんは、背中から伝わってくる大きな愛情のぬくもりに、しっかりと頬を押しつけた。
源さんと、さくらさんの足元。眠っているはずの愛ちゃんの目から、露草に浮かぶしずくのような涙がこぼれおちていた。
24、
二、三日して、寅男さんが水戸家にやってきた。
フレンチ・ブルドックの消防犬、水玉マフラーのサンダーちゃんも一緒である。
「兄貴~ いるか」
水戸家にやってきた寅男さんは、開口一番、源さんを呼んだ。
「なんだ、騒動しい」
二階から、源さんがドタドタと、寅男さんがいる玄関にやってきた。
「その節は、どうも。みんなに迷惑をかけまして」
源さんを見た寅男さん、深々と頭を下げた。
「あん? その節ってなんだ? 迷惑をかけたって」
源さん、ピンとこない。口をへの字にして、カイぜル髭を曲げている。
「寅男……。おまえ、みんなに迷惑をかけたのか」
源さん、訝しげに寅男さんを見た。
「とんでもない。俺は誰にも迷惑をかけていないですよ。俺じゃあなくて、その~う」
実際、寅男さんは誰にも迷惑なんぞかけていない。迷惑をかけたっていうか、困惑させたっていうか、人さまにとんだ衝撃を与えたっていうかー。
とにかく大変なことをやらかしたのは、寅男さんのかつての恋人木村涼子さんだ。
警察に逮捕された涼子先生のスキャンダルは、日本中を巻き込む話題になった。
見目麗しい現役の中学の先生が起こした連続放火事件である。話題にならない方がおかしいのである。
「涼子の先生のことか……彼女のことは、もういい。考えただけで腹が立つ」
何を思ったのか……源さん、腰をおろして、消防用の帽子を被ったサンダーちゃんを見た。見て直ぐに……、
「ぷっー」
と、笑った。
「はっはっははっ。何度、見ても、おかしな顔だ。こいつか屯所で世話をしている消防犬というやつは?」
「サンダーちゃんは、こう見えても立派にお勤めを果たしている消防犬です」
「消防犬……。ふ~うん。で、何をやっているんだ?」
「サンダーちゃんは……」
消防犬となったサンダーちゃんは、第二分団第一部の消防団員と常に行動を共にし、夜のパトロールの時には、消防自動車の助手席に陣取って、街の平安を願い、毎月二回程ある定期巡回の時には、火災予防のチラシを配る消防団員の横で、愛想笑い作って火災予防の重要性を、「ワン、ワン、ワン、ワンワン~ン」と訴えているのである。
「こんにちわ」
愛ちゃんと大くんが茶の間から、顔を出した。ポチも一緒である。
「愛ちゃんに大くん……。それにポチ、元気か」
「うん、元気よ」
愛ちゃんが応えた。
「寅男さん、いつもどうもおいしいものを頂いて」
そう言いながら、さくらさんも玄関までやって来た。
「やだなぁ~ 姉さん。今日は何ももって来ていないですよ」
寅男さんが、応える。
「ええっー! なにも持ってきていないの」
愛ちゃんが大きな声を出した。
「これっ、はしたない」
さくらさんが、そう言って愛ちゃんを叱ってはいるが、愛ちゃんは後ろを振り向いて「なんだ持ってきていないのか。チェ」と、舌を打ったような顔をしていた。
実家を継いで八百屋をやっている寅男さんは、水戸家にやって来る時、いつもなにか持参してやってくる。
みずみずしい苺だったり、甘くて、ほっぺたが落ちそうなメロンだったり、蜜が入ったリンゴなどを持ってやってくるのだ。
が、今日はどういうわけか何も持ってきていない。
たまにポチにも豚肉を買って持ってくるので、ポチも「ク~ウン」と鳴いてしまった。
「ところで、あいつはどうしている。消火作業の最中に愚痴ばっかりこぼしていたという佐々木という野郎は」
源さんが言った。
「あいつは消防団を止めましたよ。消防車の車両整備しているせいで、ガソリンくさくなるし……そのせいで、警察に職務尋問されたし、やってられないって言って」
寅男さんが応えた。
「あいつ、警察に尋問されたのか……まっ、あいつの性格なら警察に尋問されてもおかしくはねえな」
警察は、前に一度佐々木先生を町中で職務尋問されたことがあった。
高級な服を着ているくせに案外だらしない所がある佐々木先生は、ガソリンで少し汚れたアルマーニの背広を着たところを警察に止められたのだ。
高級紳士服に、ガソリンの匂いをつけたまま歩き回る男を見たら、誰だって怪しいと思いだろう。
「格好ばかりつけているけれど、ガソリンまみれの高級紳士服を着ていちゃあ、話にならねえや。あっはははっは」
源さんは、笑った。
「さくら、うちで汚したあいつのスーツ、ちゃんと洗って返したんだろうな?」
「ええ、ちゃんと洗いましたよ。洗ってもスーツに染み付いた根性悪さは、取れなかったと思うけれど」
「根性の悪さは、取れなかったか。そうか、そうか。それはそうで笑えるな。あっはっはっははっは」
「ほんと、笑えるわよ」
さくらさんんも源さんと一緒に笑い出した。
気がつくと、愛ちゃんも大くんも笑っている。その笑い声につられて寅男さんも笑っていた。
頑固一徹だが、涙もろい源さん。優しいけれどもしっかりものの、さくらさん。食いしん坊で、脚が早い愛ちゃん。甘えん坊で、ポチの大親友の大くん。そして、家族のアイドル“その名はポチ!”。
水戸家は今日も幸せに満ち足りた日々を送るだろう。
ポチの頭の上には、どこまでも拡がる真っ青な空があり、真っ青な空で、おてんとうさまが爽やかに微笑んでいる。おてんとうさまの横には、豚さんの丸焼きみたいな雲が、ふわふわと気持ちよさそうに浮かんでいた。
ポチは、気まぐれな風さんが、豚さんの雲を西の方に流してしまう前に、食べてしまえーと、口を大きく開けたのだった。
了
ポチは自分の名前が気にいらない。
なぜ、飼い主の水戸源吾さんが、こんなありふれた名前をつけたのか、頭の中身を疑いたくなる。
人というものは、「ポチ」という名を耳にしただけで、「なんだ、おまえ犬を飼っているのか? どんな犬なんだ」と、いっては犬の迷惑も顧みることなく、わざわざ、ポチを覗きに見に来るのである。
ポチはどんな人間が覗きに見にきても、気にはしないようにしているが、たまに、生後五ヶ月目のポチを抱き上げ、股間をみては、何に関心するのか、急に笑い出したり、嫌がるポチを無視して、ほおずりをする奴がいるから、頭にきているのである。
そんな失敬なことをする人間が、子供たちや若い女の子たちだけだったら「ガキや女のすることだ、たいしたことねえや」と、我慢できるが、ほおずりする奴らが、髭づらの男たちだったりするとどうにもやりきれなくなってしまう。油と垢に汚れた髭が、ポチの柔らかい頬を刺し、昨夜、飲んだらしい安物の日本酒の臭いが、ポチの敏感な鼻をおかしくするのである。
犬にとって生後五ヶ月目といえば、人との交わりにようやくなれてくる時期である。その大事な時期に野蛮な男どもに、ほおずりされ、腐った魚のような臭いを嗅がされたんじゃあたまったもんじゃあない。
ポチという名が悪いのか、それとも生後五ヶ月目に入ってますます魅力的になってゆく自分に落ち度があるのか、これじゃあ、ぐれて不良になってもおかしくねえやと、ポチは嘆くのであった。
まっ、嘆いてみたってしょうがない。
カラスのカーこうが「カー カー」鳴くから、ひと眠りしようと犬小屋の前で一声吠えて、眠りに落ちるポチだった。
2
ちゅん、ちゅん、ちゅんと、スズメさんたちが、気持ちよさそうにさえずると、新しい朝がやってくる。
ポチは、この瞬間が大好きで、スマイルをたたえたお日様が、「おはようー」と、お空に顔を覗かせると、嬉しくなって一声吠える。お日様は決して「ハーイ、お元気!」と言ってはくれないが、ポチが気持ちよく吠えると次の日も、また、スマイルをたたえた顔を覗かしてくれるのである。
そんなもんだから、ポチは毎日吠えることにしている。調子にのって吠えていると、三日に一回の割合で愛ちゃんまでが、ポチと一緒に吠える。
「うるさいわね~ ばか犬。朝ぱらっから何よ!」
愛ちゃんは猛々しく吠えると、思い切り、二階の子供部屋の窓を閉めるのである。
で、三日に一回、愛ちゃんが、ポチと一緒に吠えると、五日に一回の割合で、隣の正子さんがわざわざ水戸家までやってきて「ガオー」と吠える。よっぽど、ポチの吠え声が魅力的なんだろう。
「ちょっと、その犬、黙らせてよ。うちのウルフが真似して困るのよ」
隣の正子さんは、「ガオー、ガオー、ガオー」と、吠えると、水戸家の玄関のドアを乱暴にしめて、すたこらさっさと自分の家に戻って行くのであった。
ちなみにウルフというのは、正子さんちの愛犬で、生意気にも血統書つきのチンである。ポチの目から見ると、ウルフはどう見ても、へちゃめくれのすっとこどっといのアホ犬にしか見えないのだが、ウルフは由緒ある血統書つきの犬なのであった。
朝の恒例行事のポチの吠える声が響くと、さくらさんが柔軟体操を始める。一番最初に起きて来たさくらさんがやっている柔軟体操というのは、エアロビスクという美容にとってもいいもので、本人はかっこよくポーズをつけてやっているつもりなのだが、くねくねとナメクジのように身体を動かす、その姿は、どう見ても、年老いたお猿さんが痛み出した間接を、癒そう癒そうと、涙ぐましく努力して身体をうごかしているような姿にしか見えない。
一度、本物のお猿さんを、水戸家に連れてきて、さくらさんと一緒に、エアロビスクをやらせたら、たいそうおもしろいだろうと、ポチは思うのだった。
さくらさんの次に起きてくるのは、愛ちゃんである。
炊飯器が湯気をたてる頃、二階の子供部屋から寝ぼけ眼で起きてくる。たまに、寝坊して、さくらさんに「愛! いつまで寝ているのー 遅刻したらしょうがないからね」と、どやされるが、そんなときは、きっとおいしいものでも食べている夢を見ているのだろう。
愛ちゃんの次に起きてくるのが、大くんである。
大くんは、朝から元気がいい。
パジャマのまま、家の中をドタバタと走り回る。トイレに行って用をたし、洗面所に行って、顔を洗って、歯ブラシを口の中に突っ込んだまま、ポチのところに来る。
ポチのところに来て、歯ブラシを口の中にいれたまま挨拶をするもんだから、なにを言っているのかさっぱり分からない。それでも、ポチが愛想よく尾を振るもんだから、大くんはニコリと笑って茶の間のほうに戻ってゆく。
源さんは、大くんの次に起きてくるのだが、今日はぐ~うぐ~う寝ている。
昨日、遅番で帰りが遅くなり、仕事が終わった後、飲みにいったので、おそらく起きて来るのは昼頃になるだろう。
言っておくけど、水戸家の大黒柱、源さんは、パチンコ屋『パーラ フレンド』に勤めている。ポチはパチンコ屋という所が、どういう所かよく分からないが、ものぐさの源さんが一生懸命に勤めているところだから、きっと、おもしろい所なのだろう。
「愛~ 愛~ 愛~」
さくらさんが、愛ちゃんを呼んでいる。今日は寝坊をしているようだ。
時刻は七時半である。このまま寝ていると完全に学校に遅刻する。
「愛。いい加減に起きなさい!」
さくらさんが、台所で大きな声をたてたが、愛ちゃんは起きてこない。うまいもんでも、たらふく食べている夢でもみているのだろうか。起きて来る様子もない。
「なにしてるのよー。起きているんでしょう。ぼやぼやしてると、朝ごはん、抜きますからねー」
さくらさんは二階に通じる廊下に出て、大きな声で叫んだ。
返事がない。
いつもなら、このくらいの大きな声で叫ぶと、日本アルプスに響くやまびこのような声が返ってくるのだが、今日に限って、日本アルプスのやまびこはストライキをしている。
「本当に抜くからねー」
さくらさんはもう一度、声をかけた。が、返事がない。日本アルプスのやまびこは、ストライキを続行中である。
「変ねえ? 」
さくらさんは、首を傾げた。
確かに、変である。食いしん坊の愛ちゃんはゼッタイ、朝ごはんを抜かしたりはしないのだ。
愛ちゃんに一体なにがあったのだろう。
ポチは鼻をヒクヒク、動かした。
鼻をヒクヒク動かして、考えてみると、思い当たることがある。
愛ちゃん、たまに懐から写真を取り出しては、「はぁ~」と溜息をついている。
なぜ、溜息なんぞついているのだろう。
ポチは考えた。
考えたけれど分からない。けれど、問題の写真は、家族を写した写真でないことは確かである。家族そろっての写真は(もちろん、ポチも一緒である)茶の間に「デーン」と飾ってあるし、愛ちゃんが、それを見て溜息なんぞついたところなんかみたことがない。
では、愛ちゃんが溜息をつきながら見ている写真には、一体なにが写されているのだろう。
見えないところで予想が出来ない問題が勃発したんじゃあないかと、思うポチだった。
3、
愛ちゃんは、ギリギリのタイミングで起きた。
朝食抜きで、そのままカバンを持っての登校である。
ポチは、朝飯を抜かして昼までもつのかなーと、心配したが、一緒に学校まで行けないので、とりあえず昼寝をする事にした。
愛ちゃんが、通う釜石第二中学校は、愛ちゃんの家から歩いて十五分ぐらいの距離にある。歩いて十五分だから、遠いといえば、遠いが、近いといえば近い。ちょっと微妙な距離である。愛ちゃんは、この道をさっちゃん’いう友人と歩いて学校まで通う。
今日も、愛ちゃんが歩いていると……。
「愛ちゃんー 」
と、さっちゃんが声をかけてきた。
「どうして、家によってくれなかったのさ」
普段なら七時五十分頃、にこにこ顔の愛ちゃんが、さっちゃんちに寄ってくれるのだが、今日に限って、愛ちゃんはさっちゃんちに寄ってくれなかったのである。
「八時まで、まったんだからね」
さっちゃんは、不平を言った。
「ゴメン……。家でちょっとあってね」
「なにが、あったの?」
「ちょっとね」
「ちょっとって、なによ」
「ちょっとは、ちょっとよ……」
「だから、ちょっとってなによ。親友の私にも言えないことなの? 」
「そんなことないわよ。でもね……」
愛ちゃんは言葉を濁す。
「でもねって……。は~はっあ~」
さっちゃんは、意味ありげな目で愛ちゃんを見た。
「もしかして、恋の悩み?」
「そ、そんなんじゃあないわよ」
「恋の悩みでしょう」
「そんなのじゃあないわよと言っているでしょう」
「いいえ、恋の悩みだわ。ひっひっひっ……」
「ひっひっひって、なによ。気持ち悪い」
「ひっひっひっ。だ・か・ら。恋の悩みでしょう」
「もう! そんなんじゃあないと言っているでしょう!」
愛ちゃん、思わず大きな声を出してしまった。
「……そんなに大きな声、出さなくてもいいじゃあない。大きな声を出されると、私…… 」
さっちゃん、声を詰まらせた。
「私……。私……。笑うちゃうからね」
さっちゃんは、口角を上げた。
「笑うって……それって」
(やばい~ 大笑いをする気だ)
さっちゃんには、大笑いをするぞ怖いぞ超音波女という異名がある。
愛ちゃんは辺りを見渡した。
こんなところで、さっちゃんに大笑いされては困るのだ。前に一度、クラスの朝の会の最中に大笑いされて酷い目にあったことがある。
さっちゃんが、朝の会の最中にクラスメート全員の前で思い切り笑うもんだから、クラスメートたちは何事が起こったんだと騒ぎ出し、あまりにもおもしろおかしく笑うので、つられて一緒になって笑ってしまったのである。
担任の先生は、騒ぎ出した生徒を静めようとしたが、なかなか収まらない。
右往左往して、発生源のさっちゃんを叱ると、さっちゃんは、とてつもない大きな声で笑い、その笑い声の大きさに、クラスメートと担任の先生は、腰を抜かしてしまったのだった。
こんな公衆の道路で、同じ過ちを、繰りかえしてはならない。
愛ちゃんは、さっちゃんを宥めることにした。
「いい子、いい子、大笑いしないでね。アッププ、プー」
愛ちゃん、お馬鹿さんである。赤子をあやしているわけではない。中学二年の女の子をなだめているのである。そんな、なだめ方をすれば、さっちゃんの気を損ねるだけである。
「なに~よ~う、その言い方、馬鹿にしてー いいよ、私、大笑いしちゃうからね~ 」
さっちゃんは大笑いする構えを見せた。
どうする、愛ちゃん。絶体絶命のピンチだぞ。
「さち、いいもん、見せてあげる」
愛ちゃんは、気転を利かせてカバンの中から、一枚の写真を取り出した。写真には一人の男の子が映っている。
「わっー 武さん。愛、これ、どこで手にいれたの?」
女心と秋の空とは、よく言ったものである。写真を手にした途端、さっちゃん、腰を動かし、ウキウキ気分でニコニコしている。
「かっこいいわよね。しびれちゃう~ 」
さっちゃんが、「キャアキャア」言っている写真の中の男の子は、一文字 武といって校内一の色男である。
色男であるから、当然、ファンクラブというようなものがあって、この写真はそのファンクラブから手に入れたものだった。
「これっ、もらってもいいの?」
さっちゃんが言った。
「えっ?」
「もらってもいいのね」
さっちゃん、愛ちゃんの手から強引に写真を奪った。
「えー! え、え、ええ」
愛ちゃん、愛しい人の写真を渡したくない。奪われた写真を、さっちゃんから取り戻そうとしたが、さっちゃんは、腕を上下に振って、写真を返さない。
「もらってもいいんでしょう。もらってもいいでしょう。もらうからね」
と、言って、愛ちゃんから逃げ回った。
「いいでしょう。いいよね」
さちちゃんは、死んでも一文字武の写真を返すつもちはないらしい。ジタバタと暴れて、ポチのように愛ちゃんの周りを、ぐるぐると回った。
「いいわ、あげるわよ」
愛ちゃんは、写真をあきらめることにした。まさか、暴力をふるってまで、さちちゃんから、写真を奪い返すわけにはいかないのである。
「えっ、本当! ラッキー」
さっちゃん、素早くカバンの中に一文字武の映った写真を入れた。
「大変! 遅刻しちゃうわー」
愛ちゃん、腕時計を見て言った。
「えっ? もうそんな時間」
さっちゃんも、腕時計を見る。時計は八時十五分を指していた。始業ベルは八時二十分である。五分しか時間がない。
「さち、走るわよー」
「えっ、走るの?」
愛ちゃんは脚が早いが、さっちゃんは、どん亀である。体力だってそんなにない。だから、走りたくないし、走ったってどうせ遅刻するに決っていると思っている。
さっちゃんは立ち止まった。
「走るわよー」
愛ちゃんは、走り出した。学年で一番の脚力にかけても、遅刻するわけにはいかないのだ。
「待ってよ~ 愛ちゃん。置いてゆかないでー 」
愛ちゃんにつられて、さっちゃんも、仕方なく走った。
4、
さて、申し遅れたがこの物語の舞台は昭和五十九年頃一地方の話である。
昭和五十九年といえば、グリコ・森永事件があったり、大きな地震が長野県であった年である。ちなみにこの年には、新札が発行されて、一万円札の絵柄が聖徳太子から福澤諭吉になった年でもある。さらば、聖徳太子、こんにちわ、福澤諭吉である。
ちなみにポチには聖徳太子と福沢諭吉の違いが分からない。違いが分からないというより、なんで、この人たちがお札の図柄になったんだろうと疑問に思っている。
人ではなく、僕たち犬の仲間、がそこに描かれてもいいではないか。
ポチが憧れるシェパード犬やシベリアンハスキー犬が、そこに鎮座してもなんの問題はない。その方が断然いいと本気で思っているのだ。
断っておくけれども、ポチは雑種である。
北海道犬の血が少し混じったそこらへんにいる犬なのである。雑種の中型犬なので、どうあがいてもシベリアンハスキーやシェパードのような大きくてカッコいい大型犬にはなれないし、シー・ズーやマルチーズのような可愛らしい犬にもなれない。
ポチはシー・ズーやマルチーズのような可愛らしい犬になんぞ、なりたくはないが、シェパードやシベリアンハスキーのようなカッコいい犬にはなりたいと思っている。
シェパード犬やハスキー犬はいかしている。
勇猛果敢なシェパード犬は、警察犬や災害救助犬として大活躍しているし、シベリアンハスキーは見た目、精悍で力強いし、頼りがいがある。
ポチは、どうやったら、ああいう犬になれるのだろうと、時々考える。どうあがいても、なれないことは知っているが、頭をひねってひねってひねりまわして考える。
大型犬用のドック・フードをたくさん食べる?
毎日、50Kmぐらい走り回る?
愛ちゃんと、大くんに前足と後ろ足を、思い切り、引っ張ってもらう?
う~ん。う~ん。うう~ん。と、考えるが良い案が浮かばない。
グッドアイディアが閃かないので、ポチは、せめて格好だけでも真似てみようと、お目目をキッとさせ、その場で座り込んでみた。
「なんだよ。急に座り込んで……。おかしな物でも食べたか」
大くんが言った。
「こんな所で座りこむなよなぁ~」
散歩の途中である。
「ポチ! 立てよ」
大くんはリードを引っ張った。
夕方の散歩は、大くんの仕事である。午後の五時ごろになるとポチを連れて散歩に繰り出す。
「あっ、あれえ? あの人、どこかで……」
大くんの目の前を、一人の男が通りすぎていった。
どっかで見た男である。誰だっけ?
大くんは考え込んだ。
ポチは、その男からガソリンの臭いを嗅ぎとっていた。
犬であるポチは嗅覚が鋭いので、いろんな臭いを嗅ぎ取るが、ガソリンの臭いを漂わせて歩く男など、滅多に出会わない。
ポチはポチなりに、ちょっと危ない男だと首を捻った。
大くんは、男が何者か思い出したようだった。首を斜め三十度に傾けて考え込んでいたが、元に戻して目ん玉を上に上げた。
(確か……。姉ちゃんの担任の先生で、名前は……)
その時……。
「大くんー 」
大くんを呼ぶ声がした。振り返ると、そこにラッキーという名の犬を連れた女の子がいた。
さっちゃんと、さっちゃんちの愛犬、ビアデッド・コリーのラッキーの登場である。
《ラッキーさん。お元気してますか》
ポチが言うと、
《お元気だわよ。ポチは?》
と、ラッキーが応えた。
ラッキーはメス犬で、ポチより二年も前に生まれているお姉さんの犬である。
ポチの大先輩で、飼い主である、さっちゃんちのご隠居さんのおかげで、とにかく物事を良く知っている。
そんなもんだから、ポチは何か分からないことがあると、よくラッキーに聞く。
いや、ラッキーに聞くというより、ラッキーの愛嬌のある顔に尋ねる。
白と薄茶色のダブルコートで覆われたラッキーの顔は、眉はアーチ状で、目は大きく離れているから、お世辞にも凛々しい顔だとは言いがたいが、とてもチャーミングなのだ。
ポチとラッキーが、じゃれていると、
「大くん……お願いがあるの」
さっちゃん、胸のポケットから一枚の封筒を取り出した。
「これ、愛ちゃんに返して欲しいの」
取り出した封筒を大くんに渡す。
「なに。これっ? 」
「写真よ」
「写真?」
「この中に写真が入っているの。今朝ねえ~ 愛ちゃんから、獲っちゃった」
「獲っちゃったって?」
「そう、なりゆきでそうなっちゃたんだけど……。この写真、愛ちゃんにとって、きっと大事なものだから返すことにしたの」
「へぇ~ 」
大くんは、渡された封筒を翳して見た。
「何が映っているの、中の写真」
と、大くんが言う。
「決っているでしょう。好きな人の写真よ」
さっちゃんがニコリと笑った。
「えーーっー 好きな人の写真」
大くん、驚いた。驚いて、尻もちをついて、ついた尻もちを食べたくなった。
愛ちゃんに好きな人ができたとは、初耳である。
「えっ? 大くん。武さんのこと知らないの」
さっちゃんは、慌てて口をふさいだ。
余計なことを、言ってしまっただと思っているのだろう。さっちゃんは、大くんから目を逸らし、「アレレ」と言っていた。
「姉ちゃんの好きな人……。武っていうんだ。武さんねえ……」
大くんは、武という音の響きから、武という男がどういう男か想像しているようである。
武。武。武……。
勇ましい名である。名から想像すると、本当に格好いい男なんだろうなあ。
《格好いい男か……》
ポチは、格好いい男は好きではない。好きではないが嫌いでもない。格好いい男を見ても何の感情も湧かないが、一つだけ癪にさわることがある。
《格好いい男は、いつもそうなんだ……ヒロインがピンチに陥ると……》
ポチが思い出しただけでも癪に触った出来事を考え込んでいると、道の向こうから愛ちゃんが、ポチが知らない女の人とともにやってきた。
国道に面した中妻町一丁目の歩道は、二メートルほどの歩道だ。道路と歩道の間に、プランターや街路樹などはないから、隠れるところはない。
もっとも街路樹に隠れて、大くんを困らせるのは、ポチぐらいだろう。
「姉ちゃん~」
大くんが、二人に声をかけた。
「あら、水戸さんの弟? 」
ポチの知らない大人の女の人が応えた。後で聞いた話によると、この女の人は保健室の先生で、木村涼子といった。
ハンサムショートカットが似合う、宝塚歌劇団で男役でもやらせたら、ものすごく人気がでるんじゃないかなあと思われる長身の美人さんでもある。
「山崎さんも……。その犬、山崎さんの犬?」
さっちゃんのフルネームは、山崎さちという。
「ええっ、そうだけれども……。それより、愛、大丈夫?」
さっちゃんは、愛ちゃんの方に目を向けた。
「私は、大丈夫よ。このとうり」
愛ちゃん、力瘤を作って見せた。
「愛ちゃん、復活する、かー」
さっちゃんは笑った。
学校で、何かあったようである。何かがなければ保健室の先生と連れ立って帰ってはこない。
「姉ちゃん、どうしたの? なんかあったの」
大くんが、さっちゃんに尋ねた。
「実はね……」
さっちゃんの話によると、今朝の全校集会の時に、愛ちゃんが「どーん」と倒れてしまったということである。
驚いたクラスメートが、愛ちゃんを保健室まで運び、心配したクラスメート数人が保健室に残って、愛ちゃんの様子を見ていると、愛ちゃん、一言、「お腹がへって、へって、もう、だめえ~ 」と言って、また倒れたというのだ。
「先生の作った、おかゆ、おいしかったんだから」
保健室のベッドを占領した愛ちゃんは、涼子先生におかゆを作ってもらい、愛ちゃんは、腹一杯、おかゆを食べた。涼子先生のおかゆは、なるほど、ほっぺたが落ちるほど、おいしく、いくらでも、お腹に入る。お腹が満腹になると、どうしても眠りたくなる。瞼が重くなる。瞼を擦って眠気を覚まそうとするが、擦っても、擦っても、眠気はおさまらない。愛ちゃんは、眠りに落ち、ずうっーとそのまま授業が終わるまで眠ってしまったのであった。
「いくら、起こしても、起きようとはしないんだから……」
涼子先生が言った。
「だって、眠たかっただもん」
「本当に、眠たかっただけ? どこか、悪くはないの?」
涼子先生は、もしかして、愛ちゃんの身体に異常があるんではないかと勘繰った。なにしろ朝、保健室に運び込まれてから授業が終わるまで、ずっと寝ていたのである。
おかしいと思っても、不思議ではない。
「どこも悪くはないわよ」
と、愛ちゃんが言う。
「本当に…… 」
「全然、どこも悪くはない」
愛ちゃん、再び、力瘤を作って見せた。
「元気がいいわね」
涼子先生が言うと、
「そうでしょうね。朝、倒れて、ずうっーと授業が終わるまで寝ていたんだから。体力が回復しないほうがおかしいわよ」
と、さっちゃんが言う。
「えっ、姉ちゃん。ずうっーと寝ていたの。授業も受けないで。いいなあ~ 」
大くんは、うらやましそうに愛ちゃんを見た。
「愛ちゃんはね、この私が呼んでも、起きようとはしなかったんだから」
さっちゃんが、口を尖らせて言った。
授業が終り、一緒に帰ろうと思ったさっちゃんが、保健室に行ったが、愛ちゃんは、ウンともスンとも反応しなかったらしい。
「起きたら、下校時間を過ぎていました」
愛ちゃんが、悪びれず言う。
「それで、涼子先生が愛ちゃんを自宅まで送ることにしたわけね」
さっちゃんが言った。
「そうよ。いいでしょう」
愛ちゃんが、にっこりと微笑んだ。
「そうよ、いいでしょうじゃあないでしょう。文集の入った手提げ袋、忘れようとしたくせに」
涼子先生が首を傾げて言った。
「涼子先生が忘れなければ、それでいいのよ。涼子先生は男子のアイドルだもんね。アイドルは可愛いだけではダメ、賢くなければねえ」
愛ちゃん、得意げである。
いま家庭の事情でちょくちょく休んでいる保健体育の先生の代わりに、涼子先生は臨時で、二中に来てはいるが、二中の男どもは、できれば、ずっと二中にいて欲しいと思っている。若くて、美人で優しい保健室の涼子先生は、みんなの憧れの的なのだ。
二中の男子生徒は、なんとか、涼子先生に近づきたくて、仮病を使ってまで保健室に行こうとするし、独身の男の先生もなんだかんだ言って、涼子先生に近づこうとする。普通、それだけ、男子に人気があれば、同性から煙たがれるのだが、誰にでも優しい涼子先生は、同性にも好かれる。涼子先生に憧れた女生徒がなんと、涼子先生にラブ・レターなんぞ、したためたという話まであるのだ。
「おねえちゃーん、はい」
大くんが、愛ちゃんに封筒を手渡した。
「なに? これ」
愛ちゃんは封筒を手に取った。大くん、愛ちゃんが封筒を手に取ったのを見ると、
「ねえちゃんに、好きな人ができたんだ」
と、言ってニタリと笑った。
「えっ? えええっぇええ~ 」
愛ちゃん、大くんの奇襲攻撃に、お目目をパチクリさせた。慌てて、封筒を開け、中身を見る。
サッカーボールを小脇に抱え、ブイサインを作り、笑顔でたたずむ一人の少年の写真が封筒の中から出てきた。
二中のアイドル、三年五組の一文字武の写真である。
「なんで、あんたが、この写真を持っているの? まさか……」
愛ちゃんは、涼子先生の後方に隠れようとしている、さっちゃんを睨んだ。
「さち! あんた、なんていうことをするのよ。知られたくなかったのに」
愛ちゃんは、怒った。怒って当然である。
愛ちゃんは乙女である。
春に散りゆく桜色の花をみては、「はっーあ」と溜息をつき、夏の夜空に線を引いて流れ行く流れ星を見ては、夜風にさらさらの髪をなびかせ、そんでもって、秋には、枯れゆく木の葉を見ては、ハラハラと涙を流し、冬は冬で白い雪を見ては、静かに眠りに落ちたい。
そんな、乙女ちっくな感傷にふけりたいのである。
だ・か・ら、少しの間、家族の人たちだけには、意中の人の存在を知られたくなかったのである。
源さんや、さくらさんに知られたら、それこそ、秋空の下、白樺並木を彷徨うような、大感傷に、浸る暇がなくなるに決っている。
乙女ちっくな愛ちゃんとしては、大感傷に浸って、ロマンチックな夢を見ることのできる素敵な時間を、もうちょっとだけ、もちたかったのだが、それなのに、意外に早く家族の人に、隠しておきたい秘密を知られてしまった。
大くんは、きっと源さんやさくらさんに、写真のことを話すだろう。
「ねえちゃんの好きな人、サッカー部」
大くんが、さっそく好奇心一杯の瞳をウルウルさせて、聞いてきた。
愛ちゃん、それを無視して、さっちゃんに詰め寄る。
「さち、……さち! だいだい、あんたねえ~」
「ゴメン! うっかりしてた」
「うっかり、大に写真をわたしたわけ」
「ゴメン、ゴメン、ゴメン……」
さっちゃんは、ひたすら謝った。
「水戸さん、許してやりなさい。こんなに謝っているんだから」
涼子先生が言った。
「いいえ、許しません! さちって、いつもそうなんだから」
さっちゃんには、「うっかりさち兵衛」という、あだ名がある。悪気はないのに、うっかり、何かをしでかして、人の怒りをかってしまうのだ。
この間も、後ろから人が来ているというのに、うっかり、ドアを閉めて、後から来た人がドアにいきなり挟まれたということがあった。
「でも、意外ね。陸上一筋だと思っていたら、愛ちゃんにも、好きな人がいるのね」
涼子先生が、クスリと笑った。
「いません、いません! そんな人、いません。武さんは……その~うただ憧れているだけで……」
「憧れているだけ?」
と、涼子先生。
「ええっ」
「ただ、憧れているわけじゃあないんでしょう」
「あ、憧れているだけです。好きだなんて……」
「好きなんでしょう」
涼子先生が確信を込めて言うと、
「は、はい」
愛ちゃんは、素直にうなづいて、顔を赤くした。
「わーあぃ。赤くなった。赤くなった」
さっちゃんが、からかう。
「愛ちゃん、告白しようよ。告白」
「そんな…… 」
「よし、分かった。ここは親友の、このさちが、代わりに告白してあげる」
「えっーー」
うっかり八兵衛と言われるさっちゃんに、恋のキューピット役なんか務まるわけがない。
「まずは、ラブレターなんかを出して……。ん? まてよ、ラブレターってどう書くのだろう。う~ん」
さっちゃんは、あれこれ、考え始めた。
「ラブレターなんか、書いたことないし……」
「さち 」
愛ちゃんが、考え込む、さっちゃんの肩を指先で叩いた。
「文学部の先輩に、ラブレターの書き方を教えてもらおうかしら~」
「さち…… 」
「でも、文学部って、なんか近づきがたいし……」
「さち……」
「知り合いに文章のうまい人がいれば…… 」
「さち……」
「うるさいわねえ。さっきから、さち、さちって、なによ…… 」
さっちゃん、肩に触れる愛ちゃんの指先を邪険に振り払った。
「さち! これ以上余計なことをしないで」
愛ちゃんは、大きな声をあげた。
さっちゃんが、振り向くと、そこに仁王様のような憤怒の顔をした愛ちゃんがいた。
「ひぇえ~ぇー」
さっちゃんは、なんとも異様な叫び声をあげた。
愛ちゃんの憤怒の表情は、迫力充分で、さっちゃんは、闇夜に根性悪のお化けに出逢ったように、目を吊り上げて、怯えたのである。
さっちゃんは、怯えた後、
「そんなに怒らなくても……」
と、言って、しょげた。
「怒られて当然よ。愛ちゃんは、そっとしてもらいたいのよ。それなのに、山崎さんは事を大袈裟にして、騒ぎすぎます」
と、涼子先生が言った。
「さっちゃん、いつも、そうなんだんだよ。いつもいい気になって」
大くんが、追い討ちをかける。
「いい気になんて、なっていないわよ」
さっちゃんが、弱弱しく言うと、
「いいえ、さちはいい気になっています」
と、愛ちゃんが、さっちゃんを断罪するのであった。
「いい気になんて、なっていないってばあ~ 」
さっちゃん、意地を張り、自分の非を認めようとはせずに、いいわけをしている。いいわけしたって、事態は好転しない。火に油をそそぐようなものでる。
「山崎さん。水戸さんに謝りなさい」
涼子先生が言った。
「なんで、謝らなくちゃあならないのよ~う」
「謝らなくちゃあいけないでしょう。水戸さんは、そっとしてもらいたいのよ。それなのに山崎さんたらぁ~」
「そうだ、ねえちゃんに謝りな」
大くんが、生意気にも高飛車な口ぶりで言った。
「ううっ……。みんなして、責めて」
さっちゃんは、目頭を押さえた。が、一転して口角をあげた。
おいおい、みんな忘れているぞ! さっちゃんには、もう一つの呼び名があることを。
「さち、聞いているの!」
愛ちゃんが、またまた、さっちゃんに詰め寄った。
さっちゃんが、口角をさらに上げる。
《やばい………》
ポチとラッキーは身を伏せた。
《大変なことが起きるわ》
ラッキーがこれから起こることを予測して、辺りを見わたした。
《怪我人がでなければいいけど……》
「わはっははは。わははっははは。いひっひっひっひひ、おっほほほほほほ」
さっちゃんが笑い出した。大笑いである。物凄い大音量だ。120デジベルは出ているだろうか。ちなみに、120デジベルが飛行機のエンジン音だとすれば、かなり、大きな笑い声である。いや、笑い声というレベルではない。これはもう凶器である。
案の定……。
「どうした? 何があった。車が家の中に突っ込んだのか」と、言って、慌ててラーメン屋の親父がフライパン片手に店の中から出てきたし、魚屋からは、赤ちゃんを抱えた若い嫁さんが、「どうすんのよ~ 赤ちゃん、泣き出したじゃあない」と、言って、くるくると回って出てきた。
上を見れば、空を飛んでいたカラスのカーコウが電信柱に、ぶつかって、墜落するし、下を見れば、ごみ箱を漁っていた、猫のにゃん太が、ひきつけを起こして、泡を吹いて倒れてしまっている。浪人中の受験生が「地震だ。火事だ。雷だ。親父だーあ」と、言って、自宅の二階の窓から飛び出して、大騒ぎしているが、この浪人生は、日頃から、ちょいとおかしいので、これはご愛嬌だろう。
外に出てきた人たちは、一体、何が起こったんだと言って、辺りを「キョロキョロ」見わたしていた。
愛ちゃんと大くんは、耳を押さえてその場にうずくまり、涼子先生は口をあんぐり開けていた。
さっちゃんは………。
さっちゃんは、何もしなかったような顔をして立っていた。
「わ、忘れていたわ……。さちが大笑いすると、とんでもないことが起きてしまうことを」
愛ちゃんが、身体をぶるぶる震わせて、言った。
さっちゃんには、「うっかりさち兵衛」というあだ名の他に、大笑いするぞ怖いぞ超音波女というあだ名があった。その超音波砲がさく裂したのである。
「ななな、何、いまの? なにがあったの? 」
初めて、さっちゃんの大笑い声を聞いた涼子先生は、いまだに何が起こったのかわからないでいた。
「な、な、何があったの? 水戸さん、一体何があったの」
涼子先生は、ハンドバッグの中からハンカチを取り出して、それを額にあてながら、愛ちゃんに尋ねる。
愛ちゃんは、どう説明すればいいのか分からない。いまのは、さちの大笑いよと言ったところで信じてもらえるのだろうか。
「ひっひひひっひつ」
さっちゃんは、小さく笑い出した。
おいおい、なに小規模に笑ってんだよ、さっちゃん、きみのせいだろう。
ポチは、やれやれと右足で頬を撫でるのだった。
5
お日様が西の空に沈むと、夜というものが来る。
夜になると、真っ暗なお空にキラリと光るお星さまが現われる。満天の夜空の中に、お星さまが現われ、お星さまの傍らにお月さまが顔を覗かせると、ポチは無性に寂しくなる。
ポチだけが寂しいわけではない。山崎さんちのラッキーもそんな夜は寂しくてしょうがないようだ。寂しい夜はねえ、夜空に向かって吠えてもかまわないのよと、ラッキーは言うが、ポチは夜空に向かって雄叫びをあげるような無粋な真似などしたくはないのである。
夜空に向かって、雄叫びをあげて、なにが楽しいんだろう。
大昔の犬たちは、夜になると群れなして「ウオォ―ン、ウオォーン」と吠えたというが、とても信じられない。 吠えるのは凶暴な狼たちに任せて、僕たち犬たちは、優雅に寂しさと戯れていたほうがいいに決っている
寂しさと戯れる……。おー、なんというカッコいい言葉。我ながらセンスのよさに、うっとりしてしまう。
そんなわけで、ポチは、寂しさと戯れて眠りについた。
翌日、お日様がまた空に顔を覗かせた。
ポチは、朝起きると、いつものように吠え、いつものように愛ちゃんに叱られ、毎度おなじみのさくらさんと、散歩に行き、散歩を終えると、犬小屋の前でさくらさんが用意したドックフードを食べる。
今日も一日が始まった。
と、言っても、特別な一日が始まるわけではない。
ドックフードを食べ終わると、夕方の散歩までやることがないので、居眠りをするしかないのである。
犬小屋につながれているリードが外れていれば、外に出て、自由というものを満喫できるんだけど、そうは問屋が卸さない。犬小屋とポチを結ぶリードはガッチシと犬小屋と結ばれていて、遊び盛りのポチの自由を奪っているから、ポチは居眠りをするしかないのである。
居眠りをしていると、たまに、郵便配達のおじさんが来て、ポチの頭を撫でてくれるが、ポチは男なんぞに大切な頭を撫でられたくはない。できれば女の人……。それも美人さんに頭を優しく撫でてもらいたい。美人さんが、かぐわしい手でポチの頭を撫で、頬を近寄せてくれると思うだけで興奮する。興奮して、思わず美人さんの唇をベロベロとなめたいが、そんなことを考えていると、決ってやってくる奴がいる。
源さんの弟、寅男さんが、ポチの所にやってくるのである。
水戸家にやってきた寅男さんは、犬小屋の前にやってくると、「よっ、アホ犬、元気かー」 と、言って、ポチの頭をいきなり叩く。いきなりやってきて、藪から棒に頭を叩くなんてそれはないだろう。
「ワン」と抗議するが、寅男さんは、「今日も元気じゃあねえかー よしよし」 と、言って、家の中に入ってゆくのだった。
夕方、四時過ぎに、大くんが犬小屋の前にやってきた。
散歩の始まりである。
朝の散歩は、さくらさんと家の近くにある川べりの土手の上を歩くが、夕方の散歩は中妻町の商店街を歩く。
商店街といっても,中妻町の商店街は住宅地の中にある小さな商店街で、とても商店街とはいえないが、ちょっとした買い物をするのには、とても便利なので、それなりに賑わっている。
賑わっている肉屋さんの前に、山崎さんちのご隠居さんと、さっちゃんがいた。山崎さんちの愛犬、ラッキーもさっちゃんの隣にいる。
「おーっ、大くん。奇遇だな。こんなところで逢うなんてのーお」
早速、ご隠居さんが話しかけてきた。ご隠居さんの孫であるさっちゃんが、ご隠居さんの横でニコリと微笑んでいる。
「昨日はどうもね~ 」
さっちゃんが、言った。
大くんは、思わず、一歩後ずさった。
昨日の今日である。大くんは、昨日のあの惨劇を忘れてはいない。昨日は、大笑いすると怖いぞ超音波女の咆哮で、辺り一体修羅場になったのである。
「ん! 少年、なにをそんなに怯えている。男の子なんだろう。びしっーと胸を張って、堂々とした態度をとらなけりゃあいかんー。わしを見ろ。いつもかくしゃくしているだろう。かっかかっかっーのか」
山崎さんちのご隠居さんは、杖で地面を叩いた。
「わしはのーお~ 大くんの歳には、もう、子分を十人ぐらい抱えての~お、お山の大将になっていたでのーお。大くんを見るとのーお、幼い頃、わしが子分にした奴らを想いだしてのーおー。子分? おお、そういえば、野山の野郎、どうなった。しばらくあってないが元気で暮らしているだろうかのう。あいつは、わしの子分でのう……。子分といえば、川原はどうなった? あいつも、音沙汰なしで全然会ってはいないが、元気でいるかのーう。……かっかかっかっ。今でも思い出すわい。わしの武勲を……。そもそも、わしが……」
おい、おい、長講釈を始める気かい……。
いつもそうだが、山崎さんちのご隠居さんは、親しい人に会えば、聞いてもいないのに、長々とどうでもいいことを話し始める。
ポチは、「はぁー」と長い溜息をついた。
《ポチ! 昨日の火事は放火らしいぞ》
と、ラッキーが言った。
《ええっーー》
ポチは、ラッキーの言葉に目を丸くして驚いた.。
昨日の昼間、火事があったことは知ってはいるが、放火とは思いも及ばなかった。
放火という行為は、火をつけて他人の物を燃やす行為であるが、そんなことをする人間が、この町にいるなんて信じられないし、信じたくもない。
物を燃やし、へたをすると人の命さえ奪ってしまう放火という行為は、とってもとっても恐ろしい悪魔の所業なのである。そんな恐ろしい行いをする人間が、この町に本当にいるのだろうか。
《誰が放火をしたの? 僕の知っている人?》
ポチはラッキーに訊いた。
《まだ、犯人は捕まっていないわ》
《つかまっていないの。でも、すぐ、とっ捕まるんでしょう。昼間の火事だったし……》
《……それが難航しているのよ》
ラッキーはため息を漏らした。
昨日の火事は、パーラー『閻魔大王』というパチンコ屋で起こった。十二時頃の火事である。
《うちの、ご主人もおかしいと言っているのよ。昼間に起こった火事なのに、誰も犯人らしき人を目撃していないなんて……》
ラッキーのご主人は、山崎のご隠居さんである。
《ご隠居さんは、現場にいたんだ》
ポチが言った。
《ええっ、パチンコを打ちにいったんだけど……、ご隠居さん、火事が起きたら、身をひるがえして、野次馬の一人になっちゃったわ》
《野次馬? 野次馬って何だ。馬の一種か?》
ご隠居さんが馬になる。
ポチは馬に変身した、ご隠居さんを想像した。
白いたてがみを風になびかせ、真丸の分厚いレンズの眼鏡を、ちょこんと鼻にかけ、青い和服の上に渋い茶色の羽織を着た馬が、何を見て、いきりたっているのか、宙を睨みつけている……。
《ポチ、……なに、にやにやしているんだよ》
《いや~あ。ご隠居さんが馬になった姿。一目、見たかったなーと思って……》
《はーあ?》
ラッキーはポチの頭の中を覗いてみたくなった。本気で人が馬になったとでも思っているのだろうか。
《バカッ、人が馬になるわけないじゃないのよ。野次馬っていうのはねえ、自分に関係ない事をわいわいと大袈裟に騒ぎ立てている人のことをいうのよ》
《えっー そうなの?》
ポチの頭の中にいたご隠居さん馬が「ズルリ」とこけた。
《なんだー 人が馬に変身するわけではないのか》
《ありまえだろ》
ラッキーは、眉をよせて呆れた。
もし、火事場の煙にまかれて、人が馬に変身するのなら、火事現場の『閻魔大王』の周辺は馬たちの洪水で埋め尽くされていただろう。
背広を着たサラリーマン風の馬もいれば、厚化粧で年齢をごまかし、派手なワンピースを着ている馬もいる。タバコを咥えて、けだるそうな顔をしている労務者風の馬もいれば、シャツの上にねずみ色のどてら一枚、はおっただけの姿でワンカップをあおっている酔っ払い馬もいる。Tシャツ一枚にジーンズといった格好で仲間とわいわいやっている若い馬が、同じ格好の若い馬と喧嘩をしていてもおかしくないだろう……。
馬。馬、馬馬……。
ポチは、愉快な馬の団体さんの姿を想像して悶絶するのであった。
悶絶しているポチを尻目にして、ラッキーは犯人がどんな奴なのかを想像していた。
《店員さんが、火をつけたのではないのかという説もあるけど……。店員さんが自分の店に火をつけるかな……。火元は二階の火の気のまったくない物置部屋で……。火事が起きた時間、店員さんたちは全員、一階のホールにいたというし……》
店の外で怪しい人が目撃されないとすれば、火事は店の内部の人間の犯行ではないかという噂がたっていた。
店に不満を持つ店の内部の人間が、火をつけたのだというのだ。
《ねえ、大将! そうなの? 店の内部の人が放火犯人なの》
ラッキーは、山崎のご隠居さんに向かって、「ワン、ワン」と吠えた。
「おっ、腹がへったか。よしよし。カッカッカカッ。帰ったら、うまいものをくわせるのでのーう」
山崎のご隠居さんは、ラッキーの頭を撫でた。
所詮、人には犬が何を言っているのかなど、わかるはずがないのである。いくら、「ワンワン」と吠えても「キャン、キャン、キャン」と鳴いてみても、「ウウッー ウウウー」と、唸ってみても、何も分かってくれない。
ラッキーは、またまた、小さくて長い溜息をつくのであった。
6、
「あっ、涼子先生!」
大くんは、釜石第二中学校の方からくる涼子先生を目ざとく発見した。
美人さんは、やはり得である。大くんは昨日あったばかりの愛ちゃんの担任の先生の名と顔を、一日で記憶していたのだ。
涼子先生は一人でやって来たわけではなかった。女の子が一緒だった。女の子といっても、愛ちゃんではない。愛ちゃんより、一つ歳上の女の子、通称〝スケ番のお由美〟と言われている粗暴な女の子が、涼子先生といたのである。
「今日も逢うなんて奇遇ねえ~ 」
涼子先生は、大くんたちを見つけて微笑んだ。
「およよよよ~。美人さんの登場だのーう」
ご隠居さんが、目を細めて涼子先生を見た。
「先生。昨日はどうも……」
さっちゃんが挨拶をした。
「そ、そ、そのせつは、どうも…… 」
恐る恐る挨拶を返す涼子先生。涼子先生は、いまだに昨日の出来事が信じられないでいる。
(あんな大音量で大笑いすることができる人間がいるなんて……。こ、鼓膜が破れると思った)
「先生。様子がおかしいじゃん」
由美が、さっちゃんから目を逸らした涼子先生に気づき、涼子先生とさっちゃんの顔を交互に見比べた。
さっちゃんは、うつむいている。昨日は、驚かして悪いと思っているのだろう。
「おまえ、由美か……。角のタバコ屋の」
山崎のご隠居さんは由美を知っているようだった。
「ご隠居さん、この人、知っているの? 」
大くんが聞く。
「知ってるよ。タバコ屋の梅婆さんに頼まれて、何回もおしめを替えてやったこともあるでのーう」
「へぇー 何回もおしめをねえ……」
と、涼子先生が言う。
「この子のお尻を叩くと、ピシャピシャいい音がしてのーう。どれ、もう一回だけ、このジジイにお尻を叩かせてくれや」
「誰が叩かせるかー この、もうろくジジイ~ さっさとくたばりやがれ! 」
由美は毒づいた。
「……相変わらずだのーう」
「何が、相変わらずだー このスケベじじい」
由美の罵詈雑言は止まらない。
「由美…」
ご隠居さんが咳払いをして言った。
「おまえ、その~う、なんだ……。スケ番のお由美と言われているんだろう。スケ番、スケ番と言われて悔しくないのかのーう」
‘スケ番’。今となってはほとんど使わない言葉だが、(いわゆる死語)当時、小中学生の間で手に負えない暴れん坊の女の子を指して、‘スケ番’という言葉が使われていた。
「う、うるせーいやい」
スケ番の由美は物凄い形相で、山崎のご隠居さんを睨みつけた。
「先生、この娘が何かやったのかのーう? 」
ご隠居さんが言った。
「何かをやったのかって。人の顔を見れば直ぐそんなことを言う。俺が何をしたっていうんだ」
由美が叫んだ。
「由美さん……」
涼子先生が由美をたしなめる。
「おまえのーう、いつもこの時間、陽子たちとつるんでいるだろうが。それが、麗しい先生さまと一緒にいるなんて、ちょっとおかしいなと思ってのーう。何かあったんだろう」
ご隠居さんは、真丸の分厚い眼鏡を指で挟んだ。
だてに歳をとっているわけではない。ご隠居さんは、町内に住む、近しい人たちの動向を、ちゃんと把握しているのだ。
「この娘は何も悪くはないのよ。ただ、昨日の火事現場にいたというだけで、警察に事情をきかれただけなの」
と、涼子先生が言う。
「警察!」
ご隠居さんの眼鏡がキラリと光った。
「あいつら、俺が放火犯人だと思っていやがるんだ」
由美が奥歯を嚙み締めた。
「おまえが犯人! おまえが犯人なのかのう? 」
ご隠居さんが、そう言う。
「んなわけ、ないだろう」
由美は激しい口調で否定した。
おまわりさんは、今日の昼に中学校にやってきた。
二中に来た、おまわりさんは、職員室を訪れ、居並ぶ先生たちに、昨日の火事の説明をし、現場で仲間とはしゃいでいたという由美たちを職員室に呼ぶように頼んだ。
「おまえら、なにをやったんだ」
担任の先生が、由美に聞いた。
「俺らは、よう……」
昨日、パチンコ店『閻魔大王』が燃えていると聞きつけた由美、陽子、美智子の三人組は、授業をボイコットして、自転車に乗り、火事現場に駆けつけ、燃える『閻魔大王』を見て大いに騒いだ。
店の上部に飾られてある派手な電飾の看板が炎と一緒に弾けるたびに、「もっと燃えろー もっと燃えろー 」と囃し立てたり、建物の中に溜まったガスが、大きな音をたてて爆発するたびに、「いま、すげーぇー音がしたぞ。見にゆこうぜ」と言って、火災現場をうろついた。うろうろと、ほっつき歩き、火を消そうと消火活動をしている消防団の邪魔になったのである。
「おまえら、火事場でそんなことをしたのか?」
ご隠居さんが言った。
「して悪いかよーう。俺ら、ただ、おもしろがっただけだぜ」
由美は、うそぶいた。
「おまえのそんな態度では、おまわりさんは納得しなかっただろう」
「納得? そんなものするわけないだろう。あいつら、あんまり、しつこいんで面倒くさくなってよーう……へっ。仮病を使って保健室に逃げ込んでやったぜ」
「えっ! 仮病だったの?」
涼子先生がびっくりしている。由美が仮病でなく、本当に具合が悪くなって保健室に駆け込んだと思っていたのだろう。
「ばれたか。こら、じじい、おめえが余計なことを言うから……」
「かっかかっかー。まあ、いいではないか……。ところで、火事現場にはわしもいたがのーう。おまえが、いただなんて、気がつかなかったでのう」
「気がつかなくても、おかしくないじゃん。人がいっぱいいたし……」
「確かに、たくさんの人だったわい。あれだけの人がいて、誰も犯人らしき人を見ていないとは、これまた、おかしい話じゃのーう」
ご隠居さんは、杖で地面を三回叩いた。
「実は私もいたのよ。これ、見てくれる。その時汚しちゃって」
涼子先生が、ハンドバッグの中からレースのピンク色のハンカチを取り出した。
「えっ、涼子先生もいたの? 授業をしないで……」
と、さっちゃんが訊いた。
「午後は保健の授業は無かったし……ほら、私、臨時で働いているわけでしょう。だから、自由がきくのよ。それで愛ちゃんに食べさせるインスタントのおかゆを買いに外に出たら、消防車がサイレンを鳴らして走っているわけ。どこが火事だろういと思って、それで、つい……」
つい、火事場見学に赴いたわけか。
いわゆる、涼子先生も野次馬になったというわけで、綺麗で優しい涼子先生にも意外な一面があるなと、ポチは思った。
「今月に入って、これで三件目でしょう」
涼子先生が言いながら、ピンク色のハンカチをハンドバッグにしまった。
「そうじゃ。これで三件目じゃ」
ご隠居さんが応える。
「三件とも放火なの? 」
「それは……、分からん」
ご隠居さんは、ぼそっと言った。
ことの始めは、陽春薫る五月の初旬だった。中妻町三丁目にある新聞屋のバイク置き場が何者かの手によって燃やされた。幸い発見が早かったので大事には至らなかったが、バイクが十台、おしゃかになってしまったのである。
それから五日後、今度は二丁目のパン屋さんで、店の前に出しているゴミ箱が燃える火事があった。このときも見つけるのが早かったので、大騒ぎにはならなかった。
パン屋さんのゴミ箱が燃えてから、一週間後、乾物屋さんの商品倉庫が焼えた。
干し椎茸だの、とろろ昆布だの、三陸ワカメのカットなどが、焼け出され、店を経営する町内会長の吉井さんが、その場でくるっと三回廻って泣いたという醜態を演じ、みんなの笑いものになったのである。
一体、誰が火をつけているのだろう。
いつも、遊びほうけている茶髪の兄ちゃんが犯人ではないだろうかとかいう奴がいたり、浮浪者が暖をとろうとして火をつけたのではないだろうかという奴がいたり、いやいや、どこそれの親父が競馬に負けた腹いせに火をつけたんだ。そうに違いないと決め付ける奴がいたり、勝手な憶測が、ちまたに流れたが、どれもこれも信憑性がうすかった。
《ジョンと話ができれば何か分かるかも知れないわ》
ラッキーが言った。
《ジョンって?》
ポチが尋ねる。
《味三番さんちのところのシェパードだよ。ジョンは警察犬として嘱託されているから、きっと何かをつかんでいるはずよ》
《警察犬! そ、それもシェーパード》
ポチは、密かに憧れているシェパードの名が出てきて、瞳を潤ませた。
シェーパード。正式名をジャーマン・シェーパードという。
ドイツ生まれの優秀な犬である。本来、シェーパードは牧羊犬だったというが、その能力を高く評価され、戦争中に軍用犬として改良された。現代は軍用犬というより、警察犬や災害救助犬その名を知られている。
格好いい! 格好良すぎる……。
《ねえ、シェパードって人の心を読むって聞いているけれども、ジョンも人の心をよんで、次に人が何をやりたいのかわかるの?》
ポチは訊いた。
《ジョンは凄いわよ。味三番さんが、次にどういう行動をとるか事前に察知して、ご主人さまが何も言わなくても、玄関から朝刊を持ってきたりするのよ》
《ふ~うん》
ポチは感心した。
(人の心を読むなんて、とてもできそうにもない……。いつもいつも、ドジを踏んで、源さんやさくらさん、愛ちゃんや大くんに怒られている僕とは違う。とほほのほ)
ジョンに感心して、落ち込むポチだった。
ポチよ! 落ち込むのはまだ早い。
君には、人の心は読めないが、人の心を動かすある術があるのだ。
えっ? どんな術だって。
それは、話が進めばおいおいと分かるだろう。
《ジョンは優秀だわよ。ひったくり犯や、空き巣を捕まえて、何回も表彰されているのよ。そうそう痴漢も撃退したことがあったわね。今回の放火犯人だって、ジョンなら……》
ラッキーが期待を込めて言った。
《ジョンとは会えないの》
ポチが聞く。
《難しいわね……。味三番さんは、流行っている食堂だし……今いろんな事件がおきているでしょう。警察からの協力要請が多いと思うから、当分、ジョンとは会えないかもよ》
残念である。一目だけでもジョンと会いたいものである。
「ポチ……帰るぞ」
大くんが言った。
午後五時半である。夕方のポチの散歩の時間は六時で終了である。
「帰るの?」
さっちゃんが訊いた。
「うん、六時半から晩御飯なんだ。遅れると、母さんが怒るから」
大くんは、ポチのリードを軽く引っ張った。
「じゃあ、私たちも…… 」
涼子先生が言った。
「先生、由美は……」
ご隠居さんが尋ねた。
「帰り道が同じだから、家まで送ります」
涼子先生は優しく微笑んだ。
「先生よーう。陽子や美智子はどうした? 職員室にまだいるのか」
由美が涼子先生に尋ねた。
「知らないわ。先に帰ったんじゃあないの」
「チェ。待ってくれたっていいだろうに……」
由美は路上につばを吐いた。
「じゃあ、行きましょう」
涼子先生が、由美に笑いかけたとき、ポチの第六感というものが騒いだ。
《胸騒ぎがする……》
《ポチ! どうしたの?》
ラッキーが言った。
《愛ちゃんの身に危険が降りかかろうとしている……》
《えっ! 》
《愛ちゃんの危機なんだ》
ポチは、リードをグッグッウと引っ張った。
7、
ポチの引っ張る力は、そんなに強くない。けれど、火事場の馬鹿力というもがある。
ポチは、ものすごい強い力で、大くんが持つリードを引っ張った。
「どうしたんだよ。ポチ」
ポチが四肢を踏ん張って暴れている。愛ちゃんの危機を、全身を使って大くんに知らせようとしているのだ。しかし、しかしである。悲しいことに、大くんの目には、ポチが、ただじたばたしているようにしか見えない。
「ワン、ワン、ワン」
ラッキーが吠えた。ポチの代わりに、愛ちゃんの危機を知らせようと吠えた。
「どうしたの? ラッキーまで」
さっちゃんが、ラッキーの頭を手で押さえた。
「ラッキーまで……。なんだと言うんだ」
大くんは、横目でラッキーを見た。リードを持つ手が緩む。
《いまだ!》
ポチは全身に力を込めた。大くんの手からリードが離れる。
「あっ~ ポチが……」
リードが宙に舞った。リードを掴もうとした大くんの手が、むなしく空を掴む。
ポチは、自由になった。自由になったポチは一目散に走った。どこに行こうとしているのだろう。
「ポチが……。ポチが……」
大くんは、走り去るポチを目で追った。が、大くんのつぶらな瞳で追ってもおいつけるものではない。
ポチの姿は、あれよあれよという間に見えなくなった。
「何かがあるじょい」
ご隠居さんが、目を細める。
「何かがあるって? 」
さっちゃんが尋ねる。
「おとなしいポチが暴れて、跳んでいったんじゃ。何もないほうがおかしいじゃろ。そうじゃろ。ラッキー、そうじゃろーう」
ご隠居さんは、ラッキーの肩に手を置いた。
「ワン、ワン、ワン、ワン、ワン」
ラッキーが鳴いて応えた。
「ほれ、ラッキーも言っておる。何かとんでもないことが起こっているってのーう」
「とんでもないことって、なあに? 」
さっちゃんが聞いた。
「それは、わしにも分からん。わしに分かるわけないだろう。かっかかかっか」
ご隠居さんは、大きく口を開けて笑った。
「どうしよう…… 」
大くんが困っている。
散歩の途中に、ポチに逃げられたのだ。このまま家に帰ったら源さんに、どやされるに決まっている。
「心配するな、大くん。ポチは直ぐに帰ってくるでのう」
「でも……」
「心配するなって……。ラッキーとさちが、ポチのことを探してくれるからのう。さち、頼んだぞい」
「ええっ!」
さっちゃんは、お目目を白黒させた。
(ポチを探すの。これから家に帰って‘北斗の拳’でも見ようと思っていたのに……)
さっちゃんは、‘北斗の拳’が大好きである。
‘北斗の拳’は、あの「あたたたたー。おまえはもう死んでいる」という名台詞で有名な漫画である。
「さち、ポチを必ず見つけろよ。母さんには、さちの帰りが遅くなると、よろしく言っておくからのーう」
ご隠居さんは、さっちゃんたちと一緒になって、ポチを探す気はないらしい。
笑って、家に帰る用意を始めていた。
「じ、じいちゃんは? 」
さっちゃんは、カメムシを握りつぶしたような顔をした。
「わし? わしは一足早く家に帰って、おまえとラッキーの帰りを待っているわい」
「そんな……」
「そんなじゃあないわい。おまえはこの老い先短い年寄りを、こき使う気かい」
「そういうわけではないけど……」
「そうだろ、そうだろ。さちは優しいからのーう。かっかかかっかっ」
ご隠居さんは、大きく口を開けて笑うと、ラッキーの頭を撫でた。
「頼んだぞ、ラッキー」
ご隠居さんの期待に応えて、ラッキーは「ワン」と大きく吠えたのだった。
8、
ポチは中妻二丁目を、ひたすら走っていた。
《急がなければ……、急がなければ……。愛ちゃんが、愛ちゃんが……》
走る、ポチの脳裏に愛ちゃんの笑顔が浮かぶ。
ポチに朝御飯をくれるとき、ひまわりのように微笑む愛ちゃん。源さんに怒られて、舌を出し「エヘへ」と笑う愛ちゃん。さくらさんと楽しそうに夕ご飯の用意をする愛ちゃん。大くんとふざけてテレビのリモコンを奪い合っている愛ちゃん……。
愛ちゃんの笑顔は、お日様よりも輝いている。愛ちゃんの悲しむ顔なんか、見たくはない。
ポチの加速メーターがいっきにレッドゾーンに入った。
《待てよ。おまえ、そんなに急いでどこに行く》
ポチの行く手に黒い影が立ちふさがった。急ブレーキをかけて立ち止まるポチ。
何者がポチの前に現われたのだろうか?
ポチは、目をこらして前に現われた黒い影を見た。
暗闇から出てきた黒い影は、水玉模様のマフラーをした犬だった。
さすらいのフレンチ・ブルドック。水玉マフラーのサンダーちゃんの登場である。
「プッ」
ポチは思わず笑ってしまった。
おもしろい顔なのである。
鼻はぺったんこ。頬はたれ、青い耳かきを口に咥えて、眠たそうな目でこちらを睨んでいる。こうもりのような二等辺三角形の耳は、多少格好いいが、小さい身体には微妙に似合わない。
「なに、言っているのよ! そのアンバランスのところがいいのよ。あなたには高貴な魅力を持つフレンチ・ブルドックの良さがわからないのよ」と、フレンチ・ブルドックファンの人に怒られそうだが、ポチの目の前にいるフレンチ・ブルドックは独特な顔をしていて、高貴さには程遠いのだ。
《プッーって、それなに? なにが、おかしい。俺は由緒正しき、フランスの生まれなんだぞ。名を聞いて驚くな。俺の名は……。俺の名は、さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんって言ってな……》
ポチの目の前にいる、フレンチ・ブルドック、サンダーちゃんの鼻息は荒い。
《えっ! さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃん!》
《そうよ。聞いたことがあるだろう》
《全然》
《あら、あらあらあら……》
サンダーちゃんはこけた。
さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃん。
なるほど、サンダーちゃんの首には水玉模様のマフラーが巻いてある。
《で、その水玉マフラーのサンダーちゃんが、僕に何用》
《用があるから止めたのよ》
《だから、何の用だ? 》
《用っていうのはよーう……》
《こっちは急いでいるんだ。用があるなら早く言ってくれ!》
《用っていうのは……》
サンダーちゃんは一呼吸おいて、
《ここは俺の縄張りだー 通りたけりゃあ何か置いてけ》
と、言った。
サンダーちゃんは、やぶにらみしている。
やぶにらみすると、恐がると思っているのだろうか。けれど、サンダーちゃんの斜視は遥か彼方の空を見ていて、どこかおかしい。
《食いもん、おいてけ》
《お腹、へっているの? 》
《おうよ。自慢じゃあないがな。もう二日も食い物を食べていないんだぜ。二日もだぜ。驚いたか》
サンダーちゃんの腹の虫が、「グッグググッッー」と鳴った。
《ご主人様は? 御飯をくれないの》
《ご主人様ってかー 俺にはそんなのいねえよ》
《捨てられたんだ……。かわいそうに……》
《ば、馬鹿なことを言うな。こっちから捨ててやったんだ。餞別代りによう、これをもらってやったぜ》
サンダーちゃんは、口に咥えた青い耳かきをクルクル回した。
《それ、なに? 》
ポチが質すと、
《耳かきだよ、耳かき。昔から言うではないか、武士は食わぬど高楊枝ってなあ……。まっ、俺様は武士っていうよりも騎士だよな。なんせ、生まれがフランスだからな。フランスだぜ。そこんとこ、よろしく!》
《楊枝って……口にくわえているのは耳かきでしょう、耳かき》
《うるさい。楊枝も耳かきも同じようなもんだろう。とにかく、俺様はフランス生まれの貴族なんだよ》
サンダーちゃんは、自分がフレンチ・ブルドックだということに誇りを持っている。雑種のポチを完全に見下している。おまえなんか雑種だろ、俺は血筋がいいんだぞ。どうだ、まいったかーとでも言いたいのだろう。
フレンチ・ブルドックという種は、その名が示すとおり、フランスで生まれたブルドックである。ブルドックにテリアを交配させて誕生させたといわれているが、交配させたテリアがどのテリアかはっきりしていない。各種のテリアの他に、バグ犬もかけあわせた結果できた種だという話もある。
ブルドック特有の顔つきとテリア犬の楽天的な性格を受け継いでいる犬なので、人には好かれるはずなのだが……。
《捨てられたんでしょ 》
と、ポチが言った。
《う、うるさい。そ、それより食料だ、食料……》
サンダーちゃんの腹の虫が、また、また「ググッーウ」と鳴いた。
《よっぽど、お腹がへっているんだね》
《う、うるさいって言っているだろう》
《お腹がへっているのに、よく、耳かきを口から放さないで、しゃべれるね》
口に耳かきを咥えたまま話すなんて、とてもできそうにもない。大抵の奴はできないだろう。
《よく、訊いてくれた。これにはコツがあってな……》
サンダーちゃんが、得意になって講釈をたれようとした時、
《いけない! こんなことしていられない》
と、ポチは跳ねた。
《おい! どこに行く? 》
《悪いけれど、急いでいるんだ》
《待てよ……。待てったら……》
サンダーちゃんは、ポチの後を追いかけた。
ポチは走る、愛ちゃんのところへ……。
さて、ここで筆者のうんちくをご披露しよう。(おっー、偉そうに)
ポチに限らず、犬には不思議な能力があるらしい。
そこで、不思議な能力を持った犬たちの話を紹介しよう。
まず、始めに、見知らぬ土地に置き去りにされた犬が、一ヶ月かけて、飼い主のもとに帰ってきた話。
なぜ、犬が見知らぬ何百キロも離れた土地から、ご主人様のもとにたどり着けたのか、それは分からないが、凄い話である。
二つ目は、ご主人さまの死期を予知し、一週間も前から、ご主人さまの枕元から離れることがなかった犬の話。この犬は家族のものが犬をいくら動かそうとしてもそこから動こうとはせず、餌も食べずに、ご主人さまが亡くなるまで、ずっとそこにいて、ご主人様の最後を看取ったという。本当に感動する話である。
感動する話の後は、超能力者顔負けのご主人様の帰宅時間を予知する犬の話。
たとえご主人様が、自宅に帰る時間をずらして、早くしても、遅くしても、ちゃんと玄関で座って待っていたという不思議な逸話がある。なぜ、帰る時間をずらしても、ご主人様がいつ帰って来るか分かってしまうのか?
なんとも不可解な話である。
最後に広い土地を駆け回る牧羊犬の話。
数百頭の羊を一匹の残さず全て完全に管理する牧羊犬は、放牧場に放している羊たちを、時間がくると放牧場の柵の外に追いやり、羊を小屋まで全て引率する。仮に一匹の羊が樹の陰に隠れていようとも、それを瞬時にみつけ、小屋まで追いたてるのだ。
いやはや、どれもこれも、生半可な人間にはできそうもない摩訶不思議な能力である。
ポチの能力は、愛ちゃんの危機を予知した
愛ちゃんの危機を予知したポチは、中妻三丁目に辿り着いた。
愛ちゃんの匂いがする。愛ちゃんの他に嫌な匂いも漂っている。ポチは匂いがする路地裏に入っていった。
愛ちゃんはいた。愛ちゃんの他に見知らぬ二人の女の子もいる。嫌な匂いは、その女の子たちの匂いだった。
「ポチ!」
ポチを見つけて、愛ちゃんが叫んだ。ポチは、愛ちゃんを視る。愛ちゃんは、怯えていた。脚をガクガク震わせていた。
「へぇ~ このちっこい犬、おまえの犬なのか」
ポチの姿を、めざとく見つけたガラの悪そうな女の子が言った。
「もしかして……。ご主人さまのピンチを知り、助けにきたってかー」
同じくガラの悪そうな、ちぃーとばかり太目の女の子が言う。
「こんな小さな身体で何ができるっていうーの。笑わせるなよー」
「ほんと、笑ってしまうぜ」
ガラの悪い二人組みは、口を大きく開けて笑った。
愛ちゃんは、二人組みの不良少女にからまれていた。
きっかけは、ささいなことだった。
上中島町にあるレンタル・ビデオ屋に行った帰り道。上中島町から中妻三丁目に入ったとたん、目があったという、たわいもない理由で、愛ちゃんは二人組みの不良少女「キィーキィーキィーの美智子」と「ゴ、ゴ、ゴリラの陽子」にいちゃもんをつけられたのである。
キィーキィーキィーの美智子と、ゴ、ゴ、ゴリラの陽子はむしゃくしゃしていた。
火事現場で“スケ番のお由美”と一緒に、騒いでいただけなのに、職員室に呼ばれ、そこにいた警察官に延延とお説教をくらったのである。
騒いで何が悪い。派手に燃えているのがおもしろいから騒いでいただけなのに、放火犯人であるがのごとく、しこたま怒られた。
頭にきた美智子と陽子は、うっぷんを晴らそうと中妻三丁目を徘徊していたのであった。
《やっと、追いついた》
サンダーちゃんがポチの後から現われた。
《とにかく、もらうもんはもらわないとな~》
サンダーちゃんは、やぶにらみの目をきかせて言った。
「おいおい、また、おかしな犬コロが出てきたぜ」
美智子が言った。
「この暑いのに、よれよれで汚いマフラーを首に巻いてよ、頭がいかれているぜ、この犬」
陽子が相槌を打つ。
《よれよれの汚いマフラーだと!》
さすらいの一匹犬、サンダーちゃんは、トレード・マークである水玉模様のマフラーをこけにされて怒った。
《武士にとって刀は命。この俺様にとっては、マフラーがこの俺様の存在意義なんだ。そのマフラーを貶めるものなど……》
サンダーちゃんは、近くにいた陽子に跳びかかった。
「バシッーツ」という音が鳴った。
陽子が、跳びかかってきたサンダーちゃんを、手に持っていたカバンで叩き落した。
《くっ~ 腹さえ空いていなければこんな奴らなど……》
サンダーちゃんはひざまづいた。
「陽子、まさか本気じゃあないよね」
美智子が言った。
「本気で叩くわけないじゃん。手加減してやったわよ」
「そう、それならいいけど……」
美智子は苦しそうに呻いているサンダーちゃんを、視ながら言った。
熊木陽子。通称‘ゴ、ゴ、ゴリラの陽子’の腕力は半端じゃあない。同学年の男子生徒の中で、彼女の腕力に勝てるものなどいない。陽子は、力自慢の体育の若い男の教師と、腕相撲の勝ち負けを争っている男勝りの筋肉ウーマンでなのである。
「ワンワン、ワン」
ポチは、鋭く吠えた。いや、本人は鋭く吠えたと思っているが、悲しいかな、まだ仔犬のポチの吠え声は、周りから見れば、ただの鳴き声にしかきこえなかったらしい。
美智子が笑いながら、
「なに、鳴いているのよ。この坊やは、この私が相手をしてあげるわね」
と、言った。
榎本美智子。通称‘キィーキィーキィーの美智子’は、直ぐに頭に血がのぼる。おもしろくないことがあると、すぐヒステリーを起こし、カバンの中から下敷きを出して、取り出した下敷きで「キィーキィーキィー」と爪をとぎ、戦闘に備えるのである。
「覚悟しな! ゆくよ」
美智子の鋭利な爪が光った。
ポチ、危うしである。
「ワン! 」
ラッキーが現われた。ラッキーに連れられてか、さっちゃんの姿も見える。
《ポチ! 大丈夫か》
ラッキーが言った。
《僕は大丈夫だけれども……。サンダーちゃんが……》
《なぬ?》
ラッキーはポチの傍らで、倒れているサンダーちゃんを発見した。
(なんだい、こいつは? ここらへんでみたことのない犬だが……)
ラッキーは、中妻町にフレンチ・ブルドックがいるなんて思いもおよばなかった。
中妻町には、最近、やけに人気があるシベリアン・ハスキー犬や、プードルが増えてきていることは知ってはいたが、フレンチ・ブルドックなる犬は初めて見たのである。
《サンダーちゃんが……、サンダーちゃんが、カバンで張り飛ばされて……》
倒れているサンダーちゃんの身を心配して、ポチが悲しそうな顔をしている。
ポチは涙を流していた。本当にサンダーちゃんの身を案じているのである。さっき知り合ったばかりの犬を涙を流して思っている……。
《お、俺は大丈夫だよ……。なあに~ これくらい屁でもねえや》
サンダーちゃんは、ぬっくと、立ち上がった。
さすがである。さすがは、一匹犬をきどる孤高の男、いつまでも、倒れている奴ではない。
ヨッッ! さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃん。満身創痍でもカッコいいぞ。
《サンダーちゃん、大丈夫か?》
ポチが、サンダーちゃんに駆け寄った。
《俺様は騎士だぜ。騎士様がこんなんで倒れてたまるかってーの》
サンダーちゃんは青い耳かきを回した。
《あなた、なに? ここらへんで見かけないけれど……》
ラッキーは首を傾げた。フレンチ・ブルドックも初めて見たが、口に耳かきを咥えている犬もはじめてみた。
《俺か……。俺は水玉マフラーの……》
サンダーちゃんは、口に咥えている耳かきを、ユラユラ揺らして、話していると……。
「おい、また新手が現われたぞ」
と、美智子が言った。
「犬コロ一匹と、二年の女子じゃあねえか」
陽子が応えた。
「どうする?」
「どうするったって、おめえ……。たたんでのすだけよ」
陽子は指をポキポキと折った。
ラッキーはうなった。
二人組みの女の子は、さっちゃんまでその毒牙にかけようとしているのだ。
うなるラッキー、一際高く吠え、戦闘態勢に入った。入った……が。
美智子と陽子は、ラッキーを全然恐がっていない。恐がるというより、うなるラッキーを馬鹿にしている。
ラッキーのかまぼこみたいな眉と、大きく離れた目を笑い、他のビアっテッド・コリーより少し長い口髭を「じいさん、じいさん、そんなに怒っちゃ、いやよ。身体に毒よ。毒なのよ」と嘲笑しているのだった。(ちなみにラッキーはメス犬である)
どうやら、美智子と陽子を恐がらせるには、もっと大きくて凶暴な犬。たとえば、獰猛などーベルマンとか、体格が立派なグレート・デーンじゃないとダメらしい。
「ふっ、こいつからやるかー 」
陽子は、路傍に捨てられてあったビール瓶を片手に持った。
「覚悟しな」
陽子はビール瓶を振り上げた。ラッキーをそれで叩きのめそうとしているのだ。
その時……。
「おまえら、人の家の裏でなにやっている!」
と、いう声が道に響いた。タイミングよく車のヘッドライトのフラッシュと共にである。
車は道を間違って入ってきたみたいで、直ぐに引き返したが、その男は殺気を放っている陽子と美智子を見ても、引き返さなかった。
不良少女の眼光など男の眼中にはないのだ。
男は悠然と歩いてやってくる。
しきしまった身体に青いTシャツが、男の筋肉質の体に映え、スリムジーンズが男の鍛え抜かれた下半身をタイトに覆っている。
男が太陽の下で男が白い歯を見せて微笑むと、太陽がかすんで見えるだろう。夜になれば月と星を友とし、虫の泣き声と語らうことができるであろう。
男の名は、一文字武。一文字武の登場である。
陽子と美智子は身構えた。武から発するオーラが美智子と陽子に緊張感を与えていた。武は、ラッキーやサンダーちゃんとは役者が全然違うのだ。本気になってかかっていかなければならない相手である。
「ワン……」
ポチは短く、頼りなく吠えた。
これだから、二枚目は嫌なのである。
ヒロインがピンチになったとき、どこからともなく颯爽と現われ、あれよあれよいうまに悪党どもをやっつけて、ヒロインのハートを独り占めにして帰って行く。
他の登場人物たちが、これから大反撃を開始しようとしているのに、二枚目は他の役者を全然無視して、敵を叩きのめして、格好をつけて帰ってゆくのである。とんびに油揚げをさらわれるとは、こういうことをいうのだろう。
ポチは、とんびなんかに油揚げをさらわれたくないので、睨みあう不良少女と武の間に割って入った。
《ポチ! 何をするの。あなた大怪我するわよ》
ラッキーが叫んだ。
《こら。俺様に食べ物をよこさないうちに死ぬつもりかー》
サンダーちゃんも吠える。
「ポチ―ー!」
愛ちゃんがしゃがみこんで、顔を両手で覆った。
「なんだ? おまえ。あたいらとやるっていうのか」
美智子がポチに眼を飛ばした。
「笑わせるんじゃあねえ!」
陽子が恫喝をする。
「いい度胸だ。その度胸に免じて、この美智子さまの爪で、ズタンズタンのギィチョンギチョンにしてやるからな」
美智子が木の壁に爪をたてた。「キィーッキィー」という不快な音が鳴る。
ポチ、大ピンチ!
このままキィーキィーキィーの美智子の手によって八つ裂きにされるのであろうか。
美智子の爪がポチに迫る。
その時……。
ポチは笑った。
人間のように目を細め、えくぼを作り、首を斜め四五度にして微笑んだのであった。
「えっー ええええっつー」
ポチの魅力的な笑顔に、美智子が振り上げた手を、思わず、下に降ろした。
(な、な、なんなんだ。これは……)
美智子の力が抜けた。
「どうした。美智子」
「こいつ……。笑いやがった」
「笑ったって? おめえ犬に笑われたのか。犬に笑われるようじゃあ、おめえもおしまいだな。どれ、あたいが、やってやる」
「やめようよ……」
「やめろだと! なんだ、おめえ、犬に笑われて、怖気ついたか」
「そういうわけじゃあないけれども……」
「じゃあ、なんだ?」
「その~う……。なんだか急に優しい気持ちになって……」
「アン? 優しい気持ちだと。馬鹿言ってんじゃあねえ」
「だって……」
「そこで、見ていろ。こんな犬、こてんぱに叩きのめしてやる」
陽子が美智子の前に出た。手にはビール瓶を持っている。
ポチ、再び大ピンチ!
ゴ、ゴ、ゴリラの陽子の腕力に、叩き潰されるのであろうか。
陽子は、ポチににじりよった。
一文字武よ。何をやっている。このままでは目の前で犬が一匹、ゴリラの手によって殺られてしまうぞ!
「くっ!」
一文字武は拳を握り締めた。
おっ! 戦う気だな。それでこそ男である。やはり二枚目は、格好いいなあ~
武が、陽子の魔の手から、ポチを助けようと決意した、その時……。
ポチは笑った。再度、首を斜め四五度にして笑ったのであった。
陽子は手に持っていたビール瓶を地面に落とした。
(あれ、あれあれれ。なんだ、この感覚は……)
陽子の力も抜けた。陽子もまた優しい気持ちになったのであった。
「美智子……」
陽子は呆然としている美智子に声をかけた。
「陽子……」
美智子が力なく応える。
「あたい、なんだか、おかしい気持ちになっちゃった」
「陽子もかい……。私たち……、一体何をやっているんだろうね」
「帰ろう……。帰ろうな、美智子」
「ああ、帰ろう……」
驚いたことに、美智子と陽子から怒りの感情が消えていた。
愛ちゃんに因縁をつけ、サンダーちゃんを張り飛ばし、助けに入ったラッキーとさっちゃんを、殴ろうとした美智子と陽子の怒りの感情が、どっかに飛んでしまっている。あれほど憤怒の炎が燃えていたのに、怒髪天をつく炎は、化学消火器でもぶっかけられた天婦羅なべのように、シューと、消えてしまったのであった。
「帰って、飯でも食おう……」
陽子が言うと、
「そうだな……」
美智子が力なく応え、二人は肩をガックリおとし、車が行き交う表通りの方へ歩いていった。
《ポチ、いま、なにをやったの? 》
ラッキーが右足でポチの背中をこずいた。
《何も……。僕は何もやっていないよ》
《何もやっていないって? そんなことないでしょう。あの凶暴な女の子たちが、すごすごと帰ったじゃあない。何をやったの》
《何もしてないよ》
《何もしていないわけないでしょう。あの子たち、ポチを殺る気でいたわよ》
《何もしていないよ。ただ……》
《ただ……、なに? 》
《僕、人が、大好きだから、そんなに怒らないでよ。ねえ、怒らないでよと、願っただけだよ》
《願っただけ⁉……。願っただけ……。願っただけで、あの子達、帰って行ったの? 》
《そうだよ》
《あの子達……、ポチを殺る気でいたのに……》
ラッキーは目の前で起きたことが信じられなかった。キィーキィーキィーの美智子とゴ、ゴ、ゴリラの陽子は、ポチに対して、尋常でない激しい敵意を持っていた。溢れるばかりの暴力的な感情を抑えきれずにいたのだ。血を見なければ、場は収まらなかったはずである。
《ポチ、一体何をしたのよ》
ラッキーが言う。
《だから、願っただけだよ》
《願っただけね……》
願っただけで、物事が解決するなら、こんなめでたいことはないだろう。
実際、ありえない話である。
犬が笑っただけで、どうにも収まらない争いごとが、嘘のように収まることなんてありえない。犬が笑って、問題が解決し、全てが丸く収まるなら、犬に総理大臣でもをやらせて、政治というものを行なったら、世の中はばら色になるだろう。
《ポチ》
《なあに?》
《さっき、首を傾げただろう》
《首を?》
《もう、一回、やってみて》
ポチは、首を斜めにし、何かをしたのだ。何かをしなければ、あれだけ怒っていた美智子と陽子が、すごすごと肩を落として帰るわけがない。
《もう一回。お願い》
ラッキーは、ポチに同じ事をしろと催促した。
《こう~》
ポチは、首を斜め四五度にして、微笑んだ。
《こ、こ、これは……》
ラッキーは、ポチの身体から発散される、ある種の匂いに戸惑った。
《こ、こ、これは……。何! 何なの。これは!》
ラッキーがうろたえていると、
「一文字さん。ありがとうございます」
と、いう嬌声が路地裏に響いた。
さっちゃんである。
さっちゃんが、「キャア、キャア」騒いで、武に頭をペコペコ下げているのである。武が美智子と陽子を撃退したと思っているのだろうか。感謝感激雨あられという状態なのであった。
「さすがは、一文字さんね。ねっ、愛ちゃん」
と、さっちゃんが言った。
「う、うん……」
「あの美智子たちを、一睨みで、退散させるなんて」
さっちゃんは、あくまで武が美智子たちを追い返したと思っているのであった。
「ど、どうしよう……。さち」
「どうしようって?」
「お礼をしようかしら……」
愛ちゃんは、憧れの人を目の前にして、あがっている。お顔を真っ赤にして、何もいいだせないでいるのである。
「なに言っているのよ。ちゃんと、助けてもらったお礼を言わなければダメでしょう」
「うん……」
愛ちゃんは、ニッコリと微笑んだ。
じょ、冗談だろ!
美智子と陽子を返り討ちにしたのは、ポチだろう。ポチが勇敢にも、美智子と陽子の前に出たから、二人の心が揺れ動き、美智子と陽子は喧嘩をする事が馬鹿馬鹿しくなって、帰っていったんだろう。
愛ちゃんとさっちゃんが助かったのは、ポチのお陰だろう。ポチにお礼を言うべきではないのー。
「あの~ 」
愛ちゃんは、武に近づき、声をかけた。
「なんだい?」
「あの~ 助けてもらって本当にありがとうございます」
愛ちゃんは、勇気を振り絞って言った。
「いや~あ。俺、なにもしていないよ」
武は、頭を右手で掻いた。
そう、おまえさんは、何もしていない。ポチが笑顔でキィーキィーキィー美智子とゴ、ゴ、ゴリラの陽子を退散させたのだ。
ポチが笑って……。はて? 犬が笑うものかと思う紳士淑女といると思うが、犬は笑うのである。
犬は笑わないと示す文献もあるが、いろいろと調べてみると、犬は嬉しくて嬉しくて機嫌が良い時、尻尾を振って、親愛の情を見せ、ご主人様が笑顔でご機嫌がいいときは、犬もうれしくて、ご主人様の真似をして、笑顔になるのである。
信頼するご主人様の表情を学習することにより、犬も笑顔を作れるのだ。
「愛……。大丈夫」
と、さっちゃんが言った。
憧れの人を目の前にして、ときめく愛ちゃんの顔は真っ赤である。地肌が白い愛ちゃんの、お顔が真っ赤っかになっているのである。
「だい、だい、大丈夫よ」
ちっとも、大丈夫じゃない。愛ちゃんは、フラフラと倒れそうである。
「しっかりして。目の前に一文字さんがいるのよ」
「えっー 一文字さん」
愛ちゃんは、よろめいた。
《あっー 愛ちゃんが……》
ポチの右足が一歩、前に出た。
《愛ちゃんが、愛ちゃんが……》
ポチは、愛ちゃんのもとに駆け寄ろうとした。
《ポチ、愛ちゃんは大丈夫よ》
ラッキーが、ポチの行く手を遮った。
《大丈夫じゃないよ。あんなに苦しがって……》
《あれは、苦しがっているわけではないのよ》
《ええっ! 違うの》
《違うのよ。ポチ、よく聴いて……。女の子はねえ……。夢見る乙女というものはねえ、恋をすると……、燃えあがるような恋をすると、ああっ、なるのよ》
《夢見る乙女? 燃えあがるような恋……。夢見る乙女って、愛ちゃんのこと》
ポチは訝る。
夢見る乙女ってなんだ! 起きているときに夢をみるの? そんなこと、ありえないでしょう。そもそも夢っていうものは、眠っているときにみるもじゃあないの。
ポチの脳内に、ハテナ(?)マークが四つも五つも湧き出た。
《ポチ》
ラッキーが怪訝な顔をしているポチに、声をかける
《ポチ……。ポチ! 何を考えているの》
《ん⁉ そのう……。なんだ……。起きているとき見る夢ってどんなもんだろうなーって思って》
ポチは、勘違いしている。ポチが言っている夢と、ラッキーが言っている夢見る乙女の見る夢とは、全然違う。
《……あのね、ポチ。私の言っている夢は、そういう意味の夢じゃあないのよ》
《そういう意味の夢じゃあない? じゃあ、どんな夢》
《強いていえば、希望という夢ね》
《希望……。わかんない》
《わからない? そう、ポチにはまだ難しいかもね。でも、人、いや、生き物というものは、希望がなければ生きてゆけないものなのよ》
《希望がなければ生きてゆけない? そんなことないよ。僕は毎日楽しくてしょうがないもの》
幼いポチには、希望という言葉に込められている切ない願いがわからない。ポチが‘希望’という言葉を真に理解するにはもう少し、時間が必要である。
9、
しわがれた声が表通りのほうから聞こえてきた。
「こちらは地元消防団です。お休みのさいは、火の用心に気をつけて、お休みしてください」
しわがれた声は、町内会長の吉井さんだった。数人の消防団員と共に消防自動車に乗っている吉井さんは、消防車に備え付けられてある大きな拡声器を使い、がなりたてていた。
「こちらは地元消防団です。火の用心~ 火の用心~ 火の用心」
吉井さんは、天にも届きそうな大きな声を出す。
なぜ、がなりたてるか?
昨日も火事があり、町内は大騒動になったが、数週間前にも、放火犯人は吉井さんの乾物屋に火をつけているのである。小火で済んだが、大火事になっていたら、今頃吉井さんは一文無しで夜空の下をさまよっていただろう。
放火犯人、許すまじである。
「火の用心。マッチ一本火事のもと」
吉井さんの、しわがれ声が表通りに響き、しわがれ声を響かせた消防自動車が、愛ちゃんたちがいる路地裏の前に止まった。
「おお~い。何、やっている」
消防車の中から、聴きなれた声が聞える。
寅男さんだ。
源さんの弟、愛ちゃんの伯父、寅男さんが、路地裏の愛ちゃんたちを見つけ、消防車の中から降りてきたのだ。
「いま、何時だと、思っている。さくらさんが心配するぞー」
時刻は八時十分前。いつもなら、テレビを見ながら、大くんとふざけあっている時間だ。
「あのね、おじさん……。これには深い理由があって」
愛ちゃんに代わって、さっちゃんが、応えた。
「深い理由……。深い理由ってなんだ。そこにいる男前と関係あるのか?」
寅男さんは、武を舐めるようにみた。
いい男である。同性のそれも大人の男から見ても、身震いするほどいい男である。
「も、もしかしたら……。おまえら、三角関係のもつれとか」
「そんなんじゃないわよ」
さっちゃんは、ほっぺをプーウウーっと膨らました。
「俺が説明するよ」
さらさらの髪を風になびかして、武が言った。
武は、愛ちゃんとさっちゃんに暴力を振ろうとした陽子と美智子のことを、簡潔に説明した。
「ふう~ん。それじゃあ、おまえさんが、うちの愛とさっちやんを助けたわけか」
寅男さんは、事情を飲み込めたようで全然飲み込んでいない。本当はポチが愛ちゃんを助けたのに、武が陽子と美智子を追っ払ったと思っている。
「俺は何もしていないさ」
武が言う。
「何もしていないって、おまえさんが、そのゴ、ゴ、ゴリラの陽子とキィーキィーキィーの美智子の前に立ちふさがって、愛とさっちゃんを守ったんだろう」
「いや、俺が行動を起こす前に、この犬が……」
武は、ポチの能力に気づいているのだろうか。武の鋭い視線がポチを射った。
「ポチが……。ポチが何かしたのか」
「…………」
何かしたのかと言われても、武は応えられない。何かをしたはずなのに説明ができない。
何かをしたはずなのに……。
武は、もどかしさに舌をうった。
「愛、家まで送るぞ」
寅男さんが言った。
「いいでしょう。会長」
吉井さんが、いつのまにやら消防自動車から降りて来ている。寅男さんの傍らに着いた吉井さんは、「うん、うん」うなずいた。
「さっちゃんも送るんでしょ。さっちゃんの家まで」
愛ちゃんが言った。
「もちろん。さっちゃんもラッキーも、そこにいる……。えっ! どこの犬だ。その犬」
寅男さんは、見知らぬ犬にまごついた。
「ちょっと、待って」
愛ちゃんが、サンダーちゃんを抱きかかえた。抱きかかえてサンダーちゃんの身体を見ると、首に巻かれてあるマフラーにサンダーちゃんと名前が書かれていた。名前と一緒に「この子は、サンダーちゃんといいます。新しい飼い主の方。よろしくね」と書かれてあった。
「よろしくね……。新しい飼い主の方。よろしくねだって。この犬、もしかしたら捨て犬?」
もしかしないでも、サンダーちゃんは捨て犬なのである。半年前、二月の寒空の下、風が枯れ木をもてあそぶ大天場山に捨てられた哀れな捨て犬なのである。
「かわいそう」
愛ちゃんは、サンダーちゃんの頬に自分の頬をつけた。
「捨て犬か……。よし、屯所に連れて行こう。会長、いいでしょう」
「そうだな。だいぶ弱っているようだから、屯所に連れていって、飯でも喰わせてやろう。飯でも喰わせれば元気になるだろう」
おやおや、意外な展開である。さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんは消防団第二分団第一部の消防屯所に連れてゆかれることになったのであった。
10、
町の防災のかなめ、消防団。
各市町村にもあるが、我が街、釜石市にも消防団というものがある。
消防団というのは、町の安全と安心を守るため、有志が集まった組織である。ほとんど無償で働く。ただ同然で、火事が起きると夜中でも起きて消火活動をするのである。それだけでも、ごくろうさんなのだが、消防団の仕事は消化活動だけではないのである。大きな地震が起きれば、町を周って被害場所をチェックしたり、大規模な風水害が発生すると、率先して、救助活動をするのである。
「ブウッウウー」と派手な音をたてて、一台の消防車が第二分団第一部の消防屯所に帰ってきた。
屯所の中から、迎えの男たちが出てくる。
「あれっ! さっき出て行ったばかりなのに。もう帰ってきたんですか?」
屯所で、ご苦労さんの宴を準備していた居残り組みが不審に思い、首を傾げた。
夜のパトロールは通常七時から始まるが、今日は団員の集まりが悪く、団員がそろうのを待って、七時半からパトロールが始まった。遅く始めたので、九時頃まで町内パトロールがかかると思っていたのである。
消防自動車の中から、寅男さんたちが降りてくる。寅男さんが降り、次にサンダーちゃんを抱えた町内会長の吉井さん。味三番のラーメン屋のおやじ。そして愛ちゃんが、ポチを抱えて消防自動車の中から、降りてきたのであった。
愛ちゃんは消防自動車から降りると、
「屯所に着いたの? 家の近くにあるけれども、中に入るの初めて」
と、言った。愛ちゃんは、屯所の中に入る気らしい。
「あれっ? 源さんちの愛ちゃんじゃあないの。なんで、こんな夜分に」
屯所で留守番をしていたお菓子屋のケンちゃんが、愛ちゃんに声をかけた。
「ちょっと、これにはいろいろあってな」
愛ちゃんの代わりに、寅男さんが答えた。
「それより、冷えたビール、あるか」
「ちゃんと、用意してあるよ。酒のつまみに焼きイカもあるし」
と、ケンちゃんが言うと、
「ほーう。焼きイカがあるか。他には?」
と、吉井さんが言う。
「他に? 他には焼きそばもあるし、鶏の唐揚げもあるよ」
「よし、その鶏の唐揚げと焼きそばを、こいつにやってくれ」
吉井さんは、腕の中に抱えたサンダーちゃんを、ケンちゃんたちに見せた。
「どうしたんですか、その犬」
「捨て犬らしいが、かわいそうだから連れてきてやったんだ」
吉井さんは、サンダーちゃんを床に降ろした。
電灯に照らされたサンダーちゃんの姿は、ボロボロである。二月に山に捨てられたサンダーちゃん。今は七月。半年の放浪生活が、サンダーちゃんの容姿を、みすぼらしい姿に変えていた。
「待ってろよ。いま、うめえもの食わせてやるからな」
団員さんたちが、サンダーちゃんの周りにしゃがんで、テーブルの上の鶏の唐揚げだの、焼きそばだのを、サンダーちゃんに与えた。
《良かったね。サンダーちゃん》
ポチが言うと、
《うん、うん、良かった……。良かった……》
サンダーちゃんは、顔をくしゃくしゃにして喜ぶのだった。
中妻三丁目の路地裏で愛ちゃんたちを拾った第二分団第一部の消防自動車は、山崎さんの家に寄って、さっちゃんとラッキーを降ろし、一路、水戸家に向った。
水戸家に向ったが、さくらさんの、お叱りを恐れた愛ちゃんが、一度屯所の中を見てみたいと言いだしたのである。
屯所から、寅男さんが家に電話してくれると、そう、考えたのに違いない。
夜の町から直接家に帰るより、屯所にいたから遅くなったと、いいわけができるというわけだ。
寅男さんが「さくらさんが心配するからわがままをいうなよな」と、愛ちゃんをたしなめたが、寅男さんの隣にいた消防団長でもある、太鼓腹の町内会長の吉井さんが、「さくらさんには、俺が言っておく。少しぐらいいいだろう。社会勉強だ。社会勉強」と言ったので、愛ちゃんと、ポチが、は屯所に無事に来ることになったのであった。
寅男さんは、早く愛ちゃんを家に帰したがったが、団長の言うことには逆らうことはできない。
消防自動車は、急遽道を変え、さっき出たばかりの屯所に帰ってくることになった。
「じゃあ、わし、表にある公衆電話から、源さんちに電話をかけてくるから。さくらさんが心配していると思うから」
寅男さんの代わりに、吉井さんは、電話をかけに屯所から出て行った。
いまでこそ携帯電話という便利なものがあるが、この当時はそういうものはなかった。高価でかさばる自動車電話が携帯電話の代わりにあるが、もちろん、そんなものが屯所にあるわけないので、吉井さんは屯所の外にある公衆電話に行ったわけである。
「えっ、先生。なぜ、ここに」
愛ちゃんが、担任の佐々木勇雄先生に気づいた。
「佐々木先生は。この春から我が消防団の一員になってもらったんだ」
寅男さんが言った。
「先生、消防団員なの」
愛ちゃんが尋ねる。
「ああっ、忙しい教職のかたわら、こうして地域に貢献している。先生には主に車両の整備をしてもらっているんだ」
と、お菓子屋のケンちゃんが言った。
「へえぇ~ 先生、車両の整備もできるの」
「へえぇー じゃあないだろう。この先生はちゃんと車両の整備をし、防火活動もきちんとやっているんだよ。俺はよう、先生は凄いと思うぞ。教師をしながら消防団員をやるなんて、凄い、凄い。佐々木先生はきっと凄くて偉い人なんだと思う」
と、寅男さんが言った。
「へえぇー」
「だから。へえぇ~って。へえぇ~って、なんだ。近頃じゃあ消防団員になる奴は、なかなかいないんだぞ。それなのに、この佐々木先生は自分から、消防団に入れてくれと言ってくれたんだ」
消防団員の数は年々、減ってきている。整備された消防自動車があっても、消防団は団員がいなければ、はなしにならない。
団長である吉井さんは、責任を感じ、あっちにいいなあ~と思う若者がいればスカウトに走り、こっちに消防団員になってもいいという中年のおじさんがいれば、ゴマをスリスリ勧誘をする。が、なかなか、人が集まらない。
そんな状態の中、消防団に入ってきた佐々木先生は、待望の新人消防団員であった。
ちなみに、佐々木勇雄先生は、今年の四月に釜石第二中学校に赴任してきたばかりの先生である。
歳は三十一才。独身。数学の教師。二年二組の愛ちゃんの担任の先生だ。
《この人……》
ポチが眉間にしわを寄せている。
《どうした?》
鶏の唐揚げを食いながらサンダーちゃんが尋ねる。
《この人……。火事があった日。ガソリンの臭いをプンプンさせていたんだ》
《ガソリンの臭い……》
サンダーちゃんは、目を細めて佐々木先生を見た。
誠実そうである。頭をきれいに七三に分け、にこやかに笑っている。とても、ガソリンを使って悪い事をするような人間には見えない。
《ポチ……。おまえ、考えすぎだ。この人間が悪い人間か》
《でも……》
《さっき、この人に車両を任せていると言っていただろう。きっと車を整備しているとき、服にガソリンがついたんだろう。おまえ、その臭いを嗅いだんだ》
《そうかな~》
《そうだよ》
サンダーちゃんは、そう言って、十二個目の鶏の唐揚げを、ほお張るのであった。
ポチが、毅然と顔を上げた。なんだ、何があった?
《大変だ。今度はあの子が大ピンチだ》
11、
上中島一町目にあるゲーム・センター『イップク』には、なぜか、いかずの年配者が集まる。
もちろん、遊び盛りの中学生や高校生も来るには来るが、彼らは、人気のゲーム・マシンを年寄り連中に占領されて、ぶつくさ言って、隅で、たむろしているのである。
隅でぶつくさ言わないで、直接、「俺らにもそのゲームをやらせてもらえないですか」と、言えばいいのだが、年寄り連中の持つ、あのなんともいえない独特の雰囲気に押し倒されて、言うにいえない。
前に一度、中学生が勇気を出して「あの~ すいません。俺たちにもそのゲーム台、やらせてもらえませんか」と、言ったら、「いいか良く聞け。物事には順番ていうものがあるんだ。いい若いもんのくせに、そんなことも分からんのかー」と怒鳴られた。
頭にきた中学生が「そんなこと言ったって、おじいちゃんたち、もう、三時間もそのゲーム台、占領しているでしょうが。みんな、おじいちゃんたちが席を離れるのを待っているんだよ」と、言い返すと「うっううっ……。年寄りの唯一の楽しみを奪うのか。わしらは、これだけが生甲斐なんだ。分かるかい。これだけが生甲斐なんだよーう」と、言って鼻水を垂らしながら泣くのであった。
いやはや、誠に困った年寄りたちである。
が、悪意があるわけではないので、中高生たちはしかたがねえなと、あきれ返り、『イップク』の店主は見てみぬふりをしているのであった。
『イップク』のど真ん中にある柱時計が、午後八時四五分をさしていた。
さすがに、この時間になると年寄りたちは家に帰ってしまい、『イップク』の中には中学生と高校生しかいない。
その中に由美がいた。涼子先生に家まで送ってもらったはずの通称スケ番のお由美がイライラしながらピンボール・マシンを弾いていた。
(家に帰っても、誰もいねえしよ~う)
ピンボール台のボタンを押す、由美の指使いが荒くなった。台が大きく振動する。TiLtの文字が電光板に浮かび上がって、フリッパーが止まった。
由美は舌をうった。
ピンボール・マシンが異常を感じ、止まったのである。
由美はピンボール・マシン機の脚を蹴った。
「由美ちゃん~ いたの?」
自動ドアを開けて、一人の老婦人が、愛犬のプードル犬〝さゆり〟を引き連れて『イップク』の中に入ってきた。
「えっ、徳子さん」
由美は怪訝な顔をした。
今年、七十になる上辺徳子さんは由美の友人で、可憐なプードル犬さゆりと一緒に暮らし、歌曲やお茶を趣味にしている、とってもとっても優雅なおばあちゃんなのである。用もないのに、暇つぶしに、ゲームセンターに入り浸るような、おばあちゃんではないのだが、なにやら思惑があるらしく、しずしずとさゆりを連れて『イップク』に入って来た。
「良かった。ここで逢えて。家にいったらいないから、こちらに回ったら、やはり、ここにいたのね。由美ちゃん。はい、これっ」
上辺ばあさんは、手に持っていた紙袋の中から、なにやら取り出して、由美に渡した。
「徳子さん。ありがとう」
由美はたい焼きをほおばった。
「冷めたら、おいしくなくなっちゃうでしょう。だから、急いで来たのよ」
「夜八時を過ぎているのに、こんな所に来なくてもいいと思うけれど」
「夜八時だから、ここに来てみたのよ。この時間、由美ちゃん、いつもアパートに独りでいるでしょう。母さんの帰りは十時過ぎだし、それまで待っていたら、たい焼き食えなくなってしまうわよ」
「ごめんなさいね。気をつかわせて」
「いいのよ」
上辺ばあさんは、優しく微笑んだ。
「由美ちゃんも大変ねえ。放火犯人、扱いされたって」
「そうなの。頭にきちゃう」
「由美ちゃんが、そんなことするわけないのにね」
「そうよ。私がそんなことするわけないでしょう……。て、徳子さん。誰から聞いたの? 私が放火犯人扱いされたってこと」
「美智子たちから、聞いたよ」
「美智子……」
由美は、あの、おしゃべりめと、小声で呟いた。
「早く、捕まるといいのにねえ……放火犯人」
上辺ばあさんは、ぼやいた。
「捕まって、欲しいような、欲しくないような……」
「えっ、由美ちゃん。放火犯人、捕まって欲しくないの?」
「そういうわけではないけど……」
由美は言葉を濁した。
放火犯人は捕まって欲しいとは思う。けど、捕まったら、火事場見物ができなくなる。せっかく火事場見物という楽しみが増えたのに、放火犯人が捕まったら、おもしろくなくなるなーとも、由美は思っているのである。
「由美ちゃん、捕まって欲しくないの」
「いや、その……。火事場の、あのお祭り騒ぎが大好きなもんで」
「お祭り騒ぎ? 由美ちゃん!」
「はい」
「そんなこと考えているから、犯人扱いされるのよ」
「す、すいません」
由美は素直に謝った。
上辺ばあさんは、心を許せる、数少ない友人である。だからというわけでもないが、由美は上辺ばあさんにだけには、素直になれるのである。
「その台、難しい?」
上辺ばあさんが、由美がいままでプレイをしていたピンボール台に手を置いた。
「この台、おもしろいけど、頭にくる台だぜ。もう、三十回もやっているのに全然、点数が伸びやしねえ」
「ふん~ん」
上辺ばあさんは、ピンボール台にコインを入れた。
「えっ! 徳子さん。できるの」
由美の困惑を尻目に、上辺ばあさんはプレイを開始した。
ボールが弾かれる。レーンを通り、次々とドロップターゲットを倒し、役を作り上げてゆく。わずか三分後には、規定の得点に達してエキストラ・ボールが追加されていた。ボールはまだ一度もホールアウトしていない。
「す、凄いじゃない。徳子さん」
由美は目を丸くした。
「どういたしまして」
上辺ばあさんが、得意になると、足元のさゆりが「キャン」と一声、吠えた。
上辺ばあさん、どうやら、お忍びでここに通っているようである。用もないのに、ゲームセンターに来るような人であった。
「うまくて、あたりまえだろ。こいつは日中、ずーっとこいつで遊んでいるんだぜ」
高校生らしき三人組の男たちが声をかけてきた。
「なんなの、あんたら」
由美は身構えた。
「俺たちか。俺たちは……。俺たち、何なんだろうな」
スポーツ刈りの男が言った。
「さあ、しらねえな。イサム、俺たちって一体なんだ?」
太めの男が応える。
「何なんだろうな。ポリ公じゃあねえことは確かだな」
イサムが茶化した。
「ばっかか……。俺たちがポリ公なはずねえだろう」
「じゃあ、何だ」
「決まっているじゃあねえか。俺たちは……俺たちは札つきの不良よ」
「そうだな。俺たちは札つきの不良だよな」
「札つきの不良か……。ちげえねえ……。あっはははは」
三人の男たちは大きな声で笑った。
「ウウッ~」
さゆりが唸った。
見かけは可愛らしいが、さゆりとて、犬である。ご主人さまの身を案じたのである。
「おっ、この犬、俺たちに歯向かう気だぜ」
仲間から、イサムと呼ばれているリーゼント野郎が、さゆりを高々と持ち上げた。
上辺ばあさんが、「あれぇー」と悲鳴をあげる。
「なに、するのよ。あんたたち」
由美が不良たちに立ち向かった。
「なにもしねえぜ。こうやって遊ぶだけよ」
イサムはさゆりを放り投げた。太目の男がさゆりをキャッチする。
「こいつこれでも犬か。まるで、縫いぐるみじゃあねえか」
太目の男は、そういうと、スポーツ刈りの鋭い目つきの男に向かって、さゆりを放り投げた。
「ふん、犬コロが。おい、みんな、こいつをどうする」
さゆりを受け取ったスポーツ刈で鋭い目つきの男が、さゆりの首に手をかけた。
「どうする。おう、どうする」
鋭い目つきの男は、三人組のリーダーのようだった。他の二人を威圧しながら話している。
「どうするって、そりゃあ~ 中村さんのお好きなように」
イサムが言った。
「好きなように、しろってかー 横田、おまえはどうなんだ」
「ええっ、あっしも、イサムと同じですでえ。中村さんのお気に召すように」
横田は、卑屈に笑った。
「じゃあ、こいつをボールにしてサッカーでもするか」
中村の口元から良く発達した八重歯が覗いた。
「ふざけないでよ。そんなことしたら、さゆりが死んでしまうでしょうー」
由美が止める。
「ふざけてないよ。俺たちは本気だよ。なあ~」
「へっへっへ。犬でサッカーなんて、さすがは中村さん。蹴るたびにいい声が聴けますぜ」
横田が言った。
「ほんと、キャンキャン鳴いて、あっちこっちに逃げ回り、おもしろいゲームができるてぇもんだ」
イサムがはしゃぐ。
「やめなよ」
由美は近くにいた横田の頬を張り倒した。
「いてえっっー。いてぇえー いてえよ。あっー いてえ」
横っ面を張られた横田は、大袈裟に騒いだ。
「このスケ、横田の面を殴りやがった。中村さん、こいつどうします」
イサムが言うと、
「そうだな~ 」
中村は、よく発達した八重歯を見せ、由美に鋭い視線を送った。
「おい、そいつを連れて外に出ろ」
中村が、横田に命令した。外に由美を連れ出し危害を加えようとしているのだ。
「あなたたち、由美ちゃんに何をするのよー」
上辺ばあさんが、中村の袖を掴んだ。
「うるさい」
中村は上辺ばあさんの手を邪険に払った。
「イサム、わかっているな!」
中村が指示を出す。
「わかっていますよ。このばあさんと……、そこに隠れている管理人を見張っていればいいんでしょう」
イサムは、トイレのドアの隙間から、こっちの様子を窺っている爺さんを睨みつけた。
「そこから、出てこいよ。出てこないと、この婆さんの面を張ったおすぞー 張っ倒した後で、そっちにいっておまえも殴るからなー」
イサムの恫喝に、トイレからモヤシみたいに痩せた爺さんが出てきた。
「おまえ、俺たちが来てから、そこに隠れただろう」
イサムの隣で、中村が言った。
「なんで、俺たちの姿を見て、そこに隠れたんだ」
「……あんた、工業高校の中村 元だろ」
もやしみたいな爺さんが、中村の方を見て、ぼそっと言った。
「ほう、俺のことを知っているのか」
「あんたは、有名だよ。何をするのかわからんから、関わらないほうがいいと……」
「俺と関わらない方がいいという噂があるのか。ふん。誰がそんなこと言っているんだ」
「誰がって……」
もやしみたいな爺さんは目を泳がせた。
中村たちが、ゲーム・センター『イップク』に入ってきたとき、『イップク』の管理人である、もやしみたいな爺さんは一目散にトイレに避難し、『イップク』にいた他の中高生たちは、中村の姿を見るなり、蜘蛛の子を散らすように店から出て行ったのであった。
中村は有名な悪なのである。
「えっ!! あんたが、あの中村 元」
由美は振るえた。
中村 元の噂は聞いている。
街でちょっと顔をきかせている不良たちの中で、中村の名を知らない奴はいない。
「お嬢ちゃん。あんた災難だねえ~ あんた、ピンボールに夢中で、中村たちが、ここにやってきたのに、気がつかなかったんだよ」
もやしみたいな爺さんが、震えながら言う。
「横田、さっさとそいつを外に連れてゆけ!」
中村が横田に言うと、由美は横田の腕から逃れようともがいた。
「気が強い女だな」
中村は由美の右腕を、強く掴んだ。右腕を中村に掴まれ、左腕を横田に掴まれている由美は、もう、もがくことすらできない。
「離して、離してよ~ 」
由美が叫ぶと、中村は由美の頬を張った。
「俺をなめると、どういう目にあうか、思い知らせてやるー」
中村はそういうと、横田と一緒に由美を引き連れて、『イップク』から出て行った。
「イサム、その爺さんは、おまえに任せるよ。余計なことをしないように見張っておけよ」
『イップク』を出る間際、横田がイサムに指示を出すと、表に出た中村たちは、路地を通り抜けて、裏通りに入っていった。
「さて、どうしてやろうか」
中村は由美の頬を、右手で鷲掴みにした。
「中村さん、どうするんでぇー」
横田がほくそ笑む。
「そうさな~」
中村は口を歪ませた。
街一番の悪と呼ばれている中村 元。
中村の悪行は、田舎の高校生が行う所業ではない。高校生とは思えない悪戯をする。
バイク屋から、大型バイクを盗み、それに乗ってお菓子屋さんのウインドーに突っ込んでみたり、夜道、ちょっと気にくわない担任の先生を待ち伏せしては、叩きのめし、翌日校舎の屋上からぶら下げてみたり、気ばらしに、道路上にあるマンホールをこじ開け、消火栓を開放し、町内を水びたしにした。
恐れ入る、中村の悪行。
中村は何度も悪戯を繰り返し、幾度となく補導されるが、更生することは決してなかった。中村の悪さは、増すばかりである。
「こいつの家に火をつけて、仲間を呼んで、高見の見物といこうか」
中村がふざけて言った。
「火をつけるって……。あんたら、まさか……」
由美が、おののきの目で中村を見た。
「あんたたちが、あんたたちが放火しているのー」
中村たちが放火犯人だとしても、全然おかしくない。いや、中村なら、きっかけさえあればやってしまうだろう。
「俺たちが放火をしていると思うか?」
中村は由美の瞳を覗きこむように見ると、路上に唾を吐いた。
由美は心の底から震えていた。手向かう気持はすでに失せている。
もやしみたいな爺さんが言っていたように、中村は何をするのかわからない。女の自分にも容赦はしないだろう。
「ワン!」
ポチが現れた。唐突である。
薄暗い裏道に、場違いな、かわいらしい仔犬が突然現れたのである。
「あん? なんだ、この犬。横田、おめえの家で飼っている犬か」
中村が横田に訊いた。
「いえ、うちの犬じゃあありませんよ。うちの犬はウルフという名ばかりが格好いいチンがいるだけで……」
「ばっきゃーろー。名なんかどうでもいいんだよ。こいつは、おめえところの犬かって、聞いているんだよ」
「うちの犬じゃあありません。どっかの犬だと思いますが……」
「おめえところの犬じゃあねえのか。それじゃあ、何も問題はねえな」
「問題ないというと……」
「始末しろ」
「はっ?」
「はっ、じゃあない。さっさと始末しろと言っているんだ」
「へぃ~」
横田は、ポチに近づいて行った。
天然パーマのちりちりした髪の毛が、ポチに迫ってくる。横田の体重は軽く百キロを超えているだろう。まん丸の眼鏡がどことなく滑稽な感じがするが、見方によっては、チンピラが眼鏡をかけて凄んでいるようにも見える。
「さて、どう始末しようかな」
横田はポチを掴もうとした。
ポチは、横田の手からスルリと逃げた。掴むタイミングを外された横田が地面に片膝をつく。
「この野郎~ ちょこまかちょこまか動きやがって」
横田は、ポチを捕まえようとするが、そのたびにポチは横田の手をかわした。
「ワン、ワン、ワン、ワン」
逆方向から、別の犬の鳴き声が聞こえた。
「なんだ」
中村が振り向くと、青色の耳かきを咥え、水玉模様のマフラーを首に巻いたちんけな犬が、山のように高く積まれたビール箱の蔭から姿を見せた。
さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんである。
《ポチ!》
吠える、サンダーちゃん。
突如現れた、サンダーちゃんは、屯所で腹一杯、飯を食べたので、体中に力がみなぎっているように見えた。
《ポチ、およばずながら、このさすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんが力を貸すぜ》
サンダーちゃんは風に水玉模様のマフラーをなびかせる。
《どうしてここへ?》
《どうしても、こうしてもねえだろう。おめえのおかげで、たらふくおいしいものを食べることができたんだ。それによう、宿無しのこの俺を、消防団でこの俺さまを飼うことにしたらしいぜ。まったく、おめえのおかげだわな。おめえは恩犬というわけさ》
サンダーちゃんは、ポチにウインクをして見せた。
ポチが、急に立ち上がり、屯所から出て行くには相当な理由があるに違いないと思ったサンダーちゃんは、口の中にあったたくさんの鶏の唐揚げを、無理やり、腹の中に入れ、ポチの後を追い、ここに駆け付けたのであった。
《ポチ、ここは任せてろ。こんな奴らの一匹や二匹……。このサンダーちゃんが……》
サンダーちゃんは、無謀にも横田に挑んでいった。
勇ましく、かかっていったが……。
「ぶぎゃあぁー」と、車でのら猫を轢いたような声がした。サンダーーちゃんが横田に張り飛ばされた声である。
《こ、こ、こんなはずでは……》
果敢に横田に挑んだサンダーちゃんは、いとも簡単に路上に転がされたのであった。
「へっ、てんで話しにならないの。次はおまえだな!」
サンダーちゃんをのした横田は、指をポキポキ折って、ポチに近づく。
その時……。
車のヘッドライトのフラッシュが路上に光輝いた。
眩しい閃光の中から現れたのは、ご存じ、一文字 武であった。
12、
だから、だから嫌なのである。
二枚目という奴は……。
いつもいつも、登場人物が危機に陥ったときだけ、颯爽と現れては、いいところを横取りする。
さっきだって、ポチがこれから格好いいところを見せようと思っていたところに、武が、その凛々しい姿を見せて、いいところを、かすめ取ったのである。
まったく、もう~ これだから、二枚目という奴は……。
ポチは、都合よく現れた武を見て、「ワンワン」と鳴いたのであった。
「おまえたち。おまえたちだな。うちの爺さんを泣かせたのは」
武が言った。
「うちのジジイを泣かせたと? へっ、おめえは誰なんだ。おめえところのジジイなんか知らねえよ」
横田が凄む。
「イップクで管理人をしているのが、うちの爺さんだ」
「あん? あのもやしみたいな爺さんがおめえの爺さんだというのか。あの爺さんなら、いまごろ、イサムが可愛がっているだろうよ」
「イサム? あ、あー あのリーゼントの男のことか。そいつなら中でのびているよ」
「なぬ」
横田は驚いた。
一緒に暴れまくっているイサムが、中学生風情にやられたというのである。
イサムは、そう簡単にのされる男ではない。喧嘩慣れしている。そのイサムをやっつけたというのだから、武の実力も相当なものだろう。武は格好いいだけの男だけではなかったのだ。
「どいてろ」
中村が横田を押しどけて、武の前に出た。
「おめえ、高校生に手を出すとはいい度胸してるじゃあねえか」
中村が野獣の目のような瞳を光らせる。
武は後ずさった。
かなう相手ではない。武は咄嗟に悟った。
武、危うし!
武がいくら喧嘩が強いといっても、中村は相当な修羅場を踏んでいる。腕力も強そうだ。とてもたちうちできる相手ではない。
「ワン!」
ポチが吠えた。中村が振り返る。
「この犬、まだいやがったのか」
中村が舌を鳴らした。
舌を出して、こちらを見た中村はまともにポチを見た。
ポチは笑った。首を斜め四五度ほど傾けて、微笑んだのである。
「なぬ?」
中村は犬に笑われると思っていなかった。「この野郎ー」と言わんばかりに、ポチに迫る。
迫った……、迫った……迫ったが……。
なんだか、中村の様子がおかしい。宙を見つめ、呆然としている。
「中村さん。どうしたんですかい」
横田が言った。
「中村さん……」
横田がおずおずと言うと、中村は、その場で三回転半をして、横田を見た。
「僕たち、何を馬鹿なことをしていたんだろうね」
中村が満面の笑顔で言う。
「はっ?」
横田は困惑した。
なんか、おかしい。中村が“僕”なんていう言葉を使うはずない。それにくるりと三回転半も回って、笑顔でものを言うなんて、おかしすぎる。
目の前にいる人物は中村なのだろうか?
「横田くん。お遊戯しない。お遊戯、楽しいよ~」
「へっ?」
「こうやってさあ~」
おかしくなった中村は、突然、その場でお遊戯を、おっぱじめたのであった。
「中村さん……。一体どうしたんです。おかしいですよ中村さん」
「おかしいのは、君たちの方だよ。なんで、こんな楽しいことやらないの? お遊戯、楽しいよ。ほら、君もやりなよ」
中村は横田の手をとった。
「タラタラタラッータラ~ ウサギのダンス~」
中村は調子にのって、クルリクルリと横田の周りを回り始めた。
横田は中村と、つきあいが長いがこんなふうになった中村を一度もみたことがなかった。どんな悪ふざけをしても、歌を唄いながら踊ったことなんて一度もない。
なにが、中村に起こったんだろう。
横田は、その場から逃げだしたい気持ちになった。
「なにしてるの。君も踊りなよ」
「はっ?」
「はっ、じゃない踊るんだよ」
「いえ、そのう……」
「踊れっていってんだよ」
「へぃ……」
横田は逆らっても仕方ないので、踊ることにした。
「こうですか。中村さん」
「違うよ。こうやるんだよ」
中村は手取り足取り、横田にお遊戯を教える。横田はお遊戯なんて何十年もしたことがないので、身体が中村の動きについてゆけない。ぶざまに転んでしまう。中村は手をかして横田を立たせ、また、一緒にお遊戯を繰り返したのであった。
「中村さん。お、お遊戯、うまいですね。練習、していたんですか?」
「そんなのするわけないじゃん。こういうものは、ちょっとした“コツ”よ。ちょっとした“コツ”」
「はっぁ~」
「あっ、それそれそれっ、ウサギのダンス~ 横田、一緒に唄え」
「はい。ウサギのダンス~ ウサギのダンス~」
踊りながら、横田は半べそになっていた。
「中村さん……」
山のように高く積まれたビール箱の蔭から、イサムがよろよろと現れた。
「中村さん……。かたきをとってくださいよ」
裏道に現れたイサムは、自分を叩きのめした武に一瞥をくれると、中村の姿を探した。
「な、な、な、中村さん!」
イサムがそこに見たもの。
それは、楽しそうにお遊戯をしている中村たちの無邪気な姿だった。
「な、なに、やっているんですかい。中村さん」
イサムは目の前の光景が信じられなかった。
「なにをって、見ればわかるだろう。お遊戯だよ。お遊戯」
「お遊戯って……」
イサムは言葉を失った。
街一番の悪が、こともあろうに夜の街でタラッタラッタラッターとお遊戯を踊っているのである。
「横田。……おまえまで、なに、踊っているんだ」
「仕方がねえだろう。中村さんが踊れって言っているんだ。踊るしかないだろう」
「踊るしかないって……。おまえなあ……」
でぶっちょの横田が必死になって踊っている。百キロを超す巨体が汗水たらして、かわいらしく踊っているのである。腰に手をやり、脚を上げたあと、胸のところで、両手でハートマークを作ったりして、けなげにリズムをとっている。
懸命に踊る横田の姿は、病み上がりのメガネをかけたオラウータンが、ディスコではしゃいでいるかのようにも見える、とっても、とってもユーモラスな姿であった。
「は~ぁあぁ」
イサムは大きくため息を漏らした。
「イサム、おまえも、踊れ!」
「えっ?」
「えっ、じゃあない。踊るんだよ」
「そんな、踊れって言ったって……」
イサムは困ってしまった。
(いくら、中村さんの命令でもこんな所で、しかも、お遊戯なんて、踊れるわけねえじゃあねえか)
「踊れねえのか」
「いえ……。その~う」
「……そんなに踊るのがいやか」
と、中村。
はっきり嫌だと、口が裂けても言えない。
中村に反抗して、女子トイレの中に生まれたままの姿で放り込まれた奴だとか、蛇がたくさんいる落とし穴に落とされて、一晩中、泣き叫び、助けを求めた奴だとか……。そんな哀れな奴らを、イサムはずいぶん、見てきている。
中村の命令は絶対で、命令に逆らうと、とんでもない目に遭うのだ。
「そんなに嫌ならいい。無理強いは言わん。そのかわり……」
「そのかわり……。なんですか」
イサムの身体に悪寒が走った。
なにか、とんでもないことをやらされるに決まっている。
一体、何をやらされるのやら……。
「そのかわり……」
「そのかわり……。なんですか」
イサムの額から冷や汗が、一すじ流れた。
中村はイサムに何をやらせようとしているのだろうか。
イサムは、あれこれ、酷い目というものを想像した。
もしかして、あんなことをやらされるのか。いやいや、あんなことではすまない。きっと、あれか。いや、あれかもしれない。いやいやいや、もしかすると……。
イサムは思いを、あれこれ巡らし、きっといままで遭ったことも出遭ったこともない、とんでもないことをやらされるだろうと、恐怖に震えるのだった。
震えるイサムに中村が発した言葉とは……。
「僕と一緒に小鳩幼稚園までスキップしよう」
中村は実に意外な命令を出した。
「ええっ⁉」
なんの因果で、ここから一キロも離れている小鳩幼稚園までスキップをしなければいけないんだろう。
考え方によっては、裸になって女子トイレに飛び込んだ方がよかったかもしれないし、蛇の穴に落ちた方が良かったのかもしれない。
「スキップ。スキップ。スキップ、楽しいスキップ。愉快だな~ 君い~ スキップ、知っているだろう」
「ええっ……」
「よし。三人で手をつないでスキップしよう。スキップしながら小鳩幼稚園まで行くんだ!」
中村は、しっかりと横田とイサムの手を握った。
「レッツ・ゴー。目指すは小鳩幼稚園!」
「本当に小鳩幼稚園まで行くんですか」
半べその横田が言った。
「もちろんー 行くよー」
中村が満点の笑顔で応える。
「中村さん。考え直してくださいよ~」
イサムが懇願した。
「なにぃ~」
中村が、怒りの目を見せる。
「す、すいません。スキップ、スキップ、楽しいな」
「楽しいだろう。じゃあ、みんなでスキップしような」
中村たち三人組は、唖然としている由美や武をその場に残し、裏道から出て行ったのであった。
《ポチ……。おまえ、何かやったのか?》
サンダーちゃんが言った。
《別に、何もしていないよ》
《何もしてないってことないだろう》
《何もしていなったら……》
ポチは二コリと微笑んだ。
《そ、その笑い……。その笑いに何か秘密があるんだ》
サンダーちゃんは、ポチの笑顔のその中に、何か意味深長なものがあると睨んだ。
ゴ、ゴ、ゴリラの陽子とキィーキィーキィーの美智子を撃退した時も、ポチは、なんともいえぬ魅力的な笑顔を造ったのである。
《ポチ……》
《はい?》
《俺、思うんだけどな……。その~う、なんだ、おまえがさ……、おまえがさ、笑って、首をこう曲げると、何かが起きるんだよ》
《首をこう~》
ポチがサンダーちゃんに合わせて、首を四五度、曲げた。
《そう、そうやって、おまえが首を曲げるとな……。ん!》
サンダーちゃんが、鼻をヒクヒクさせた。
ポチの身体から、異臭が放たれている。異臭といっても不快な匂いではない。いい香りとはいわないが、ちょっと気になる匂いが辺りに香りだしたのである。
《なんだ? この匂いは……》
サンダーちゃんは、平べったい鼻を、さらにヒクヒクさせるが、思い当たる匂いが見つからない。
一体、何の香りなんだろう。
サンダーちゃんは、ポチに負けじと首をかしげるのだった。
武は、いまだに唖然としていた。
何が中村に起こったんだろう。中村は、あきらかに異常だった。
喧嘩の最中に、おちゃめなお遊戯を「タラッタラッタラッタラー」と踊り、さんざん踊った後、「るん、るん、るん」と、スキップしながら表通りに出て行った。
予想もできない展開である。
武はしばらく唖然としていたが、傍で震えている少女を見つけ、
「大丈夫か……」と、声をかけた。
「うっわわああ~ん」
と、大声で由美が泣いた。
中村が、よっぽど怖かったんだろう。“スケ番のお由美”が大粒の涙を見せていた。
「怖かったよ~う。怖かったよ~う。でも……」
由美は、うつむき……。
「でも、おもしろかった。きゃはははっはは」
と、腹を抱えて笑い出した。
さっきまで滂沱の涙を見せていた由美が声を出して笑ったのである。
「あっあっはははははっ」
由美は笑い続ける。
「おいおい、そんなに笑うなよ」
「笑うなって言ったって……。これが、笑わずにいられるものですか。あの悪の中村がお遊戯を踊るなんて……、あっあっはははっはっ」
強面の中村が、由美を地獄の三丁目辺りへ突き落とし、おちゃらけの中村が由美を、お笑い極楽浄土の二丁目辺りまで導いたのである。
言うまでもないが、強面もおちゃらけも、同じ中村である。
中村の身に一体、何が起こったのか?
中村自身にも、それは分かっていないだろう。
《僕、願ったんだ》
ポチが言った。
《喧嘩をしないで、もっと楽しいことをしようよって》
《願う?》
サンダーちゃんが訝る。
願うだけで、問題が解決するなら、こんな簡単なことはない。
《願ったんだよ。お遊戯しようよって。お遊戯したら楽しいよって》
《お遊戯って……。おまえさ~》
サンダーちゃんは、顔をしかめた。
願うだけで、人を動かせるはずがない。願うだけで物事が成就するのなら、ポチは周りの世界を、瞬く間に変えてしまうだろう。ポチが変える世界がどのようなものになるか、予想もできないが、きっと笑顔があふれる素敵な世界になると思う。
《あの凶悪な人間が、おまえの願いなど聞くはずないだろうに》
サンダーちゃんが言った。
《聞いたよ。あの人、僕の願いを聞いてちゃんとお遊戯を踊ったもの》
《そりゃあ~ ……確かに踊ったよな》
サンダーちゃんの脳内に、極彩色のハテナマークの大群が現れた。現れては、しきりにサンダーちゃんの脳みそをを突っついている。突っついたと思ったら、大脳の右側から左側に流れてみたり、小脳の上でボヨーン、ボヨーン、ジャンプしたりして、サンダーちゃんを苛めているのであった。
《踊ったよな……。あの中村っていう悪い奴、確かに踊ったよな……なんで、踊ったんだ? わ、わ、わからない》
サンダーちゃんは、前足で頭を抱え込んだ。
ポチは、ニコニコ笑ってる。
《笑うなってーの。こっちまで、おかしくなる》
サンダーちゃんは、その場に仰向けになると、手足を投げ出して、ジタバタしたのだった。
13、
パンチパーマで黒ぶちのメガネで三段腹の正子さん。
暇を持て余した正子さんが、愛犬ウルフと連れ立って水戸家に来ると、水戸家はいつもすったもんだの大混乱に陥る。
この間はこの間で仕事で失敗をしでかした源さんが、さくらさんにあたり散らして、さくらさんを泣かしてしまったし、その前はその前で、喧嘩に負けた大くんが、ぼろぼろの状態で家に帰って来た途端、「大、男だったら泣くんじゃあねえ~ 男だったら泣くんじゃあねえ。ええぃ~ 勝つまで家に帰ってくるな~」と、源さんに大声で怒鳴られていた。
幸い、まだポチの身には災難が降りかかったことはないが、この調子だと、いつポチの身にも災難が降りかかってもおかしくない。
そんなもんだから、正子さんとウルフが水戸家にやって来た日は、ポチは犬小屋の中に避難することにしているのであった。
「正子がきやがった」
源さんが言った。
「正子って……。隣の横田正子さんかの~う」
ご隠居さんが応える。山崎のご隠居さんは、水戸家に遊びに来ていた。
「カァツカッカッー わし、あのご婦人、ちと苦手での~う。勝負はまたの機会っていうことでどうじゃろう~」
ご隠居さんは、ニンマリ、顔を崩した。将棋の勝負は、あきらかにご隠居さんの負けである。
「逃げるのか……」
「逃げる? このわしが。カッカカッカッ、この勝負、どうみてもわしの勝ちだろう」
「ふん、俺が勝っているだろう? 負けていると思っているのか」
源さんの休みの日。源さんの数少ない楽しみの中に、山崎さんちのご隠居と将棋の勝負をするっていうものがある。
が、毒舌で噂話大好き人間の正子さんが、水戸家に来てしまっては将棋どころではない。
必ず、ひと悶着起こる。これは、逃げるが勝ちである。
「それじゃあ、わしは帰るでのう~」
ご隠居さんは、立ち上がって茶の間の戸を開けた。
「あらっら、焼き肉屋のご老体、いたの?」
茶の間の戸を開けると、目の前に正子さんがいた。愛犬ウルフを抱えている。
「どうせ、源さんと将棋でもやりに来たんでしょう。……で、将棋のどこがおもしろいの? 山崎のご老体」
あった途端、これである。“ご老体”と、あざけり、人の趣味をこ馬鹿にする。
「カッカッカッー ご婦人には将棋の持つ魅力と奥深さがわからんと見える」
「わかるわけないでしょう。あんなもの」
「カッカッカッカッ 将棋はあんなものではない」
ご隠居さんは、正子さんの頭に一発、くらわせてやろうと思った。
「あっ、源さん。どこ行くのよ」
正子さんは、茶の間から出て、廊下を歩いて、奥に行こうとしている源さんに気づいた。
「どこって……。部屋に行って寝るのよ」
「寝る? 昼間から。なにも私が来たからって二階に行くことないじゃない」
源さんは、おまえが来たから眠りたくなくても眠るんだよ。と、言いたかったが、正子さんに逆上されても困るので、
「眠りたいから眠るんだ」
と、適当にごまかした。
「眠れないでしょに~ 昼間から。源さん、本当に眠るの」
「あっー うるさい! とにかく俺は寝る」
源さんは、階段を乱暴に駆け上がり、自室へ退避したのであった。
数分後、茶の間には、さくらさんとウルフを抱えた正子さんの姿があった。
正子さんの膝の上のウルフは、いまのところ静にしている。
前にも、ちらっと言ったがウルフは狆(チン)という犬である。今時珍しい日本産の犬なのだ。
狆っていう犬はその愛くるしい容姿のせいか、最初の座敷犬として飼われた犬であり、文明開化の頃、おおいにもてはやされた犬でもある。が、西洋から新たな抱き犬が紹介されるようになると、数を減らし続け、現在、日本産の犬でありながら、狆は珍しい犬種となってきている。
「こんにちわ! さくらさん。いる?」
正子さんが、いけしゃしゃと、ゴマセンべエを齧っていると、上辺ばあさんが愛犬“さゆり”と連れ立って水戸家にやってきた。
「あらっ? また、誰か来たみたいだわ」
さくらさんは、茶の間から廊下に出た。
「徳子さん」
さくらさんは、上辺ばあさんの姿を見つけると玄関に向った。
上辺ばあさんは、玄関までやってきたさくらさんに回覧板を手渡した。
さくらさんの、お眼目が大きく開く。
「ええっ! 今度の土曜日“夕涼み会”があるの?」
長方形のなんの変哲もないB5判のバインダーの上の白いピラピラの回覧板が載せてあって、週末の催事を知らせていた。
七月一五日(日) “納涼 夕涼み会 & もってけ市”なるものが、お知らせとしてそこにある。
本日は、てんてん、天下の月曜日。日曜日まで、今日を含めて六日しかない。
「さくらさん、知らなかったの?」
「ええっ……。私……。全然……」
「ええって、源さんから何も聞いていなかったの? 源さん、この町の副会長さんでしょう」
「そうだけれども……。あの人、何も言ってくれないから……」
さくらさんは、二階で寝ているはずの源さんを「ギロリ」と睨んだ。
源さんが、町内で行われる行事の予定を、さくらさんの耳に入れなかったのは一度や二度ではない。
先月の町内大清掃の時も、さくらさんに知らせなかったし、先々月のカラオケ大会の時も、一言も言ってはくれなかった。
(いつも、そうなんだから。なんで、言ってくれないのよ~)
さくらさんは、キリキリと唇を噛んだ。
「ここんところに、もってけ市と、書いてあるけれど……。もってけ市って、去年もやったフリー・マーケットのことでしょう」
上辺ばあさんが、さくらさんに尋ねる。
「えっ? なに……」
「やだっ、なに、ぼけっとしているのよ。もってけ市……。もってけ市のことを言っているのよ」
「もってけ市?」
「もってけ市って、前にもやったフリー・マーケットのことなんでしょうと聞いているの」
「フリー・マーケットをやるの? 誰が」
「誰がじゃあなくて、夕涼み会でやるって、そこに書いてあるでしょう」
上辺ばあさんは、もう一度、回覧板をさくらさんに示した。
「えっ! また、あれやるの」
さくらさんは、去年の夕涼み会で、やったフリー・マーケットなるものを思い出した。
フリー・マーケットで『古着市』なる店を任された、源さん一家。
任されはしたが、さくらさんたちが、店で売る古着は、町内の青年部の若者が町内の各家庭を廻り、集めてきた、どうしようもないものばかりで、今流行りのトレーナーとか、セーター、Tシャツなどはそこにはなく、捨ててもいいような、どてらとか、袴とか、商店の名が入った前掛けとか、とにかく古めかしい物ばかり集まったのであった。
『古着市』なる店だから、古めかしい物ばかり集まるのは当たり前のことだが、捨ててもいいような物ばかりだけでは、商売にならない。
さくらさんは、店の前にやってきた、じいちゃん、ばあちゃん連中のゴマをすりすり、ようやくの思いで古着を売りきったのであった。
「去年、さくらさんの店で買ったあの膝かけ……。あれっ、ちょっと変な臭いがしたわよ」
上辺ばあさんが言った。
「そう……。でも、徳子さん。気にいっていたじゃあない」
「私の好きな柄だったからね……」
上辺ばあさんは目を細めた。
上辺ばあさんは、柄が気にいれば臭いなんかどうでもいいのだろうか。
きっと、どうでもいいのだろう。
「誰が来たの?」
茶の間から、正子さんの声が聞こえる。
「お客さん、誰なの?」
「あの声は正子。正子が来ているのかい」
上辺ばあさんは、思わず、さゆりを抱きしめた。
「誰が来ているの?」
正子さんは、茶の間の戸を開けて、顔を出した。正子さんが、そのおたふくみたいな顔を出すと、三十センチ程、あいた戸と柱の間からウルフが飛び出した。
一直線にプードル犬“さゆり”を目指して走る。
おとなしい犬であるはずの狆が、プードル犬めがけて、猛り狂って突っ走ったのである。
「よ、よるな。バカ犬」
上辺ばあさんが叫んだ。
ウルフはなりふりかまわず、突っ込んだ。
上辺ばあさんは、B5のバインダーを振り回して、突っ込んできたウルフを叩きのめそうとした。
が、上辺ばあさんの、バインダーは空しく宙を切った。ウルフになんなくかわされたのである。
バランスを崩す上辺ばあさん。その拍子に上辺ばあさんの腕の中から、さゆりが滑り落ちた。さゆりが、ウルフの目の前に落ちると、ウルフは、にんまりと顔を崩した。
さゆりは、「キャン」と鳴いて逃げ出した。
ウルフは「キャン、キャン」泣き叫んで逃げるさゆりを追いかけた。
「あれっー 誰が助けて! 私のさゆりが穢される」
上辺ばあさんは、膝まずいた。
逃げる、さゆり。追うウルフ。
二匹はところかまわず走り回った。
「なんとかしてー さゆりがー さゆりがー」
上辺ばあさんは、さくらさんにすがりついた。
「なんとかしてくれったって……」
さくらさんは、ただ、右往左往するばかりだった。
もの静な座敷犬であるはずのウルフは、さゆりに逢うと豹変する。
発情期であろうと、なかろうと、さゆりを見つけると、さゆりの背に乗りナニを、おっぱじめようとするのである。
「なに、騒いでいるのよ」
正子さんが、廊下に出て来た。
「正子さん、あんたの犬でしょう。このバカ犬、なんとかしてよ」
上辺ばあさんが、早速、正子さんを責めた。
「バカ犬って……。うちのウルフちゃんがバカ犬?」
「バカ犬よ。バカバカバカの大バカ犬よ」
「ちょっとー そんなにバカ、バカ、言わないでよ」
「バカにバカって言ってなにが悪いのよ~ 本当にこのバカ犬、誰かさんに似てどうしようもないバカ犬よね。ねえ、正子さん」
「私がバカだっていうの」
「バカもバカ。大バカよ。バカなご主人を持つと犬までバカになるっていう話、聞いたことないの。聞いたことないなら、教えてあげるわ。ウルフとあんたはねえ~ 町内で一番の大バカものの、うんこたれよ」
「だ、だれ、誰が、誰がうんこたれなのよ! も~う、頭にきた」
正子さんは、三段腹を「ぶるる~ん、ぶるるん」揺らした。
「徳子さん。だいたい、あんたなによ。あんたこそおかしいじゃあないの。道で逢う人逢う人に、この犬可愛いでしょう。さゆりっていうのよ。さゆりちゃんをよろしくねとかなんとか言っちゃって、可愛くない、ぶざいくなプードルを見せつけて自慢してるっていう話じゃあないの。みんな、迷惑しているんですからね」
「な、なんですって!」
上辺ばあさんの上品な白髪が逆立った。
上辺ばあさんは、さゆりのことを世界で一番愛している。
愛しているさゆりのことを、こうまでケチョンケチョンにけなされて、めちゃくちゃに頭にきているのである。
「もう、一回、言ってみてよ! さゆりのどこが可愛くないっていうのよう~」
上辺ばあさんは、歯ぎしりして、正子さんに迫る。
正子さんの頬に、ビンタを一つ二つくらわせようと土足のまま廊下にあがった。
ウルフがさゆりに追いつく。さゆりの尻にしがみつき腰を動かし始めた。
「えっ! なにするのよ」
上辺ばあさんは、ウルフの不埒な行為に足を止めた。
「誰かなんとかしてよー 」
足を止め、身震いして、上辺ばあさんは悲鳴をあげた。
上辺ばあさんの大きな声に驚いたのか、一瞬、ウルフが腰を動かすことを止めた。
その隙に、さゆりがウルフの元から逃げ出した。
ウルフは、すかさず、さゆりを追った。
「さくらさん、なんとかしてよー」
「なんとかしてって言ったって……」
「お願いよ~ なんとかしてよ」
上辺ばあさんは、卒倒寸前だった。
「ちょっと、待ってて……。なんとかするから」
さくらさんの脳裏に妙案が閃いた。台所に走ってゆく。
「ピンポーン~」とチャイムが鳴った。水戸家に、また、人が尋ねてきたのである。
ドアが開いた。ドアを開けて尋ねてきたのは若い男の人だった。
「な、なんなんだ! これは?」
やってきた男は、玄関先でもつれあうウルフとさゆりに、戸惑っていた。
玄関先で二匹の犬が、からみあっているとは思ってもみなかったのである。
「あんたー あんた、この犬、止めてよ」
上辺ばあさんが、男に頼み込んだ。
「止めてよと、言ったって……」
「止めてよ。このバカ犬、こともあろうことに、さゆりに性…性……。いえいえ、繁殖行為。繁殖行為を挑もうとしているのよ。こんなこと、こんなこと許されることではないはずよー」
「繁殖行為?」
男は、再び、さゆりの腰をとったウルフを見た。
なるほど、普段、おとなしいはずの狆が、ふさふさした毛を振り乱し、果敢にプードルに挑んでいる。
「どいて、どいて、どいてー」
さくらさんが台所からやってきた。手に水を湛えた黄色のバケツを持っている。
ウルフがさくらさんの足元を横切った。
「あれっー」
さくらさんは、ウルフに蹴躓く。
黄色いバケツが宙を舞った。宙を舞った黄色いバケツは、大きく弧をえがき男の頭に被さった。
「な、なに、するんですか」
水浸しになった男は、頭から黄色いバケツを取り払った。
「あら、ごめんなさい」
さくらさんは、水浸しになった男を、まじまじと見た。
どっかで見た顔……。
「先生! 先生じゃあありませんかー」
やってきた男は、愛ちゃんの担任の佐々木勇夫先生だった。
「いきなり水をぶっかけるなんて、酷いじゃあありませんか」
「すいません……。これにはいろいろとわけがあって」
さくらさんは、その場に土下座して謝った。
「まったく、なぜ、この僕が頭から水をかけられなくちゃあならなかったんですか」
と、佐々木先生が言った。
「……先生、今日は何用でうちにいらっしゃたんですか」
「昨日、電話で言っていたでしょう。愛ちゃんのことで、お話があるから午後三時頃、お宅に伺うって」
「そうでしたっけ?」
さくらさんは、佐々木先生から電話があったことなど、すっかり忘れていた。
申し訳なさそうに頭をペコペコ下げた。
「それじゃあ、さくらさん。そういうことで」
正子さんは、ウルフを連れて、すたこらさっさと帰って行く。
「ちょっと待ってよ、正子さん。さゆりに謝らないで帰るつもりなのー」
上辺ばあさんが、正子さんの後を追う。きっと、道端で捕まえて謝罪を迫るのだろう。鬼気迫る表情をして正子さんを追っていた。
「あの人たち……。なんなんですか?」
佐々木先生が、呆然とした顔で言うと、
「さあ、なんなんでしょうね」
と、こたえるしかない、さくらさんだった。
14、
正子さんがウルフを抱きかかえて逃げ、上辺ばあさんが、正子さんを追って水戸家を退出してから三十分後。
水戸家の茶の間に、さくらさんと源さんのトレーナーを着た佐々木先生の姿があった。
「これって、あれですよね……」
佐々木先生は咳ばらいをした。
「すいません。そんなものしかなくて……」
「別にいいですよ。着るものがあれば」
佐々木先生が、両手を広げてぶつぶつ言っている。
アニメのキャラクターがプリントされているトレーナーは、源さんが部屋だが、佐々木先生は気に入らなかったらしい。高級嗜好が強い佐々木先生は、こんなもの着たくないなーと、言いたげに、しきりにトレーナーの袖をまくるのだった。
「水浸しになったスーツは、洗濯屋さんに出して、後で学校の方に届けますので……」
さくらさんは、申し訳なさそうに言った。
「アルマーニのスーツだから、そこんとこ、よろしくね」
佐々木先生が気どって応える。
「はっ? アルマーニってなんですか」
さくらさんは、アルマーニがなにを意味するのかわからない。
「えっ、アルマーニを知らないの? 有名なイタリアのファッションデザイナーでしょうが」
「イタリアのデザイナー? ごめんなさい。私にはちょっと……」
さくらさんは言葉を濁した。
「やれやれ、とんだ女の人だな。じゃあこれもしらないでしょう。この鞄ベルサーチュの鞄なんだけれども、ベルサーチュもわからないでしょう」
「ベルサーチュ? どっかのスーパーの名前?」
どこをどう考えたら、ベルサーチュがどっかのスーパーになるのだろう。
佐々木先生は、あきれて、額に手をやり、視線をテーブルの上に落とした。
「で、愛ちゃんのことなんですが……」
「ち、ちょっと待ってください」
佐々木先生が、言い終わらないうちに、さくらさんが、立ち上がった。立ちあがって戸棚を開ける。戸棚の中から、ショートケーキを取り出した。ショートケーキは二つある。白いお皿の上にのっている。さくらさんは、皿ごと、ショートケーキをテーブルの上に置いた。
「どうぞ、召し上がってください」
さくらさんは、正座して、佐々木先生にショートケーキを勧めた。
「先生、愛のことで何か」
さくらさんは、おもむろに切り出した。
「実はですね……」
佐々木先生は、ショートケーキを二つ食べ終えると話し始めた。
愛ちゃんの行動が不審に満ちているという。
週に二、三度、平気で遅刻するようになり、宿題もちょくちょく忘れる。一回もサボったことのない掃除当番をサボり、学校で問題児扱いされている生徒と、ともに歩いているという姿を見た人もいるという。
「学年で生活指導を担当している僕としては、見逃すわけにもいかず、こうしてお邪魔したわけですよ」
佐々木先生は、お茶を「ズィーズィーズゥー」と飲み干した。
「実は先日の土曜日、学校で持ち物検査がありましてね。……愛ちゃんが持っていた手提げ袋の中を調べたら、こういうものが出て来たんです」
佐々木先生は、ベルサーチュの鞄からタバコとライターを取り出した。テーブルの上に置く。
「タ、タ、タバコ。愛が吸っていると言うんですか」
もんどりうつことができるになら、さくらさんは、その場でもんどりうっていただろう。
とにかく、驚いた。
「あの真面目な愛ちゃんが、タバコを吸うとはね」
佐々木先生が唇を歪ませた。
「そんな……。そんな……。本当に愛がタバコを吸っていると言うんですか」
「吸っているとしか、考えられないでしょうな。鞄の中から、こんなものが出て来たんだから……。職員室に呼んで、キツク注意しておきましたけれども、やはり、ここはご両親の方から一言、言ってもらわないと」
「まだ、子供だと思っていた愛が、タバコを吸っているなんて……」
さくらさんは、煙をもくもく曇らせている愛ちゃんを想像した。
妄想の中の愛ちゃんは、髪を赤く染め、長いスカートを穿き、竹刀を持っている。タバコをプカプカ吸い、「なんだ、文句あるのかー」とたんかを切っているのだった。
「あっー 嫌だ」
さくらさんは、顔を左右に振った。
「ドタドタ」と音がした。階段の方だ。源さんが二階から降りて来たのだ。
「おい、なにか、食べ物ねえかー」
源さんが、茶の間の戸を開けた。
佐々木先生と目があった。
「あ~ん。おめえは……」
源さんは、青い青い大草原で、でっかいでっかいマムシに遭遇したような、とことん嫌な顔をした。
佐々木先生は厚顔な男である。源さんの横柄な態度を無視してエヘラ、エヘラ、笑っている。
「なんで、おめえがここにいるんだ」
源さんは、ぶっきらぼうに言った。
「おめえって、なんです。とうさん、失礼でしょう。先生に向かって。このお方は愛の担任の先生よ」
と、さくらさんが言った。
「んなこと、分かっているよ。俺はなんで、こんな豚の小便みたいな野郎がここにいるんだと聞いているんだ」
「な、なんてこと言うのよ。先生さまを豚の小便だなんて……」
「豚の小便で悪いか。豚の小便で悪けりゃ~ お猿のチーちゃん、へのへのもへじ、そんなに急いでどこ行くの~ でもいいんだぜ」
源さん、わけのわからないことを言う。わけのわからないことを言って、佐々木先生を愚弄しているのである。
「とうさん!」
さくらさん、席を立った。源さんを睨みつけている。さくらさん、睨みつけて、源さんに謝罪を求めているのである。
源さん、さくらさんの烈火のような瞳の勢いに、いたたまれなくなり、
「けっ、おもしろくねえ」
と、言って、茶の間の戸を閉めた。逃げたのである。
「すいません……。うちのとうさん、悪気はないのですが、口が悪くて……」
さくらさんが、佐々木先生に謝った。
「そんなに謝らなくてもいいですよ。別に気にしていませんから……。あはっはっはは」
佐々木先生はテーブルの上のタバコの箱を握りつぶした。内心では頭にきているのだろう。タバコの箱がくちゃくちゃになっていた。
「あの~ 本当にうちの愛がタバコなんか、吸っているんでしょうか」
さくらさんが聞いた。
「動揺する気持ちはわかりますが……」
「本当に……。うちの愛がタバコを……」
「そんなに動揺しないでくださいよ」
「でも……」
「いいですか。こんなこと、珍しくもなんともないんですよ。実際、うちのクラスの半分以上の男子は喫煙の経験があるみたいだし、二、三、の女性徒もしょちゅう職員室に呼ばれていますよ」
「はぁ……。そんなもんですか」
「そんなもんですよ……。ただね、クラスの中でも真面目で人気者の愛ちゃんが、タバコを吸っているなんて思わなかったもんですから、こうしてお邪魔しているわけで」
「私も思いたくありません」
さくらさんは、声を落として言った。
脳裏に今度はモヒカン刈りにして、眼を飛ばしている愛ちゃんの姿が浮かんだ。どうやら、さくらさんが思い浮かぶイメージは、タバコ、イコール不良のイメージがあるらしい。
「今回だけは、不問にしました。魔がさしたんでしょう」
「罰しないんですか」
「ええっ、日頃の愛ちゃんに免じて、今回だけは特別許してあげましょう」
「それは、ありがたいことで……」
さくらさんは、胸を撫で下ろした。
「親御さんからは、キツク、言っておいてくださいよ。こういうことは非行の原因になりかねないですから」
「わかりました。愛の方にはキツク言っておきますから」
「よろしく、お願いしますよ」
佐々木先生が、恩にきせるように言うと、
「娘をどうぞ、よろしくお願いします」
と、さくらさんは、何度も何度も畳に頭をこすりつけるのだった。
「まあまあ奥さん、そんなに頭を下げないで……。僕も中学生のときタバコを吸っていたし、シンナーも時々、やったかなあ~ 」
「えっ、先生がシンナーをですか?」
「シンナーぐらいで、驚かないでくださいよ。大げさな」
「大げさですか」
「大げさですよ。シンナーぐらいで……。大体、ここの町の人は小さなことにこだわりすぎているんですよ」
「小さなことですか……」
「小さいことですよ。女生徒がタバコを吸ったくらいで、おたおたしやがって」
「えっ、誰が……。その~う…。おたおた?」
「うちの教頭ですよ。たかが、タバコぐらいで家庭訪問して来いなんて。教頭の野郎~」
佐々木先生は、教頭の命令で家庭訪問したのである。
愛ちゃんを、心配してきたわけではなかった。
「教頭がどうした!」
茶の間の戸を開けて、源さんが顔を見せた。廊下で立ち聞きしていたのである。
「さっきから、黙って聞いていりゃあ~ 言いたい放題言いやがって」
源さんが、茶の間にはいってくる。
「娘がタバコを吸っている? 俺も中学のときタバコを吸っていた? シンナーぐらい、どってことない?」
源さん、べらんめえ口調である。
「バカ野郎! 俺の娘がタバコなんて吸うかよ。おめえ、愛がタバコを吸った現場を見たっていうのか」
源さんが、佐々木先生の胸倉を掴んだ。
「現場を見たわけじゃあありません。しかしですね。愛ちゃんの持っていた手提げ袋の中から、タバコの箱とライターが出てきているわけですから」
「だから、愛が吸ったというのか」
「ええっ……。そうとしか考えられないでしょう」
「このタバコとライターはだな」
源さん、佐々木先生の胸倉から手を離し、テーブルの上のタバコとライターを掴んだ。
「誰かが……。きっと誰かが愛を陥れようと、こっそりと手提げ袋の中に入れたものなんだ。そうだ。それに間違いがねえ」
「一体誰が、そんなことをするっていうんです」
「どっかの誰かだ」
「だから、誰がそんなことをするんです」
「そんなこと、俺にわかるかー」
源さんは、手に掴んでいたライターとタバコの箱を佐々木先生に投げつけた。くしゃくしゃになっていたタバコの箱と、赤いライターが佐々木先生の顔面にあたる。
「なに、するんですかー」
佐々木先生は立ちあがった。源さんとさくらさんを交互に見つめてから、
「まったく、この家の人たちはどうにかしている」
と、言った。
「どうかしている? どうかしているのは、てめえの方だろうが」
「僕がおかしいというのですか」
「ああっ、おかしいよ。この、とうへんぼく野郎のすかんたれ!」
「とうへんぼく野郎のすかんたれってなんですかー」
「とうへんぼく野郎は、とうへんぼく野郎だ。とうへんぼく野郎のすかんたれの、おたんこなすめが!」
源さんの罵詈雑言は止まらない。
「つ、ついでに言うとなあ~ おまえなんか、ロバの顔したへっぷり腰のあほーうたれの、おまえの母ちゃんでーべそだ。と、とにかく、愛の悪口を言うやつは、産気づいた雌猫の隣で阿波踊りでも踊っていやがれーだ」
「な、な、なにを」
佐々木先生は、源さんの支離滅裂な悪態に身を震わせた。
「とうさん、わざわざ家庭訪問してくださった先生さまに、なんてこというのよ」
さくらさんが言った。
「うるさい。おまえは黙っていろ! こいつはなあ~ 人の大事な娘にケチをつけているんだ。愛の担任でなけりゃあ、とっくに叩きのめしているところだ」
源さんは、腕をまくった。
「叩きのめす? どうして僕がそんな目にあわなくちゃあならないんですか。僕はですね。愛ちゃんの、愛ちゃんの将来のことを心配してここにきたんだ」
「娘の将来のことだーあ。おめえ、さっきなんて言った。教頭のハゲに行ってこいと言われたから来たって、言ったじゃあねえか」
「それはですね……」
「それはですねーじゃあない。おめえ、生徒のことを本当に思っているのか。思っていないだろう。愛は、おめえなんかに心配されなくても、この俺がりっぱに育ててみせるよ。りっぱになあ……。おめえなんかはだなあ……。おめえなんかはだなあ……。おまめえなんか……。おめえなんか、学校裏の溝にいるぼうふら相手に、ややっこしい方程式でも教えていやがれってんだ」
源さんは、そう言うと、佐々木先生をもう一度、睨みつけるのだった。
「なんて、失礼な男だ」
激怒した佐々木先生は、茶の間から廊下に出た。
「逃げる気か!」
源さんが言う。
「帰るだけですよ」
「そうか、帰るのか。二度とうちの敷居をまたぐなよ」
「言われなくても、もう二度と来ませんよ!」
佐々木先生は、ドタバタと足音をたてて、水戸家から出て行った。
「とうさん!」
さくらさんの中のマグマが大噴火した。
源さんの、人を人と思わない態度に腹をたてているのである。
「いくらなんでも、あんまりでしょう。人をなんだと思っているんですか」
「いいんだよ。あんな奴」
「あんな奴じゃあないでしょう。あの人はねえ、愛の担任の先生なのよ」
「担任だかなんだか、知らねえが……。俺は大嫌いだよ。うっ~虫ずが走る。さくら、おめえ、角の薬屋に行って虫除けの薬でも買ってこいや。あんな奴、殺虫剤でもかけて燻り殺してやる」
源さんは、パタパタと手を振って、想像上の煙を外に追い払った。
「いい加減にしてよ!」
さくらさんの、マグマが恐ろしいほどの迫力で再噴火する。
まるで、鬼押し出しで有名な浅間山の大噴火のように、はたまた、地獄河原と呼ばれる溶岩河原が、山すそにある、桜島の大爆発のように大噴火したのである。
「おおっ」
源さん、思わず声を出してたじろいだ。
「担任の先生を、あんなに怒らしちゃあダメでしょう。あんなに怒らしちゃあ愛の立場がわるくなるでしょうに……。とうさん、そこんとこ考えてものを言っているの!」
さくらさんが、激しく、源さんに詰め寄った。
「愛の……。愛の立場が悪くなる前に、担任を代えてもらうさ」
源さんが、かぼそい声で答える。
「物事がそんなに簡単にゆくと思う?」
さくらさんが、問う。
「物事がそんなに簡単にゆくはずないでしょう」
「そんなこと、言ったって……」
「いい、聞いて。あの人が、いい加減なところがある人間だなっていうことは、それくらい、私にもわかるのよ。でもね、物事には順序というものがあるのよ。順序っていうものが……。順序をふんで、一つ一つ物事を進めなければ何も解決しないの。あなたのように、ただ、悪態ついて人を非難しているだけでは、問題はこじれるだけなの。……とうさん! 聴いているの」
「ああっ……」
源さん、かろうじて返事をした。
さくらさんから、あふれ出たマグマは、源さんの首にまでたどりついている。
真っ赤な溶岩流の熱気にあおられて、源さん、窒息寸前なのであった。
「ただいま~」
愛ちゃんが、水戸家に帰って来た。
なんとも間が悪いご帰宅である。
「かあさん、ご隠居さん、来たんでしょ?」
愛ちゃんは、源さんが休みの日、必ず、山崎のご隠居さんが水戸家に訪れることを知っている。水戸家にやってきて、お土産に、おいしい物を置いてゆくことを、ちゃーんと知っているのである。
愛ちゃんは、ニコニコ微笑んで茶の間に入った。
「今日は、何、持って来たの? もしかしたらケーキ……」
愛ちゃん、そこまで言って、場にただならぬ雰囲気が漂っていることに気がついた。
「かあさん……。どうしたの?」
愛ちゃんは、怒りの頂点に達しているさくらさんを見て、わなないた。
「愛……。ちょっといい。話があるの」
さくらさんが言った。
「話って、なあに……。私、これから用事があるから……」
「大事な用事でなければ、後にしなさい」
「でも……」
愛ちゃんは、さくらさんから目を逸らした。助けを乞うように源さんの方を見る。
源さんの様子も尋常ではない。いつになく、けわしい顔をしている。助けを乞うなんて、できそうにもない。
愛ちゃんは困ってしまった。困ってしまってもどうにもすることができない。その場に佇んでいると、愛ちゃんの方を向いた源さんと、目があった。
愛ちゃんと目があった源さんが動いた。愛ちゃんの前に来て、いきなり……。
「パーン」
愛ちゃんの、ほっぺを平手で殴ったのである。
(えっ? )
源さんに殴られた愛ちゃんは、一体何が起きたのか分からなかった。呆然とした顔をして突っ立っている。まさか、いきなり、殴られるとは思わなかったのである。
「とうさん、何をするんですかー」
さくらさんが、源さんと愛ちゃんの間に入った。
「うるさい。俺は寝る!」
源さんは、そう言うと、二階の自分の部屋に戻って行ったのであった。
(なに? なにがあったの)
愛ちゃんの瞳は、傍らにいる、さくらさんに説明を求めていた。
「愛……。あなた、タバコを吸っているの?」
さくらさんが、愛ちゃんに尋ねた。
「はっ?」
「タバコ、吸っているの」
「タバコって?」
「とぼけないで、佐々木先生がねえ……」
「佐々木先生? えっ、まさか……」
愛ちゃん、ひらめいた。
二、三日前、愛ちゃんは、クラスの文集を入れる手提げ袋の中から、出て来たタバコについて、担任の佐々木先生に問いただされたことがあった。
今週の文集の係であった愛ちゃんは、たまたま、その時手提げ袋を持っていただけで、手提げ袋の中に、そんな物がはいっていただなんて思いも及ばなかったのである。
愛ちゃんは、タバコこのことなんて知らない、なんで、こんな所に入っていたのか分からないと、否定し、佐々木先生は了解したはずなのだが……。
「とうさん、私がタバコを吸ったと思っているの」
愛ちゃんは、なんで、源さんが自分を殴りつけたか、わかったような気がした。
「いいえ、とうさんは愛がタバコを吸っていただとは思ってはいないわ。思っていないから、佐々木先生と大喧嘩をして……」
「じゃあ、なんで殴るのよ」
「そ、それは……。とうさん、取り乱して」
「ごまかさないで。私がタバコを吸っていると思っているからでしょう!」
愛ちゃんは思い切り叫んだ。
(タバコなんて、吸ったことないのに……。タバコなんて吸ったことないのに……)
愛ちゃんの胸は、悔しさでいっぱいになる。
「自分たちの娘のこと、信じられないのー」
愛ちゃんは、いきなり茶の間のドアを閉めて、二階の自分の部屋に行った。
一人茶の間に残されたさくらさんは、呆然と佇んだ。
どうしたらいいのか分からないでいる。
そんな、さくらさんを嘲笑うかのように、佐々木先生の汚れたブランド物の服が、廊下の片隅にきちんと置かれていた。
15、
あの日から早いもので、六日経った。
本日は夕涼み会&もってけ市である。
ついでに言うと、愛ちゃんの機嫌は直らず、さくらさんと源さんは喧嘩をしたままである。
「およっと、吉井さんが何か喋るでのう~」
山崎のご隠居さんが、本部テント前の台に乗った町内会長に拍手を送った。
「えっ~ 本日は……」
あいかわらず、吉井さんの話はおもしろくない。
吉井さんが、どうでもいいことをグダグダと話し、副会長さんが開会の挨拶を告げると、会場にいたお客さんが、夕涼み会&もってけ市の各店舗に散らばって行った。
会場となった昭和園グランドには、町内会が各家庭を歩き回り、いらなくなったものを売るために設置した店舗がおよそ二十ほどあり、その周りを、的屋さんたちが取り囲んでいた。
町内会が設置した店舗は、古本屋や古着や中古の服を売る店舗、台所用品売り場や雑貨や、型が旧くなっただけの電化製品を売る電化用品売り場などの店が並び、その周りを陣取った的屋さんたちは、金魚釣り屋さんや、タコ焼き屋さん、お好み焼き屋さんや射的屋さんたちである。
ポチは、グランド内にたくさん集まった人を見て、目を白黒させていた。
見たことのない人波の凄さに驚いているのである。
《そんなに驚かなくてもいいのよ》
ラッキーが言った。
《だって、凄いよ。こんなにいっぱい人がいて、それぞれ顔が違うもの》
ポチが尾を振っている。
《顔が一人一人違うのは、当たり前のことじゃあないの。みんな同じ顔だったらそれこそおかしいわよ》
《でも、こんなに大勢の人がいるんだから、同じ顔の人が一人や二人、いたっていいと思うよ》
《本当に、そう思うの?》
《うん》
《そうね、このくらい人が多ければ、中に双子がいても、おかしくはないわね》
《双子? 双子ってなあに~い》
《双子って、双生児のことよ。同じ母親の胎内で一緒に育つから、性別も一緒、血液型も一緒、顔を似ているのよ》
《ソウセイジ?》
《そう、双生児よ》
《ソウセイジか……》
ポチはよだれを垂らした。
《ポチ! なに、よだれを流しているの?》
《いやぁ~ そのう、早くそのおいしそうなソウセイジがやってこないかなと思って》
《えぇ?》
ラッキーは、眉を寄せた。
まだまだ小さいポチに、おそらく見たことのな双子のことを、専門用語を使って理解させるには無理があるのだ。
《ソウセイジねえ……》
ラッキーは、これ以上、ポチに説明することを止めることにした。
ポチとラッキーは、台所用品売り場にいた。台所用品売り場は水戸家の担当だ。
売り場には、ポチとラッキーの他に、源さんとさくらさんと大くん、応援に来ている山崎さんちのご隠居さんがいた。
「ちょっと聞くけど……佐々木先生のこと、なんでそんなに嫌っているのよ」
と、さくらさんが言った。冷戦の最中でも話ぐらいはする。
「あいつはなぁ~」
源さんが、顔をしかめながら言う。
調度一週間前、源さんが、上中妻町二丁目にある喫茶店『水車』に行ったら、佐々木先生が喫茶店の店主に愚痴を漏らしていた。それでも源さんは、挨拶だけでもしようかなと思ったが、佐々木先生の話す愚痴が、あまりにも人を馬鹿にしたものだったので、頭にきてしまった。
「なにを言っていたのよ、佐々木先生は……」
さくらさんが、源さんに問う。
「消防団に入団したのは、地元の住民の人気をとるためだと言いやがった」
「人気をとるため⁉ 地域の安全を守るためじゃあなくて?」
「この僕が、どんな凄い男か思い知らせてやるよ。学校の先生をしてばかりじゃあ、それが分からないだろう。こんな田舎の人間たちに……と、奴はいいやがったんだ」
「こんな田舎の人間にって……それ、どういうこと?」
「あいつは見下しているんだよ。俺たちのことを」
馬鹿にされて黙っているような源さんではない。
佐々木先生と喫茶店のマスターの所に行き、喧嘩をふっかけた。
「それで、どうなったの?」
「どうなったも、こうなったかもあるかい」
源さんに、喧嘩を挑まれた佐々木先生は、とるものもとらず一目散に逃げだしたのだ。
「逃げたの。案外だらしない男なのね」
「ああっ、あいつは格好ばかりつけている、とうへんぼくなのさ」
源さんは、腕を組んで「ウン、ウン」と頷いた。
「じゃあ、俺、裏をちょっと片づけてくるからよ」
さくらさんと冷戦中の源さんは、面白くなさそうに裏の方に行ってしまった。
《お客さんが、来た~》
ポチが言った。
《台所用品売り場、第一番号のお客さまね~》
ラッキーが店の入り口を見る。
《おおおう》
ポチは、思わず目ん玉を大きくさせた。
源さん、さくらさん、山崎のご隠居さんが、切り盛りする台所用品売り場にやってきたのは、な、なな、なんと寅男さんと涼子先生だったのである。
なんとも意外な組み合わせである。
さえない中年男の寅男さんと、美人で才媛の誉れ高い涼子先生が、一緒に並んで楽しそうに微笑んでいるのである。
《およ、およおよおよおよおよよ》
ポチは、首を斜め二十五度ほど傾げた。
首を四五度ほど、傾けて、微笑むと、また何か起きるのだが、角度は二五度で、微笑みもしないので、とりあえず何も起こらない。何も起こらないが、場に妙な空気が漂っていた。
(この空気は、何だ)
一体何なんだようーと、ポチが怪訝な顔で、二人を見ると、寅男さんと涼子先生の周りに桃色のハートマークが、四つも五つ飛び交っていたのであった。
《えっー!》
ポチは、お眼目をパチクリさせた。
桃色のハートマークが宙を飛び交っているって……そんな馬鹿なことがあるわけない。
マンガじゃあるまいし……。
ポチは、不思議に思い、目を凝らして、寅男さんと涼子さんを再び見る。
飛んでない。桃色のハートマークなど飛んではいない。どうやら、目の錯覚らしい。
そりゃあーそうだろう。桃色のハートマークが宙を飛んでいたら、豚が空を飛び、魚が陸を走り、クジラがラップダンスを踊るだろう。
クジラがラップダンスを踊り、魚が陸を走る?
そんなことはありえないのである。
しかし、しかしである。桃色のハートマークが宙を飛び交っていなくても、この場の雰囲気は尋常ではない。
なんだか、ほんわりと温かい空気が流れている。
寅男さんが、流し眼を送ると、涼子先生も流し眼で返し、寅男さんが、はにかんでうつむくと、涼子い先生は恥ずかしそうに、コクリとうなずく。
いい大人が、初めて恋をした少年と少女のように、じゃれあっているのである。
なんとも、まあ、春の田園の中にいるキタキツネのようなというか、夏の海辺の太陽の輝きの中にいる子供たちのようなだというか、とにかく、不思議な空間がそこにあったのだった。
《二人は恋をしているのね》
ラッキーが言った。
《恋?》
ポチが、またまた怪訝な顔をする。
《恋、恋ってなんなの》
ポチには恋などというものが分からない。
《恋っていうものはねえ……。そうね……》
ラッキーは、ちらりとポチの方を見て、
《まだ、あなたには早すぎるわ》
と、言って、意味深に笑った。
ポチは恋というものなど分からないが、なんだか、とっても不思議なものだというものなんだということだけはわかる。
普段、身なりにかまわない寅男さんが、身ぎれいにオシャレをしているし、寅男さんに寄り添っている涼子先生も、なんだか普段と違う。いつもきれいなのだが、いつもより数倍輝いているように見える。
ポチはなんだか嬉しくなった。
「と、寅男さん。そ、そちらの女性は?」
さくらさんも驚いている。寅男さんが女の人を連れて歩いている姿など見たことがないのである。
「いま……。そのう~ つきあっている人なんだ」
寅男さん、照れて、恋人なんだとはいえない。視線を下に落し、顔が真っ赤になっている。
「木村涼子っていいます。いま、寅男さんとおつきあいさせてもらっています。よろしく、お願いします」
照れている寅男さんに代わって、涼子先生が、さくらさんにきちんと挨拶をした。
「そ、そうですか。 こちらこそ、よろしくお願いします」
さくらさんの驚きは二の三乗くらいに大きくなっている。寅男さんが、こんな若くてきれいな女の人を射止めたとは信じられないでいるのである。
「あららら、涼子先生……。その隣にいるのは寅男ではないかー こりゃあ~ ぶっとんだ組み合わせじゃのう~」
山崎のご隠居が笑った。
「涼子先生って……。ご隠居さん、この女の人、知っているの?」
さくらさんが問う。
「知っているよ。二中の保健の先生だろう。臨時だけれど……。この間、そこで逢ってのう~ それから親しくさせてもらっているからのう~ かっかっかかっ」
ご隠居さんは、ついこの間、逢ったばかりなのに、さも親しくさせてもらっているような高笑いをし、
「おーい、源さん!」
と、裏で商品の整理をしている源さんを呼んだ。
「源さん、ちょっとこいや」
呼んでも返事がない。
「源さん、源の字、源さんよーう」
呼んでも無視しているので、ご隠居さんが続けざまに呼ぶと、源さんが、店の裏からしぶしぶ表に出て来た。
「なんだよ~。うるさうなぁ。源さん、源さん、源さんって、源さんの安売りをしているわけじゃあねえんだぜえぃ」
「いいから、来てみろや。寅男の奴がのう~」
「寅男? 来ているのか」
源さんは、店の中から表に出る。
「おわわっーと」
源さん、すっとんきょうな声をあげた。
源さんも寅男さんが、見目麗しい婦人を連れて歩いているなんて思わなかったのである。
「兄貴、こちら、木村涼子さん」
寅男さんが、源さんに女の人を紹介した。
「木村の涼子さん……」
源さん、涼子先生の美しさに目を奪われている。身体が硬直し、固まっている。一言も言葉がでない。
もし、ここで涼子先生が水着姿にでもなったなら、源さん、ぶっ飛んでいただだろう。
「兄貴」
寅男さん、源さんに呼びかけた。
源さん、応えない。
「兄貴。なに、黙っているんだよう。涼子先生が挨拶をしているんだぜ。兄貴も挨拶ぐらいしろよ」
寅男さんにこずかれて、源さん、ハッと、気がついた。
「木村涼子さんですか……。わしは、その~う、寅男の兄貴で水戸源吾といいます。よ、よろしく……。寅男、ちょっと」
源さん、挨拶半ばで、寅男さんの腕をとった。店の中に連れてゆく。
「いつからだ……」
源さんが聞く。
「えっ?」
「いつから、つきあっているのかと聞いているんだ」
「いやあぁ~ 涼子さんとは、ただの友達で……」
「ごまかすな。つきあっているんだろう」
「つきあっているだなんて……」
寅男さん、さっきは、さくらさんに今つきあっている女性なんだと、紹介したくせに、源さんには、つきあっている女性なんだとは言えない。顔を真っ赤にしてモジモジしている。
「はっきりしやがれ。つきあっているんだろう」
源さん、ウジウジしている寅男さんに業を煮やし、ギロリと睨んだ。
「一か月前あたりかなあ。つきあいだしたのは。えっへへへ」
寅男さんが言う。
「えっへへへじゃあない。この、このこの、このこのこのこの、この幸せ者め!」
源さんは、左手で寅男さんの首を抱き、右手で寅男さんの頭をボカボカ殴った。
「えっへへへっ。痛いじゃないか。兄貴~ 止めてくれよなあ」
「痛いのは、生きている証拠だ。この幸せ者め」
「やめてよ。痛いから。兄貴~」
寅男さんは、源さんに頭を殴られても幸せそうだった。
「痛いか。じゃあ、やめてやるー」
源さんは、寅男さんを解放した。
「寅男、しっかりやれよ」
源さんは、寅男さんの両手を握り、
「頑張れよー」
と、大きな声で寅男さんを励ましたのであった。
16、
「ところでよ、火事の件はどうなった? 放火犯人は捕まったのか」
源さんが、寅男さんに聞いた。
「それが……。捕まらないんですよ」
「警察のダンナ、なんと言っている。なぜ、捕まらないんだ」
「決定的な証拠があれば、必ず、あげてやるといっているんですがねえ……」
寅男さんは視線を下に落した。
五月の初旬から連続して発生している一連の放火事件は、いまだに継続中である。
警察関係者、消防団の団員、市井の有志が事件解決に向けて頑張ってくれているのだが、放火犯人はまだ捕まらない。それらしい人物が捜査線上に浮かぶたびに、容疑者と思われる人物をマークし、周辺を嗅ぎまわるが、決め手となる証拠がないために、犯人と思われた人物が、泡のように消えていってしまっているのである。
「毎日、見回りをしているんだろう」
源さんが言った。
「犯人が捕まるまで毎日ですよ」
寅男さんが応える。
釜石市消防団第二分団第一部の消防団員である寅男さんは、五月から起こっている放火事件以来、夜になれば、他の団員とともに毎日のように町内を消防自動車で見回っていた。
実に御苦労さまである。
「きっかけは、なんなんだ?」
源さんが聞く。
「はっ?」
「はっじゃあないだろう。涼子先生と知り合ったきっかけはなんなんだと聞いているんだよ」
放火犯の話から、いきなり涼子先生の話になっている。虚を突かれた寅男さんが戸惑うのも無理はない。
寅男さん、目を細めて……。
「それは……。ちょっと……。つまり……」
「なんだよ。照れているのか」
「はぁ~」
「はぁ~ じゃあないだろう。まったく~」
「えっへへへへへっ」
寅男さんはボリボリ頭を掻いた。
「寅男っーと、なにしている。こんな美人さんをほっといてのう~」
ご隠居さんが、店の中にやってきた。
「かっかっかかかっかっ。そんなことでは、ダメじゃのう~ ふられてしまうぞ。ふられてもいいのかいな~」
ご隠居さんが、杖を片手に笑った。
寅男さん、やっとでできた彼女に逃げられては、かなわないと思ったのか、
「じゃあ兄貴。そういうことで」と、言って、寅男さんは踵を返したのだった。
寅男さんが戻って行くと、そこに涼子先生が待っていた。これから二人だけでデートを楽しむのだろう。
源さんは、軽く会釈をして、腕を組んだ。
(あの野郎~ あんな美人さんをものにしやがって……)
源さん、弟である寅男さんに、やっとのことで彼女ができて嬉しいはずなのだが、その反面、なぜか悔しいのである。
(寅男のどこがいいんだろうな……)
源さんは、ひょっとこのように口を尖らせて思い悩んだ。
(顔は……。まあ、普通だよな。頭は……、良いとはいえないけれども馬鹿というわけではない。体力は俺より劣るけれども、ある方だし……。しかし、女にもてる男ではないはずなのだがなあ)
源さんは、うん、うんうんと頭を抱えて悩んだのであった。
17、
さて、愛ちゃんとさっちゃん。
二人は夕涼み会&もってけ市が開かれている昭和園にはいなかった。会場の端にある昭和園管理事務所の裏口の前でなにやら話し込んでいた。
「えっー、なんで、愛がタバコを吸ったことになっているの?」
さっちゃんが言った。
「わかんない……。かあさんが佐々木先生から聞いたといっているけれども……。私、吸った憶えないし……」
「愛がタバコを、吸うわけないのにねえ……」
さっちゃんは、腕を組んで考えた。
「それで、愛のとうさんはなんて言っているの?」
「とうさん……。あんな人のことなんか知らないわよ!」
愛ちゃんは、プイっと横を向いた。
「あんな人って! 愛ちゃん、何かあったの?」
「何も……。何もないわよ」
愛ちゃんの瞳から一筋の涙がこぼれた。いまだに殴られたなんて信じられない。
(私の頬を殴ったのは、本当にあの優しいとうさんなの?)
愛ちゃんは頬に手をやった。頬を突き刺すような痛みはもはやないが、源さんに殴られた感触が、ずっーとそこに残っている。
「佐々木先生に直談判しようか」
さっちゃんが言った。
「先生に……」
「直談判しようよ。だって、おかしいじゃあない。タバコは文集の手提げ袋の中に入っていただけでしょう。愛ちゃんがタバコを吸ったわけじゃあないのに……。一体、誰が手提げ袋の中にタバコなんて入れたんでしょうね」
さっちゃんは、首をひねった。
源さんに殴られた次の日。愛ちゃんは、職員室に赴き、佐々木先生に昨日のことを尋ねてみた。が、佐々木先生は「そのことについては、後でちゃんと説明するから」と言って、適当にごまかし、愛ちゃんから逃げたのだった。
愛ちゃんは、何がなんだかわからなくなってしまった。
佐々木先生は、いけ好かない所があるが、熱心に授業に打ち込み、生徒を心から思う先生だと思っていた。その先生が掌を返したように、いい加減な態度を取っている。
(なぜ)
愛ちゃんの心の傷は少しづつ拡がっていった。
「あらっ、あんたら奇遇ねえ~ こんな所で会うなんて」
ゴ、ゴ、ゴリラの陽子とヒステリーの美智子、そしてスケ番のお由美が管理事務所の裏口前までやってきた。
「おまえ、この二人を知っているのか?」
由美が美智子に言った。
「知っているわよ。この間、お世話になったもの」
美智子が言うと、
「おうよ。この前は本当に世話になったぜ」
と、陽子が睨みをきかせた。
「今日は、犬コロがいないようだな」
美智子が辺りを見渡した。
「犬コロって……。ポチのこと」
愛ちゃんが応える。
「ほ~う、あの犬、ポチっていうのか」
陽子が指をポキポキ鳴らした。
嫌悪な雰囲気である。ゴ、ゴ、ゴリラの陽子とヒステリーの美智子は、愛ちゃんとさっちゃんに敵意を抱いている。
「おまえら、何をする気だ」
と、由美が言う。
「お由美さんには、関係ないこと。あたしたち、この二人にちょいとばかり借りがあってよう」
美智子が鞄から下敷きを出した。下敷きで爪を砥ぐ気なのだ。
「かわいがってやるからよう~ 覚悟しな」
陽子が右手の中指を突き立てる。
美智子と陽子は、なぜ、あの時、優しい気持ちになってしまったのか不思議でしょうがなかった。いまのいままでポチとラッキーの犬コロ二匹と、恐怖に怯える女二匹を叩きのめそうとしていたのに、犬に笑われたでけで、なんで、優しい気持ちなんかになってしまったんだろう。
(優しい気持ちなんか。優しい気持ちなんか……。必要ないのに……)
二人は、あれから、猛烈な自己嫌悪に陥っていたのであった。
「やるつもりか……」
由美が言った。
「ああっ……」
陽子が応える。
「おまえら……」
由美が陽子と美智子を見て、
「やるんなら、後でやんな」
と、言った。
「えっ?」
「今ここでやるっていうのは、まずいいんじゃあないの」
辺りを見ると、何事が起ったのかと、人がこちらを見ている。昭和園の端にある管理事務所の裏口周辺には、人はそれほど多くは来ていないが、騒ぎを大きくするとたちまち人が集まるだろう。
「なあに~ そこのトイレの中に連れて行って締めあげれば、それで終わりよ」
陽子が言う。
「そうよ。その可愛い浴衣、くしゃくしゃあにしてやるんだからー」
美智子が下敷きの上で爪を滑らせた。
愛ちゃんと、さっちゃんは艶やかな浴衣を着ていた。
愛ちゃんの浴衣には白地に、赤と桜色のユリの花が淡い色彩で描かれ、さっちゃんの浴衣には紺色の下地に緑と水色の薔薇の花がきらびやかに咲き誇っていた。帯は愛ちゃんが薄い黄色。さっちゃんが紅色である。
愛ちゃんとさっちゃんの浴衣は、きっと、この日のためにわざわざ用意されたものに違いなかった。
「スケ番のお由美さんとあろうものが、中坊の女の子苛めかよう~」
中村が現れた。中村の傍らにイサムと横田もいる。
「あんたは……」
由美は振り向いた。美智子と陽子が由美と一緒に中村たちに顔を向ける。
「陽子……。この人、あの中村 元だよ」
美智子が陽子の腕をとった。美智子は中村の顔を知っていたらしい。顔を見て怯えている。
「なに、あの中村か!」
陽子の目が大きく見開いた。
市内の不良と呼ばれる連中の中で、中村の名とその蛮行を知らないものはいない。陽子は思わず後ずさった。
「この間はどうもな。スケ番のお由美さん」
中村が口を歪めて言った。
「ひっー。ひひひ、ひゃっははははは」
由美が突然。笑い出した。
「なにが、おかしい?」
中村が言った。
由美は笑い続けている。腹の皮がよじれるくらい笑い続けている。
「由美さん……。どうしたの」
陽子が心配そうに笑い続けている由美の傍により、由美の背中に手をやった。
「だって……。この人……」
由美は人差し指を中村に向けた。
「だって、この人、お遊戯を踊るのよ。お遊戯を踊ってスキップして……。思いだしただけで……。思いだしただけで……。きゃははっはははっは」
由美の笑いは止まらない。身体をのけぞらして笑っている。
「あ、あ、あ、あ、頭にきたー」
中村は憤怒の顔になった。
「この俺を笑ったなー この俺様を笑ったな。この俺様を」
「だって、おかしかったもの」
「なにが、おかしいんだ!」
「おかしいわよ。高校生のあんちゃんが、腰に手をやり、ランランランとお遊戯を踊ったんですもの」
「お遊戯なんて踊らない! この俺がお遊戯なんか踊るわけないだろう」
「踊ったわよ。こうやってランランランランと」
由美が腰に手をやり、踊ってみせた。
踊ってみると、結構さまになっている。
由美は、バレエのプリマドンナが最高のステージで、極上の踊りを見せた時にだけ見せるような笑顔を作って舞って魅せたのである。
けど、やはり、おかしい……。
幼稚園児ならともかく、やはりお遊戯というものは、中学生が踊る踊りではない。
由美の踊りを、黙って見ていた陽子と美智子が笑い出した。
「きゃっはははははっ……。この中村が、そんなことをしたんですかい」
陽子が笑いながら言った。
「この人だけではないわ。そっちの二人もこうやって……」
由美は両手でガッツポーズを作って見せた。ガッツポーズのまま踊る。
「俺たちが、そんなふざけたポーズで踊るかよー」
イサムが言った。
「踊ったわよ~」
由美は「クックックックッ」と含み笑いを漏らした。
「踊らない。踊るわけがない」
中村が即座に否定した。
「踊ったわよ。黄色い声をあげてね」
「どたまにきた~ イサム、横田、こいつら、叩きのめしてやれっー」
中村が言った。
「中村さん、いいんですかい。こんな所で」
横田が言う。
「そこのトイレの中に連れ込んで、いてこませ」
「なるほど、そこだと人の目も届かないですからね。イサム、やるぞ」
横田はイサムに目配せを送った。
チリチリパーマのおデブさんと、リーゼント頭でやせすぎの少年が、由美たちに迫る。
「さあ、どう料理してやろうかー」
中村は口元から、良く発達した八重歯を覗かせた。
一方、ポチはというと……。ポチは台所用品売り場の横で昼寝をしていた。
さっきまで、ここに来るお客さんを、ジィーと観察していたのだが、あまりにも多様な人間が来るのでちょっと疲れたのである。
実際、この台所用品売り場には様々な、それも、ひとくせもふたくせもあるような人たちばかりやってきた。
愛犬ウルフを抱えてやって来た正子さんは、店に並べてある商品に、ケチを、つけるだけつけて、何も買わないで帰ってゆくし、町内会会長の吉井さんは、「今後の町内会の運営について、どう思う? 源さん」と、なにもいま、相談しなくてもいいと思う相談を、源さんに持ちかけて、商売の邪魔をするし、正子さんといれかわりにやってきた上辺婆さんは、店の前に集まっているお客さんに向かって、プードル犬“さゆり”の自慢話を大げさに吹聴して、周りからひんしゅくをかったのであった。
いやはや、本当にいろんな人間がいるものである。
さすがのポチも一度に強烈な個性を持つ人間ばかり観ていると、疲れる。疲れて、少し休みましょうと思ったその時、ポチの第六勘が閃いた。
18、
《どうしたの?》
ラッキーが言った。
《愛ちゃんと、さっちゃんが……》
ポチが答える。
《危ないのね》
《うん》
ポチは、吠えた。ラッキーも吠える。いままでおとなしくしていた犬たちが、雷鳴のごとく吠えた。
「とうさん、ポチたちの様子が変だよ」
大くんが言った
「なんだ! なにごとだ」
源さんが、大くんの所へ駆け寄った。
「なにが起きたかわからないけれども、ただごとじゃあないよ」
ポチとラッキーは、吠え続け、リードを思い切り引っ張っている。リードと繋がっている台所用品売り場が「ガタガタ」と、大きな音を発ててゆらゆらしている。台所用品売り場は簡易なテントで作られているから、もしかしたら、犬二匹の力でも壊れるかもしれない。
「ポチが誰かの危機を感じているんだ」
大くんが言った。
「このアホ犬が?」
源さんが首を傾げて、ポチを見た。
「なに言ってやがる。ポチにそんな力、あるわけねえだろう。ポチにそんな力があってたまるかってもんだ」
「あるよ! だって、姉ちゃん、言ってたよ。不良に絡まれた時、ポチがやって来たって」
「愛が……。愛がそう言っていたのか。愛がか……」
愛ちゃんが、そう言っていたのなら信じてみたい気もするが、源さん、どうしても、ポチにそんな能力があるとは思えないようである。しきりに首を傾げている。
まだ、仔犬であるポチが人の危機なんて、感じるわけがないと、頭っから思っているのだろう。
「とうさん、ポチを放してみようよ。もしかしたら姉ちゃんが危ない目に遭っているかもしれないよ」
大くんが源さんを急かした。
「しかし……」
「カッカッカッカッカッ、心配なら、ラッキーも一緒に放てばいいんじゃよ」
山崎のご隠居さんは笑うと、柱にくくりつけてあるラッキーのリードを外した。ご隠居さん、手に持ったリードを源さんに預ける。
源さんは、柱に結ばれていたポチのリードを外し、大くんに預けた。大くんは、ポチのリードを手にとり、ポチの頭を撫でて、
「ポチ、行くよ!」
と、ポチと一緒に走り出した。
「とうさん、姉ちゃんの危機かもしれないんだよ」
「愛がか……」
愛ちゃんが、ピンチに陥っているかも知れないと聞いては、黙ってはいられない。
「俺たちも行くかー ラッキー、頼むぞ」
源さんと、ラッキーも走り出した。源さん、数メートルほど走って、ちょいと止まり、振りかえり、
「さくら、店、頼んだぞ」
と言って、さくらさんにウインクをして見せたのだった。
「ええっー ちょっと父さん。店はどうするのよ」
さくらさんが、フライパン片手に言った。
19、
《愛ちゃんと、さっちゃんもピンチだけれども、スケ番さんたちも危ない!》
ポチが走りながら言う。
《スケ番が、愛ちゃんとさっちゃんを襲っているわけではないの?》
と、ラッキーが言う。
《違うんだ。中村っていう奴がみんなを、やってけようとしているんだ》
《中村って、街一番の悪って言われる、あの、中村?》
《えっ? 中村を知っているの》
《知っているわよ。あいつのせいで、とんでもない目に遭ったんだから……》
さすがは、街一番の悪である。犬にも、その名を知られている。
走るポチとラッキーの目に、大きなプラタナスの木の隣にある昭和園管理事務所が見えた。
《あそこね。……大変! 凶悪リーゼント野郎、イサムと、チリチリパーマのおデブ、横田も一緒だわ》
見ると、イサムがキィーキィーキィーの美智子を、横田が、ゴ、ゴ、ゴリラの陽子に手をあげようとしていたのであった。
時刻は午後三時半。昭和園の西側、大きなプラタナスの木の隣の管理事務所の側で暴行事件が起きようとしている。
釜石工業高校三年の悪、中村が、率いるイサムと横田が、スケ番のお由美、キィーキィーキィーの美智子、ゴ、ゴ、ゴリラの陽子を叩きのめそうとしていたのだ。
「おい、そこの二人!」
中村は、キィーキィーキィーの美智子の後ろで震えている、愛ちゃんとさっちゃんに声をかけた。
「余計なことをしたら、ただじゃあおかないからな」
中村に、そんなことを言われてしまったなら、ただ、黙って震えているしかない。愛ちゃんとさっちゃんは、ブルブルブルと身体を振動させた。
「待てっー!」
真っ赤なTシャツを着た、奴が現れた。
奴の名は、一文字 武。こういうときに限って現れるニクイ奴なのである。
右胸に黒い文字でNice GaYと書かれたロゴが付いた真っ赤なTシャツを格好良く着こなし、ストレートの白いジーパンをピシッと穿いて、今日も決まっている。
武は敢然と中村たちの前に立った。
「また、おまえか……。おまえなど」
中村が、良く発達した八重歯を口元から覗かせ、「ふっふっふっ」と笑った。
中村は武など、全然相手にしていない。武など赤子同然だと思っているのだ。
その、中村に赤子同然だと思われている武に、のされた高校生もいるにはいるのだが……。
「中村さん。こいつ、喧嘩、強いですでぇ~」
イサムが言った。のされた高校生とはイサムである。
「おまえが、こいつと“やる”んだろう」
「へっ?」
「へっじゃあないよ。おまえがこいつの相手をするんだよ。中坊相手に叩きのめされて、悔しくなかったのか」
「そりゃ~あ、悔しいけれども……」
イサムは頬を、右手の指先で掻いた。ゲーム・センター『イップク』で、武にコテンパにやられているイサムには、また、武とやりあって勝てる自信など、これっぽっちもない。
横田がイサムの前に出る。
「どいてろ! 俺が、おまえの代わりにこいつの相手をしてやるから」
横田は指をポキポキ、折った。
「俺は、こいつのような、いかにも正義の味方っていう奴が、でぃきらいなんだよ。……中村さん、いいでしょう」
「いいだろう。おまえが、イサムのカタキをとってやれ」
「あいな」
横田は、一文字にかかっていった。
「ワン、ワンワンワンワワン」
ラッキーが現れた。ラッキーは仔犬のポチよりも足が速い。先に駆け出したポチを追い抜いてやってきたのだ。
ラッキーと、一緒に駆け出したはずの源さんの姿は見えない。どこに行ったのだろうか。
現れたラッキーは横田のズボンの左の裾に喰らいついた。暴れて、横田の自由を奪っている。
「ラッキー」
さっちゃんが、愛犬の登場に思わず声をあげた。
「頑張ってー ラッキー、そいつなんかやっつけて」
さっちゃんの応援が、ラッキーに奮起をうながす。ラッキーは、横田のズボンの裾を引きずりまわした。回る回る、横田が回る。が、横田も、ただ、振り回されている奴ではなかった。一瞬の隙をついて、横田の右足が、ラッキーの腹を思い切り蹴っていた。
ラッキーは啼き声あげて無様に転んでしまう。
「なんていう酷いことをするのよー」
さっちゃんが、ラッキーのもとへ駆け寄った。愛ちゃんも一緒に駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫なのラッキー?」
さっちゃんは、横田に蹴られたラッキーの腹を撫でた。
「ラッキー、苦しそう……」
愛ちゃんが言った。
「こんなことをして……。こんなことをして……。もし、ラッキーが死んでしまったら……。ラッキーが死んでしまったら……。ラッキーが死んでしまったら」
さっちゃんの顔が涙に濡れた。
さっちゃん、泣いている場合ではないぞ! 君には、君にしかできない大技があるだろう。
大笑いをするという大技が……。
「犬を蹴って、おもしろいのかよ。あたいが相手なってやる」
陽子が横田の前に出る。睨みあう横田と陽子。互いに譲らない。陽子と横田は、一目見て、相手の力量を推し量り、実力伯仲とみているのだ。
横田が、一歩前に出ると、陽子が一歩後ろに下がった。陽子が横に移動すると、横田がそれに合わせて横にずれた。
横田と陽子。その戦いのゴングはなかなか鳴らなかった。
一方、スケ番のお由美は、中村と対峙していた。
「スケ番だろうが、スケ番じゃあなかろうが、容赦はしねえぜ。俺が直々に相手をしてやるよ」
中村が一歩前に出た。その中村の前に武が出る。
「あん! おまえの相手は横田だろう」
中村が言った。
「あのデブは、陽子とやりあっている。おまえの相手は、この俺だ」
武が毅然として言った。
女性を悪の権化のような奴と戦わせるわけには、いかないのだ。
「ふん、いいだろう。相手にしてやるー」
中村は、突き出した右手の中指を下に向けて言った。
その時……。
「ワンワン、ワンワン、ワン」
ポチの鳴き声が聞こえた。
「えっ! ポチ? ポチなの」
愛ちゃんが、犬の鳴き声のした方に目をやった。目をやると、そこにはポチと大くんがいた。
ポチは元気いっぱいだが、大くんは息を切らしている。
「あっーぁ、疲れた~」
大くんは、その場にへナへナと座り込んだ。大くんが座り込むと、大くんがしっかりと握っていたポチのリードが緩んだ。ポチは、その機を逃さず大くんの元から離れる。自由になったポチは、中村と武が睨みあいを続けている戦いの場に躍り出た。
「おめえは……」
ポチに気づいた中村が、その場から半歩下がった。
「陽子、あの犬よ」
美智子と陽子も後ずさりをする。
ポチの出現に、中村は警戒し、美智子と陽子の頬には脂汗が浮かんでいた。
(こいつが、……この仔犬が俺にお遊戯を踊らせたというわけか!)
中村の額から、スッーと一筋の汗が流れた。
スキップをして小鳩幼稚園に行った直後、中村は、なぜ、自分がスキップをして小鳩幼稚園まで来たのだろうと、不思議に思った。一緒にスキップして小鳩幼稚園まで来たイサムや横田に訊いても、少しも要領が得ることができない。
なんでも、犬を見たら、中村さんがおかしくなったんですよと、イサムが言っていたが、そんなバカな話などあるものか。
中村は、いまだにあの時、自分の身に何が起こったのかわからないである。
一方、美智子と陽子も、あの時、なぜ、優しい気持ちになってしまったのか、不可思議でしょうがない。
同級生の女の子を苛めて楽しんでいた二人にとって、自分の中に突然起こった優しいという気持が、はがゆくてしかたがないのである。
その、ポチがここに悠然と現れた。
ポチが中村に一歩迫ると、中村が一歩後退した。ポチが美智子と陽子の方を振り向くと、美智子と陽子の顔が固くこわばった。ポチが首を振ると、中村の眉間にしわが走った。ポチが尻尾を振ると、美智子と陽子はお互いの手を握り合って逃げた。
ポチの可愛らしい一挙一動に中村、美智子、陽子の三人は、産気猫が「ヒャーヒャーヒャー」と跳び回るように、慄いたのであった。
20、
寅男さんはデートの最中に、涼子先生とはぐれてしまっていた。
夕涼み会&もってけ市が、予想以上の大盛況で、寅男さんが、大勢の人に気を取られている隙に涼子先生が、その場からいなくなっていたのである。
寅男さんは、水戸家がきりもりしている台所用品売り場に戻ることにした。
戻ってみると、源さんがいない。いるのは、さくらさんと山崎のご隠居さんだけだった。
「あれれ、兄貴は……」
寅男さんが訊く。
「ポチとラッキーを連れて、どっかに行ったわよ。まったくこの忙しいのに……あの人ったら~」
さくらさんは、ご機嫌斜めだった。
「日頃おとなしいポチが、あんなに吠えたんだ。大変なことが起きているのに違いないわい」
と、山崎のご隠居さんが言う。
「ポチが吠えたんですか?」
寅男さんが訊く。
「ああ、そうじゃ」
「あの仔犬がねえ……」
寅男さんが探偵をきどって顎に指をかけた。
その時……。
「火事だー 洛名荘(らくなそう)が燃えているぞー」という声が、どこからかあがった。
その場にいた一同が、声の方を振り向くと、昭和園の西口、道路一つ隔てた建物から、火の手があがっていた。
洛名荘というのは、大手企業が接待用に造った豪奢な、別荘風な建造物である。
東京の本社から、偉い人たちが来た時だけ使われ洛名荘は、普段はあまり使われることないため閑散としている。
大きな塀に囲まれた豪勢な洛名荘は、いつもは静かなただずみの中にあるのである。
その、ひっそりとした建物から、いきなり炎が出た。
夕涼み会&もってけ市の会場にいる人は、騒然となった。
慌てて、公衆電話を探す者や、「119番は110番にかけるんだろう」とか、分けの分からないことを言っている人や、「燃え移ったら大変」と、ベランダに干してある洗濯物を取り込む人や、とりあえず火事場見物に行こうという人が続出した。
「おまえら、何やっている。火事だぞ!」
源さんが、腰を押さえながらポチと中村たちが大乱闘をしている所にやっとやってきた。
満を持しての……登場といいたいが、アル中のオットセイがよたよたと歩いて来たような現れ方である。
「とうさん、腰……」
大くんが、源さんの元に駆け寄った。
「腰……。腰、どうしたの?」
大くんが、源さんの腰を触った。
「触るなって! あー痛っー ちきしょうめが」
源さんが、顔をしかめる。ここに来る途中、ラッキーの脚に追い付かず、もんどりうって転んだとは言えない。
息子の前では、頼りがいのあるとうさんでいたいのだ。
「大丈夫?」
大くんは、一度離した手を、また、源さんの腰にあてた。
「触るなってー 」
「あっ、ごめん……」
大くんは、慌てて、源さんの腰から手を離した。
大くん、おっちょこちょいである。一度、腰に触るなって言われたのに、かまわず源さんの腰に触れて怒られている。
「あっー、痛ってなあ。……ところで、もめごとは終わったのかい?」
源さんがしかめっ面で言った。
「もめごと?」
「ああっ、もめごと、もめごと。うちの愛がピンチなんだろう。ポチが愛の危機を察知して……それからどうなった?」
「どうなったって言われても……」
大くん、返事に困った。
困って当然である。
ポチと一緒になって、姉である愛ちゃんを助けにきたはずなのだが、愛ちゃんたちに絡んでいたはずの美智子と陽子は、愛ちゃんやさっちゃんを、そっちのけにして、中村たちとの争いを始めたのである。
で、中村たちと陽子たちのバトルが始まるのか、思いきや、颯爽と一文字 武が出てくるし、武が中村をやっつけてくれるのかと思ったら、ポチがでしゃばり、でしゃばったポチを見て、中村たちはなにやら異様な行動をとり始めたのだった。
小学三年生の大くんには、中村たちに起こった異常が、分かるはずないのである。
「ウッーウッーウウッー」
サイレンの音が聞こえて来た。消防自動車が数台、駆け付けてやって来た。地元消防団、第二分団第一部の消防車も見える。
第二分団第一部の消防自動車の助手席に、さすらいの一匹犬水玉マフラーのサンダーちゃんが、ちょこんと座っていた。
サンダーちゃんは、特製の消防帽子を被り、これまた特製のサンダーちゃん用に作られた消防半纏を着こんでいる。
さすらいの一匹犬水玉マフラーのサンダーちゃん、改め、消防犬水玉マフラーのサンダーちゃんの初仕事だ。
21、
消防犬、水玉マフラーのサンダーちゃんは、さすらいの一匹犬水玉マフラーのサンダーちゃんの頃に比べると、ちょっとだけ、お顔がキリリとしている。
フレンチ・ブルドックであるサンダーちゃんのお顔のどこが、どういうふうにキリリとしたんだいと、聞かれても、返事にちょっと困るが、とにかく、凛々しくなっての登場である。
もっとも、あいかわらず青い耳かきを口に咥えているし、トレードマークの水玉マフラーもよれよれで、見た目は何も変わっていないようにも見える。けれど、なぜか、とっても男らしくなったように見えるのである。
きっと、さすらいの一匹犬ではなく“消防犬”という名誉ある称号のせいで、そう見えるのだろう。
地元消防団第二分団第一部の消防自動車が、消火栓のまん前に停まった。
後部座席から、消防団員が降りる。
お菓子屋のケンちゃん、さっきまで涼子先生とデートを楽しんでいたはずの寅男さんが台所用品売り場から駆け付け、大工のカンちゃん、鮨屋の親父である鉄火巻きのみっちゃんなどの、消防団第二分団第一部の勇士の面々が颯爽と地面に降り立ったのである。
「佐々木先生!」
消防自動車から、降りたケンちゃんは、調度そこにいた佐々木勇夫先生に声をかけた。
「先生も消防団員でしょう。一緒に火を消しましょうよ」
「俺は……その~う、さっきそこで警察に職務質問されて……」
「なに、ごちゃごちゃ言っているんです。早く、これを着て」
お菓子屋のケンちゃんが、消防車に備え付けてあるトランクの中から、消防服を取り出し、佐々木先生に渡した。
佐々木先生がワイシャツの上に消防服を身に付けると、大工のカンちゃんが、手際良く、消火栓のマンホールを開く。鉄火巻きのみっちゃんは消防ホースを担ぎ、洛名荘の方に走っていた。
さすが、県の消防走法大会で上位まであがった実力を持つ男たちの仕事である。
機敏な動きで無駄がない。
さすらいの一匹犬、水玉マフラーのサンダーちゃんから、消防犬水玉マフラーのサンダーちゃんになったサンダーちゃんも、いつのまにやら消防自動車から降りていた。指揮でも執るつもりなのだろうか、青い耳かきをクルクル回して得意になっていた。
「あ~ 嫌だ嫌だ。本当に消火作業を手伝うはめになってしまった」
佐々木先生が、サンダーちゃんの傍でぼやいた。
22、
二時間後、火事は鎮火した。
消防団員さんたちの決死の消化活動のおかげで、火は消えた。
吉井さんが、走って、寅男さんたちが待機している消防自動車前までやってきた。
「おーい、みんなー」
「団長、どうなんです? この火事もやはり放火ですかい」
お菓子屋のケンちゃんが、聞いた。
「そうだな……。詳しい現場検証をやってみてからでないと、なんとも言えんが、警察と消防署は、これも火つけによる出火だと見ている」
「やっぱりな。人気のない洛名荘から火がでるなんて、誰も思わねえよ。しかし、なんだな……これってときにこの騒ぎだ」
大工のカンちゃんがぼやいた。
いよいよ、これから売れ残ったバザー商品を一か所に集めて、豪快にオークションを開始しようとしているときに、この火事騒ぎである。
「会長、これじゃあ花火も中止だよなあ」
源さんが言った。
夕涼み会&もってけ市のラストは、盛大に花火を打ち上げて終える予定だった。が、これじゃあ花火なんて打ち上げることなどできやしないだろう。
会長は、大きな大きなため息を漏らすしかなかった。
《ポチ、犯人を見つけて》
ラッキーが言った。
《えっ?》
《放火犯人を見つけてよ。放火犯は、まだ、この近くにいるはずよ。近くにいて、右往左往している人たちの様子を、笑ってみているはずよ》
《ここにいるの?》
《ええっ、放火犯は愉快犯が多いのよ。だからこの近くにいて、必ず視ているはずよ》
ポチは辺りを見渡した。
辺りには、人が溢れている。年よりもいれば、若いあんちゃんや、ねえちゃんもいる。同じ町内の人もいれば他の町の人もいる。
知っている人もたくさんいるが、知らない人も大勢いるのだ。
この中から一体どうやって犯人を捜せというのだろう。
《お願い! 願って、ポチ!》
《……》
《願ってよ、ポチ! ポチが笑って願うと、ポチの身体からある種のフェロモンが放たれるのよ》
《フェロモン?》
ポチはお眼目を細めた。
フェロモンは昆虫や動物の体内で作り出される一種の誘因物質のことである。体外に放出後同種の他の個体(犬なら犬、猫なら猫)に、決まった行動や発育の変化を促す物質なのである。
《ポチから放たれたフェロモンが、なぜ、人に異常な行動をうながすのかそれは、わからないけれど、とにかく、ポチから放たれたフェロモンが人を動かしているのよ》
ポチから放たれるフェロモンが、なぜ、人に影響を与え、とんでもない行動を起こさせるのか、それは、分からないが、そんなことは今はどうでもいい。
いまは、とにかく犯人を探し出す。探し出して、とっ捕まえる。この場を逃したら、今度はいつになるか分からない。
《ポチ、お願い。願って。この近くにいるはずの犯人に自首するように願って》
《でも……。どうやって?》
《いつものように、笑って。笑って願うのよ》
《笑えばいいの?》
《笑って、ポチ! みんなの所に行って微笑んで》
《でも……》
辺りは騒然としている。仮にポチがみんなの前に出ても、誰も仔犬には振り向かないだろう。
突然起きった火事という出来事に気を奪われているのだ。たとえ、目の前に有名人がいても、気にもしないだろう。
「ひひひひっひひ……」
気味の悪い笑い声が、辺りに響いた。
「さち、どうしたのよ」
愛ちゃんが、さちちゃんの方を振り向いた。
「だって見てよあの顔……おかしったらありやぁしない」
さちちゃんが指を射している先には、煤で真っ黒になった由美と陽子と美智子がいた。由美たち三人は、火事と訊いた途端、制止する大人たちを振り切って、火事場見物に行ったのである。
「まるで、パンダみたい。三人揃って、パンダ三姉妹ってかー パンダ三姉妹、パンダ三姉妹」
さちちゃんは、大笑いの構えをとった。
出るぞ! 出るぞ! 出るぞ! 大笑いすると怖い超音波女の大笑いが。
「あっははっはっはははっはは、ひっひっひひっひっ、おほほほほほっは」
ついに出た、さっちやんの大笑い。120db(デジベル)はいっている。まるでロックコンサートで流れるような、凄まじい音量が辺りに響きわたったのだ。
当然、そこにいた人たちは、なにが起こったんだと驚いて呆然としている。かわいそうに、ひきつけを起こした子供たちもいるし、中には尻もちをついてしまっている人たちもいた。
《いまよ、ポチ! みんなが唖然としているいまなら、みんながポチを注目するわよ》
と、ラッキーが言った。
ポチは、てくてくと歩いて、みんなの前に出た。
《こう?》
ポチは首を四十五度の傾けて微笑んだ。臭腺から、フェロモンが放たれる。
すると……。
「ご、ごめんなさい……私が悪かった。私が悪かったのよう~」
と、言って人込みから出てきた女の人がいた。
な、な、なんと出てきたのは、見た目麗しい二中のアイドル木村涼子先生だった。
「ごめんなさいって、どういうこと? なぜ、先生が謝るの?」
と、愛ちゃんが言った。
疑問を持って当然だ。いきなり、みんなの前に出て、謝るなんて、どうしたのだろう。
「先生が……、先生が火をつけたのよ。むしゃくしゃしていたから、うっぷんを晴らそうと火をつけたの」
涼子先生が告白した。
「え、えええっ!」
そこにいる誰もが驚いた。まさか、綺麗で優しいと評判がいい涼子先生が放火犯人だなんて……。
「だってみんな、私のこと、お姫様みたいに持ち上げるんですもの。なんで私のことそんなに憧れるのよ。私、本当はだらしない女なのよ。それなのに、それなのに映画スターみたいに、ちやほやして……」
涼子先生は、大声で叫び続ける。
「私ね……二週間は洗濯物ためても平気だし、よく、公園で猫を虐めて遊んでいるし……いい歳してピンポンダッシュしてふざけている女なのよ……そんな女なのに、どうして優しくて綺麗で、しっかりしているって言うのよ。息が詰まるわよ~う」
涼子先生は、うっとうしくなるほど受けたみんなからの敬愛に嫌気がさしていたのだ。とどのつまり体裁をとるのに疲れていたというわけだ。
「それで火事現場に、いつもいたわけか」
寅男さんが、人込みの中から出てきた。
涼子先生と寅男さんの出会いは、火事現場だった。消火作業を終えた寅男さんが、後片付けをしていると、火事場特有の嫌な臭いを気にせずに、放心したように宙をみつめる女性を見つけた。
どこかで見たことがある女性だと思ったら、先日起きた火事現場にもいた女性だった。
なんで、火事が起こるたびに火事現場にいるんだろうと、気になった寅男さんが、女性に声をかけて聞くと、「火事を見ると、火事に遭った人のことが心配なの。大変だなぁ~と思って。だから何か役にたちことがないかなぁ~ と、いつも様子を見るに来るのよ」と、涼子先生は言ったのだった。
「火事に遭った人を心配して、いつも現場にいたんじゃあないの?」
寅男さんが、口をパクパクしながら、涼子先生に尋ねる。
「心配している暇なんかないでしょう。心配してたら、燃えている火を見ることができなくなるでしょう」
「見ることができなくなるって……火つけして、火事場見学したわけ? みんなが消火作業をしているのに……そりゃあないでしょうよ」
寅男さんは、がっくりと肩を落とした。その寅男さんの肩に手をやった男がいる。
源さんだ。源さんは気落ちしている弟の肩を、掴んで、
「おまえと、あの女の馴れ初めは火事場で、出会ったのが始まりなのか」
と、言った。
「なんて優しいひとなんだと思ったんだ。火事に遭った人を心配して、わざわざ現場にくるなんて……それで、つい」
「声をかけたのか?」
「は……はい」
寅男さんは、意気消沈した。
そりゃあ~そうである。なんて、優しい人なんだと声をかけ、つきあい始めた女の人が放火犯人だなんて、誰が想像できたであろうか。
《ポチ、あの人……きっと、もっと隠していることがあると思うわ》
と、ラッキーが言う。
ラッキーは賢い犬だ。ポチより長く生きてきたわけで、ラッキーのその犬生経験が、ラッキーにそう言わせていた。
《まだ、悪いことしているの?》
《しているわ、さっきから愛ちゃんの方を見ているから、愛ちゃんに悪いことをしたのね》
《愛ちゃんに……》
《私の勘がそう言っている》
涼子先生は、さっきから愛ちゃんの方を気まずそうに見ている。
《ポチ、お願い、願って。涼子先生に白状させて》
《わかった。もう一度やってみる》
ポチは再び「ワン」と吠えて、涼子先生の目の前に立った。首を四十五度曲げて、にっこりと微笑む。
涼子先生が、目を大きくさせて、口をわなわなさせた。
「愛ちゃん、ごめんなさい。手提げ袋にタバコとライターを忍ばせたのは、わたしなのよ~う」
と、涼子先生は告白した。
「こ、こ、この野郎~」
愛ちゃんの傍らにいた源さんは怒った。涼子先生のたわいない悪戯のせいで、愛娘のほっぺたを張り飛ばしてしまったのである。
「寅男を騙し、娘をコケにしやがった」
源さんの怒りが頂点に達した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。みんな私が悪いのよ~う」
「いいや、許さねえ。おまえみたいな奴は……」
源さんは、涼子先生の所に、つかつかと歩いて行った。
「まあ、待ちなさい。ここから先は我々の仕事だ。この女には放火の容疑がある。そちらが先だ」
源さんを止めたのは、その場にいた警察官だった。
「木村涼子というのか。自白が本当なら、このまま署まで来てもらう」
二人の警察官が涼子先生の脇に立ち、腕を抑えた。
「えっ⁉ なんで、こうなるの?」
涼子先生は、もがいた。
「なんでこうなるのじゃあない。あんた、いま放火の事実を告白しただろう」
「ええ~え。私が告白した⁉ そんな……あの犬見たら……あの犬が笑って……」
「犬が笑う? なにをバカなことを」
「本当に、本当に犬が笑って……放火犯人さん、あなたに優しい心があったなら出てきて罪を告白してっていうもんだから……」
「犬がしゃべったっていうのか?」
「しゃべりはしないけれど……心の中に、そう響いたのよ~う。そしたら急に優しい気持ちになって……」
「それで告白したというのか」
「そうよ……でも、告白するつもなんて全然なかったのに……」
「とにかく署まで来なさい。話はそこで訊く」
涼子先生は、警察官に連れられて行ってしまった。
《おまえがやったのか?》
ポチに声をかけた犬がいた。
嘱託警察犬訓練士と食堂味三番のおやじさんに連れられたシェパード犬ジョンが、ポチに声をかけたのだ。
《ポチ、ジョンさんよ。あなたが憧れているジョンさんよ》
と、ラッキーが言う。
《ジ、ジョンさん⁉》
ポチは首を十度ほど傾けた。ここで憧れているジョンに会えるとは思ってもいなかったのである。
《君、いま何かやっただろう?》
ジョンが言う。
さすがはジョンである。ポチがスーパーフェロモンを使ったことを知っているようである。
《一体何をやったんだい?》
ジョンがポチに顔を近づけた。
ポチは緊張して、黙っている。まともにジョンの顔さえ見ることができない。
ポチの代わりに、
《この子ねえ、不思議な能力をもっているのよ》
と、ラッキーが言った。
《不思議な能力?》
《ええっ……。とっても不思議な能力》
《ポチの笑顔は人を優しくさせるの。この子が笑って人の前に立つと、人は優しくなるの。優しくなって、人に何かをしてやりたい気持ちになったり、本当の自分の良心に気づいて、懺悔したり、とんでもないおかしなことをするのよ……》
《ボウズが笑うと、人が優しくなるのかい》
ジョンが鼻っ面をポチに向けた。
(なるほど、この坊や、良く見ると、とても愛敬のある顔をしているな。ひねくれた所が一つもない。こんな顔で笑われると優しい気持ちになるかもしれない。けれど……)
ジョンは頭をひねった。
(あの時確か、笑顔の他に何かもう一つあったような気もするが……。なにか、もう一つ、笑顔の他に、もう一つ……)
ジョンは鼻をヒクヒクさせた。
(匂い……。そうだ、匂いだ。あの時、この坊やから嗅いだ事のない匂いが出ていたんだ)
さすがに、警察犬である。犬の最大の武器である嗅覚で、ポチの秘密にたどり着こうとしている。
《あの、匂いはなんなんだい?》
ジョンは鋭い眼光でラッキーを見た。
《あの匂いは……。一種のフェロモンのようなものでと思うけれど……》
ラッキーがたどたどしく説明を始めた時、
「ジョン!」
と、警察官が叫んだ。
ジョンは警察犬である。警察犬は教官(ここでは係の警察官)の命令に服従しなければならない。
ジョンは踵を返した。
《帰るけれども、とにかく助かったよ。実際、放火犯が特定されなくて、みんなイライラしていたんだ。君が何をやったのかわからないが、感謝する。事件は解決した……。それじゃあ》
ジョンは味三番のおやじさんと嘱託警察犬訓練士に連れられて帰って行った。
《凄いじゃない、ポチ》
ラッキーがポチを褒めたたえた。
《憧れているジョンに感謝されるなんて》
《それほどでもないけれども……》
《照れることないわよ。もっと堂々としなさい》
《えへっ、えへへへへ》
ポチは下を向いて、尾をクルリと回したのだった。
23、
夜である。
時間は午後九時半。完璧な夜である。
放火犯の劇的な逮捕劇があっても、夜がくるのである。
夜になると、人は一日の疲れを癒すために眠りに入る。ここ、水戸家でも、それは同じで、水戸家の二階、さほど大きくない子供部屋では、大くんと愛ちゃんが寝息をたてて、すやすやと眠っていた。
「あれれ、やっぱりね~」
眠りについた子供たちの様子を見にきた、さくらさんは、薄いかけ布団を足蹴にしている愛ちゃんと大くんを、優しいまなざしで見つめた。
さくらさんの後方で源さんが、笑っている。
「子供は元気なのが一番」
源さんは満足そうにうなづいた。
「なに、言っているのよ。風邪でもひいたらどうするのよ」
さくらさんは、そおーっとかけ布団をかけ直す。かけ布団をかけ直して大くんの頭を撫でた。
「ほんと、寝ぞうが悪いんだから」
さくらさんが、そう言うと、
「なに、言ってやがる。おまえも寝ぞうが悪いだろう。枕に足をかけて逆さまになって寝ていたのは、どこのどちらさんだっけ?」
と、源さんがさくらさんを、からかった。
「あら、あらららら。良くそんなことが言えるわねえ~ 夜、突然起きだして庭でポチを抱きしめて眠っていたのは、誰でしたっけ?」
「おまえだろう」
「私じゃないわよ。とうさんでしょう」
「俺が?」
「あなた以外に誰がそんなことをするのよ」
源さん、酔っぱらうと、日本酒片手に家の中を徘徊することがある。家の中だけだからいいようなものだが、グデングデンに酔っぱらったまま、町にでたらそれこそ大変である。警察のお世話になってしまうかもしれない。
「酔っぱらうと、なにも憶えていないんだから」
「うるさい」
「うるさいじゃあないの~ だいたい、とうさんときたら~」
「しっ! うるさくすると、愛たちが起きるぞ」
源さんは、人差し指を唇にあてた。さくらさんを畳の上に座らせると自分も畳の上に座った。愛ちゃんと大くんの間に座った源さんは、二人の手をとって優しく握りしめた。
「さくら……」
「なぁ~に、とうさん」
「愛は、やっぱりタバコなんか吸ってはいなかったんだなあ~」
「そりゃ~あそうよ。私の娘だもの」
「そうだよな。おまえの娘だものな」
源さんは、ご立派なカイぜル髭を引っ張った。
おっーと、言うのをあやうく忘れてしまいそうだったが、源さんは髭を生やしている。カイぜル髭というご立派な髭を生やして、得意になっている。この髭のせいで、またまた一悶着起こすのだが、それはまた別なお話……。
「とうさん……」
さくらさんは、いつまでも座り込んで、動こうとはしない源さんの、肩に触った。
「とうさん」
さくらさんは、源さんの肩を揺する。
「とうさん……。愛のことを信じていたでしょう。タバコなんか吸っていないと思っていたくせに、なぜ、殴ったの?」
「なぜって……。そりゃあ~、おめえ……」
源さんは、言葉を詰まらせた。
一度だって手をあげたことのない愛ちゃんを、なぜ、殴ってしまったのか分からない。「俺の娘が中学生のくせにたタバコなんか吸うもんかー」と思っていたくせに、なぜ暴力をふるってしまったの、まるでかわからない。
源さんは、自分の頬を何度も何度も叩いた。
「とうさん……」
さくらさんは、目を細くして、
「大きくなったら、……愛が成人して大人になったら、タバコぐらい吸うかもよ。いまの若い子、みんな吸っているじゃあない」
「愛がタバコを吸うのか?」
「ええっ……。もし、その時が来たらこの前みたいに、いきなり、愛を殴らないでね」
「………」
「殴らないでね……」
「ああっ、分かっているよ」
源さんは、愛ちゃんの唇を指で突っついた。
「こんな可愛らしい唇が、タバコをくわえるのかい。俺は嫌だな……」
源さんの肩が震えている。
「とうさん、どうしたの?」
「なんでもねえよ……」
「なんでもないわけないでしょう。ちょっと、おかしいわよ」
「おかしくなんかない」
源さんは手の甲で顔を擦った。
「えっ、とうさん、泣いているの?」
「馬鹿言えっ。誰が泣くもんか」
「泣いてる、泣いてる」
「泣いてなんかないっていうの」
源さんは両手で顔をゴシゴシ擦った。
「そんなことをしても、ダメよ」
さくらさんは、源さんの腕を掴んだ。源さん、さくらさんの手を振りほどいた。両手をじっと見る。
「この手……」
源さんは、両手の掌を顔の真ん前にもってきた。
「この手……。この手が悪いんだ。この手が悪い。みんなこの手が悪い。俺の大事な娘を殴りやがって」
源さんは、近くにあった勉強机に思い切り両手をぶつけた。
「こいつめ……。こいつめ、こいつめ」
何度も何度もぶつけた。
「やめなさいよ」
さくらさんが、止めるが、源さん、やめようとはしない。
「こいつめ、こいつめ、こいつめ、こいつめ……」
「ちょっと、やめて。血がでているじゃあない」
さくらさん、再び源さんの腕を掴む。源さん、それをまた振りほどき、
「こいつめ、こいちめ、こいつめ」
と、言って、また、机に手をぶつけた。
「もう、やめて。もう、やめてよ。愛だって分かっているはずよ。とうさんが分けもわからず、娘を殴る人じゃあないっていうことを」
さくらさんは、源さんにすがりついた。
「どうしようもない大酒飲みで、短気で見栄ばっかり張っている人だけれども、誰よりの娘想いで、誰よりも優しい人だっていうことを。愛は誰よりも分かっているはずよ」
「愛がか……」
源さん、机に手をぶつけることを止めた。
「ええっ、愛は小さい時から、世界中でとうさんのこと一番大好きって言っていたんだから」
「さくら……。さくら~ おめえ~ そんな人を泣かせるようなことを言うなよなぁ~ 涙が出てくるじゃあねえか」
「あらっ、泣いたっていいのよ」
「馬鹿野郎~ 男親が、そう簡単に泣いてたまるかってんだ」
源さんは鼻をすすった。
「男親が泣くときはだなあ。男親が泣くときはだなぁ~ 娘の……。娘の結婚式だけだと相場が決まっているんだ」
「娘の結婚式……。愛の結婚式で泣くの?」
「ああっ、思い切り泣いてやるから覚悟していやがれ」
「へぇ~」
さくらさんは、意味深な笑顔を作った。
「おっ、なんだなんだ、その笑いは」
さくらさんは、意味深な笑顔を作り続ける。
「なんだ、なんだ、その笑いは……ちっ、勝手にしろ!」
源さんは、プイと後ろを向いた。
「とうさん……」
さくらさんは、源さんの背中に抱きついた。
太平洋のように大きくて、懐かしい匂いがする源さんの背中。
さくらさんは、背中から伝わってくる大きな愛情のぬくもりに、しっかりと頬を押しつけた。
源さんと、さくらさんの足元。眠っているはずの愛ちゃんの目から、露草に浮かぶしずくのような涙がこぼれおちていた。
24、
二、三日して、寅男さんが水戸家にやってきた。
フレンチ・ブルドックの消防犬、水玉マフラーのサンダーちゃんも一緒である。
「兄貴~ いるか」
水戸家にやってきた寅男さんは、開口一番、源さんを呼んだ。
「なんだ、騒動しい」
二階から、源さんがドタドタと、寅男さんがいる玄関にやってきた。
「その節は、どうも。みんなに迷惑をかけまして」
源さんを見た寅男さん、深々と頭を下げた。
「あん? その節ってなんだ? 迷惑をかけたって」
源さん、ピンとこない。口をへの字にして、カイぜル髭を曲げている。
「寅男……。おまえ、みんなに迷惑をかけたのか」
源さん、訝しげに寅男さんを見た。
「とんでもない。俺は誰にも迷惑をかけていないですよ。俺じゃあなくて、その~う」
実際、寅男さんは誰にも迷惑なんぞかけていない。迷惑をかけたっていうか、困惑させたっていうか、人さまにとんだ衝撃を与えたっていうかー。
とにかく大変なことをやらかしたのは、寅男さんのかつての恋人木村涼子さんだ。
警察に逮捕された涼子先生のスキャンダルは、日本中を巻き込む話題になった。
見目麗しい現役の中学の先生が起こした連続放火事件である。話題にならない方がおかしいのである。
「涼子の先生のことか……彼女のことは、もういい。考えただけで腹が立つ」
何を思ったのか……源さん、腰をおろして、消防用の帽子を被ったサンダーちゃんを見た。見て直ぐに……、
「ぷっー」
と、笑った。
「はっはっははっ。何度、見ても、おかしな顔だ。こいつか屯所で世話をしている消防犬というやつは?」
「サンダーちゃんは、こう見えても立派にお勤めを果たしている消防犬です」
「消防犬……。ふ~うん。で、何をやっているんだ?」
「サンダーちゃんは……」
消防犬となったサンダーちゃんは、第二分団第一部の消防団員と常に行動を共にし、夜のパトロールの時には、消防自動車の助手席に陣取って、街の平安を願い、毎月二回程ある定期巡回の時には、火災予防のチラシを配る消防団員の横で、愛想笑い作って火災予防の重要性を、「ワン、ワン、ワン、ワンワン~ン」と訴えているのである。
「こんにちわ」
愛ちゃんと大くんが茶の間から、顔を出した。ポチも一緒である。
「愛ちゃんに大くん……。それにポチ、元気か」
「うん、元気よ」
愛ちゃんが応えた。
「寅男さん、いつもどうもおいしいものを頂いて」
そう言いながら、さくらさんも玄関までやって来た。
「やだなぁ~ 姉さん。今日は何ももって来ていないですよ」
寅男さんが、応える。
「ええっー! なにも持ってきていないの」
愛ちゃんが大きな声を出した。
「これっ、はしたない」
さくらさんが、そう言って愛ちゃんを叱ってはいるが、愛ちゃんは後ろを振り向いて「なんだ持ってきていないのか。チェ」と、舌を打ったような顔をしていた。
実家を継いで八百屋をやっている寅男さんは、水戸家にやって来る時、いつもなにか持参してやってくる。
みずみずしい苺だったり、甘くて、ほっぺたが落ちそうなメロンだったり、蜜が入ったリンゴなどを持ってやってくるのだ。
が、今日はどういうわけか何も持ってきていない。
たまにポチにも豚肉を買って持ってくるので、ポチも「ク~ウン」と鳴いてしまった。
「ところで、あいつはどうしている。消火作業の最中に愚痴ばっかりこぼしていたという佐々木という野郎は」
源さんが言った。
「あいつは消防団を止めましたよ。消防車の車両整備しているせいで、ガソリンくさくなるし……そのせいで、警察に職務尋問されたし、やってられないって言って」
寅男さんが応えた。
「あいつ、警察に尋問されたのか……まっ、あいつの性格なら警察に尋問されてもおかしくはねえな」
警察は、前に一度佐々木先生を町中で職務尋問されたことがあった。
高級な服を着ているくせに案外だらしない所がある佐々木先生は、ガソリンで少し汚れたアルマーニの背広を着たところを警察に止められたのだ。
高級紳士服に、ガソリンの匂いをつけたまま歩き回る男を見たら、誰だって怪しいと思いだろう。
「格好ばかりつけているけれど、ガソリンまみれの高級紳士服を着ていちゃあ、話にならねえや。あっはははっは」
源さんは、笑った。
「さくら、うちで汚したあいつのスーツ、ちゃんと洗って返したんだろうな?」
「ええ、ちゃんと洗いましたよ。洗ってもスーツに染み付いた根性悪さは、取れなかったと思うけれど」
「根性の悪さは、取れなかったか。そうか、そうか。それはそうで笑えるな。あっはっはっははっは」
「ほんと、笑えるわよ」
さくらさんんも源さんと一緒に笑い出した。
気がつくと、愛ちゃんも大くんも笑っている。その笑い声につられて寅男さんも笑っていた。
頑固一徹だが、涙もろい源さん。優しいけれどもしっかりものの、さくらさん。食いしん坊で、脚が早い愛ちゃん。甘えん坊で、ポチの大親友の大くん。そして、家族のアイドル“その名はポチ!”。
水戸家は今日も幸せに満ち足りた日々を送るだろう。
ポチの頭の上には、どこまでも拡がる真っ青な空があり、真っ青な空で、おてんとうさまが爽やかに微笑んでいる。おてんとうさまの横には、豚さんの丸焼きみたいな雲が、ふわふわと気持ちよさそうに浮かんでいた。
ポチは、気まぐれな風さんが、豚さんの雲を西の方に流してしまう前に、食べてしまえーと、口を大きく開けたのだった。
了
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