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しおりを挟むとある実験室に、一頭の若いチンパンジーが運び込まれた。
その猿はひょうきんな振る舞いで、殺伐とした施設にすぐ馴染んだ。
自分が「実験体」としてコレクションされた身であることも知らずに。
同じ頃、施設の研究員の一人である女が、極限の精神状態に達していた。
医師の診断は「ストレス値フェーズ4」。
同僚からの執拗な求愛が、彼女を壊す最後の一押しとなった。
医師は
「地球へ帰るべきだ」
と告げ、彼女はその日のうちに荷をまとめて去っていった。
彼女と入れ替わるように、一人の男が赴任してきた。
男もまた人当たりが良く、すぐに皆に受け入れられた。
特に新入りの猿とは、種族の壁を超えて深い絆で結ばれた。
男と猿が共有した最も穏やかな時間は、白を基調としたクリーンルームで青々と光る胡蝶蘭に水をやることだった。
胡蝶蘭の栽培は難しく、少しの手落ちですぐに枯れてしまう。
そのたびに二人は悲しみに暮れたが、心の奥底では「次こそは」という情熱の火を灯し続けていた。
二人は毎日、蘭について語り合った。
猿に言葉は分からなかったが、男の熱意だけは伝わっていた。
男もまた、自分の話が通じていないことは承知の上だったが、猿の絶妙な相槌が、まるで全てを理解しているかのように思えて、語るのをやめなかった。
しかし、平穏は突如として崩れ去る。
施設内で致死性の感染症が蔓延し、男もそれに冒されて命を落とした。
人間は全滅し、実験室には猿達だけが取り残された。
自動給餌システムが止まり、猿たちは飢えに直面した。
施設内をどれほど探しても食料は見つからず、彼らはただ、静かな死を待つしかなかった。
一頭、また一頭と仲間が力尽きていく。
極限状態の中、ある猿が死んだ仲間の肉を口にした。
「美味いのか?」
と問う者に、その猿は
「美味い」
と答えた。
だが、別の猿がそれを口にすると、あまりの不味さに顔を顰めて吐き出した。
男と仲の良かったあの猿だけは、何があってもそれだけは口にしないと心に誓った。
とうとう、生き残ったのは彼一頭になった。
静寂が支配する施設で、猿は耐えがたい孤独に苛まれる。
ふと、彼は男と一緒に育てた胡蝶蘭を思い出し、温室へと足を向けた。
驚いたことに手入れを放棄して久しいはずのそこには、溢れんばかりの胡蝶蘭が咲き乱れていた。
猿は、なぜ蘭がこれほど見事に咲いたのかを知りたくなった。
彼は部屋の掃除を始めた。
物言わぬ抜け殻となった仲間たちを外へ運び出し、汚れた床をタオルで拭き上げた。
清掃が進むにつれ、部屋は男と過ごしたあの頃の記憶に近い姿を取り戻していった。
何が功を奏したのかは分からない。
だが、猿は胡蝶蘭を咲かせ続けることに成功していた。
しかし、猿の肉体も限界に達していた。
もう長くはないと悟った猿は、目の前の胡蝶蘭に手を伸ばし、その花を千切って口に含んだ。
それは、かつて人間が与えてくれた、あの栄養剤の味に似ていた。
猿の頬を、一筋の涙が伝った。
それは、ひどく美味しかった。
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