エディブルフラワーの奇跡

赤眉鷲羽-washusekibi-

文字の大きさ
1 / 1

***

しおりを挟む

 とある実験室に、一頭の若いチンパンジーが運び込まれた。
 その猿はひょうきんな振る舞いで、殺伐とした施設にすぐ馴染んだ。
 自分が「実験体」としてコレクションされた身であることも知らずに。
 同じ頃、施設の研究員の一人である女が、極限の精神状態に達していた。
 医師の診断は「ストレス値フェーズ4」。
 同僚からの執拗な求愛が、彼女を壊す最後の一押しとなった。
 医師は

「地球へ帰るべきだ」

と告げ、彼女はその日のうちに荷をまとめて去っていった。
 彼女と入れ替わるように、一人の男が赴任してきた。
 男もまた人当たりが良く、すぐに皆に受け入れられた。
 特に新入りの猿とは、種族の壁を超えて深い絆で結ばれた。
 男と猿が共有した最も穏やかな時間は、白を基調としたクリーンルームで青々と光る胡蝶蘭に水をやることだった。
 胡蝶蘭の栽培は難しく、少しの手落ちですぐに枯れてしまう。
 そのたびに二人は悲しみに暮れたが、心の奥底では「次こそは」という情熱の火を灯し続けていた。
 二人は毎日、蘭について語り合った。
 猿に言葉は分からなかったが、男の熱意だけは伝わっていた。
 男もまた、自分の話が通じていないことは承知の上だったが、猿の絶妙な相槌が、まるで全てを理解しているかのように思えて、語るのをやめなかった。
 しかし、平穏は突如として崩れ去る。
 施設内で致死性の感染症が蔓延し、男もそれに冒されて命を落とした。
 人間は全滅し、実験室には猿達だけが取り残された。
 自動給餌システムが止まり、猿たちは飢えに直面した。
 施設内をどれほど探しても食料は見つからず、彼らはただ、静かな死を待つしかなかった。
 一頭、また一頭と仲間が力尽きていく。
 極限状態の中、ある猿が死んだ仲間の肉を口にした。

「美味いのか?」

と問う者に、その猿は

「美味い」

と答えた。
 だが、別の猿がそれを口にすると、あまりの不味さに顔を顰めて吐き出した。
 男と仲の良かったあの猿だけは、何があってもそれだけは口にしないと心に誓った。
 とうとう、生き残ったのは彼一頭になった。
 静寂が支配する施設で、猿は耐えがたい孤独に苛まれる。
 ふと、彼は男と一緒に育てた胡蝶蘭を思い出し、温室へと足を向けた。
 驚いたことに手入れを放棄して久しいはずのそこには、溢れんばかりの胡蝶蘭が咲き乱れていた。
 猿は、なぜ蘭がこれほど見事に咲いたのかを知りたくなった。
 彼は部屋の掃除を始めた。
 物言わぬ抜け殻となった仲間たちを外へ運び出し、汚れた床をタオルで拭き上げた。
 清掃が進むにつれ、部屋は男と過ごしたあの頃の記憶に近い姿を取り戻していった。
 何が功を奏したのかは分からない。
 だが、猿は胡蝶蘭を咲かせ続けることに成功していた。
 しかし、猿の肉体も限界に達していた。
 もう長くはないと悟った猿は、目の前の胡蝶蘭に手を伸ばし、その花を千切って口に含んだ。
 それは、かつて人間が与えてくれた、あの栄養剤の味に似ていた。
 猿の頬を、一筋の涙が伝った。
 それは、ひどく美味しかった。



しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

処理中です...