花影のさくら

月神茜

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櫻の知らない、櫻の話

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ここ【冬の山】の、この洞窟から川に向かってもう少し降りて行ったところに、かつての社守やしろもりの一族が暮らしていた村があった。その村は6年前の洪水で村全体が飲み込まれてしまって、今は村の残骸しか残っていない。
その年はなぜか雪も雨も多くて、ただでさえ多かった雪が解けた春先、川が増水して氾濫し、村の半分が飲み込まれてしまった。村の人間たちは【冬の神】の怒りだと考え、人身御供を村から選出することにした。だがそんな役目、誰だって背負いたくない。そんな時に白羽の矢が立ったのが、村で一番年若い夫婦の嫁だった。

人身御供として捧げられる前日の夜。監視の目を掻い潜って夫婦は村から逃げ出した。しかしその夫婦は、翌朝死体で見つかった。なぜ死んだのかまでは烏どもも知らないそうだが、夫も嫁も死に、生き残っていたのは夫婦の腕に抱かれた齢3つの娘だけだった。
村の人間は、社のさらに奥にある崖を登り、山頂にほど近い崖から娘を、人身御供として山に捧げるために投げ捨てた。


「──それが、櫻だ。」


紅蓮は黙って聞いていた。誰に向けることもできない怒りが溢れていたが、それを口に出すことはできなかった。


「……そ、れで……?」
「お前は知らないだろうが、昔の社の奥には崖に続く階段があってな。それを登り切った先、崖の下には大きな池があるんだ。人間は何やら神聖な池だと祀っているらしいが、わたしはあの池で水浴びするのが大好きでな」
「……うん?」
「雨は降ってるけどそこそこ温かいし、やはり水浴びはいいなぁ、とその日も思っていたら、わたしの身体の上に櫻が降ってきて激突した。そしてわたしの身体の骨が数本折れた」
「……あー、思いっきり真上に落ちてきたんだ……」
「あれは結構痛かった……1500年生きてきたが、あの時以上に痛い思いをしたことはなかったな……」


大蛇おろちがその時を思い出してか遠い目をする。

 
「参考までに聞くけど、崖から池までって、どのくらいの高さが……?」
「……わっぱ、背丈は?」
「えっと……かなり大雑把に言うと5尺ってところかな」
わっぱを縦に30人くらい並べた程度だな」
「!?!?!?その高さから、櫻が落っこちてきたのか!?」
わたしの骨を犠牲にして櫻は生き永らえたぞ」
「大いなる犠牲だ、骨……人の命救ってるよ……」


それにしたって、右も左もわからない3歳の少女を崖から投げ捨てるとは。


「……結局、その村の人たちは?」
「人身御供程度で、天候が回復すると思うか?」


紅蓮は首を振った。
そういう風習があるのは知っているし、否定もしない。が、それに齢3つの少女を選んだことには賛同できないし憤りも感じる。


「当然雨が止むことはなく、村は氾濫した川に飲み込まれ、そこで暮らしていた村人の大半が巻き込まれて死んだよ。生き残った数人が社の場所を変え、再び社守《やしろもり》の仕事をしているそうだが、さすがに外部の人間を交えることになったと聞く」
「そうか……」


滅びたといっても過言ではない。櫻の一族──家族は残り少ないのだ。そしてその生き残りの顔さえわからない。
ふと視線を下ろしてみれば、櫻は紅蓮の胸ですぅすぅと眠っている。散々声を出して会話をしているが、目を覚ます気配は無い。それに胸をなでおろして、再び大蛇おろちに問うてみた。


「櫻が死に装束を着ているのはどうして?ジイさんが持ってきたって言っていたけど」
「櫻を拾った池には、以前人身御供として捧げられた人間の遺体が沈んでいてな。布は水に溶けたり魚が食ったりしないでそのまま残っていたから、それを着せてやったんだ。他に服らしい服なんてこの山には無いし、わたしが入手できるのはその程度なものだったから」


【冬の山】に住む大蛇おろちが人間の服を入手するのは確かに難しいだろう。金の概念だって難しいし、蛇の姿で買いに来たとしたら……紅蓮も驚いて商売どころではなくなる自信がある。
けれど、いつまでも櫻に死に装束を着せたくはない。というのが、紅蓮の正直な気持ちだった。だって彼女は“今”を生きている。生きている彼女が、身に纏っていていい服ではない。


「……なぁ、ジイさん。まだ依頼された魔猪まちょを狩っていないから、明日になればここを離れるけど……村への帰り道、またここに顔を出していいか?」
「?」
「櫻の服、見繕って買ってくるよ。保存のきく食料もいくつか買ってくる」
「それをしてお前に何の得がある?」
「……得は、別にないけどさ」
 

紅蓮は櫻の髪をゆっくりと撫でながら、なんと説明しようか考えた。


「俺も、両親がいないから」
獣狩ししがりの村の出身なのだろう?」
「村のみんなに拾われたんだ。それこそ、村の近くの道で両親が行き倒れているのを村の人が見つけて、村中の人が親になって俺を育ててくれた。櫻にとっての親がジイさんなのと同じように、俺にとっての親は村のみんなだった」
「……そうか、お前もか」

頭の据わりが悪いのか、櫻が頭を紅蓮の胸にぐりぐりと押し付ける。ちょうど心臓のあたりに顔を押し付けると落ち着くのか、再び規則正しい寝息を立て始める。


「──わたしでは、この子に温もりさえ与えてあげられない」
「…………」
「人間にとっての、満足な食事も与えてあげられない」
「…………」
「それでもわたしは、この子が大事で、可愛くて、仕方がなくてな」
「……うん」
わたしがこの子に与えられないものを、わっぱ、お前が与えてくれるのなら。わたしは何も、文句はないよ」
「そ、っか」
「ほら、もう眠れわっぱ
「……うん、おやすみ。ジイさん」


目を閉じた紅蓮の耳に、炎の中に木の枝をくべる音が聞こえた。薄眼で見れば、大蛇おろちが尻尾を器用に使って枝を掴み、炎に投げ入れているところだった。炎の番までしてくれるらしい。本当に、なんだか親みたいで。彼の隣にいると安心できる気がした。
──と断定していいのかは、わからないけれど。
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