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パンの香りと腹の虫
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ぐるるるるぅぅきゅるるるるぅぅ。
腹の虫が鳴った。半径十メートルは届くだろう、くらい盛大に。授業中とかエレベーター内とか「なんで今」というときに限ってくしゃみしたくなるのと同じ。自分の体がまったく空気を読まないのはよく知っている。――でも、今じゃなくてもいいじゃないか。
講義後の大教室。学食へと向かう流れを断り、一人残った。いつもならそれなりに人がいるのだが、今日に限って誰もいない。このまま残っていたら、もしや……と思っていたら、案の定、彼がやって来た。
今この教室は俺と彼の二人だけ。こんなチャンス、きっと二度とない。だから言ったのだ。好きです、と。付き合ってください、と。それなのに……。
「えっと……」
下げた頭に降ってきたのは戸惑いの声。俺の告白に戸惑っているのか、腹の虫に戸惑っているのか、もはやわからない。恥ずかしすぎて、差し出した右手を戻すタイミングも、顔を上げるタイミングもわからない。振り絞った勇気が永遠に続くわけもなく、段々と辛くなってくる。もうさっくり振ってくれ。いや、振られたくないけど。とりあえず返事ください。
心の声が通じたのか、カサリ、と彼の持つ紙袋が音を立て、
「あの」
と遠慮がちに声が落ちてきた。
「……はい」
恐る恐る顔を上げる。
困っているだろうか。怒っているだろうか。笑われるだろうか。どんな表情が待ち受けているのか、緊張と不安でどうにかなりそうだ。でもずっとこの体勢でいるわけにもいかない。いつ他の人が来るかもわからないし。少しでもショックを和らげようと、視界を狭める。もうすぐ顔が見える、という瞬間だった。
差し出したままだった右手を握り返されたのは。
「いいですよ」
「へっ」
驚きのあまり勢いよく顔を上げれば、彼はとても嬉しそうに笑っていた。
「付き合います」
「ほ、ほんとに?」
「はい」
え、マジで。ほんとに。告白成功ってこと? うわ、マジか。うわぁぁぁ。不安でいっぱいだった胸が一瞬で喜びに染まる。絶対無理だと思っていたのに。いや、万が一うまくいったら嬉しいなとは思っていたけど。
だってきっと彼は自分のことを知らない。講義だって被っていないし、毎回この教室ですれ違うだけだし。名前だって(俺は友人に呼ばれているのを聞いたけど)知らないはずだ。それなのに? いいの? ほんとに? うわ、うわあぁぁ。完全に語彙力を失い、にやにやと相手を見つめることしかできない。
「じゃあ、あっちでいいですか?」
「は、」
ぐるるるるるきゅるるるるるうぅ。
俺よりもわずかに早く腹の虫が答える。なんで、また。いや、お昼休みだからわかるけど。でももう少し空気を読んでほしい。
恥ずかしくて顔が熱くなる。繋いでいる手も汗ばんできた気がする。離すべきだろうか。いや、でも、せっかく握ってもらえたのに。でも、気持ち悪いとか思われたら困るし。でも、でも。どうするのがいいのか、と迷っていると、ふっと空気が小さく揺れた。
「ふ、ふふ……本当に好きなんだね」
「それは、もちろん!」
好きでなければ、告白なんてしない。こんなに緊張するのも、不安になるのも彼が好きだからだ。
「嬉しいな」
「お、俺もです」
「うちの店、来たことあるの?」
彼が持っていた紙袋を掲げる。乾いた音とともに美味しそうなパンの香りが届く。彼がいつも同じ袋を持っているのも、中身がパンであることも知っている。けれど、「うちの店」って?
「好きなんでしょ、うちのパンが」
柔らかな笑顔を向けられ、うっかり頷きそうになる。いや、ダメだろ。付き合って早々、嘘つくとか。俺が好きなのはパンじゃなくて彼で。彼の持つパンを食べたことはないのだから。
「まさか、こんなところで言われると思わなかったけど」
「えっと」
「そんなに目立つ店じゃないからさ。好きだって言われて嬉しかった」
待って。なんでパンの話が告白の話になってるんだ? んん? なんか会話が噛み合ってない気が……。
「ほら、早く食べよう」
彼に手を引かれ、近くの席に座る。
隣ってこんな近かったっけ。いつも座っているはずなのに今さら思ってしまって、どこに視線を向ければいいのかわからない。対して彼はテキパキと袋からパンを取り出し並べていく。
「まさかこんな近くにうちのパンのファンがいるなんて思わなかったよ」
うちのパンのファン?
「食べるの付き合うからさ、何でも聞いてよ」
食べるの付き合う?
「どれがいい?」
にっこり微笑まれ、ようやく理解した。
あ、勘違いされてる、と。
俺が好きだと言ったのはパンで。俺が付き合ってと言ったのは、一緒にパンを食べることで。彼にとっての俺は、「自分に告白してきた男」ではなく「うちのパン屋のファン」だと。どうするべきか。訂正したい。でも、訂正したら振られるかも。一瞬でも期待してしまっただけにダメージはでかいだろう。というか、もう勇気が残っていない……。
ぐるるるるぅぅぅきゅるるるるる。
腹の虫だけが元気なままだった。
はあ、とため息を漏らせば
「ごめん。これ好きじゃなかった?」
と彼が不安げに見つめてくる。
「え、違う、違う。お腹空きすぎただけ!」
「ほんとに?」
「ほんと、ほんと。ていうか、ほんとにこれ食べていいの?」
「もちろん。余り物で悪いけど」
昨日の残りだから、と彼は申し訳なさそうに言うが、パンではなく彼が目当てだったので全く気にならない。どれも甘そうだな、とは思ってしまったが。
「じゃあ、これで」
いただきます、と手を合わせ、ビニールを半分捲る。隣からの視線を感じたまま、口へと運ぶ。
「……ん」
こぼれたのは驚きに近い声だった。え、何これ。美味しい。すごい美味しいんだけど。
焼きたてではないのに、サックリとした歯触り。噛み締めれば、生地はしっとりと柔らかい。間に挟まれたカスタードクリームは甘すぎず、バターの香りと合わさり、幸福感をもたらす。すごい。これならいくらでも食べられそう。俺、甘いもの得意じゃないのに。
ぐるるるるうぅぅきゅるるるる。
腹の虫も盛大に同意している。だよな。
「ふ、ふふ」
小さな笑い声が鼓膜をくすぐった。
「食べてる時もお腹鳴るんだね」
「あ、これは、美味しすぎて、もっと食べたいって言うあれで、空腹ってだけじゃなくて……」
説明すればするほど彼は声を弾ませ笑った。
***
普段はサークルの仲間とお昼を食べるが、水曜日だけは大教室で食べる。授業は一時間後で、昼休みから行く必要はない。けれど僕にはある。前の講義を受けている彼と唯一すれ違えるチャンスだから。
でもまさか、こんなことになるなんて思わなかった。
「好きです。付き合ってください」
差し出された右手と下げられた頭。一体何が起きているのか。告白されたってこと? 僕が? 彼に? まさか、そんな夢みたいなこと……。
ここは大学内で。ドアの隙間からは柔らかな風が流れていて。手にした袋の重みも、床の硬さも現実だ。恐る恐る握っていた右手を解く。目の前の手を握ろうと、動いた、そのとき。
ぐるるるるぅぅきゅるるるるぅぅ。
教室中に響き渡るほど大きな音が鳴った。ここには僕と彼しかいない。確かめるまでもなく、彼のお腹が鳴ったのだ。
いつも見上げる位置にある彼の耳が、首が、赤く染まっていく。こんなにも近くで見たのは初めてで。きゅっと胸の奥が縮む。滲んだのは確かな熱。その瞬間、気になるだけだった彼のことが、好きなのだと確信した。
「えっと……」
確信してしまったからこそ、声が揺れる。差し出しかけた手は中途半端に浮いたまま。カサリ、ともう一方の手の中で乾いた音が鳴る。香ばしいパンの香りが流れてくる。ああ、そうか。縮んだ胸の奥を広げるように静かに息を吸う。危ない。勘違いするところだった。
「あの」
「……はい」
勘違いしなくてよかったぁぁぁ。
「美味しい」と繰り返しながらパンを頬張る彼を見つめる。彼が僕を好きだなんて、そんな都合のいいことあるわけなかった。よかった。勘違いで返事をしなくて。
開かれる大きな口。リスのように膨らむ頬。リズム良く繰り返される咀嚼。パンの油で輝く薄い唇。コクン、と動く喉仏。一瞬遅れて、花が開くように表情が明るくなる。本当にパンが好きなんだな。
美味しく食べてもらえて嬉しいはずなのに、なぜか胸がざわつく。一瞬でももってしまった期待を手放せない自分がいる。パンが羨ましいなんて、おかしなことを思ってしまうくらいに、僕は彼が好きだった。
机に並んだひとつを自分も手に取り、口へと運ぶ。が、味はよくわからない。食べ慣れ過ぎているからではなく、パンの香りよりも目の前の彼のことで胸がいっぱいだった。
「あのさ」
気づけば声は飛び出していた。
「もしよかったら」
今日だけで終わりたくない。
「これから……」
向けられた視線に用意していた言葉が震える。
美味しいと笑っていた表情ではなく、静かに言葉を待つ真剣な表情。「これからも一緒に食べよう」と言ったら、断られるだろうか。彼が好きなのは僕ではなくて――。
「これから、うちでバイトしない?」
昨日両親と話していたことを思い出し、言葉をすり替える。
「いま人手不足でさ、ちょうど探してて。夜の時間だったら、廃棄のパン持ち帰っていいし。どうかな?」
すり替える前の言葉を知られるのがこわくて早口になってしまった。彼は少しだけ目を丸くしたが、遮ることなく聞いてくれた。
「バイト……」
「あ、急にごめんね。都合悪かったら全然断っ」
「やります! やらせてください!」
被せるように返事が返ってきて、驚きつつもホッとする。断られなくてよかった。これで学校以外でも会えるようになる。もっと話せるかもしれない。
嬉しさが込み上げてきて、思わず心のままに言ってしまった。
「よかった。よろしくね、律くん」
「はい! よろしくお願いします、英二さん」
再び差し出された手を握り、ふと、気づいた。おそらく同時に。
「「なんで、名前……」」
ぐるるるるううぅきゅるるるる。
重なった声を掻き消すように、再び彼のお腹が鳴り、答えを探すよりも先に笑い声が重なった。
腹の虫が鳴った。半径十メートルは届くだろう、くらい盛大に。授業中とかエレベーター内とか「なんで今」というときに限ってくしゃみしたくなるのと同じ。自分の体がまったく空気を読まないのはよく知っている。――でも、今じゃなくてもいいじゃないか。
講義後の大教室。学食へと向かう流れを断り、一人残った。いつもならそれなりに人がいるのだが、今日に限って誰もいない。このまま残っていたら、もしや……と思っていたら、案の定、彼がやって来た。
今この教室は俺と彼の二人だけ。こんなチャンス、きっと二度とない。だから言ったのだ。好きです、と。付き合ってください、と。それなのに……。
「えっと……」
下げた頭に降ってきたのは戸惑いの声。俺の告白に戸惑っているのか、腹の虫に戸惑っているのか、もはやわからない。恥ずかしすぎて、差し出した右手を戻すタイミングも、顔を上げるタイミングもわからない。振り絞った勇気が永遠に続くわけもなく、段々と辛くなってくる。もうさっくり振ってくれ。いや、振られたくないけど。とりあえず返事ください。
心の声が通じたのか、カサリ、と彼の持つ紙袋が音を立て、
「あの」
と遠慮がちに声が落ちてきた。
「……はい」
恐る恐る顔を上げる。
困っているだろうか。怒っているだろうか。笑われるだろうか。どんな表情が待ち受けているのか、緊張と不安でどうにかなりそうだ。でもずっとこの体勢でいるわけにもいかない。いつ他の人が来るかもわからないし。少しでもショックを和らげようと、視界を狭める。もうすぐ顔が見える、という瞬間だった。
差し出したままだった右手を握り返されたのは。
「いいですよ」
「へっ」
驚きのあまり勢いよく顔を上げれば、彼はとても嬉しそうに笑っていた。
「付き合います」
「ほ、ほんとに?」
「はい」
え、マジで。ほんとに。告白成功ってこと? うわ、マジか。うわぁぁぁ。不安でいっぱいだった胸が一瞬で喜びに染まる。絶対無理だと思っていたのに。いや、万が一うまくいったら嬉しいなとは思っていたけど。
だってきっと彼は自分のことを知らない。講義だって被っていないし、毎回この教室ですれ違うだけだし。名前だって(俺は友人に呼ばれているのを聞いたけど)知らないはずだ。それなのに? いいの? ほんとに? うわ、うわあぁぁ。完全に語彙力を失い、にやにやと相手を見つめることしかできない。
「じゃあ、あっちでいいですか?」
「は、」
ぐるるるるるきゅるるるるるうぅ。
俺よりもわずかに早く腹の虫が答える。なんで、また。いや、お昼休みだからわかるけど。でももう少し空気を読んでほしい。
恥ずかしくて顔が熱くなる。繋いでいる手も汗ばんできた気がする。離すべきだろうか。いや、でも、せっかく握ってもらえたのに。でも、気持ち悪いとか思われたら困るし。でも、でも。どうするのがいいのか、と迷っていると、ふっと空気が小さく揺れた。
「ふ、ふふ……本当に好きなんだね」
「それは、もちろん!」
好きでなければ、告白なんてしない。こんなに緊張するのも、不安になるのも彼が好きだからだ。
「嬉しいな」
「お、俺もです」
「うちの店、来たことあるの?」
彼が持っていた紙袋を掲げる。乾いた音とともに美味しそうなパンの香りが届く。彼がいつも同じ袋を持っているのも、中身がパンであることも知っている。けれど、「うちの店」って?
「好きなんでしょ、うちのパンが」
柔らかな笑顔を向けられ、うっかり頷きそうになる。いや、ダメだろ。付き合って早々、嘘つくとか。俺が好きなのはパンじゃなくて彼で。彼の持つパンを食べたことはないのだから。
「まさか、こんなところで言われると思わなかったけど」
「えっと」
「そんなに目立つ店じゃないからさ。好きだって言われて嬉しかった」
待って。なんでパンの話が告白の話になってるんだ? んん? なんか会話が噛み合ってない気が……。
「ほら、早く食べよう」
彼に手を引かれ、近くの席に座る。
隣ってこんな近かったっけ。いつも座っているはずなのに今さら思ってしまって、どこに視線を向ければいいのかわからない。対して彼はテキパキと袋からパンを取り出し並べていく。
「まさかこんな近くにうちのパンのファンがいるなんて思わなかったよ」
うちのパンのファン?
「食べるの付き合うからさ、何でも聞いてよ」
食べるの付き合う?
「どれがいい?」
にっこり微笑まれ、ようやく理解した。
あ、勘違いされてる、と。
俺が好きだと言ったのはパンで。俺が付き合ってと言ったのは、一緒にパンを食べることで。彼にとっての俺は、「自分に告白してきた男」ではなく「うちのパン屋のファン」だと。どうするべきか。訂正したい。でも、訂正したら振られるかも。一瞬でも期待してしまっただけにダメージはでかいだろう。というか、もう勇気が残っていない……。
ぐるるるるぅぅぅきゅるるるるる。
腹の虫だけが元気なままだった。
はあ、とため息を漏らせば
「ごめん。これ好きじゃなかった?」
と彼が不安げに見つめてくる。
「え、違う、違う。お腹空きすぎただけ!」
「ほんとに?」
「ほんと、ほんと。ていうか、ほんとにこれ食べていいの?」
「もちろん。余り物で悪いけど」
昨日の残りだから、と彼は申し訳なさそうに言うが、パンではなく彼が目当てだったので全く気にならない。どれも甘そうだな、とは思ってしまったが。
「じゃあ、これで」
いただきます、と手を合わせ、ビニールを半分捲る。隣からの視線を感じたまま、口へと運ぶ。
「……ん」
こぼれたのは驚きに近い声だった。え、何これ。美味しい。すごい美味しいんだけど。
焼きたてではないのに、サックリとした歯触り。噛み締めれば、生地はしっとりと柔らかい。間に挟まれたカスタードクリームは甘すぎず、バターの香りと合わさり、幸福感をもたらす。すごい。これならいくらでも食べられそう。俺、甘いもの得意じゃないのに。
ぐるるるるうぅぅきゅるるるる。
腹の虫も盛大に同意している。だよな。
「ふ、ふふ」
小さな笑い声が鼓膜をくすぐった。
「食べてる時もお腹鳴るんだね」
「あ、これは、美味しすぎて、もっと食べたいって言うあれで、空腹ってだけじゃなくて……」
説明すればするほど彼は声を弾ませ笑った。
***
普段はサークルの仲間とお昼を食べるが、水曜日だけは大教室で食べる。授業は一時間後で、昼休みから行く必要はない。けれど僕にはある。前の講義を受けている彼と唯一すれ違えるチャンスだから。
でもまさか、こんなことになるなんて思わなかった。
「好きです。付き合ってください」
差し出された右手と下げられた頭。一体何が起きているのか。告白されたってこと? 僕が? 彼に? まさか、そんな夢みたいなこと……。
ここは大学内で。ドアの隙間からは柔らかな風が流れていて。手にした袋の重みも、床の硬さも現実だ。恐る恐る握っていた右手を解く。目の前の手を握ろうと、動いた、そのとき。
ぐるるるるぅぅきゅるるるるぅぅ。
教室中に響き渡るほど大きな音が鳴った。ここには僕と彼しかいない。確かめるまでもなく、彼のお腹が鳴ったのだ。
いつも見上げる位置にある彼の耳が、首が、赤く染まっていく。こんなにも近くで見たのは初めてで。きゅっと胸の奥が縮む。滲んだのは確かな熱。その瞬間、気になるだけだった彼のことが、好きなのだと確信した。
「えっと……」
確信してしまったからこそ、声が揺れる。差し出しかけた手は中途半端に浮いたまま。カサリ、ともう一方の手の中で乾いた音が鳴る。香ばしいパンの香りが流れてくる。ああ、そうか。縮んだ胸の奥を広げるように静かに息を吸う。危ない。勘違いするところだった。
「あの」
「……はい」
勘違いしなくてよかったぁぁぁ。
「美味しい」と繰り返しながらパンを頬張る彼を見つめる。彼が僕を好きだなんて、そんな都合のいいことあるわけなかった。よかった。勘違いで返事をしなくて。
開かれる大きな口。リスのように膨らむ頬。リズム良く繰り返される咀嚼。パンの油で輝く薄い唇。コクン、と動く喉仏。一瞬遅れて、花が開くように表情が明るくなる。本当にパンが好きなんだな。
美味しく食べてもらえて嬉しいはずなのに、なぜか胸がざわつく。一瞬でももってしまった期待を手放せない自分がいる。パンが羨ましいなんて、おかしなことを思ってしまうくらいに、僕は彼が好きだった。
机に並んだひとつを自分も手に取り、口へと運ぶ。が、味はよくわからない。食べ慣れ過ぎているからではなく、パンの香りよりも目の前の彼のことで胸がいっぱいだった。
「あのさ」
気づけば声は飛び出していた。
「もしよかったら」
今日だけで終わりたくない。
「これから……」
向けられた視線に用意していた言葉が震える。
美味しいと笑っていた表情ではなく、静かに言葉を待つ真剣な表情。「これからも一緒に食べよう」と言ったら、断られるだろうか。彼が好きなのは僕ではなくて――。
「これから、うちでバイトしない?」
昨日両親と話していたことを思い出し、言葉をすり替える。
「いま人手不足でさ、ちょうど探してて。夜の時間だったら、廃棄のパン持ち帰っていいし。どうかな?」
すり替える前の言葉を知られるのがこわくて早口になってしまった。彼は少しだけ目を丸くしたが、遮ることなく聞いてくれた。
「バイト……」
「あ、急にごめんね。都合悪かったら全然断っ」
「やります! やらせてください!」
被せるように返事が返ってきて、驚きつつもホッとする。断られなくてよかった。これで学校以外でも会えるようになる。もっと話せるかもしれない。
嬉しさが込み上げてきて、思わず心のままに言ってしまった。
「よかった。よろしくね、律くん」
「はい! よろしくお願いします、英二さん」
再び差し出された手を握り、ふと、気づいた。おそらく同時に。
「「なんで、名前……」」
ぐるるるるううぅきゅるるるる。
重なった声を掻き消すように、再び彼のお腹が鳴り、答えを探すよりも先に笑い声が重なった。
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