【百合】――ね

hamapito

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――ね

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 力を入れて引いたドアがガラリと耳障りな音を立てる。
 カーテンの閉じられた資料室は昼間でも薄暗くて埃臭い。校舎の北側に位置しているから冷房がなくてもそこまで暑くはないが、それもほんの一瞬だろう。なんせ今日の予想最高気温は三十五度なのだから。
「こんなところ掃除するなんて」
「文句言わないの。ね」
 入ることすら躊躇う私を置いて、先輩は奥へと進んでいく。
「明らかにここ誰も使ってないじゃないですか。こんなところ掃除してもしなくても一緒だと思いますけど」
「そういう問題じゃないの。ね」
 ため息をつきつつも先輩がクリーム色のカーテンの奥へと手を伸ばし、窓の鍵を外す。ふわりと持ち上がったカーテンの間で「風があればまだマシでしょ? ね」ともう一度息に混ぜられた声は動き出した空気に溶けていく。
 大きくなった蝉の声に思わず眉を寄せれば、「ちゃちゃっとやっちゃおう。ね」振り返った先輩はドアレールの手前で立ち止まっていた私のところまで戻り、手を引いた。
 先輩は真面目すぎるんだよなぁ、と呟いた心の声が聞こえたわけではないだろうけど。先輩の白い指がツン、と私の額を軽く弾く。
「早く取り掛かればそれだけ早く帰れるんだから。ね」
 ――ね。と音を重ねるのは先輩のクセだった。

 棚の埃を払い、隙間にも箒を差し入れ、どうにか掃除は終わりそうだった。
 見た目が劇的に変わったわけではないけれど、空気が通された部屋の中は初めに見たよりも明るくなったように感じる。吸い込んだ空気には埃臭さよりも外からの熱と湿気の方が大きい。
「そろそろいいですかね?」
 ゴミ袋の口を閉じながら顔を上げれば、先輩は窓の向こうへと顔を向けていた。
「先輩?」
 声をかけると弾かれたように振り向き「あ、うん」と小さく笑う。微かに頬が赤いのは強い日差しのせいだろうか。隙間から入り込んだ風がクリーム色の布地の間に先輩の姿を隠す。ふわりと流れてきたのは柑橘系の爽やかな香り。
 ――このニオイ好きなんだよね。
 廊下を一緒に歩いているときに先輩が見せてくれたスプレータイプの日焼け止めを思い出す。
 ――ね、使う?
 と首を傾げた瞬間の見上げてくる丸い瞳も。
 ――いえ、いいです。
 どうしてだか断っていた。いつもは何も考えず「はい」と答えていたのに。ふわりと鼻の奥まで届いた空気に胸の奥までツンと刺激が下りてきて、頷けなかった。
「ごめん、ごめん。ちょっとぼーっとしちゃったね」
 カラカラと音を立てて窓が閉められ、回っていた空気が止まり始める。ガラスの向こうの蝉の声が小さくなり、自分の呼吸だけが体内に響く。じわじわと高くなる室温に頭が回らなくなる。ゴミ袋を右手に持ったまま、足が床に貼りついたように動けなくなる。
「ん? どした?」
 間近で落とされた声。濃くなった日焼け止めの香り。足元で重なるふたつの影。理由もわからず弾み続ける心臓が一瞬きゅっと鳴くように縮んで痛み出す。
 もやもやと膨らみ続ける苦しさがなんなのかわからなくて、こわかった。
 だから――振り払いたかった。
「いえ、なんでも……」
 勢いよく顔を上げると、こちらを覗き込もうとしていた先輩の顔に触れた。
 それはほんの一瞬だったけど。
 どこがぶつかったのかは、お互いの顔を見ればわかってしまった。
 至近距離で外された視線。どうにか笑おうとぎこちなく上がる口角。驚きが戸惑いへと変わっていき、白い肌が赤く熟れていく。
 ――こんな顔するんだ。
 先輩の、年上の顔しか見せてくれなかったのに。
 ――こんな一瞬で崩れちゃうんだ。

 もっと見てみたいな、そう思った瞬間だった。

「あ、いた」
 開け放たれていたドアから聞き慣れない声が飛び込んできた。
「また雑用頼まれたの?」
 呆れて笑う声に「そ、そうなの」と先輩は私を振り返ることなく歩き出す。
 重なっていた影がふたつに分かれていく。
「窓から見えたからさ。迎えに来ちゃった」
「う、うん。ありがとう」
 ゆっくりと顔をドアへと向ければ、そこにいたのはもう私の知っている先輩ではなかった。
 ――ああ、違うんだ。
 いつもは聞こえる「ね」が消えてしまうくらいに。
 いつもははっきりと言葉を紡ぐ声が揺れてしまうくらいに。
 さっき一瞬だけ見えた顔も、あれは私に向けるべきものではなかったのだろう。
 弾み続けた心臓が鎮まっていく。
 爽やかだと思っていた香りが急に重みを増していく。
「先輩。ごみ捨てやっておくので。先に帰って大丈夫ですよ」
「え、でも」
 ふたりのわきをすり抜けて廊下に出る。
 振り返ればふたりの影は廊下へと伸び、重なっている。
「また明日、部活で」
 いつもの顔を取り戻して言えば、先輩もようやく「ありがと」と笑ってくれた。
 駆け出す手前のスピードで廊下の角を曲がり、階段を下りていく。
 静かな校舎の中に響くのは自分の靴音だけ。
 一定のリズムを刻むそれに合わせて飲み込んだ言葉を胸の中でこぼす。

 タン、タン。
 ――ねえ、先輩。
 タタン、タン。
 ――まだ頬が赤かったのは。
 タンッ。
 ――誰のせいですか?

 たった一度。
 一瞬だけ触れ合った熱。
 それでも忘れることはできないだろうな、と思う。
「初めては取り返せないからなぁ」
 自分で発した言葉が耳から体内に戻ってくる。
「ま、いっか」

 タン。
 ――だって。
 タタン。
 ――きっと。
 タン、タン。
 ――先輩も。
 タンッ。
 ――同じだろうから。

 着地した床に伸びるひとつの影を見つめて声を落とす。
「――ね」
 わざと弾ませた音は蝉の鳴き声に重なる。
 もう眉は寄らない。代わりに心臓がきゅっと縮んだ気がした。
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