天使の涙

hamapito

文字の大きさ
3 / 18

2.ケーキ屋

しおりを挟む
 そのケーキ屋さんを見つけたのは偶然だった。
 就職を機に今の街に越してきて一か月。ようやく訪れた大型連休。環境の変化に慣れるために使い果たされた体力を回復すべく、初日はとにかく寝ようと決めていた。毎日残業していたわけでも、寝不足だったわけでもない。人間関係だってそれなりに良好だ。先輩は優しいし、同期とも気が合うし。それでも体は正直だった。緊張や気疲れ、自分でも意識していないうちにストレスは溜まっていたらしい。しばらく休める、と思った途端にスイッチが切れたように体からは力が抜けた。
 ――パチッと音がするくらいの勢いで瞼が上がる。
 目が覚めた。眠気のかけらもなくスッキリと。すごく爽やかな目覚めだ。体に残っていた嫌なものはきれいさっぱり消えている。ベッドに沈み過ぎた体は少し動きがぎこちないけれど、確実に回復したのだとわかる。
 体を起こしてみるが、遮光カーテンを引かれた部屋の中は暗く、今が朝なのか夜なのかもわからない。振り返っていつも枕元に置いているスマートフォンを手に取る。触れればすぐに反応するかと思ったら、画面は真っ暗なままだった。
「あ、そっか」
 昨日の私はとにかく誰にも邪魔されずに寝たいと電源を落としたのだった。会社は休みで、これといった予定もない。アラームは必要ないだろう、と。
 ローテーブルにはご丁寧にミネラルウォーターのペットボトルまで置いてある。起きてすぐに飲めるように。キッチンまで行かなくていいように。二度寝前提の準備。昨夜の自分の用意周到ぶりに自分で笑ってしまった。
 ぐっと上半身を伸ばしてからペットボトルへと手を伸ばす。持ち上げれば小さな水たまりができている。片手で持つには大きすぎるスマートフォンは濡れないようテーブルの端に置いた。電源はまだ入れない。
 寝すぎて力の入らない手でどうにか蓋を外し、喉へと透明な液体を落とす。体の中に流れてきて初めて喉が渇いていたことを自覚した。あっという間に三分の一ほど中身を減らし、もう一度蓋を回したところで立ち上がる。内側が空っぽになったような軽さと凝り固まった筋肉とちぐはぐな体で窓辺へと向かう。
 カーテンを一気に引けば、差し込むのはオレンジ色の強い光。白くなるのではなく赤から青へと変わる空。
「夕方だ……」
 それも陽が沈みかけている時間。振り返れば壁にかけられた時計は十九時まであと五分を示している。ベッドに入ったのが二十二時だったから……ほぼ二十一時間寝たってこと? くぅとお腹が鳴る。そりゃお腹も空くよね。こんな時間に化粧をするのもな、と思いながら軽くなった体を洗面所へと向かわせた。
 部屋を出るころには太陽は沈んでしまっていた。歩いて五分のコンビニが一瞬浮かんだが「それじゃない」と掻き消す。空腹を満たすだけなら何でもいいのかもしれないけれど。せっかくリセットされたのだ。最初に入れるのはもっと特別なものがいい。
 駅へと向かって伸びる商店街。お肉屋さんのコロッケの匂い。ウナギ屋さんの煙。スーパーの前に並ぶ自転車。カフェのクーポンを配る女の人の声。買い物袋を提げた親子連れに、手を繋いで歩くカップル。スーツ姿の男性に、部活帰りと思われる学生の集団。匂いも音も人も雑多に混ざり合う空間。不思議とうるさいとは思わなかった。それよりもどこか居心地の良さを感じる。自分の身近にある他人の生活。交差する場所。家と会社を往復するだけの毎日では気づかなかった空気。ひとりではない、という漠然とした安心感。
「……ん?」
 吸い込んだ空気の中に柔らかな香りを感じ取り、思わず顔を動かす。
 バターの香ばしさ。カスタードの甘さ。頭に浮かんだのは美味しそうなケーキの姿。きょろきょろと見回してみるが視界に入る並びにはそれらしきお店は見当たらない。
 裏に伸びる小道の方だろうか?
 アーケードから外れて目についた路地へと進む。たった一本、道を変えただけで騒がしかった空気は一気に遠ざかり、住宅街の静かな温かさが広がる。一軒家が多く立ち並ぶ道の少し先。吊り下げられたミントグリーンの看板が目に入る。
 あと数歩でたどり着くというタイミングで、カランカランと音が響く。中から出てきたのは白いコックコートを着た男性。思わず見上げてしまう背の高さに、自然と顔が上を向く。
「いらっしゃいませ」
 目が合ってすぐに柔らかな声が落とされる。辺りに漂う甘い匂いのせいもあってか、ふわりと目を細めて笑った顔にふわふわのシュークリームが思い浮かぶ。
 目覚めて最初の食事がケーキなのはどうなのか、と思わなくはなかったけど。
 向けられた笑顔に促されるまま私は店内に入ってしまった。
 それから五日間。
 連休中は毎日、そのお店に通った。ケーキが美味しかったのはもちろんだけど。彼の柔らかな空気に惹きつけられてしまったのだ。
 連休が明けてからはさすがに毎日行くことはできないので、ノー残業デーの水曜日と土曜日の週二回だけにしている。土曜日はお店が混んでいて彼と話せる機会はほぼない。厨房で忙しく働く彼の姿を遠目に見つめるだけ。それだけでよかった。もう少し話したいな、と思わなくはなかったけれど。同じ空間にいられるだけで、その存在を感じられるだけで胸は温かかったから。
 このささやかな楽しみだけで十分。十分に幸せだと思えていた。
 ――ハルに会うまでは。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

蛇の噛み痕

ラティ
恋愛
ホストへ行かないかと、誘われた佳代は、しぶしぶながらもついていくことに。そこであった黒金ショウは、美形な男性だった。 会ううちに、どんどん仲良くなっていく。けれど、なんだか、黒金ショウの様子がおかしい……? ホスト×女子大学生の、お話。 他サイトにも掲載中。

カラフル

凛子
恋愛
いつも笑顔の同期のあいつ。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

フローライト

藤谷 郁
恋愛
彩子(さいこ)は恋愛経験のない24歳。 ある日、友人の婚約話をきっかけに自分の未来を考えるようになる。 結婚するのか、それとも独身で過ごすのか? 「……そもそも私に、恋愛なんてできるのかな」 そんな時、伯母が見合い話を持ってきた。 写真を見れば、スーツを着た青年が、穏やかに微笑んでいる。 「趣味はこうぶつ?」 釣書を見ながら迷う彩子だが、不思議と、その青年には会いたいと思うのだった… ※他サイトにも掲載

お前が愛おしい〜カリスマ美容師の純愛

ラヴ KAZU
恋愛
涼風 凛は過去の恋愛にトラウマがあり、一歩踏み出す勇気が無い。 社長や御曹司とは、二度と恋はしないと決めている。 玉森 廉は玉森コーポレーション御曹司で親の決めたフィアンセがいるが、自分の結婚相手は自分で決めると反抗している。 そんな二人が恋に落ちる。 廉は社長である事を凛に内緒でアタックを開始するが、その事がバレて、凛は距離を置こうとするが・・・ あれから十年、凛は最悪の過去をいまだに引き摺って恋愛に臆病になっている。 そんな凛の前に現れたのが、カリスマ美容師大和颯、凛はある日スマホを拾った、そのスマホの持ち主が颯だった。 二人は惹かれあい恋に落ちた。しかし凛は素直になれない、そんなある日颯からドライブに誘われる、「紹介したい人がいるんだ」そして車から降りてきたのは大和 祐、颯の息子だった。   祐は颯の本当の息子ではない、そして颯にも秘密があった。

処理中です...