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6.成仏の条件
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梅雨が明けたばかりの七月下旬。
ハルは――幽霊になったハルは――私の部屋にいた。
「おかえり」
ふわふわと体を浮かせた状態で横になっていたハルがくるりとこちらを向く。物に触れられない、触れても通り抜けてしまうハルのためにテレビは点けっぱなしにしていたのでハルの声は画面からの騒がしい笑い声に重なった。それでもこちらへと当たり前のように向けられた言葉は――この数日言われてきた言葉は――私に届いた。
「ただいま」
ハルの言葉に答えてから手にしていた白い箱をテーブルに置く。スーツを早く脱ぎたくて隣の部屋へと向かえば、引き戸を閉めても部屋の中はひやりと心地いい温度になっていた。日中は連日三十度を超える真夏日が続いていて、昼間閉めきられているこの部屋はもっと暑く感じてもおかしくはないのに。
ハルが来るまでは仕事から帰るとまず部屋中の窓を開けて空気を通していた。これも幽霊の効果なのだろうか。ハルに聞いても「さあ?」俺にもわからないよ、と言われてしまったが。おかげで仕事から帰ってきても、玄関のドアを開けるのが億劫ではなくなった。
部屋着へと着替えてリビングに戻れば、ハルはダイニングテーブルの前にお行儀よく着席していた。箱の中身が気になるのだろう。じっと見つめたまま動かない。
「顔洗うからもうちょっと待ってね」
通りがかりに後ろから声をかけてもハルは視線を動かすことなく「ん」と適当な返事をしてきた。まったく。誰のおかげでケーキが食べられると思っているのだ。「お疲れさま」くらい言ったらどうなんだ。そう言ってやりたくなる。言ってやりたくはなったが、実際にハルはもうケーキを食べられるわけではなかったと思い直す。
――幽霊になったハルと出会ってしまったのが先週の木曜日。
今にして思えば、どうしてあの日わざわざケーキ屋の前を通って帰ったのか自分でも不思議だった。閉店時間はとっくに過ぎていたし、ケーキを買って帰るつもりもなかった。遠回りをしなくてはならない理由などひとつもなかったのに。どうしてなのか自分でもわからない。気づいたらお店の前にいた、そんな感じだった。
幽霊になってもハルはハルだった。
「しばらく泊めてよ」と図々しく言ってきたかと思えば、次の瞬間には寂しそうな表情を見せてこちらが断れないようにしてしまう。そこでおとなしくなっていればまだ可愛げがあるのに、泊まることを了承すれば「成仏できるように協力してね」とくる。確かにずっと居座られるのも困るのでそれも了承すれば「週三回はお店に行ってほしいな」と今度はにこりと微笑んでお願いされる。ひとに頼みごとをするのが上手すぎる。ハルって本当に高校生なの? と疑いたくなるくらい。
初めてこの部屋に来たとき、ハルは言った。
「俺にとっての心残りは『兄貴の最高傑作』を食べられなかったことだから。だからケーキを食べ続けるのが一番早く成仏できる方法だと思うんだ」
「ケーキを……」
そんなことか、とちょっとだけホッとする。心残りと言うからには何かしら難しいことを要求されるのではないかと身構えていたので「ケーキを食べる」という方法に高校生らしくてよかったとさえ思った。思って、ふと「ハルはどうやって食べるのだ?」と疑問が湧いた。
「ケーキ、食べられるの?」
幽霊が食事をするかしないかはこの際置いておくとして、今のハルは物体に触れることができない。触れられない、掴めないものをどうやって食べるのだ?
「あー、それなんだけど。実際に俺は食べられない。触れることも掴むこともできないし、口の中に入れることも無理。だから璃子に食べてほしい」
「私?」
「うまく説明できないんだけど、ひとが何かを食べているときに出ている空気みたいなものがあって……その空気を……とにかく、食べなくてもわかるんだよ」
明らかに説明が面倒になったのだと伝わってきたが、私には聞いておく権利があると思う。
「空気?」
まっすぐ問い返した私に、今度はハルも言葉を探してくれた。
「うん。空気みたいなもの。目に見えるっていうよりは感じるに近いんだけど。その空気に触れればわかるから。だから璃子はそれを俺にちょうだい?」
説明はよくわからなかったけれど、私に害があるわけではなさそうだ。そもそも目には見えないものを「ちょうだい」と言われて断る理由も見当たらない。ハルが成仏するために必要なら頷くしかない。
「それでいいなら」
「やった。じゃあ代わりに俺は璃子の恋を応援してやるよ」
「――え?」
「璃子なんでも顔に出すぎ」
「は、はいぃ?」
自分でもよくわからない声を出してしまったが、動揺した私の顔を見てハルは「ということで、しばらくよろしく」と笑った。
それから私はハルを成仏させるため、彼の『最高傑作』を求めて、水曜日と土曜日と日曜日(午前中指定)の週三回お店に行くことになった。
ハルは――幽霊になったハルは――私の部屋にいた。
「おかえり」
ふわふわと体を浮かせた状態で横になっていたハルがくるりとこちらを向く。物に触れられない、触れても通り抜けてしまうハルのためにテレビは点けっぱなしにしていたのでハルの声は画面からの騒がしい笑い声に重なった。それでもこちらへと当たり前のように向けられた言葉は――この数日言われてきた言葉は――私に届いた。
「ただいま」
ハルの言葉に答えてから手にしていた白い箱をテーブルに置く。スーツを早く脱ぎたくて隣の部屋へと向かえば、引き戸を閉めても部屋の中はひやりと心地いい温度になっていた。日中は連日三十度を超える真夏日が続いていて、昼間閉めきられているこの部屋はもっと暑く感じてもおかしくはないのに。
ハルが来るまでは仕事から帰るとまず部屋中の窓を開けて空気を通していた。これも幽霊の効果なのだろうか。ハルに聞いても「さあ?」俺にもわからないよ、と言われてしまったが。おかげで仕事から帰ってきても、玄関のドアを開けるのが億劫ではなくなった。
部屋着へと着替えてリビングに戻れば、ハルはダイニングテーブルの前にお行儀よく着席していた。箱の中身が気になるのだろう。じっと見つめたまま動かない。
「顔洗うからもうちょっと待ってね」
通りがかりに後ろから声をかけてもハルは視線を動かすことなく「ん」と適当な返事をしてきた。まったく。誰のおかげでケーキが食べられると思っているのだ。「お疲れさま」くらい言ったらどうなんだ。そう言ってやりたくなる。言ってやりたくはなったが、実際にハルはもうケーキを食べられるわけではなかったと思い直す。
――幽霊になったハルと出会ってしまったのが先週の木曜日。
今にして思えば、どうしてあの日わざわざケーキ屋の前を通って帰ったのか自分でも不思議だった。閉店時間はとっくに過ぎていたし、ケーキを買って帰るつもりもなかった。遠回りをしなくてはならない理由などひとつもなかったのに。どうしてなのか自分でもわからない。気づいたらお店の前にいた、そんな感じだった。
幽霊になってもハルはハルだった。
「しばらく泊めてよ」と図々しく言ってきたかと思えば、次の瞬間には寂しそうな表情を見せてこちらが断れないようにしてしまう。そこでおとなしくなっていればまだ可愛げがあるのに、泊まることを了承すれば「成仏できるように協力してね」とくる。確かにずっと居座られるのも困るのでそれも了承すれば「週三回はお店に行ってほしいな」と今度はにこりと微笑んでお願いされる。ひとに頼みごとをするのが上手すぎる。ハルって本当に高校生なの? と疑いたくなるくらい。
初めてこの部屋に来たとき、ハルは言った。
「俺にとっての心残りは『兄貴の最高傑作』を食べられなかったことだから。だからケーキを食べ続けるのが一番早く成仏できる方法だと思うんだ」
「ケーキを……」
そんなことか、とちょっとだけホッとする。心残りと言うからには何かしら難しいことを要求されるのではないかと身構えていたので「ケーキを食べる」という方法に高校生らしくてよかったとさえ思った。思って、ふと「ハルはどうやって食べるのだ?」と疑問が湧いた。
「ケーキ、食べられるの?」
幽霊が食事をするかしないかはこの際置いておくとして、今のハルは物体に触れることができない。触れられない、掴めないものをどうやって食べるのだ?
「あー、それなんだけど。実際に俺は食べられない。触れることも掴むこともできないし、口の中に入れることも無理。だから璃子に食べてほしい」
「私?」
「うまく説明できないんだけど、ひとが何かを食べているときに出ている空気みたいなものがあって……その空気を……とにかく、食べなくてもわかるんだよ」
明らかに説明が面倒になったのだと伝わってきたが、私には聞いておく権利があると思う。
「空気?」
まっすぐ問い返した私に、今度はハルも言葉を探してくれた。
「うん。空気みたいなもの。目に見えるっていうよりは感じるに近いんだけど。その空気に触れればわかるから。だから璃子はそれを俺にちょうだい?」
説明はよくわからなかったけれど、私に害があるわけではなさそうだ。そもそも目には見えないものを「ちょうだい」と言われて断る理由も見当たらない。ハルが成仏するために必要なら頷くしかない。
「それでいいなら」
「やった。じゃあ代わりに俺は璃子の恋を応援してやるよ」
「――え?」
「璃子なんでも顔に出すぎ」
「は、はいぃ?」
自分でもよくわからない声を出してしまったが、動揺した私の顔を見てハルは「ということで、しばらくよろしく」と笑った。
それから私はハルを成仏させるため、彼の『最高傑作』を求めて、水曜日と土曜日と日曜日(午前中指定)の週三回お店に行くことになった。
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