1 / 4
春は、まだ
しおりを挟む
春は、まだ少し、痛い。
「おーい」
土曜日の朝。アラームをかけずに寝られる幸せ。……を、壊すのはいつだって嵐の声。聞こえなかったふりで布団に潜る。真冬ほどではないにしろ朝はまだ寒い。自分の体温で温まった空間から出る気にはなれない。
「起きろ」
嵐の声が大きくなる。パタパタというスリッパの音も。休みでも変わらず起きて動けるのは尊敬するし、朝ごはんを作っていただいているので文句は言えない。でもまだ起きたくない。
「起きないと、春彦の朝ごはんナシだからな」
嵐が帰ってくるまでは朝ごはんなんて食べなくてもよかったのだから、今日だってこのまま布団に籠城(?)してもいい。いざとなれば自分ひとりでごはんくらい作れるし食べられる。頭ではいくらでも言葉が出てくるのに。
「春彦」
嵐の声がすぐ近くで聞こえ、分厚い布団の中で自分の心臓が跳ねた。眠気が一瞬で消える。
「……なんだよ」
布団からちょっとだけ顔を出せば、嵐が笑う。起こされて不機嫌、という表情を作ったはずなのに失敗したらしい。悔しい。悔しいけど、嵐は、朝の布団よりも簡単に俺の温度を上げてくれる。
「ご飯食べて、デートしよ」
「デートって……」
たぶん、また失敗した。嵐が春の風みたいに柔らかく笑ったから。
嵐と出会ったのは大学生のとき。ゼミが同じですぐに仲良くなった。なんだかんだあって(割愛)、付き合うことになったけど、社会人三年目の終わりに別れた。
好きじゃなくなったわけではなくて、気持ちだけで言えば「別れ」を選びたくはなかった。
でも、「春彦はどうしたい?」と嵐に聞かれて、「別れる」と答えた。
嵐は「嫌だ」とも「待っててよ」とも言わず、「わかった」とだけ。
二週間後、嵐は海外に行ってしまった。
「俺も一緒に連れていけ」とか「帰ってくるまで待ってる」とか浮かんだ言葉はいくつもあったけど、どれも口にできなかった。一緒に行ったところで何もできない。嵐の帰りを家で待つだけなんて無理だし、負担になりたくない。
そもそも今の仕事を辞めたいとも思っていないし、嵐だってそんなことをして欲しいとは思っていないだろう。だからと言って何年かかるかわからないのに「待ってる」なんて軽々しく言えない。そんなの重すぎる。お互いを縛るだけの呪いになりかねないのだから。
嵐はいつだって自由に自分のことをしていればいい。だから、別れを選んだことを後悔しなかった。
「ここ?」
嵐が車を停めたのは大きな池のある庭園の駐車場。季節ごとの花が咲く、地元では有名な観光地。土曜日とあってそれなりに車がある。と言っても他県からわざわざ来るほどのところでもないので、混んでいる、ということはないだろう。入ったことないけど。
「たまにはいいじゃん」
「……いいけど」
嵐が俺の顔を見て笑う。それだけで自分の顔がうまく作れていないことを思い知らされた。どんな場所でも俺が拒まないことを嵐はきっと知っている。
入り口には見頃の花の説明があった。
今は梅の花が咲いているらしい。「なんでよりによって梅なんだよ」とは思ったが口にはしない。
受付で入場料を払い(嵐がまとめて払った)、門をくぐる。
門は開かれていて、壁で囲われているわけでもない。それなのに空気が変わった気がした。
目の前には大きな池。取り囲む芝生の黄緑色。植えられた木々が作る影。真上の空を遮るものはなく、視界が広い。風が葉を揺らす音がする。吸い込んだ空気は柔らかく、胸の奥まで洗われるようだった。
「気持ちいーな」
思わず両腕を伸ばして言えば
「だろ?」
と嵐が得意げに笑う。
午前中の澄んだ日差しの中で見る笑顔は、見慣れていても心臓に悪い。俺は視線を嵐から逸らし、周りへと向ける。
「……でも、じーちゃんばーちゃんしかいねえな」
庭園を歩くのは自分達よりも年配の方ばかり。混み合うこともなく、急ぐこともなく、それぞれがゆっくりと歩いている。
「まあまあ、のんびりしてていいじゃん」
人混みは苦手だし、寒いのも嫌い。外出するより家でまったりしていたい。そんな俺のために選んだのだろうか、と思ったら文句も言えず、「まあ」と返すことしかできなかった。
ピンク、白、赤。上に向かう枝もあれば、枝垂れているものもある。
「キレイだな」
嵐が見上げるのは、薄いピンク色の梅の花。桜を少し濃くしたような。
「……だな」
もう三年も前のことだ。嵐と別れた春は。
嵐は当初の予定よりも早く、去年の夏に帰ってきた。待っていたわけではない。嵐だけを想って過ごしてきたわけでもない。でも帰ってきたという連絡をもらったとき、どうしようもなく会いたくなって、我慢できなかった。
離れていた二年半のことを俺たちは口にしない。何があったか、何を思っていたか。再会できて、また付き合えたのだから、過去なんていらなかった。
けれど、それはふとした時にやってくる。
胸の奥で小さな痛みを鳴らす。
嵐と別れたあの日も梅の花が咲いていた。
「梅の花って気にして見ないと気づけないよね」
桜は毎年気にするのにさ、とそんなことを嵐は言った。庭園ではなく誰かの庭先から伸びる枝。駅までの道を隣ではなく前後で歩いた、別れたあとのほんの数分の出来事。
嵐は俺に呪いをかけたのだ。梅なんて気にしたことのなかった俺が、毎年見つけてしまう呪いを。その度に嵐を、別れた春を思い出す呪いを。
「春彦」
視線は自然と下がり、梅ではなく地面を見ていた。嵐に名前を呼ばれてゆっくり顔を上げる。
「まだ、痛い?」
春になると痛む、ということを話したことはない。それなのに嵐は自然と聞く。
「え」
「……俺も、まだ痛いから」
何が、とは聞かなかった。聞かなくてもわかる。俺たちは同じ顔をしているのだから。
「春彦、あれ飲みに行こ」
表情を緩めた嵐が、遠くののぼりを指差す。
――梅茶あります。
文字を読み取った俺は、渋いな、と思いつつ「いいけど」と答える。
のぼりが立てられた休憩スペースへと二人で向かう。何にも急かされることなく、ゆっくりと。いつのまにか馴染んだ速さに小さく笑ってしまう。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
いつかの自分たちも同じように、ゆっくりと歩いているといい。
そのときも、春はまだ、痛むだろうか。
「おーい」
土曜日の朝。アラームをかけずに寝られる幸せ。……を、壊すのはいつだって嵐の声。聞こえなかったふりで布団に潜る。真冬ほどではないにしろ朝はまだ寒い。自分の体温で温まった空間から出る気にはなれない。
「起きろ」
嵐の声が大きくなる。パタパタというスリッパの音も。休みでも変わらず起きて動けるのは尊敬するし、朝ごはんを作っていただいているので文句は言えない。でもまだ起きたくない。
「起きないと、春彦の朝ごはんナシだからな」
嵐が帰ってくるまでは朝ごはんなんて食べなくてもよかったのだから、今日だってこのまま布団に籠城(?)してもいい。いざとなれば自分ひとりでごはんくらい作れるし食べられる。頭ではいくらでも言葉が出てくるのに。
「春彦」
嵐の声がすぐ近くで聞こえ、分厚い布団の中で自分の心臓が跳ねた。眠気が一瞬で消える。
「……なんだよ」
布団からちょっとだけ顔を出せば、嵐が笑う。起こされて不機嫌、という表情を作ったはずなのに失敗したらしい。悔しい。悔しいけど、嵐は、朝の布団よりも簡単に俺の温度を上げてくれる。
「ご飯食べて、デートしよ」
「デートって……」
たぶん、また失敗した。嵐が春の風みたいに柔らかく笑ったから。
嵐と出会ったのは大学生のとき。ゼミが同じですぐに仲良くなった。なんだかんだあって(割愛)、付き合うことになったけど、社会人三年目の終わりに別れた。
好きじゃなくなったわけではなくて、気持ちだけで言えば「別れ」を選びたくはなかった。
でも、「春彦はどうしたい?」と嵐に聞かれて、「別れる」と答えた。
嵐は「嫌だ」とも「待っててよ」とも言わず、「わかった」とだけ。
二週間後、嵐は海外に行ってしまった。
「俺も一緒に連れていけ」とか「帰ってくるまで待ってる」とか浮かんだ言葉はいくつもあったけど、どれも口にできなかった。一緒に行ったところで何もできない。嵐の帰りを家で待つだけなんて無理だし、負担になりたくない。
そもそも今の仕事を辞めたいとも思っていないし、嵐だってそんなことをして欲しいとは思っていないだろう。だからと言って何年かかるかわからないのに「待ってる」なんて軽々しく言えない。そんなの重すぎる。お互いを縛るだけの呪いになりかねないのだから。
嵐はいつだって自由に自分のことをしていればいい。だから、別れを選んだことを後悔しなかった。
「ここ?」
嵐が車を停めたのは大きな池のある庭園の駐車場。季節ごとの花が咲く、地元では有名な観光地。土曜日とあってそれなりに車がある。と言っても他県からわざわざ来るほどのところでもないので、混んでいる、ということはないだろう。入ったことないけど。
「たまにはいいじゃん」
「……いいけど」
嵐が俺の顔を見て笑う。それだけで自分の顔がうまく作れていないことを思い知らされた。どんな場所でも俺が拒まないことを嵐はきっと知っている。
入り口には見頃の花の説明があった。
今は梅の花が咲いているらしい。「なんでよりによって梅なんだよ」とは思ったが口にはしない。
受付で入場料を払い(嵐がまとめて払った)、門をくぐる。
門は開かれていて、壁で囲われているわけでもない。それなのに空気が変わった気がした。
目の前には大きな池。取り囲む芝生の黄緑色。植えられた木々が作る影。真上の空を遮るものはなく、視界が広い。風が葉を揺らす音がする。吸い込んだ空気は柔らかく、胸の奥まで洗われるようだった。
「気持ちいーな」
思わず両腕を伸ばして言えば
「だろ?」
と嵐が得意げに笑う。
午前中の澄んだ日差しの中で見る笑顔は、見慣れていても心臓に悪い。俺は視線を嵐から逸らし、周りへと向ける。
「……でも、じーちゃんばーちゃんしかいねえな」
庭園を歩くのは自分達よりも年配の方ばかり。混み合うこともなく、急ぐこともなく、それぞれがゆっくりと歩いている。
「まあまあ、のんびりしてていいじゃん」
人混みは苦手だし、寒いのも嫌い。外出するより家でまったりしていたい。そんな俺のために選んだのだろうか、と思ったら文句も言えず、「まあ」と返すことしかできなかった。
ピンク、白、赤。上に向かう枝もあれば、枝垂れているものもある。
「キレイだな」
嵐が見上げるのは、薄いピンク色の梅の花。桜を少し濃くしたような。
「……だな」
もう三年も前のことだ。嵐と別れた春は。
嵐は当初の予定よりも早く、去年の夏に帰ってきた。待っていたわけではない。嵐だけを想って過ごしてきたわけでもない。でも帰ってきたという連絡をもらったとき、どうしようもなく会いたくなって、我慢できなかった。
離れていた二年半のことを俺たちは口にしない。何があったか、何を思っていたか。再会できて、また付き合えたのだから、過去なんていらなかった。
けれど、それはふとした時にやってくる。
胸の奥で小さな痛みを鳴らす。
嵐と別れたあの日も梅の花が咲いていた。
「梅の花って気にして見ないと気づけないよね」
桜は毎年気にするのにさ、とそんなことを嵐は言った。庭園ではなく誰かの庭先から伸びる枝。駅までの道を隣ではなく前後で歩いた、別れたあとのほんの数分の出来事。
嵐は俺に呪いをかけたのだ。梅なんて気にしたことのなかった俺が、毎年見つけてしまう呪いを。その度に嵐を、別れた春を思い出す呪いを。
「春彦」
視線は自然と下がり、梅ではなく地面を見ていた。嵐に名前を呼ばれてゆっくり顔を上げる。
「まだ、痛い?」
春になると痛む、ということを話したことはない。それなのに嵐は自然と聞く。
「え」
「……俺も、まだ痛いから」
何が、とは聞かなかった。聞かなくてもわかる。俺たちは同じ顔をしているのだから。
「春彦、あれ飲みに行こ」
表情を緩めた嵐が、遠くののぼりを指差す。
――梅茶あります。
文字を読み取った俺は、渋いな、と思いつつ「いいけど」と答える。
のぼりが立てられた休憩スペースへと二人で向かう。何にも急かされることなく、ゆっくりと。いつのまにか馴染んだ速さに小さく笑ってしまう。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
いつかの自分たちも同じように、ゆっくりと歩いているといい。
そのときも、春はまだ、痛むだろうか。
39
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
有能課長のあり得ない秘密
みなみ ゆうき
BL
地方の支社から本社の有能課長のプロジェクトチームに配属された男は、ある日ミーティングルームで課長のとんでもない姿を目撃してしまう。
しかもそれを見てしまったことが課長にバレて、何故か男のほうが弱味を握られたかのようにいいなりになるはめに……。
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる