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第三部:エリザベス

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 夜明け間近の空は、昇り来る太陽の光で白く光っている。
 早朝のマクミラン邸は、まだ静寂に包まれていた。
 ぼんやりとした薄暗がりの室内で、ロイは身じろぎもせずに窓の外を見つめている。

「そんな格好で寒くないの?」

 部屋に入ってきたリサが、立ち尽くしているロイに声をかけた。
 夜明け前に起き出した彼が、こうして窓の外を見つめているのは既に日課になっており、その彼の様子をリサが見に来るのも、またいつもの事だった。

「……………」

 振り返りもせずにじっと窓の向こうを見つめているロイに、リサはガウンをかけてやる。
 そうして世話をしてやるリサの表情は、母親のそれだった。
 初めてロイに逢ったのは、二年前の事になる。
 あの時には、この少年を引き取る事になるなどとは、予想も出来なかったが。
 リサは、窓の外を見つめ続けている少年の横顔を見た。
 なにも映していない瞳で、遥かを見つめているもの寂しげな表情。
 その顔を見る度に、癒しきれないロイの傷を思って、リサは辛い気持ちになるのだった。

「リサ、またかい?」

 自分の隣から伴侶が居ない事に気付いて起き出したハリーが、部屋の扉越しに顔を出す。

「ごめんなさい、起こしちゃった?」
「ん? いや、もう時間だからね」

 室内に足を踏み入れ、ハリーはリサの側に立った。

「毎朝、この部屋までご苦労だね。いっそ、隣にでも寝かすかい?」

 ロイの寝室は、マクミラン邸の裏庭に面した一番奥の部屋を使っている。
 その部屋は、元々アレックスが使用していた部屋だった。
 ハリーとリサが結婚する折り、どちらもアパート住まいだった事から双方で資金を集めて住宅街に家を買った。
 妹の為にと自身の積み立てを出してくれた兄に、マクミラン夫婦は同居を申し出、屋敷の中に少し離れた部屋があった事から、アレックスもそれを許諾したのである。
 アレックスの殉職と共に主を失った部屋は、それ以後使用していなかったのだが、ロイを引き取った折りに他に空き部屋が無く、その離れにも近い奥の部屋があてがわれた。

「別に、そんなに気を使わないで。私が勝手に、心配をしているだけだから」
「キミの睡眠時間が減ってる事を、心配するなって言われても、それはキミにロイの心配をするなって言うくらい、無理な相談だと思わない?」
「…そうね。ごめんなさい…」

 ロイのベッドを整えてから、リサは再びロイの側に歩み寄った。

「ねェ、ハリー。彼は一体、何を見ているのかしら?」

 問われて、ハリーもまたロイの側へと歩み寄る。

「見て…、いるのかな…」

 ロイの目線を追うように窓の外に目をやったハリーが、ポツリと呟く。
 そのまま、同じように窓の外を見つめ続ける夫の顔を、リサは怪訝な顔で覗き込んだ。

「ハリー?」
「あ、ゴメン」

 妻の視線に気付いて、ハリーは気まずそうな笑みを浮かべる。

「何かを見てるって言うよりね、…僕には、誰かを待ってるみたいに見えたんだ」
「そう言われれば、そう見えない事もないけど…。でもそうだとしたら、いったい何を待っているのかしら?」

 妻の疑問にハリーは答えなかった。思いついた事はあったが、それを口に出す事が出来なかったのである。

「ところで、エリザベスはロイとうまくやっているの?」
「えっ?」

 唐突な夫の質問に、リサは一瞬戸惑った。

「そう…ね。とてもうまくやっていると思うわ。私の気の所為かもしれないけど、ロイはリズにとても関心があるみたいなの。リズはリズで、等身大のお人形を相手にしているような感じらしくて、とても懐いているわ」

 リサの言う通り、エリザベスは、格好の遊び相手が出来たとばかりに、ロイから離れる事はほとんど無く、義務教育が始まっても、家に帰れば友達よりもロイと共にいる事の方が多かった。

「でも、なぜ急にそんな事を訊くの?」
「う…ん。最近ね、あの娘の口からロイの名前が出ない日がないからさ。パパより、ロイの方がお気に入りみたいだ」
「それは仕方がないわよ。ずっと一緒に居るんですもの。二人の仲が良いのは、とても言い事だと思わない? 私だって、とても助かっているのよ」

 喜ばしい事を報告した筈なのに、夫の顔はなにか曇った表情をしている。

「どうしたの?」
「ん? いや、なんでも無いよ」

 ハリーは取り繕うように笑みを浮かべ、妻に抱かせてしまった不安を打ち消すように首を横に振った。
 自分の持っている感情は、あまりに現状を否定してしまうから。
 それをわざわざ妻に告げて、彼女までこの憂鬱の波に飲まれて欲しくない。
 もしもロイがこのまま元に戻る事なく、その一生を終えていくのだとしたら、今自分が持っている不安はただの取り越し苦労に終わるだけだ。
 以前の、氷の瞳を持った少年の真実の姿を、リサは知らない。
 あのロイが、自分達の申し出を甘受するかどうかは、ハリーには判らなかった。
 つまり、もしロイが記憶を取り戻した時に、一人で生きる道を選んだら…。
 それは、無邪気に懐いてしまったエリザベスを、ひどく傷つける結果になるのではないか…?
家族を思うハリーにとって、現状はあまりに不安が多く、憂鬱だった。

「…ところでジョナサンは、なんか言っていたかい? 行って来たんだろう、昨日」
「相変わらずよ。記憶と一緒に戻るとは言っているんだけど、それがどうしたら戻るかになると、お手上げですって」
「そう、やっぱり…」

 小さく嘆息した夫の顔を、リサは複雑な面持ちで見つめていた。
 ハリーが、現在の『子供そのもの』なロイを、今一つ受け入れていない事は知っている。
 初めて逢った時の強烈なイメージが、拭えていないらしいのだ。

「あなたは気に入らないみたいだけど、私は今のロイが好きだわ」

 ギクリと強張ったような表情をする夫に、リサは続けた。

「人には、思い出したくない事ってあると思うの。それを、綺麗に記憶から無くしていられるんですもの。羨ましいぐらいだとは、思わない?」
「…それは、違うよ。それで幸せかどうかなんて、他人じゃ解らないと僕は思う。傍から見るととても幸せそうな人が実はそうじゃ無く、犯罪に走ってしまうようなケースは結構あるんだ」
「それじゃあロイが、不幸だって言うの? 今」
「そんな事は言ってないよ。ただ、ロイが今までどんな人生を歩んできたかなんて、誰にも解らないだろう? その中でどんな風に考えて、どんな風に感じたかなんて、僕らがいくら考えたって解りっこ無いんだ。だから…」

 リサは子供のように唇を噛んで、少し恨みがましい瞳を向けてくる。

「記憶を取り戻せば、兄さんの事も思い出すのよ。この子、兄さんの事で自分を責めて、死のうとまでしていたのよ。可哀相じゃない、まだ、子供なのに…」
「それはそうだけど、でもすべてを受け止めて、もう一度前に進もうと出来ない人間は、結局同じ道を選んでしまうんだよ。それに、先輩とロイの間にあった事は、それこそ本当に当事者でない僕らには解らない。あの事件で、ロイがなにを感じて、どう傷ついたのかさえ、本当の所はなにも解らないんだからね。でもそれでくじけてしまうようなら、この先だってやってはいけないよ。とても冷たいようだけれど、現実だ」

 ジッと見上げてくるリサの瞳から、ハリーもまた目を逸らさなかった。
 二人の会話を聞いているのかいないのか、ロイは窓の外を見つめたまま、ただ静かに佇んでいた。
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