Serendipity

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 夕方になって、東雲氏は帰ってきた。
 それまで俺が何をしていたかというと、何もしていない。
 ただ、昼間東雲氏から貰ったマンガ雑誌を試す眇めつ眺めていた。
 元は東雲氏の物とはいえ、俺が譲り受けてコレが俺の「所有物」だと思うと、それだけで楽しかったからだ。

「コラ、こんな暗い部屋でマンガ読むな」

 帰ってきた東雲氏は、寝そべってマンガ雑誌を眺めていた俺を笑顔で窘めて、部屋の明かりを灯す。

「夕食はハンバーグにしようと思うんだ。好きか?」
「え? あ、はい。好きッス」
「そうか、良かった」

 そう言って、東雲氏はまた穏やかに微笑んでみせる。
 ハッキリ言って寮棟と事務棟の間にある「見えない隔たり」によって、顔を見知ってはいるものの俺は東雲氏と懇意にしていた訳でない。
 東雲氏は事務棟の総務課でなにがしかの肩書きがついている役職の人間だが、その役職とてさほど上の方という訳でもなく、下から数えて2番目とか3番目に当たるような程度の物だ。
 寮棟への連絡事項を伝えるのもその役職の仕事の一つで、俺が東雲氏の顔と名前を知っているのは何か連絡事項があると東雲氏が寮棟に顔を出したから……なんである。
 つまり、俺の知っている東雲氏は仕事をしている事務員の顔であって、日常ではこんなに頻繁に笑みを浮かべるあたりの柔らかい人物だなんて想像もしなかった。
 だいたい東雲氏は、あんなショボくれた児童相談所で事務員なんかやってるのがおかしいぐらいの二枚目で、黙って真面目な顔をしているとちょっと取っつきが悪いぐらいなのに。
 屈託なく笑った瞬間は、まるっきり子供みたいな表情をするので面食らってしまう。
 こうした場合、なにを話したらいいかも判らずに黙り込む俺に対して、夕食の支度をしながら東雲氏は次々に言葉を掛けてくれる。

「今日は神巫にとっては寮を出た記念日だから、夕食の後に食べようと思ってケーキを買ってきたんだ。まだ神巫の好みが解らなかったから、ショートケーキにしたんだが。いちご好きか?」
「ええ? ケーキ?」

 出来上がった焼きたてのハンバーグをテーブルに運ぶ東雲氏は、俺の反応を楽しんでいるみたいに嬉しそうな顔で頷いてみせる。
 寮生活における食事は、大人側の基本理念は「平等」であったけれど、しかし無秩序な子供の中にあって「平等」が保たれる事は稀である。
 全ての場所に大人の目が行き届く事もないから、強者が弱者から物を取り上げるのは容易だった。
 特に食べる物に関しては、その辺りの戦いは熾烈を極める。
 寮生達には、小遣いなど支給されない。
 菓子の類はおやつの時間に配られる市販の個別包装された駄菓子の類が精々で、生菓子などは滅多に口に出来なかったから、そういった物が出された日の争奪戦はいつにも増してヒートアップするのだ。
 東雲氏の手製であるハンバーグは、寮で出されたそれとは比較にならないほど美味かったし、食後に氏が冷蔵庫から取りだした紙箱の中にはきらびやかなケーキが数個並んでいてますます俺は驚いてしまった。

「バカだな、神巫。コレがつまり自由って事だし、箱の中のケーキを食ってみて美味いか不味いか気に入るか入らないかを判断するのが、選択の自由なんだぞ? オマエはつまり、そういった物を全部捨てようとしてたんだ。解るか?」
「はい」

 と、答えた物の。
 その時の俺は、物珍しい生菓子の甘美な味わいに夢中で、東雲氏の言葉の意味など理解するに及んではいなかった。

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