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「弥勇くんの家って、何人家族?」

少年の目の前が、突如としてさぁっと暗くなった。

「え…っと、その、うち…は」言うべきか、それともどうにかごまかすか。弥勇は迷った。
「どうしたの弥勇くん、いきなり黙りこんじゃって」気になったリンコが、弥勇の顔をひょいとのぞき込む。
「えっと…うちは…」
その時、リーンゴーンと一時間目を告げるベルが教室に鳴り響いた。
「はいはーい、みんな席についてね、始めるわよー」
弥勇にとっては助け舟だった。

【1年の半分くらいは一人で生活している】

この言葉を言って、周りに同情されたり、あるいはどこかの施設に引き取られてしまうかもしれない危険性…それが怖かったのだ。
母親は、弥勇が5歳くらいの時に突然姿を消した。
理由もわからず、置き手紙もなく。
父親は何かを知っていそうだったが、しかしそのことを弥勇に話すことはなかった。
そしてそのことを口にしないまま、父と二人での生活が始まった。
考古学の博士をしている弥勇の父は不在がちで、彼が成長すると共に、また家を留守にする日数も年を追うごとに増えていった。
母のことを口にしないまま、父はこの家に家政婦を雇おうかと相談を持ちかけたが、弥勇はそれを頑なに断った。
自分のことぐらい、家事ぐらい自分でできると。
スマホやパソコンから見よう見真似で料理を作り、洗濯は必要最小限に工夫して済ませ、毎日が悪戦苦闘ながらも、どうにか一人で生活することができた。
そして、ようやく一人暮らしのコツがつかめ始めてきた、そんな頃だった。
弥勇の意識が【飛ぶ】ようになってきたのは。

最初の授業とはいっても、宿題と自由課題の提出、それに改めて弥勇の自己紹介くらいなものだった。
「速水くん、どうする? お家のことみんなに話す?それとも……」
黒板の前に弥勇が立った時、小さな声で猿渡先生が問いかけた。
「……どうしようか、僕も迷ってるんです。それに」
「それに?」
「同情されるの、苦手なんで」
その言葉に、先生の口元が少し微笑みが浮かんだ。
「自分のことは自分でできる……か、なら!」
猿渡先生は弥勇の後ろに立ち、その小さな肩にポンと手を置いた。
「みんな、これから先生が言うことをよく聞いてちょうだい」
「せんせ……!」弥勇が振り向くと、猿渡先生は軽くウインクをした。
「大丈夫、あなたはここの誰よりも強い子だって、先生は分かるんだから」
弥勇の緊張が少しほぐれた。

「速水くんは、ご家族の事情で、ずっと一人暮らしをしているの」
一瞬にしてざわめく教室。
マジ? とかヤバくね? とかいろんな声が上る中、先生は続けた。
「速水くんが5歳の時に、お母さんがいなくなって、ずっとお父さんと2人で暮らしてきたのよ。けどお父さんもお仕事が忙しくて、これまでの間一人で炊事洗濯をしてきたの」
弥勇は、前に座っているリコの表情をうかがった。
驚いているような……でも心配しているような、とても複雑な顔つきだった。
「この件については、私たちも職員会議で討議しました。小学生の一人暮らしは危険じゃないのかって、虐待にも近い行為じゃないのかって」
虐待という言葉に、弥勇はぎゅっと拳を握りしめた。
「でも実際に彼のお父さんにお会いして、そんな心配も無くなりました。速水くんのお父さんは彼をとっても可愛がっていましたし、速水くん自身も、大丈夫ですって言っています。だからこの件は保留として、速水くんの一人暮らしを認めてあげることにしたんです」
猿渡先生は続けた。
「だけどもやっぱり小学生一人じゃ危険ということで、担任である私が、学校へ行く日は毎朝彼の家へ行って、安全を確認することとしました、それと……」
うってかわって静まり返った教室に、ゴクリと生唾を飲み込む音だけが聞こえる……

「みんなで速水くんを助けてあげてね。おうちに行ってお手伝いするとかそんなのじゃなくていい、だけど一人ぼっちにさせないように、ね。私はそれは同情でもなんでもないわ」

その瞬間、教室のみんなから拍手が起こった。

「あ、あ……の」

弥勇はそれ以上言うことが出来なかった。

なにかを口に出そうとすると、一緒に涙も出てしまいそうな、心のなかがそんな感覚で満たされていたから。

今はただ、クラスのみんなの拍手を聞いているだけが精一杯だった。
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